一章 かつての輝ける日々の回想
代わり映えしない景色に飽きたから、歌うことにした。
延々と続く田舎道、道端に生える草花はどれも同じに見え、小さな林に並ぶ木々も変わらない。アイビス。トドロップ。バルサム。アイビスの根本では、羊の親子が草を食んでいた。
つまらない田舎道も、歩きながら歌えば足の疲れは少しだけ忘れられる。
都で流行っている歌、幼い頃に聞いた子守唄、古臭い軍歌まで、少しでも知っていればなんでも歌える。
僕は歌うのが好きだった。好きなだけじゃなくて、他の人よりちょっとばかり上手だった。勉強はからきしだったけれどこれだけは得意で、孤児院でも一番だったのだ。
神父様の推薦で都の神学校に招かれて勉強ができたのは幸いだった。そのまま都にある中央教会の聖歌隊として歌を紡いで、日々を過ごしている。
幸運だったと思えばこそ、自然に女神様への感謝が湧く。女神様は、天上から僕の行いを見てくださっているのだ。
次は何を歌おう、と考えた僕の口から自然に出てきたのは馴染み深い聖歌だった。
――人の世よ、渇いた心を潤す女神様の慈愛は深く。人の命よ、清き水と共に女神様の元へ還らん。天上に輝く光を見よ、女神様は遥か高くより我らを見ている。
昔は意味をよく知らなかったけれど、今はわかる。
女神様は僕たち人間を平等に愛してくれていて、愛しているからこそ肉体という器が滅んだあとに魂を潤して再び現世に送り出してくれる。僕たち人間は何度でも女神様の愛を受けて、生を繰り返しているのだ。
足を止めて空を見上げる。天上高くに輝く光は厚い雲に遮られてよく見えない。けれど、雲があるからこそ光があることを知ることが出来る。
僕たちを、そこから見守ってくれている。
「……時間を戻したりしてくれたら、もっといいんだけど」
都を出てから半日経つ。一日一本の定期便である乗り合いの馬車を逃してしまったから、半日も歩くことになったのだ。
女神様は人間を見守ってくださるだけであって、都合よく時間を戻してくれることはない。
遠くにそびえる山々を見て、ため息を吐く。マリエシ。デンサ。ファーガシー。デンサの枝に留まった鳥が僕を見て鋭く鳴いた。
結局、自分の足で歩かなきゃ、前には進まないでしょう。そんなことを言われた気分になった。
苦笑と共にお気に入りのマフラーをぐるりと首に巻き直して、道を急ぐ。日が沈むまでに街に辿りつかなければ凍えてしまうからだ。
僕の住む国――アカツカは一年を通して寒い国だ。特に、僕の故郷は都の北から伸びる山脈を越えた場所にあって、年中薄く雲が広がって光を遮っている。
立ち止まっているだけで冷たい風が頬を撫でていく。急がなくては。
「故郷は遠く、けれど懐かしい……」
古い歌だ。西の地方に伝わる民謡を歌いながら歩く。
目指す先は、懐かしき故郷である。二年ぶりの帰郷だ。
帰郷のきっかけは、一か月ほど前に故郷の友人から届いた手紙だった。
領主の息子が結婚することになったから祝福の歌を依頼したいという簡単なもので、珍しさから教会の修道士たちに何か事情があるのかと聞かれたのが記憶に新しい。
結婚式に、わざわざ聖歌隊を呼ぶのは珍しいことだ。
そもそも、結婚式は生命の循環や恵みの水を司る我らが女神様へ、共に歩む伴侶をお披露目するのが目的の儀式だ。
式がどれだけ質素であろうが、捧げる歌が下手であろうが、その加護は皆へ平等に与えられる。
女神様はすべてを平等に愛してくださるからだ。祈りは祈りであるのだから。
僕は手紙を見ながら考えてみた。わざわざ僕を呼ぶ理由。
結婚するのは領主の息子だ。ゆくゆくは街を守り、発展させていく領主となる。交易の整備、住民への保護、やることはたくさんだ。
領主の後を継ぐ息子がこの土地を任せるにふさわしいか、それを支えられる妻か、祝福の席で品定めされるのは想像に難くない。
都ではあまりないことだが、田舎ではよくあることだ。税の取り締まりとか、利益の取り分とか、色々ある。あとは単純に野次馬だ。祝いの席をどれだけ派手に出来るかで懐具合を知ろうなんて輩もいる。
つまりは、祝いの席に出席する人々にも彼らの新たな門出を祝福する気持ちにさせる歌を頼む、ということなのだろう。
