endless summer
繋いだ手の大きさ、熱さまでもが同じで、もうどうにも嫌になった。絡めた指先だけが、少しだけ違った。カラ松の指は、僕のそれと違って節々が大きくて硬い。対する僕のそれは、自分で言うのも何だがほっそりとしている。
少しだけ、ほんの少しだけだけれど、違う。その事実にひどくほっとするのだった。
生まれてから今までずっと一緒で、誰が誰でも同じだと言い続けて、同じなのは嫌なんだと言えたら良かった。言葉にするのはいつでも難しくて、僕は沈黙を選んでしまう。
「カラ松」
あいつの名前呼ぶ声が掠れ、僕の指は震えている。カラ松は僕のことをじっと見ている。いつもはきりっとした眉が弧を描いて、微笑ましいものを見るかのように口元が笑っている。余裕を見せる表情に苛ついて、舌を打った。
「ノンノン一松、ラブにそんな態度はよくないぜ」
諭し方もまた鼻につく。ため息を飲み込んで顔を上げた。どういうペースで、あいつに触れたらいいのかわからない。
「俺に見とれているのか? やはり俺はギルトガイ……」
「そんなんじゃねえよ、バカ、クソ松」
ぐ、と絡めた指に力を込めた。言葉の代わりに、接触を選んだ。恐る恐る伸ばした手に、絡められた指先に、許されたのだと思うと高揚してしまう。そこから核心に触れるのには時間がかかるし、その次ともなれば余計だ。
「俺のペースがあるから、待って」
カラ松は一度だけ頷いて、口を噤んだ。代わりに、期待を含んだ視線が向けられる。その視線から逃げるように、僕は目を閉じた。ペースが乱れると取り戻すのに時間がかかる。翻弄されると心が折れる。そうしたらもう、キスなんて絶対
できない。そもそも今日もできるのかわからない。
男同士なんてさして問題じゃない。兄弟なのは問題だと思う。けれどあいつも僕のこと好きって言ったんだから、何も悪くなんてないはずなのに、その一歩を踏み出すことが出来ない僕は一体何なのか。
「一松」
名前を呼ばれる。カラ松は繋いだ手をぐっと引き寄せて、頬をすり合わせてきた。猫が甘えるときみたいな触れ方をして、それから、ゆっくりでいいんだと低い声が囁いてくる。
「……今いけそう」
「カモンブラザー!」
鬱陶しい横文字に苦笑を浮かべる。そういうやつだったねお前は、と思いながら頬に手を添えた。きらきらと期待に目を輝かせたカラ松の目を見続けることは出来なくて、反射的に目をそらす。
「見ないでよ、なんか恥ずかしい」
「真っ赤になってる一松が愛らしいから見ていたいんだが」
「……もう好きにして……」
僕が目を瞑れば済む話だ。一瞬息を止めて、カラ松の唇と自分のそれを重ねる。ふに、と案外やわらかい感触に驚いて、すぐに離れた。固く閉じた瞼を開ければ、目を丸くしているカラ松がいた。お互いぱちぱちと瞬きをして、何か言わなければと言葉を探している。頬がじんわりと熱くなる。今触れた熱は、自分のそれではなくて、あいつの熱なのだ。
「柔らかかったな」
「そうだね……ねえ、もう一回しよう」
返事を待たずに、もう一度キスをする。重ねるだけの幼くて拙いそれであるのに、頭の中は湯だってしまって、思考放棄している。いけないことなのに。だめだったのに。そんなふうに決めつけていたのは僕で、一歩踏み出そうともしなかったから今まで触れることは出来なかったけど、もう我慢する理由なんてなくなってしまったのだ。
「……っ、ふ」
唇に触れて、下唇を噛んで、舌で撫ぞって、AVで見たみたいなキスを真似て互いの舌を触れ合わせる。ぬめった感触と、ぴちゃりと響く湿った音に、体に火がついたような錯覚を覚えた。もっと、もっと奥へとそのまま齧り付こうとした唇が急に離れ、代わりにカラ松の人差し指が触れる。
「ノンだ一松、これ以上はもう戻れないぞ」
軒下の風鈴が揺れる。ちりん、ちりんと鳴っている。思い出したように蝉の鳴き声が続いた。探している。焦がれる鳴き声だ。愛の行方というにはロマンチックすぎて、交尾というには生々しすぎて、頭の奥でぐるぐると言葉が回っている。
「それが何なんだよ」
戻れないからなんなのだ。こっちは昔から、何年も、もうずっと、ダメなんだと思い続けていたそれが叶ってしまって、あとはもうぶつけるだけなのだ。こんな中途半端なところで止められてはたまらない。まだ終わらない、終わってたまるか、やっと僕は自分のペースに乗れたっていうのに。衝動に任せてカラ松の肩を押す。抵抗もなく倒れる体に、やっぱりお前だって、悪いなんて思っていないんじゃないかと腹を立てて、首筋に噛み付いた。カラ松の口元は、笑っていた。
いつもの夢だろう、と思いながら瞼を開ける。自分の思う『カッコイイ』を貫く六つ子の二番目、僕の兄への恋慕なり愛欲を隠さない自分を夢に見るのはもう慣れていた。起きてすぐ下半身の不快さを感じないあたり、今日の夢に夢精は伴わなかったらしい。ぼんやりと天井を見上げながら、じわじわと湧き上がる虚しさに殺されそうになっている。
ぱたぱたと廊下から足音が聞こえる。恐らく起こしに来た兄弟の誰かだろう。毎日が日曜日の僕らは案外規則正しく、朝飯には全員が揃わないといけないという習慣がある。起きる意志がないことを見せれば諦めるだろうと踏んで、タオルケットを頭から被って狸寝入りをする。
「一松、起きたか?」
このタイミングでお前が来ることないだろ、と言いかけて息を止めた。僕は今この世で一番死にたくて、お前に合わせる顔がない。このまま息を止めていたら死ねないか考えてはみるのだけれど、苦しくなってすぐに呼吸をしてしまう。死にたいにしてもその程度なのだ、僕は。
