忘れてしまった夜の夢

 

 部屋の中が妙に明るい。寝る前に電気を消すのはチョロ松兄さんがいつもやってくれるのに、今日はどうしたんだろう。ゆっくり瞬きをするうち、どうやら布団の中にいないことに気がついた。座ったまま眠っていたらしい。肩が重い。カラ松兄さんが寄りかかっている。
 ――この石を投げると多少スッキリする、さあ君も――
「うるさ……」
 居間で酒盛りをしてそのまま眠ったらしい。つけっぱなしのテレビがやかましく、リモコンで電源を落とした。テレビの音がなくなっても、そのあたりで雑魚寝をしている兄弟たちのいびきがうるさい。ち、と小さく舌を打つ。
「なんでカラ松兄さんは僕に寄り掛かって寝てるわけ……邪魔なんだけど」
 全体重を肩に預けられ、とても重い。けれど所狭しと兄弟たちが寝転がっているせいで、どこかにはねのけることも出来ない。せめて起こして僕らだけでも布団で寝ようと言うべきか。
「カラ松兄さんさあ……」
 呼びかけてからふと気付く。半開きの口から、たらりと涎が垂れているのだ。間抜け面、とつい吹き出してしまう。こういう弱みはこまめに残しておかなくては。スマートフォンを拾い、
そっとシャッターを切る。枕に涎だのそんなのは見慣れているのだが、素直に横になればいいのに頑なに僕に寄りかかっているように見えたのも面白かった。
 ひとしきり写真を撮りおわったら涎でパジャマが汚される前に台拭きで適当に拭う。ついでに半開きの口を何とかしてみようと顎を上に押してみたのだが、自然にぱかんと開いてしまうから諦めた。眠っている人の身体って、思った以上に柔らかいというか、力が入らないものらしい。
 くすくすと一人で笑っていただけなのに、まだアルコールが残っていた身体が疲労と眠気を訴えてくる。スマートフォンはもはや握っていられないからそのあたりに転がしているし、手のひらもつま先もぽかぽかだ。それに、カラ松兄さんとくっついた半身もぽかぽかで気持ちがいい。邪魔だけど温かい。とても、ねむい。
 このままもう一度寝ようか、起き上がろうか、考える。起きていてもいいのだけれど、一人で起きていたってつまらない。こういうときに限ってみんな眠っているのは何故なのだろう。
「なんで僕が退屈なのに起きないの兄さん、こういうときにちゃんとしてよね……」
 伸ばした足をぱたぱたと遊ばせれば、がくんとカラ松兄さんの頭が僕の形に落ちた。頭突きが容赦なく決まる。痛い。
「痛いよ……」
 何すんのさ、とのぞき込んだ顔。半開きの唇と、だらしない舌。
 心臓がどきりと跳ねる。何でだろう。何故カラ松兄さんを見てドキッとしてしまったんだろう。そんなのは簡単だ、僕は今までにも何度か眠っているカラ松兄さんを弄り倒したことがあるからだ、それだけなのに。
「おとぎ話なら、」
 そうしたい理由。理由なんて、考えたことがない。そうしたかったから、そうしただけだ。でもその理由に気がついてしまったら、僕はもうこの遊びが出来なくなってしまう。そう、遊んでいるだけだ。冗談なのだ。何とでも言い訳ができる兄弟のじゃれ合いなら、きっとカラ松兄さんだって怒らない。怒るはずがない。
「王子様のキスで目覚めるのかもしれないけどさあ」
 顔を近づける。起きる気配はない。そのまま、顎を掬い上げて唇を重ねた。ふに、と妙に柔らかい感触に頭の芯が痺れる。もう何度目かわからない。今まで言ったこともないし、誰かに気付かれたこともない。そういう時にしかしていないから、当然なのだけど。
「ダメだよねー……カラ松兄さんはカラ松兄さんだもん、無理あったか……兄さん、カラ松兄さん、起きて!」
 起きないからこうして触れることが出来る、けれどこのまま居間で眠り続けたら身体の筋を痛めるのが筋だ。大体、もうカラ松兄さんの寄りかかっている半身が痺れてしょうがない。
 兄さんの身体を揺らす。がくん、と大きく揺らすと瞼がふる ふると震えるのが見えた。もう一度揺らすと、ゆっくりと目が開く。とどまつ、と寝ぼけ声が僕の名前を呼ぶのを聞いてから、その手を取って立ち上がった。