友人に確かめてはいないから予想の範囲を出ないけれど、大筋は合っていると思う。
「大変だねぇー、社会って」
教会の荘厳な雰囲気の中で捧げられる祈りの歌というのは、神聖なものだ。上手でも下手でも、祈りは変わらない。
出席する人たちは、歌が上手ければより女神様の祝福を得られる、と思っている節がある。
祈りは同じなのに、と僕が言ったところで通じない。彼らの中ではそうなっているのだから。
二人の旅路を祝福する歌というのは、教会で執り行う結婚式でよく使われるものだ。結婚式以外に、洗礼の後にも使われる。女神様へ捧げる祈りの決まり文句なのである。
――神を愛し、善なる行いを経て、再び世に出でよ。
何度言ったかもわからない言葉を口にしたところで道が二つに分かれた。
一つは故郷の街へ、一つは丘の教会へと続いている。
道理で言えば、街に行って依頼者である知人に挨拶をすませるべきところだ。けれど、僕の足が先に向かったのは教会の方だった。
式の日は明後日だから、打ち合わせは明日と約束をしている。一日早く来たのは、幼馴染の顔を見るためだ。
教会は小高い丘の上にある。延々と歌いながらクローバーを編んだ草原、くたびれたときに休憩した切り株。
変わらないままの姿が懐かしい。神学校を出てそのまま都に住んでから、ここに帰ってくることはなかった。
ゆるやかな坂が続くこの道を歩いていると、いつだって隣に幼馴染がいたことを思い出す。
同じ街で生まれ、兄弟みたいに育った少しだけ年上の友人。
妙に兄貴ぶった態度で、僕を弟みたいにかわいがってくれた。今は街の近くにあるこの教会で神父をしていて、名前をカラ松と言う。
登りきった丘の上、教会が見えた。素朴な石造りの壁に丸いステンドグラスが三つ嵌まっている。
地区教会の入り口は開かれ、忙しそうに出入りする男の姿がある。その背中を、僕は知っている。
二年ぶりに会うというのに何にも変わっていない。何故かほっとして、疲れた身体がほどけたような気がした。
「カラ松!」
背中に声をかけると、男は弾かれたかのようにパッと振り返った。
作業のためだろうか、カソックではなく白いシャツを着ている。肌寒いというのに袖を捲っていて、思わず吹き出した。
寒いのに長い袖を捲るのは、カラ松の癖だったのだ。
「トド松!」
棒のようになった足では走ることも出来なくて、小高い丘を越えた後にも駆けていけた幼い頃とはそこだけが違った。
さすがに、半日も歩いたあとじゃ身体も強張っているし、足の裏はじんじんと痛んでとても動けない。
「久しぶりじゃないか!」
教会の入り口に長椅子を突っ込んだまま駆けてくるカラ松を、両腕を開いて受け止めた。そのままぎゅっとハグをする。
背中に回された腕が、ばんばんと叩いてくるから少し苦しい。荒っぽい仕草は神父になってもあまり変わっていない。
「苦しいよ、今日は一日歩き通しだったんだから勘弁して」
頬を触れ合わせてくるカラ松の胸を押して引き剥がす。挨拶にしては近すぎる距離も変わっていないようで、安心した。
「二年振りだな、元気だったか?」
「もちろん元気だよぉ」
「元気なら便りくらい寄こせよ、音沙汰ないと寂しいぞ」
カラ松は話しながらくるくると袖を巻き直している。寒くないのだろうか。僕は汗が冷えてちょっと寒いくらいなのに、カラ松は昔からずっと寒さに強い。
「ごめんねぇ、忙しくってさぁ」
「都が楽しいんだろ、いいことさ」
僕の考えていることくらい、カラ松はお見通しである。てへ、と小さく舌を出して見せれば柔らかい笑みが返ってきた。怒ってはいない。ただのじゃれあいなのだ。
「何してんの、一人で?」
「結婚式の支度だな、人が多いから席を増やしている」
カラ松は僕と同じ孤児院にいた。
僕が神学校に行っている間、カラ松は神父様の手助けをして、学んで、後を継ぐことになったのだと聞いた。今から一年前のことだ。
孤児だった僕らの成長を見守ってくれたのは神父様だけでなく、街の皆もそうだ。
ふたりとも立派になったと色々世話をやいてはくれるのだが、領主の息子が結婚するという一大イベントを前に、僕たちの存在は当然ながら霞む。