足音が近付いてくる。いつもならすぐ諦めるというのに、珍しく粘る。
「一松~?」
ゆっくり僕の名前を呼ぶ。起きろ、と適当に揺さぶられ、それを拒むように一度寝返りを打てば、容赦なくタオルケットを引き剥がされた。突然明るくなる視界に目を細める。カラ松は僕の上に仁王立ちになって、奪いとったタオルケットをくるくると丸めてそのあたりに放り投げた。どうにも起きなければいけないらしい。
「起きてくれ、一人じゃ終わりそうにない」
「何が……」
「この家の面倒見てくれって母さんに頼まれただろ?」
二度、瞬きをする。見上げるカラ松の後ろにある天井は、見慣れたそれと明らかに違うものだ。寝ころんだままで周りを見れば、布団は一人用で、兄弟は誰もいない。僕とカラ松の二人だけが、ここにいる。
「今何時」
「昼過ぎだな、ランチは冷や麦を用意したぞ!」
「……なんでおれとお前なの」
「寝ぼけて思い出せないのか?」
辺りを見回す。いつもの家ではない。けれど見覚えがある。
「ばーちゃんちだぞ、ここ」
「……ああ」
作りの古い和室と、ぼろぼろの土壁の記憶が蘇る。ぽろぽろと剥がれるのが面白くて全員で壁を突き回して怒られたことがあった。その家になぜ、カラ松と二人でいるのかはわからない。尋ねようと口を開くより先に、腹の虫が鳴いた。
「冷や麦、もう食べられるからな」
寝転がった僕に差し出される手は、起き上がるのを助けるそれだとわかっている。わかっているから、その手を跳ね除けた。カラ松はいつも通り、ふっと息を吐いてその手で髪をかき上げていた。
隣の部屋に続くふすまを開け、カラ松の後に続いて行けば座卓の上には冷や麦が鎮座していた。すぐにも食べられるようになっているあたり、段取りを決めてから行動するカラ松らしさを感じる。向かい合わせに座って、箸を持つ。一瞬目があって、気まずさにすぐ目を逸らした。
「……いただきます」
「いただきます」
二人だけで飯を食べるなんて、珍しいことじゃない。夢の残滓のせいで、勝手に気まずく思っているだけだ。
ガラス皿に適当に入っている冷や麦をすくって、自分の器に移す。麺を啜りながらちらと視線を上げるたび、カラ松の唇が気になって仕方がない。夢の中と、熱は同じなのだろうか。確かめる術はないから、きっと一生知らないままなのが余計に虚しくて、嫌になった。
「なんでここにいるか、説明いるか?」
「さっさとしろよクソ松」
母の実家は、海沿いにある山の麓に建っている。かつては祖父母が住んでいた家だが、祖父が亡くなってから祖母はみるみる弱り、今では母の姉が引き取って一緒に暮らしている。
残された家には、誰も居なくなってしまった。誰も住まない家であれば処分するなり何なりあると思うのだが、祖母が頷くことはなく、そのまま残っている。曰く、思い出が多すぎるのだと言う。誰もその家に戻ることがないのなら、その思い出を少しずつ整理、処分していくしかない。そこで選ばれた男手が無職の若人である僕たちだったと言うわけだ。
「あみだくじで選ばれたのが、俺とお前と言うわけさ」
そうだったような気もするし、そうじゃなかったような気もする。何しろクソ松と一緒なのだから、僕が何か言わなかったはずはないし、兄弟たちだって思うところあったはずだ。だが、こうして二人でここにいる以上はやらねばならないのだろう。
家の面倒とざっくり言われているけれど、その大半はこの家に残る思い出の処分だ。押し入れに眠る衣服、モノ、その他諸々。幸い白蟻も湧いていないし、ネズミが入った形跡もないらしいから、ただ荷物を出して処分していくだけの簡単なお仕事、ということになっている。
「一松は蔵を頼む」
「……庭の?」
「俺たちが昔使ってたものが詰まってるらしいんだ」
母は物を取っておく方で、実家の蔵に相当な数のものを預けていたのだという。なるほど、僕たちがお使いに抜擢された理由がわかる。あんたたちのものがあるから、自分たちで処分しなさいと言ったところだろう。
「着替えは布団の部屋にあるから、熱中症に気をつけろよ」
そう言って、カラ松は台所に引っ込んでいく。空っぽになったガラス皿と諸々の片付けがあるらしい。このままここにいたら、気まずさをまた味わうことになる。顔をあわせないですむなら、蔵の掃除でも何でも、やってやろうじゃないか。
僕は早速着替えて、庭にある時代劇に出てきそうな蔵と対面した。漆喰の白が日を跳ね返して眩しい。ところどころひびが走っているが、これは外壁が剥がれそうなだけで、中には問題がないはずである。
重たい扉を開く。久しぶりに開放された蔵の中から漂うむせ返るような埃とカビの臭いに負け、一時撤退を余儀なくされた。中は薄暗く、段ボール箱やケースが山になっている。
これは相当かかりそうだ。マスク代わりのタオルを巻いて、軍手をつけながら覚悟を決めた。
蝉の声がとにかくうるさい。ミンミンゼミならまだしも、しゃわしゃわとか、じーじーとか、耳障りなそれが続くとさすがに嫌になってくる。ここまで煩い蝉時雨を浴びることもないから貴重なのだが、夏が主張してくるようでたまらない。
蔵の中から出したものの分別をする。日陰にブルーシートを敷いて、段ボールの中身を広げながら、燃える、燃えない、燃える、燃える、といった具合に選り分けるのを繰り返していく。
ひょこ、と視界の端に人の気配を感じて顔を上げる。クソ松何の用事だと口を開きかけて、視線の先に居たのは知らない子供の姿で、慌てて言葉を飲み込む。大きな麦わら帽子を被って、スイミングバッグを背負っている。プールからの帰りらしく、塩素の匂いがした。