「お前が逃げていたのは、俺への気持ちに向き合うことだというのはわかったか?」
 カラ松兄さんが僕の手をぎゅっと握る。二階への階段を上りながら、僕はまだ混乱していた。これは僕の夢で、僕の夢の中で逃げているカラ松兄さんは僕の頭の中で作り出したモノで、それはつまり、ええと。
「お前の罪悪感が悪夢になったんじゃないか」
「……黙ってキスしたから?」
「それをお前が悪いと思ってる」
 階段を上り終える。そこに部屋はない。なぜかどこかの建物の屋上に立っていて、二人で満月を見上げる。夜風が火照った身体を冷ましてくれた。
「無意識にそう思ったってことだな、ギルトガイ」
「やめてよ、僕は……まあ、悪いかもしれないけど」
 見つからなきゃいいし、見つかっても言い訳が聞くと思っていたあたり、本当にただの最低な人間にしかならないのが辛いところだ。
「次に何をすればいいかもうわかるな、ブラザー?」
 目が覚めたら僕がやるべきことと言えば、一つしかない。カラ松兄さんの目を見てうんと頷く。
「もう大丈夫、ありがとね」
 兄さんは満足げに笑い、ひらひらと手を振って、どこかに歩いて行ってしまった。
 役目が終わったら消えるのだろうか。僕は一人、夢の中に残される。
 ようやくわかった悪夢の原因が自分というのは何ともお粗末な結果だけれども、自分に返ってきた業と思えば腹を括るほかない。
 最初は出来心だった。ファーストキスなんてとっくに経験済みだ、なんて口火を切ったのは兄弟のうち誰だっただろう。とにかくそういう話の流れで、その頃の僕は素直であったからまだ経験がないと言ってしまったのだ。その僕を見る兄弟たちの顔を言ったらなかった。信じられないとか、遅れてるとか散々言ったのだ。自分たちも未経験のくせに!
 バカにされるくらいなら、兄弟のうち誰かを犠牲にしてでも経験したほうがいいのではないか、と僕は思ったのだ。
 それがたまたま、隣に寝ているカラ松兄さんだった。
 最初はそれだけだったのに。
 いつガールズに応えられるように、とマメに手入れをしているせいなのか、それとも元々の性質なのか、妙にカラ松兄さんの唇は心地よかった。やわらかくてあたたかなものなら何でもいいと思っていたのだけれど、僕はすっかりカラ松兄さんのそれでなければイヤだとまで思うようになっていた。
 でも、そんなことを面と向かって言えるわけがない。まず、勝手にキスをしていたのを告白するところから話し出さなくてはいけなくなる。順番がおかしい。僕にだってわかる。けれど、妙にその感触が欲しくなって、誰にも気付かれない時を見計らってキスを続けていた。カラ松兄さんは一度眠ったら目を覚まさないほうだし、兄弟たちもみんなそうだ。だから事に及ぶのはいつも深夜だった。だから夢にも見たのかもしれない。
「……いけないことなのは、わかっているけどさ」
 何が悪いって、黙っていることだ。知らんぷりをしていることだ。このままカラ松兄さんに黙っていて、もうしないほうが平和な気もするのだけど、そうしたら毎夜の追いかけっこはなくならないだろう。
「都合良すぎってやつだよね、僕にだってそれくらいわかるよ」
 立ち上がる。もう起きよう。いつまでも夢の中にいたって仕方がない。なんて切り出せばいいだろうとか、どう伝えれば怒らせないだろうとか、考えるのはやめて目を瞑った。水面にぷかりと浮かぶような感覚と共に、意識がふつりと途切れる。ようやく、夢のコントロールが出来るようになったようだった。