式を行う教会の準備は、神父であるカラ松に任せきりになってしまっているらしい。
入り口に半分突っ込んである長椅子は、普段は裏の倉庫に積んであるものだ。
重厚で教会の雰囲気に合った品なのだが、一人で出したりしまったりするのは骨が折れる。何しろでかくて重い。招待客の規模からして出さなければいけなくなったのだろう。
「あれだけ片付けてしまうから、待っててくれ」
半日歩いたあとだ。もちろん、疲れている。
けれど、明らかに一人で運ぶのに苦労している様子を見て、じゃあ疲れたから休むねなんて引っ込むことは出来ない。
善き行いをせよ、というやつだ。
「手伝うよ」
「……助かる、ありがとう」
手袋をするカラ松を置いて、長椅子と扉の隙間から教会の中に入る。
長椅子は外扉は越えたが、内扉はまだ越えていないようだ。
内側、礼拝堂には長椅子一つ分のスペースが空いている。あそこまで運べば終わりだ。
疲れた身体にむちうって、二人で声を合わせて持ち上げる。
指先にずっしりと食い込むそれは、やはり一人で運ぶようなものではない。さっきまでどうやって運んでいたのか少し気になった。
「これ、終わったら……お茶にしような!」
「お茶ぁ?」
カラ松の言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。
お茶といえば、貴重品の筆頭だ。
時折教会へのお布施として届くものだけれど、手元に残すことはあまりない。何しろそういう貴重品は女神様へ捧げるために中央教会に送られるからだ。
「これは、明後日の……な?」
お布施のうち、ほんの少しは神父が貰ってもいいことになっている。だから大丈夫だ、とカラ松は僕にウィンクまでしてみせた。
「いいの? 僕、初めて飲むよ、お茶なんて」
「こういうのは誰かと一緒に味わいたいだろう?」
僕は、小さい時からカラ松と一緒だった。けれど大人になって、僕は聖歌隊として都にいる。カラ松は神父としてここで皆に教えをわかりやすく伝えたり、祈りを捧げたりしている。
別々に暮らしている。それなのに、こうやって特別扱いされるのを嬉しい、と思ってしまう。
「……お土産、都で流行ってるお菓子だから!」
僕もまた、同じことを考えていた。普段なら独り占めするようなお菓子。街では手に入らないような流行り物。
カラ松は、こういう流行り物が好きだ。贈ったら喜ぶだろうな、と思って選んだのだ。これを買うために朝から並んでいたから、馬車を逃してしまったんだけれど、その疲れも飛んでしまうほど内心喜んでいる。
僕って案外に簡単な奴なのだ。
長椅子を運び終わり、礼拝堂の奥にある扉を開く。
この小さな教会は神父の住居が隣接していて、扉の向こうはカラ松の家になっているのだ。
扉を開けて最初に見えるのは集会所兼リビングだ。
孤児院にいた頃は、ここに大きなテーブルや椅子がたくさん並んでいて、皆揃ってご飯を食べたり、聖書の朗読をしたりしていた。
今は、前任の神父様と孤児院が街に移ってしまったから、大きなテーブルやたくさんの椅子たちも綺麗になくなってしまっている。カラ松が使う小さなテーブルと椅子が二脚あるだけだ。
「あっ、まだ現役なんだ?」
「ああ、暖炉か」
リビングの一角、壁に備え付けられた暖炉を覆うようにレンガが積まれている。暖炉で熾した火でレンガが熱され、部屋がじんわりと暖かくなる仕組みなのだ。
小さな炊き出し口の上には鉄板が埋め込まれていて、そこでお湯が沸かせたり、スープを煮込んだりする。レンガは熱いから絶対に触るなと言われたことも、スープを煮込みすぎて焦がしたことも思い出せる。
都では火がむき出しの小さな暖炉が多いから、積まれたレンガを見ると懐かしい。
カラ松は暖炉に火を入れる。この暖炉の難点は、部屋が暖まるまで時間がかかることだ。
水を入れたケトルを鉄板の上に載せてから二脚の椅子を暖炉の前まで持ってきて、僕に座るように言う。荷物を適当におろして、そのうちの一つに座った。
カラ松は、人の世話をするのが好きだ。僕が手を出すことは、あまりない。