「おにいちゃん、何してるの」
「……ゴミの分別だよ、君は何してんの」
「近道!」
麦わら帽子のつばを上げて、庭の先にある竹林を指差す。不法侵入は自宅へのショートカットと言うわけだ。
「おにいちゃんもマツノさん?」
「そうだよ、マツノさんです」
「ぼくんちもマツノってんだ」
しきりに話しかけてくる子供の顔をじっと見る。確かに、どこかで見たことがあるような顔をしていた。既視感がある。小さい頃の兄弟に似ている気がする。苗字も同じだし、遠い親戚なのかもしれない。
「いつからここにいるの?」
「いつでもいいでしょ」
蔵から出すのに苦労した、重たい段ボールを開ける。中には高校の時の教科書が詰まっていた。六人分の紙束ともくれば、重たいはずだ。
「いつまでここにいるの?」
「さあね」
「暇になったら遊んでよ、約束ねっ!」
僕の返事を聞くことなく、マツノは竹林の向こうに消えていく。がさ、がさ、と草を分ける音がしばらく聞こえていたけれど、すぐに聞こえなくなった。
「……何あれ?」
応える人はおらず、ただ蝉の声が戻ってきた。知らない大人にちょっかいを出したかっただけだろう、昼寝したら遊んでと約束したことも忘れてしまうに違いない。それに遊ぶなんて僕は返事をしていないし、と忘れてしまうことに決めて、段ボールの中身に戻る。
ぼろぼろになったガムテープを剥がし、中身を出していく。落書きだらけの教科書たちをブルーシートに広げる。十四松の教科書は端々が破れたのをセロハンテープで留めてあるし、おそ松兄さんの教科書は落書きだらけだ。チョロ松兄さんはメモが取ってあるけれど、先生の雑学ばかりで、おそらくテストで役に立ったりはしなかっただろう。トド松と僕のそれは比較的綺麗で、真面目か興味がなかったかがわかりやすい。
カラ松のは、難読漢字がマルしてあったり、ピンと来た横文字に蛍光線が引いてあったり、あまりのわかりやすさに、感慨深くなった。昔からそうだったな、と思いながらビニール紐でまとめる。紙は資源ゴミだ。
一旦まとめたそれをおいて、また蔵の中から重たい段ボールを引きずり出す。蔵の中から、僕らの過去がどんどん出てくる。
二箱目もまた、教科書が詰まっている。図説や辞典が多い。その中に、ぼろぼろになるまで使った音楽の教科書が紛れていて、思わず手を止めた。それには苦い記憶が詰まっている。まさか入ってはいないだろうと思いながら、恐る恐る開く。
「うわ……入ったままだ」
教科書に、一枚の茶封筒が挟まっている。中身は見なくてもわかる。出すことができなかった手紙の内容を覚えているあたり、未練が強すぎる己が情けない。
渡せるはずもないのに、何故か書いてしまった恋文。捨てたと思っていたのに、教科書に挟んで隠しているうちにここまで来てしまったらしい。これだけは自分の手で処分しなければならないと、反射的にポケットに突っ込んだ。
「一松、そっちどうだ?」
「教科書の山」
様子を見に来たカラ松の声に、思わず体がびくついた。手紙が見えてはいないのだから、いつもどおりにすればいい。ばくばくとうるさい心臓に落ち着けと言い聞かせながらブルーシートの上に乗ったそれを指差すと、カラ松は苦笑を浮かべる。
「中の押し入れからランドセルが六つ出てきた」
「……母さんなんでもかんでも実家に送りすぎじゃない?」
捨てられないにしても、丸ごと取っておくというのはやり過ぎな気がする。制服が出てこないだけましかもしれないが、教科書なんかは捨てるのに迷いが出たのかもしれない。もう使わないのに。
「燃やせそうなのは風呂の焚き付けにしていいって」
離れにある風呂は薪焚きで、火の面倒を見てやる必要がある。幸い薪はまだ残っていて、泊まっている間沸かす分は困らない。焚き付けになる資源ゴミも大量だ。
「やりすぎると風呂熱くなるからな」
「五右衛門風呂」
「ブラザー、拷問じゃないぞ」
「熱めが好きだから、おれ先に入る」
「……フリーダムだな、俺はディナーを作るから」
明るいうちに用意してしまおう、ということらしい。田舎の夜は早く、そして暗い。普段から体を使うことに慣れていない僕らもまた、早々に寝てしまうだろうことを想定しているらしい。確かに、もうくたくたではある。
「そうめんだからなー」
両手を振って家の中に戻っていくカラ松を見送り、そうめんと冷や麦はどう違うんだったか考える。昼と同じじゃないだろうか。資源ゴミをまとめ、ブルーシートを畳んで蔵の中にしまい込み、扉を閉める。懐かしさに誘われ、教科書を見ながらまとめていたせいか、いつの間にか日は大きく傾いていた。
焚き付けにするぼろぼろの音楽の教科書を持っていく。薪置き場に寄って、適当な薪を二本ほど拾っていくのも忘れない。風呂桶を洗って水を溜めるまでは普通の風呂と同じだ。
薪を抱えて、風呂の裏にある小屋に入る。風呂釜の近くには適当な薪を重ねて作った椅子があって、灰掻き棒が転がっている。しばらく誰も使っていない釜の中は灰だらけで、火をつける前に少し灰を均す必要があった。昔やったきりで加減がわからないが、熱い風呂になれば水を足せばいい。教科書を適当に破って、釜の中に敷く。マッチの火を投げ入れて、火が広がってきた頃に薪を入れて、火が移れば蓋をして終わりだ。
ぱちぱちと火が爆ぜる音を聞きながら、裂いた教科書の残りを突っ込んでいく。紙は簡単に炎に巻かれてひしゃげていった。ポケットに突っ込んだままの手紙を思い出して、それも釜の中に突っ込んだ。出てこないように、念入りに灰掻き棒で奥に押し込む。