 小鳥の囀りが聞こえる。時計の指す時間は朝方五時、外はまだ暗い。最近夜明けが遅くなった。何しろもうすぐ冬が来るのだから当然だ。
 いびきの合唱からして、みんな眠っている。僕はそっと寝返りを打って、隣のカラ松兄さんの背中をつついた。起きない。つねってみた。ふが、と一瞬いびきが止まったけれど、目覚める様子はない。逆に、痛みから逃げるために寝返りを打って、不機嫌な寝顔が近付いた。
「……起きてよー」
 小さく囁いてみる。カラ松兄さんの唇を指先でつつき、頬を撫で、短くとも量の多い睫をなぞればようやくその目が開いた。
「トド……」
「聞いてカラ松、僕夢に勝ったんだよ」
「おお、そうかぁ」
 寝ぼけている。これじゃ僕が何の話をしているかもわかっていないだろう。けれど、聞いてもらわないといけないことがある。何しろ、僕自身も逃げ続けていた一つの結論が出ようとしているのだから。
「それで、カラ松兄さん。僕、その……今まで……」
「あー……ブラザー、夜中に寝ぼけてたやつか?」
 カラ松兄さんは眠たそうな顔をしているけれど、僅かに頬を赤らめている。恥ずかしいというよりは、気まずそうな空気だ。
「その、まあいい夢を見た流れで、事故だと思えば」
「事故じゃなくて、したくてしてたんだけど」
 目が丸くなった。眠気も吹き飛んだらしい、口をぽかんとさせたまま僕を見つめている。
「僕、カラ松兄さんのことが好きで、キスもしたくてしてたの。黙っててごめんね、てへ」
 しっかり可愛いポーズをとることも忘れずそう言えば、兄さんの混乱は深まっていく。何が、とか、どういう理由で、なんてうわごとのように呟いている。
「だって気持ちいいのがいけないんだよ、カラ松兄さんじゃないと困るようになっちゃったんだから」
「えっ、へ、何、何の話をしてるんだ……」
 暴れるカラ松兄さんの頬を両手でがっしりと挟む。小さく、騒がないでと目を瞑ってと言い聞かせた。他の兄弟が起きたら面倒だ、というのは共通認識だ。
「ね、カラ松兄さんもしてみたらわかるよ。だからちょっと静かにしててね」
 逃げていたのは、こうして無理矢理奪ってしまいそうなのがわかっていたからかもしれない。
 目を瞑って、と言っているのに一切目を瞑る気が無いカラ松兄さんの唇を舐める。寝起きで渇いてしまったそれだけれど、僕の唾液でてらと光るのが見える。柔く下唇を噛んで、それから唇を重ねた。ちゅっ、と音を立てるように吸い付く。ちらと視線を投げれば、兄さんの目は白黒していた。
 逃げない、とは言ったけれど、こちらから攻めないとは言わなかった。僕は押せるところは押す方だ。特に、絶対に勝てると思う勝負なら、なおさら。
「カラ松兄さん、好きだよ。僕と一緒にしてくれるよね?」
「え、う、うん……」
「うんうん、僕に任せて。じゃあ寝ようね、起こしてごめんね」
「……その、トド松?」
 ようやく思考が追いついたらしいカラ松兄さんが口元を袖で拭い、それでも目はそらさず僕を見つめた。
「つまりお前は俺のことが、好きってことなのか?」
「……ん、うーん」
 はっきり言葉にするのは、少し恥ずかしい。でも、ついさっきも言ってしまった。もう一度も二度も、変わらないだろう。
「好きだよ。カラ松兄さんも僕のこと好きだったら嬉しい」
「……早く言ってくれれば、」
 カラ松兄さんは言葉を詰まらせる。
「寝たふりをしていなくてもよかったんだけどな」
「……え?」
「……今日はやめよう、二度寝だ。あとでゆっくり話をしよう、マイ・ラヴァートド松。おやすみ」
「えっ、気になるよ! カラ松、寝ないでってば」
 僕が引き留めても、カラ松兄さんは夢の世界に戻っていく。仕方なく僕も布団に潜った。そして、言葉の意味を考える。
 寝たふりをしていなくても良かった。事故だと思えば。
「……もしかしてさ、ずっと……気がついてたの?」
 背中越しに聞いても答えはない。もしそうだとしたら、バレていないつもりでやってきたあれもこれも全てバレていたことになる。深夜に手を握りながらキスをしたことも、唇を延々つつき回していたことも、全部だ。
 過去の自分がやったことが襲いかかってくる。身体が羞恥で燃えてしまいそうだ。実際、煙は少し出た。慌てて消したから燃えていない。
「……夢の中なら良かったのに……!」
 残念ながらこれは現実で、僕の思うとおりに変わったり記憶をなくしたりすることは出来ない。
 せめて一時的に楽になろう。眠れば今よりましな夢が見られるはずだ。追いかけっこの夢ではなく、せめて過去の自分を説得する夢が見たい。そうでなければ眠っている間に羞恥で灰になってしまう。隣で眠っているカラ松が、くすりと笑う声が聞こえた気がした。

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