ゆっくり話すのも二年ぶりだ。何から話そう、と切り出すより先にカラ松の低い声が僕に向いた。
「馬車で来たのか?」
「ううん、歩いてきた」
カラ松がびっくり顔で僕を見る。街から都までは半日近く歩かなきゃいけない。歩いていれば着くから、谷を越えるとか川を渡るよりは簡単だ。
「よく歩いたなあ……」
「歩けば着くもん、別に平気」
荷物からお土産を取り出してカラ松に渡す。
小洒落た袋に入れられたお菓子は、何という名前だったか忘れた振りをした。あんまりお前のために買ったという顔をするのも、恥ずかしかったから。
「お湯が沸いたら淹れてみよう」
「お茶の淹れ方、わかるの?」
テーブルの上に、お菓子の袋とマグが二つ並ぶ。
「教えてもらったんだ、葉っぱをお湯に入れて……しばらくしてから出すんだったかな、色がつくんだと」
「へえー……全然わかんないね」
「俺もわからない」
顔を見合わせて笑う。二年ぶりだなんてとても思えない。いつでも同じ空気を纏うカラ松と居るのはやはり気楽で、暖炉の傍にいるのと同じくらいほっとする。
「こっちはいいね、呼吸が楽だよ」
「緑が多いから、だろうか」
僕の頭にちらりとよぎったのは、都で流行っている病のことだ。
不治の病と呼ばれ、皆から恐れられている。最初はよくある風邪のような症状なのだが、熱が下がらないまま身体が弱っていって、眠るように死んでしまう。
この病は熱が七日下がらないことでしか感染していると判断が出来ないのも厄介だった。病にかかる条件もわからないし、今のところ特別に効く薬もない。教会に所属する医師たちも治療の手段がなく、手を焼いている。
故郷のあたりで流行ったなんて話は聞いたことがないから、きっとカラ松は病の存在自体も知らないはずだ。
知らないなら、知らないままの方がいい、と思って口を噤んだ。病の話なんて、あまり良い話ではない。
「何かあったのか?」
僕の様子を察して、カラ松が不安げな表情を見せる。
「お前はあんまり溜め込むと良くない、話してくれ」
「……カラ松、僕より僕のことわかってる時あるよね?」
「これでも神父をしていてな?」
「あんまりいい話じゃないけど……」
「そういうものこそ、人に話した方が楽になるだろう」
カラ松は、退かない。僕が隠し事をしているときはいつも以上の強気で来る。
何もないよ、と嘘を吐くことは出来る。けれど、嘘を吐いて誤魔化したことはすぐにばれてしまう。それだったら、最初から話してしまった方がいい。
そうだ、そういう奴だった。
「……都で最近流行り出した病気があってさ」
カラ松しかいないのに、そっと声を潜めてしまう。
いかに女神様のご加護があろうとも、わからないでは治せない病。話題にしただけで熱が出るのでは、なんて噂話もあるくらいなのだ。
僕はかいつまんで病の話をした。つい最近、僕の住む区画でも命を天に還した人がいたから、話にはつい熱が入ってしまう。
カラ松は小さく相槌を打ちながら、時に僕に病のことを尋ねながら聞いてくれた。
「辛いな」
「伝染するかどうかもわからないから……」
「……土に還れないというのか」
カラ松の声は沈んでいる。僕はそれに頷いて、ゆっくりと息を吐いた。
女神様は人の命を巡る水に例えている。天から降り注ぐ雨は森で緑を育て、川から海へ戻り、再び天へ昇って雨となる。人の命も同じように巡る、というのだ。
だから僕らのように女神様を信じる人たちは、死んだ後に魂は天へ昇ると信じている。女神様に与えられた肉体を土に還して、再び世に出る日を天で待つのだ。
逆に言えば、肉体を土に還すことが出来ないというのは命の巡りが途絶えるのと同じだ。輪廻は巡らず、ここで終わってしまう。
原因不明、伝染するかどうかもわからない病に冒されて命を奪われた肉体はどうなるか。
土に還さず、火を持って灰に還すしかない。
「……辛いよ」
ついこの間、病で命を落とした人は、恋人が最後まで火葬を拒絶していた。
命が巡らないのなら、いつか転生するこの人に会えなくなってしまうと泣いていた。
あまりにも悲痛な声、真っ赤な目、誰も彼女を慰めることは出来ない。
話している間に沸いたお湯を使ってカラ松がお茶を淹れてくれた。これであっているのかどうか、どちらもわからない。