手紙はあっけなく灰になる。昔から抱え込んでいて、大人になっても誰に読まれることもないなんて可哀想な手紙だ。何しろ僕が書いたのだから、仕方がない。ぱちぱち、ぱちぱちと燃える火の音を聞きながら、しばらく身動きがとれないでいた。蔵から出した紙の束なんかより、捨てたはずのものが出てくるというのがあまり重かった。
さっさと風呂を済ませ、さっぱりしてから家の中に戻る。カラ松はオザキを鼻歌で歌いながら、そうめんを茹でていた。
「クソ松、風呂入って来い」
「まだ茹で終わってない……」
「あと水に突っ込むくらいだろ、風呂場の電気壊れてるからさっさと行って来い」
日が落ちてきた風呂場の電気を点けようとスイッチを入れたが、点かなかった。壊れているのか、電球が切れているのかは知らない。電気が点かないなら、まだ明るいうちに風呂を済ませればいいのだ。だから急かしている。
「タイマーが鳴ったらざるにあけて、水で」
「それくらいわかるって……」
カラ松の尻を軽く蹴る。空は橙から紺に変わりつつあった。
「あとは頼むぞブラザー、ディナーはお前にかかっている!」
「麺茹でるだけで大げさ、早く行けってば」
しっし、と追いやるようにするとやっとカラ松が動いた。台所から出て、何か思い出したように振り返る。麺がくっつかないように箸で混ぜろとかそんなところだろう。
「一松、夜になったら続きをしよう」
「続きって、まだ片付けすんの?」
「それじゃない」
カラ松はちょっとびっくりした様子で首を振る。そこまでいえばわかるだろう、みたいに言われても、何のことかさっぱりわからない。
「何のこと?」
「わからないならいい、夜のお楽しみということにしよう」
ぱちりと鬱陶しいウィンクを残して、カラ松はさっさと風呂に消える。サンダルの音が離れに向かっていくのを聞きながら、何の続きか考えてみたが、わからないからすぐにやめた。それより今は、冷や麦とそうめんの違いが気になる。どちらも同じようではないのだろうか。後でカラ松にも聞いて困らせてやろうと考えていたら、タイマーが鳴った。どっちでもいいか、食べたら何でも同じなのだから。
カラ松が戻る前にそうめんをきっちり冷やし、家から持ってきたらしい調味料一式の中から薬味の瓶を発掘する。麺つゆの希釈は三倍、きっちり計ってないから体感だ。
昼のお返しではないが、されたままなのも落ち着かない。夢を見た気まずさも手伝って、支度をする手は素直に動いた。
戻ってきたカラ松が卓について、両手を合わせる。湯上がりの髪が垂れている。遠くからヒグラシの声が聞こえる中、互いのいただきますが小さく重なった。
「明日は俺が蔵で、一松が押し入れにしよう」
「……押し入れ飽きたんだ」
ぎくりとするカラ松がノンノン重たいものをお前に任せるのは悪いとか何とか言うのを聞きながしながらそうめんを軽く啜る。
「あと押し入れに残ってるのは、おもちゃとか小さいものばかりなんだ、つい懐かしくて時間を忘れてしまうから……」
「まあ、いいけど……蔵の中、埃すごいよ」
重たい箱は片付けたから、蔵の中に残っているのはモノたちだけだ。例えば祖父母が昔使っていた農耕具とか、いつもらったんだかわからない立派な皿とか、処分していいのかどうか判断に困るモノで溢れている。
「俺が何とかするさ、そういうのは得意だからな」
おもちゃなんか、昔からいつのまにか捨てられていると思っていた。捨てずにとっておくとしても、あの家に六人分のそれを置いておく場所はないにしても、実家に送りすぎじゃないだろうか。思い出が詰まっている、がたとえではなく事実だったことを兄弟に話したら、どういう反応をするだろう。
「片付けは俺がする」
「どーも」
食器を片付けるカラ松の背中を見送って、ごろりと横になった。食べてすぐ寝ると牛になるとか言うが、今日の僕がなるならおそらく冷や麦かそうめんだ。座布団を二つにおって、頭の下に置く。畳の匂いが、家のそれとは違う。固いような、柔らかいような感触も落ち着かない。けれど、体に残る疲労が眠気になって押し寄せてくる。起き上がろうと思うより先に、とろとろと眠りに落ちていった。
耳元がむずむずする。頬にさらさらしたものが当たって、くすぐったい。猫が僕を起こすときによく顔を舐めたりする、あの感触に似ている。眠たくて目が開かない。ごめん眠いから今度、と言うかわりにさらさらと触れるそれに手を伸ばした。猫の毛にしてはコシがありすぎる。毛の一本一本にある弾力は、どちらかと言えば人間の髪、僕の髪もこんな感じ。ぐりぐりと撫でていると、くすぐったそうな声が聞こえてくる。ごろごろと雷みたいな喉の音ではない。もしかしてこれは、猫ではなくて。
はっとして目を開くと、僕に撫でられて困ったような顔をしているカラ松がいた。
「……ブラザー、フレンドにはこんなに優しいのか?」
撫でる手つきの優しさに触れられて、慌てて手を離した。寝ぼけていたから、と言い訳をするより先にその唇は塞がれてしまって、言葉を失う。
「……夜になったら、続きをしようと言っただろ?」
「つ、続きって、何の……」
「……? メイクラブ?」
そこで疑問符つけんなよ、わかんねえよ! 感情のままに叫ばなかった己を褒めたい。カラ松は僕の上に跨ったまま、タンクトップを脱ぎ捨てる。メイクラブってなんだ、なんでカラ松が、混乱したまま触れる熱に流されていく。
「深く考えるのはよくないぞブラザー」
カラ松は機嫌よく僕の唇を塞ぎ、戯れるみたいに何度も触れてくる。ちゅ、ちゅ、と音を立てられると何だか気恥ずかしい。
「ブラザー、口を開けるんだ」
「……っ、もう、知らね」
ふいと顔ごと横に向けて逃げると、カラ松は残念そうに鼻を鳴らす。ため息にも聞こえる。
「素直じゃないな」
体ごと覆い被さるってくるカラ松に首筋を噛まれ、ぴりとぴりした痛みが走る。跡が残るほど噛むのは、猫か犬くらいだ。舌先が跡をなぞるたび、ぞわぞわと背筋に走る何かがある。その正体が何か、嫌でもわかる。がっしりと顎を掴まれ、無理やり掴んで顔を上げさせられる。そのまま下唇を甘く噛まれ、そのまま口内に差し込まれる舌の感触に、呆気無く僕の思考は飛んだ。
「んんっ、ふ……」
粘膜に触れているだけなのに、こんなに熱いのだろうか。自分のでない舌に上顎をくすぐられると、背筋が続々と粟立つような感覚があった。
「クソ、何っ……」
肩を押して引き剥がす。カラ松はにんまりと笑いながら、僕の唇に人差し指で触れた。
「ブラザー、それ以上言葉はいらないぜ」
生唾を飲み込んだ。何しろ、すでに頭をもたげ始めていた僕自身にカラ松の手が触れたからだ。熱い吐息が落ちる。カラ松の目が爛々と燃えている。
僕の手を取って、誘うように体に触れさせる。体を上から下に、辿るようにそっと手を動かせば、満足気に頷かれた。触れと言うことらしい。触れる手に怯む様子もない。ぺたりと胸に触れる。女の人のように柔らかくはないけれど、僕にとってカラ松のそれというだけで十分だった。
「ふふ、うるさいだろ……すごくどきどきしてる」
子供みたいな言葉なのに、しているのは性行為の真似事である。よく見れば、僕の上にいるカラ松自身の前も膨らんでいた。興奮しているのは同じらしい。
「なあ、お前のこれ、俺に入ると思うか?」
弄ばれた僕自身は、すっかり勃起してしまっている。どこへ、と間抜けなことを聞くわけがない。すっかり犬みたいに息が上がってしまっている。
「一松、どう思う?」
見せつけるように、ゆっくりとズボンを下ろすカラ松を見ている。期待させるのは上手いんだ、いつも。それで何度も馬鹿を見た、今だって。それでも期待を捨てられない僕が、きっといちばん悪いのだけど。
「……なあ、好きにしてもいいんだぞ?」
手を伸ばす。触れる熱は、確かにここあった。
夢だ、夢に決まっている、夢じゃなきゃ困る。呻きながら目を開く。ゆっくりと体を起こして、両手で顔を覆った。噛まれた首筋は傷まないし、カラ松は隣でぐっすり眠っている。
壁にかけられた柱時計が、控えめにぼおんと鳴った。朝五時半、どう考えても早起きすぎる時間だ。
絶対に夢精してるだろ、と恐る恐る様子を探る己のそれは、全くいつも通りである。強いて言うなら、夢の生々しさに完全に勃ち上がっているくらいだ。
夢で良かったのか、夢から覚めなければよかったのか、僕にはもうわからない。二日連続兄の淫夢を見る弟なんて、世紀末がすぎる。世界は滅んでしまって、僕とあいつの二人だけになってしまったんじゃないだろうか。それでもきっと僕は何も言えやしないに決まっているけれど。
ちらとカラ松を盗み見る。ぐっすり眠っていて、起きる様子はない。枕元にティッシュがあるのを確認して、そっと自身に手を伸ばす。
溜まってるからこんな夢ばかり見るんだ。下着の上から撫でてやるだけで、すでに自分のそれが熱く湿っているのがわかる。夢精はしていないにしろ、ほとんど爆発寸前といっていい。夢が夢だったからな、仕方ない。しかも二日連続。かわいそうに、と己の息子を撫でる心情は虚しさに満ちている。
下着の中に手を差し入れ、ぬるついたそれに触れる。腰がずしりと痺れたような感覚があって、熱い息が漏れた。先走りを先端に広げるように手のひらでくるむように転がせば、じんわりと熱が上がっていく。
目を瞑る。夢で見たそれを、思い出す。触れる熱も、唇の柔らかさも。実感は出来ないから、自分の唇を舐めた。下唇を噛んで吐息を堪えているのが、何だか滑稽だった。手を動かしながら、眠っているカラ松をちらりと盗み見る。タオルケットを蹴飛ばした足、辿って太もも、上下する腹も、あどけない寝顔も、まさか隣でオカズにされているとは思わないはずだ。ずくりと腹の奥がうずく。欲を含む目で見られていることを、カラ松はきっと知らない。たらたらと零れ落ちるそれで、ぬちぬちと湿った音がするのが、寝ているカラ松を起こしやしないかだけが気になった。眠りを妨げるような大きな音ではないのに。
「ふ……っ、ん」
呼吸が浅くなる。下唇を噛む。柔らかく噛まれた感触は、徐々に遠くなりつつある。耳の奥、どうしたいか問うカラ松の声が蘇る。そんなの決まっているじゃないか、これをお前の中に突っ込んで、それから、それから。
一瞬頭が真っ白になって、すぐ頭の奥がじんと痺れたような感覚にぼうっとする。手のひらに広がる熱に、枕元を探ってティッシュの箱を手繰り寄せ、ぬめるそれを拭い取ってゴミ箱に放った。
余韻に浸っていると、じわじわ虚しさがやってくる。二度寝をするにも目が覚めてしまったし、まだぬるついているような気がする手も洗いたい。
音を立てないようにそっと立ち上がり、台所へ向かう。客間にある段ボールに、カラ松が昨日見つけたらしい思い出の品々が突っ込んである。紛れ込んでいた写真や、卒業アルバム、それにほとんど掠れて読めなくなってしまったような紙束。おそらく演劇部の台本だ。取っておいてももう見ないんだから、あとで薪にくべてやろうと思う。持ち帰っても、家に置くところはないだろうから。