「なんか……レンガみたいな色?」
「あち、あち……」
やわらかい匂い。部屋が薄暗いからわからないけれど、マグの中で白湯とは違うまろやかな色が揺れている。
薄い赤のような、茶色のような。暖炉の中で揺らめく炎に似ている。
「そういえば、変な宗教も流行ってる」
「変な宗教?」
マグに口をつけて、お茶を一口飲む。あち。あつい。鼻の奥に葉っぱの香ばしい匂いが抜けていく。甘いというより、苦い。お茶って苦いんだ。
「女神様が水なら、あっちは火って感じ」
「火……獅子神信仰か」
神父ともなれば他の宗教の信仰にも詳しいのだろう、カラ松は納得した様子でマグに口をつけた。
「変な、なんて言っちゃダメだぞトド松」
「はぁい」
「……女神様が見捨てたとか、そんなふうに思う人がでなければいいんだが、難しいだろうな……」
カラ松はため息をつく。その横顔には憂いがありありと浮かんでいて、僕は何故かどきりとしてしまう。
雰囲気が大人だな、なんて思う。僕なんていつまでだっても子供みたいなのに。
「女神様は、肉体を土に還そうとも、そうでなくとも、魂を癒やしてくださるのに」
僕はその横顔を見ながらお茶をちびりと舐める。
苦いものは苦手だ。難しい話も、あまり得意じゃない。未だに聖書は覚えられないし、教えだって本当に大切な部分しか暗唱できない。
「病を経た魂ならなおのことだ……命が巡らないなんてことはない」
カラ松の言葉を聞きながら、僕は少しだけ考えてみる。
もし、僕の身体が病に冒されたとして。その上、命も落としてしまったとして。肉体がなくなることも、土に還らず灰になることも、そこまで恐怖に感じない。
僕が怖いと感じるのは、全く別のところにあった。
「……ねえ、新たな命をもらって地上に戻ったら、今までのことは全部忘れちゃうの?」
カラ松はぱちぱちとまばたきをして、何を疑問に思うのかというほどの無垢な瞳なまま、こくりと頷く。
「命を終えた魂は乾いている。天で魂を潤してもらってから新たな命を得るんだが……女神様の手から聖水を受けるときに、今までの記憶は流れて落ちてしまうんだ」
過去の記憶を持ったまま新たな命として生まれると、新たな命が紡ぐ記憶は行く場所がなくなってしまう。とても正気ではいられないだろう、と言うのを聞きながら、僕の身体はぶるりと震えた。
流れ落ちる水のように、記憶がなくなる。
「こうやって話してることも忘れちゃうんだ……」
女神様のことは、信じている。けれど、今まで僕が感じたことが全て無かったことになってしまうのは何だか寂しい。そういうものだ、と言われても受け入れられないところがあった。
――神を愛し、善なる行いを経て、再び世に出でよ。
神を愛し、善なる行いをして命を全うする。その後、再び世に出ることが全て、なのだろうか。教えに疑問をもったのは、初めてのことだった。
「僕もちょっとだけ怖い、かな」
「……そうだな」
ぬるくなったお茶を飲む。知らないなりに淹れたお茶は苦くて、僕たちには蜂蜜をちょっと溶かしたミルクのほうがよっぽど似合う。
「その悩みもきっと、いつか答えが見つかるさ」
カラ松は再びお茶に挑むためにお湯を注ぐ。
ケトルの先から落ちる雫を見ながら、いつかが来るならお前に教えて欲しいという言葉を飲み込む。
神父にそれを問うには、僕は大きくなりすぎた。
「トド松、お菓子は?」
お菓子の包みががさりと揺れる。
こっちの流行りはかわいいもので、小麦で作ったワッフルに蜂蜜とドライフルーツを乗せたものだ。
華やかな見た目と、その日のうちに食べないといけない、という儚さがウケて長蛇の列が毎日出来ている。いかにもカラ松が好きそうな雰囲気だと思う。
「蜂蜜と、何だったかな……普通の」
「半分ずつにしよう、どっちも食べたい」
お互い、食い意地が張っている。袋から出したワッフルを見て目を細めるカラ松を見て、思わず口元が緩んだ。
いいもの選んだでしょう、と言いたい気持ちを飲み込む。カラ松のためだけに買ってきたから、その顔が見られて満足ではあるのだけど。
「……甘~い」
「ンン、これは……美味いな?」