段ボール箱の中、ふと目に留まったものがある。見覚えのある茶封筒が、紛れていたのだ。あれは、風呂の焚き付けにしたはずだ。きっと同じ茶封筒で、中身は違う。そんなことがあるわけがない、燃やしたはずのものがここにあるなんて。
恐る恐る封筒を抜き、中にある便箋を開く。一行目が目に入って、すぐに畳んだ。間違いなく僕の字だった。慌ててポケットに押し込んで外に出る。まっすぐ離れの風炉釜小屋に入って蓋を開け、封筒を押し込んだ。マッチを擦る手が震えている。見たのかどうか、わからない。どの松宛かわからない手紙として取っておいたのか、それとも僕の字であるのを知ってわざわざ取っておいたのか。
「燃やしちゃうの?」
声に驚いて、マッチが折れた。舌打ち一つ、声を確かめようと小屋を覗き込む影を睨みつける。昨日見た麦わら帽子が覗きこんでいた。
「お前には関係ねえだろ」
「大事なんじゃないの?」
「大事だったら、燃やそうとしない」
「……おにいちゃんは、嘘つきだね」
虫取り網とカゴを持って、麦わら帽子は駆け出していく。足音は徐々に遠くなって、聞こえなくなった。虫取りには朝早くがいい。僕だって昔やったことがあるから知っている。兄弟で早起きをして、眠たがっているやつとは手を繋いで。僕の手を引っ張るカラ松の背中を覚えている。忘れられないから、こうなったのかもしれない。
マッチを摺る。今度は呆気なく火がついて、釜の中に投げ込めた。手紙はぱちぱち燃えている。今度は灰になるまで、見守っていた。
母屋に戻る。時刻は六時すぎ、いつもならまだ眠っている時間だ。二度寝をしようか迷いながら戸を開けると、寝ぼけ眼のカラ松が卓に肘をついて座っていた。
「……クソ松、早起きすぎ」
「……蝉のラブ・ソングが……熱烈すぎてな」
まだ眠いらしい。東京の家に比べ、蝉の声が大きいからネてもいられないみたいだ。僕もすっかり目が覚めてしまった。
「いい夢見れたか?」
心臓がどきりと跳ねる。お前のえっちな夢だけど、と軽口も叩けない。さっきそれで抜いたから、余計に。
「ぐっすりだったから、布団まで連れてった」
「……そりゃ、どーも」
「朝飯食って、やるか……」
うんと背伸びをして、台所に消える背中を見送る。あの手紙見たの、とは聞けなかった。見たらまずかったか、なんて言われたら中身を確かめたことを知ってしまうし、それを聞けるくらいなら苦労しない。僕がやったことはといえば、あいつが見ていないうちに灰にしただけなのだ。もう二度と見られないように。
「モーニングはコメだぞ」
「……サトウさんちの」
「グランマがレンジを置いていってくれたからな」
チン、と軽快な音で朝食の準備が終わる。プライベートブランドのパウチおかずを出し、二人で黙々と食べ、食べ終わるのはもっと早かった。食休みにお茶を飲んで、時計が七時を回った頃にやっと立ち上がって動き出す。日が出れば出るほど暑くなるのだから、やはり早めに行動しておくのが肝だ。
「熱中症気をつけろよクソ松、病院遠いんだから」
「一松も、中にいるからって怠るなよ」
麦茶をたぷたぷに詰めた魔法瓶を掲げてやれば、カラ松はホッとした様子を見せる。兄らしい表情である。朝、こいつの寝顔で抜いた、と考えると一瞬で背筋が冷えた。言えないわりに、自分の行動は大胆すぎるのではないか。反省点として覚えてはおくが、生かされる気がしない。
さて、今日の作業は家の中、押し入れに詰まっている思い出を処分していく。カラ松が昨日言っていた通り、おもちゃが大量に出てきて驚いた。なくしたはずの漫画、学研の付録についてきた望遠鏡や、組み立てて電球にかぶせるプラネタリウム、羽ばたきながら飛んで行く飛行機。
「……確かにこれは、進まないわ」
飛行機を飛ばす。鳥のように羽ばたく仕組みのそれは、ぬるい風を切ってふわふわと飛び、やがて落ちた。ぽとりと落ちたシルエットに、ある夏の記憶が蘇る。六人分の羽ばたく飛行機は、まとめて川に落ちて、見つからなかったんじゃなかったか。こんなに綺麗な状態で、残っていることがあるだろうか。それに、ここにひとつしか残っていないのも、おかしい。六人揃いであったのに。
じとりと嫌な汗が背中を伝う。わからない。わからなくなってしまった。カラ松に聞けば、わかるだろうか。落ちた飛行機を拾って、蔵まで早足に駆ける。この家には思い出がありすぎる。こんなにあるか、と思うくらい、詰まっている。
「カラ松、おい、カラ松!」
蔵の先、ブルーシートの上に座り込んでいた兄の名前を呼べば、ぱっと顔が上がる。汗だくの髪を白いタオルでまとめ、袖をまくって二の腕まで出す姿は夏が形になったみたいで眩しくて仕方がない。
「一松、いいところに! ちょっと手伝ってくれ」
「は? いや、手伝いにきたんじゃねえって」
「こいつが蔵の入り口で止まって、困ってたんだ、助かった」
カラ松は汗だくになりながら蔵の入り口を指差す。蔵の奥にあったらしいでかい箱が、ここから動かないとばかりに鎮座していた。相当でかい。竹で編んである大きなそれは、行李と言うんだったか、とにかく一人で運ぶようなサイズじゃないことは確かだった。
「俺が奥から押すから、手前」
「わかった、わかったから……」
蔵の入り口にあるそれを跨いで、カラ松は蔵の奥でつっかえているそれの尻に手をかける。軍手じゃ滑るのか、素手だ。
「押すぞ、せえーの!」
「んぐ、重……っ、重てえ!」
行李がずりずりと音を立てながら、全貌を晒す。僕の身長くらいの長さはあるそれは、三度の声かけでやっと蔵の外に引きずり出されたのだった。
「これ、何入ってんの?」
「中身がつっかえて、開かなかったんだ」
カラ松は軍手をしっかりつけてから、カッターの刃を出している。つっかえている部分を切って開けるつもりらしい。飛行機のことを覚えているか聞くのは、難しい状況だ。
「中身見るの怖いな……」
「でも、見ないと捨てられないでしょ……」
ばつん、と竹が弾ける音がした。どうやら行李の竹同士が咬み合って開かなくなっていたらしい。蓋の両側を二人で持ち、また声を合わせて開く。その中には、学生時代のテスト用紙がごっそりと眠っていた。
これには、互いに目を合わせて言葉を失った。こんなものを僕ら兄弟が取っておくわけがないし、母さんだって見たくないに決まっている。何しろ僕らは万年赤字で、碌な結果を残したことがないからだ。見られないように学校で処分したものだってある。
「……捨てたはずなんだがな?」
「ねえ、何だか変じゃない? こんなに俺たちのもの、ばーちゃんちにあった?」
「実際あるんだから、あるとしか言えない……でもこれは、俺も捨てた覚えがあるものばかりだ」
壮大なドッキリにしても、ここまで仕掛ける理由がない。カラ松が行李の中を漁る。白い紙の中に、一つだけ茶が紛れ込んでいた。
「手紙が出てきた」
息を呑んだ。昨日燃やして、今日の朝も燃やしたそれと同じものだ。直感ですぐにわかる、あれは僕の書いた手紙が入っている封筒に間違いない。カラ松の手からひったくって、くしゃりと踏み潰す。読まれてはいけない。
「ゴミだよ」
カラ松は、明らかに態度がおかしい僕の様子に睨むような視線を向けてから、そうかとつぶやいた。聞いても教えるつもりがないことは、今ので示したつもりだ。
「じゃあ、ここにあるものは全部燃やしてしまうか」
畑で燃やすのに許可は必要だったっけ、消防に聞けばわかるだろうか。ひとりごとを言ってから、カラ松は僕を残して家の中に消える。
おかしい、絶対におかしい。夢でも見ているのだろうか?
蝉の声が思い出したように降ってくる。じわじわ、しゃわしゃわ、じいじいとそこからかしこからあがる声に、目の前が真っ白に染まっていく感覚があった。
「ねえ、お兄ちゃん」
麦わら帽子が再び現れ、僕の足をちょんとつつく。反射的に足をどかした一瞬のうちに、マツノはくしゃくしゃになった手紙を拾い上げた。
「もう気づいているでしょ? この手紙、戻ってくるんだ」
マツノは手紙についた土をふうっと息で飛ばして、手のひらでぐいぐいと伸ばしている。破れた茶封筒から、白い便箋が顔をのぞかせた。
「誰かに届いてほしい手紙なんだよ」
「うるせえ」
とっくの昔に、捨てたはずの手紙なのだ。今更戻ってきたってもうどうしようもない。蝉が鳴いている。声が誰かに届くのを待っている。
「ねえ、出したほうがいいよ、そのほうが絶対」
「うるせえっつってんだろ!」
大人気なく声を荒げる姿は、どれだけ滑稽に映るだろうか。マツノは両手で封筒を握りしめて、不安げな表情で僕を見上げている。手紙を離す素振りはない。
「……じゃあ、僕がもらっちゃうから!」
麦わら帽子の子がくるりと身を翻し、夏の日差しの中に駆け出していく。誰に渡すつもりか、あいつにはわかっているのかもしれない。僕の書いた手紙なのだから、僕が始末をつけなきゃいけない。麦わら帽子は竹林に飛び込む。その後を追いかけて、竹林に飛び込んだ。短い笹が腕をなで、しなる竹が僕の背中を叩く。すいすいと進んでいく麦わら帽子へ手を伸ばした瞬間、唐突に竹林を抜けて、別の場所に出た。
隣家の庭へ、続いているはずだった。足の裏の感触は、土のそれじゃない。アスファルトだ。目前には、見覚えのある赤塚の町並みが広がっている。
なんでもありの、夢の世界なのか。竹林を抜けたらそこは僕の知っている赤塚でした、なんてそんな都合のいいことが存在するのか。動揺しながら周りを見渡す。いつもの赤塚と違うところがあるとするなら、人の姿が一人も見当たらないところだった。民家はどれもしんと静かで、あんなにうるさかった蝉も鳴いていない。ただ、夏の日差しだけがアスファルトを焦がしている。
「お手紙、出す気にならない?」
遠くから、マツノの声がする。麦わら帽子のシルエットが伸びて、影を追いかけてゆっくり歩き出した。
「お前、何なの、どういうつもり、これは……何なんだよ!」
くすくす、くすくすと鈴を転がすような笑い声に怖気がたって、気づいたら叫びながら走りだしていた。膝が笑っている。息が苦しい。でも、それよりずっと、この異様な街が恐ろしい。人っ子ひとりいない赤塚の町並みは見慣れたそれであるのに誰もいない。家までの道を、ひたすらに走る。家には兄弟が、家族が、いるはずだった。いてほしかった。心が限界を訴えていた。
やっと見えてきた自宅に、こんなに家はほっとするものなのかと泣きそうになる。近づいて、やはり家の様子もおかしいことに気づいて、安堵はすぐに消え去った。
「ねえ! 誰かいないの!」
玄関の鍵が開いている。昼間なのに家の中は暗く、無職の兄弟たちの誰もいる気配がない。土足のまま家に上がった。もう、サンダルでも脱ぐ暇が惜しかった。
「とうさん! かあさん!」
両親の寝室を開ける。誰の姿もない、電気をつける紐にくくりつけた金魚が一人で揺れているだけだった。
「十四松、トド松!」
居間の障子を開ける。誰の姿もない、テーブルの上には空になったグラスが二つ並んでいるだけだった。
「チョロ松兄さん、おそ松兄さん!」
一階に響き渡る自分の声しか、聞こえない。誰の返事もない家の二階に駆け上る。誰か居てくれないか、もう誰でもいい、猫の友達でも構わないから。