「喉乾くね」
「ほらお茶」
苦いからいらない、というより前に注ぎ足されてしまった。渋々そのまま口を付ける。
甘いお菓子を口に含んでから苦いお茶を飲むと、なんだか口の中がさっぱりしたような気がする。
なるほど、お茶ってこういうふうに楽しめばいいのかもしれない。
僕たちはそのまま、二年分のお喋りをして過ごした。
お茶が無くなったら白湯を飲んで、椅子に座り続けて身体が強張ったら二人で狭苦しいベッドに寝転がったりしながら、いつまでも。
このまま時間が止まってくれたっていいのに、と思いながら目を瞑る。
時間が止まれば死ぬこともない、死ななければカラ松と過ごした記憶を忘れないでいい。いや、死ぬことは怖くないんだ。僕は忘れてしまうことが怖い。
天井を見上げて、小さく息を吐く。白く染まった息は、すぐに消えてしまった。
「二日酔いなんでしょ? 見送りいらないって」
「いいや駄目だ、二年前はお前が気付いたら帰っててすごく寂しかったんだ……」
顔色の悪いカラ松と並んで、馬車の停留所へ向かっている。今日こそは一日一本を逃すまいと言う強い決意が僕にはあったからだ。
カラ松は昨夜の結婚式を執り行った後、祝福のパーティで延々飲ませ続けられたせいか二日酔いに苦しんでいる。
僕はと言えば、美声を披露した後なのもあって、パーティでは女の子にちょっと囲まれたりなんかして気分よく過ごしていたから余計に気の毒に思える。
いい式だった。教会はぎゅうぎゅうで狭苦しかったけれど、僕の歌で何人もがはっとした顔をしたのを楽廊から見ているのは気持ちが良かった。
何より主役の二人は幸せそうだったし、依頼をくれた友人は泣いて喜んでくれてほっとした。
皆で斉唱した祈りの言葉が天に届いたのか、天気雨が虹を呼んだのもよかった。女神様からの祝福だと言う声に、カラ松がやわらかく微笑んだのを見て僕も嬉しくなった。
「トド松、次はいつ帰ってくるんだ?」
「うーん……いつだろ、雪が溶けたら?」
アカツカは一年中寒いけれど、雪が降り始めるとより一層その寒さは厳しくなる。大雪で道は分断され、燃料の薪だけが減っていく。こうなれば家に籠もるしかない。雪がなくなると、ほんのわずかだけれど暖かい日が来る。そこで帰るのがいいかな、と考えている。
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
カラ松の口調が拗ねているから、少し笑った。
昨日結婚式を仕切っていたカラ松の顔はどう見ても働く大人、見なれた神父そのものであったけれど、僕と二人になると子供っぽくなるのが面白い。
「教会に怒られちゃうからさ、帰らなきゃ」
教会からは速やかに都に戻るように言われている。流行り病との関係が原因だ。もし、僕が故郷を出たあとに故郷で病にかかった人が出れば、僕が病を運んだことになってしまうから。
そのまま故郷に帰ってもいい、と言われなかったあたり、僕は中央教会にとって必要な人間なのかもしれないとほんの少し良い気持ちになったのは心の中だけに留めておく。
「次もいいお土産を期待してるぞ!」
「……僕が食べたいから買っただけだよ」
他にも都に向かう人が数人、停留所の周りに立っている。
別れを惜しむ人もいれば、都に向かう楽しみに浮かれている人もいる。
僕はどうだろう。カラ松と会えなくなるのは、寂しい。二年も会わずにいたのに、一度会うと別れが惜しくなる。
「俺のためだろう? まったく、照れ屋さんだな」
「違うってば! 違いますー!」
じゃれ合う中で、カラ松がぎゅっと僕を抱きしめる。再会の時と同じハグ。
僕も仕方なく背中に手を伸ばした。この間のお返しにばしばしと乱暴に叩く。カラ松はくすりと笑った。
「女神様のご加護がありますように」
「カラ松もね」
遠くから馬車がごろごろと車輪を鳴らして近づいてくる。
運賃を渡して、荷台に乗り込む。備え付けの椅子は固く、都に帰るまでにお尻が六つに割れる覚悟を決める。
出発の合図。御者がゆっくりと馬車を走らせる。
冷たい風を頬に感じながら、後ろを振り返る。カラ松は、ずっと停留所に立って僕に手を振っていた。