二階の子ども部屋の障子を開くと、麦わら帽子のマツノが座っている。
「手紙、出す気になった?」
「……脅迫だろ、もう……」
マツノは手紙を僕に差し出して、悪意なんてありませんとばかりの眩しい笑顔を向ける。薄々、このマツノ、というのの正体もわかってきた。
「この手紙、ちゃんと渡さないと元に戻らないんだな」
時空がねじ曲がっているのか、夢から覚めなければいけないのか、とにかくこの異次元から抜けるには、僕の手紙を、きちんと届けることが鍵になっている。
「そうだよ」
手紙を受け取る。くしゃくしゃになってしまった僕の手紙。恋と言うには甘ったるすぎる、随分昔に葬った何かの塊。ただの甘えの延長のような気がするのだが、この手紙を書いた時は、言葉にしたときに一番近いものが恋だった。
「渡すよ、……渡す」
葬った気になっていた、だけだった。僕の心の奥に残ったそれは延々と熱を持ち、今なお熱い。認めてしまえば、このままではいられなくなると思い込んで、ずっと蓋をしてきた。
マツノはほっとしたように、柔らかく笑う。その顔は、昔の自分によく似ていた。
「……なあ、お前、昔の僕なのか?」
この手紙を書いたのは、高校の時だった。マツノは、見た目小学校高学年と言ったところだ。十一か、十二くらい。言われた言葉に目を瞬かせて、くすりと笑いながらポケットを探る。冗談みたいな、赤い大きなボタンがついたスイッチを取り出して、僕に向けてわざとらしくウィンクをした。
「僕は一松だと思う?」
麦わら帽子の下、眉がきゅっと釣り上がる。同時に、赤く大きなボタンをぽこんと押しこむ。瞬間、松野家の二階の床がばたんと無くなり、僕は重力のままに地下深くへ落ちていった。叫べば舌を噛む、とにかく手の中にある手紙を手放さないよう、しっかりと握りしめたまま、ただ落ちていく。
「ちゃんと渡してくれよ、待ってるからなー!」
マツノの声だけが、ぐわんぐわんと響いている。終わらない暗い穴、叫んだってどうにもならない。追って、麦わら帽子がふわふわと落ちてきた。異次元では重力が無視されるのか、帽子だけ落ちるスピードが嫌に早い。ラジコンか、と疑うくらいだ。
僕の頭にその帽子が落ちて、視界が遮られた一瞬のうちに、周りの空気が変わったのがわかった。青い匂いがしたのだ。落ちる衝撃はなく、自然に足がつく。柔らかな土の感触に、恐る恐る目を開くと、竹林の中にいた。必死に握りしめていた手紙が手の中にあることを確かめて、笹をかき分けて外に出る。見覚えのある庭である。蔵の外で行李を見下ろし、思案するカラ松の背中を見つけた。
夢の中で、もしくは異次元の終わらない夏の中から出るためには、この手紙をあいつに渡さないといけない。僕の未練が見せる夢なのかもしれないが、意地が悪すぎる。
そもそも、書いた時に素直に渡せていたらこんなことにはなっていない。渡すつもりなんてなかったのだ、もともと。それを思い出したように突くなんてひどい、僕には僕のペースがあるのに。けれど、僕のペースだけで生きていたら、一生渡す機会がなかったことも、わかっている。
手紙を持ったまま、立ち尽くしている。このまま手紙を渡さなければ、夢から覚めることはない。ずっと二人でいられるということだ。それは、僕の望んでいることなのだろうか。
手紙を持ったまま、カラ松の背後に立つ。もう、どうとにもなってしまえばいい。夢の中でくらい、当たって砕けられるはずだ。
「……カラ松」
「一松、どうした?」
「……」
当たって砕けるなんて、出来るわけがなかった。言葉が見つからず、ただ立ち尽くす。カラ松は、僕の手の中にある茶封筒を見て、ポケットの中を探り始めた。
「麦わら帽子の子に会ったか?」
「……? 会ったけど」
「何て言ってた?」
「ちゃんと渡せ、って」
「俺も言われたんだ」
カラ松は苦笑を浮かべる。その手の中には僕と同じようにくしゃくしゃになった手紙があった。違うのは、封筒がラメでぎらぎらしていることくらいだ。
「六つ子って、考えることも一緒なんだな、きっと」
「……お前も書いたのかよ」
小さく頷く。くしゃくしゃになった封筒と、あいつの顔を交互に見る。なんとなく、頬が赤く染まっているように見えた。もしかして、と期待する僕の顔にも熱が集まっている。
「……交換しよう、カラ松」
「ああ、うん……」
お互いの手にあったそれを、交換する。僕の手にはぎらぎらと光る封筒が、カラ松の手には地味な茶封筒がある。
「……一緒に開くか? ブラザー?」
「……いいよ、きっと中身も同じだけど」
そうっと封筒を開く。くしゃくしゃのそれを伸ばしながら便箋を取り出して、二人で声を揃えて開いた。カラ松の便箋は、真ん中に大きく三文字が並んでいる。カラ松が開く僕の封筒には、左上に小さく三文字が並んでいる。
「なあ、一松、声でも聞かせてくれないか」
「あんたもだよ、おれ一人じゃいやだ」
また、二人で声を合わせる。すきだ、という三文字は蝉時雨に溶けて、すぐに聞こえなくなった。
心臓がうるさい。熱が上がっていく。日差しに負けないくらい、カラ松が眩しく見えて、手を伸ばした。抱き寄せる体は、互いに熱い。目が合う。何だか、泣きそうになった。燃やしてしまう必要なんてなかったのだ。びゅうと風が吹く。髪が揺れて、背中を押されるように唇を重ねた。その熱は、夢にみたそれよりずっと熱くて、柔らかかった。言葉にするのが惜しくて、何度も重ねるそれに溺れた。この夏が終わらなければいいと、今は思っている。