【WEB再録】かつての輝ける君へ(13/05 発行)

※無双7設定 ※人が死ぬ

 

序幕

 良く晴れた、温かな日だ。遠駆けをするには一番良い。それが出来る状況であれば良かったが、俺の立場では許されない。一刻も早く一族の仇を討たなくては。そのために何が必要であるのか、馬岱と二人で話すために陣を離れていた。信用出来るのは、たった一人残った身内である馬岱だけだ。
「このあたりは静かだねぇ」
「ああ……戦の気配がない、穏やかな土地のようだな」
 事実、このあたりは中央の戦にあまり巻き込まれていないと聞いた。確かに、遠くから見る限りは民たちの生活や表情に余裕がある。故郷もこうであれば良いのだろうが、それを知る術はない。あの地から離れてどれくらい経ってしまったのだろう。郷愁に襲われるが、それに浸る暇もない。
「でもね、ここに攻め込んでくる輩がいるそうだよ?」
「何?」
 馬岱は俺の表情をちらと見る。
 このような穏やかな土地に。民たちが平和に暮らしているのに。目の前に広がる、あの生活が奪われるのかと思うと胸の奥に怒りが湧いた。
「劉璋殿からこの地を奪うつもりなんだってさ、若は知ってる? 劉備、っていうんだけど」
 米神がちくりと痛む。指先で抑えると、痛みは消えた。その名を、どこかで聞いたような気がする。けれど思い出せない。
 ただ、劉璋と同じ姓であることが気になった。同じ姓ならば、どこかで血が繋がっていてもおかしくはない。同族を襲い、平和な土地を乱し、奪い、戦乱へ巻き込むつもりなのかと思えば居ても経っても居られなくなった。
「ちょうど今頃、成都城は襲われてる頃じゃないかな」
「行くぞ」
 待ってよ、と言う暢気な声は聞こえない。馬首を向け、成都城へ駆ける。
 道理が通らない。劉備とやらの行動に腹の奥が熱くなる。己の正義に反する行動に、怒りが収まらない。
 劉璋とは何の繋がりもない。ここで加勢して、俺たちが利を得ることはないだろう。根無し草、流浪の軍を囲おうとも思わないはずだ。恩を売りに来たと
 だが、民たちが彼を慕っているのは国を見れば明らかであった。それを奪おうと言うのだ。これが悪でないなら、なんなのだ。城が近付く。喧噪が聞こえる。この国の穏やかさは、平和は、奪われつつあった。

 


諸事情

「打ち合わせ通りにやってくれて、助かったよ」
 先の戦いで帰順した男は、目の前で朗らかに笑う。その表情に少し驚いた。鍔の広い帽子を少し下げる。己の表情の変化をあまり見せないほうが良さそうだ、と何となく思った。
 彼らの経歴は、戦乱の世にあって一段と苛烈だ。一族の命を曹操に奪われ、復讐を果たすために軍を起てた従兄に付き従い流浪を続けてきたと言う。その朗らかな笑みは、血生臭さを感じさせないものだった。そう見えないように振る舞っていると考えた方が妥当だろう。
「あれで兵が納得したとは思えんがねぇ」
「力いっぱいやっちゃったけど、身体は平気?」
 昼間の戦いのことを言っているのだろう。劉備軍に負け、その道理に感服し帰順するという台本通りに思い切り戦ったのだ。ぐるりと首を回し、肩が凝ったくらいだと言えば彼は声を上げて笑う。人好きのする男だ、と思った。
「さて、そうした理由を聞かせてもらおうじゃないか」
 深夜、誰も居ないであろう城内に呼び出したのは理由がある。
 本来であればこの戦の立て役者である自分や、帰順してきた彼は宴会の主役だ。夜中まで引きずり回されるところを抜けだし、こうやって顔をつきあわせている。本当は飲んでいたかったが、というのはただの愚痴だ。
 つい三日ほど前、文が届いた。劉備軍に降りたいと簡潔に書かれた文章。劉璋軍の誰かであれば内部から手引きを期待できる、それとも罠かと差出人の名を確かめてみればあの馬超である。
 彼は喉の奥で笑う。先ほどの朗らかな笑みとは種類の違うそれだ。どうやら、こちら側に近い人間であるらしいと知る。
「若は元気に見えた?」
「そりゃあね、あんだけ暴れられたら」
 雄叫びを上げながら槍を振るう姿は未だに目に焼き付いている。錦、と呼ばれるにふさわしい武芸の鮮やかさにも納得がいった。特に馬術の巧みさにはこちらも苦戦させられた。何より、この乱世においてあそこまで声高に正義を語るのは珍しく、強く印象に残っている。
 正義を語る輩は、己の行動こそが正しく、賞賛されるべきだと思っている。己の武に自信があるのなら、余計にだ。己の持つ正義を譲らないだろうと思った場面で、劉備には違う正義があると言ったら素直に引いた。こちらの声に耳を傾ける素直さが残っているのが、どこか不思議だった。
「そうだね、身体はね」
「身体は?」
「あのひと、寝るとその日あったことを忘れちゃうんだ」
 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
 あのひと、というのは馬超のことで間違いないだろう。寝るとその日あったことを忘れてしまう。言葉を噛み砕いても、理解しがたい。そんな状態に陥った人間が、迷い無く武器を手に取るだろうか。復讐のために、軍を起こすのだろうか。
「嘘だと思うでしょ、さっき寝たから今日のことはもう忘れてるよ」
 起きたら会わせてあげる、という従弟の声は平静だ。口振りからして嘘ではないのだろう。明日の朝、彼に会ったら名を聞かれるはずだ。戦場で顔を合わせ、名乗り、刃を交えたと言うのに。
 彼がそうなってしまったのは、曹操軍を追う最中に敵軍から放たれた石が頭に当たったことが原因だと言う。それを語る彼の横顔は、どこか寂しそうに見えた。
「どこまで忘れるんだい」
「さあ……眠りの深さによるみたいだねぇ、曹操が仇だっていうのは忘れないけど誰の仇か覚えているのかな」
 顔を上げ、彼は自嘲的な笑みを浮かべる。
 過去のことも忘れてしまうのだとしたら、たった一人の血族である従兄弟のことも、いつか忘れてしまう可能性があるのではないか。それを尋ねようと思ったが、横顔を見てやめる。彼にとってもまた、たった一人の血族だ。その人に忘れられるというのは、死ぬより残酷なことであるように思えた。
 入朝した馬超の父は、曹操暗殺計画への荷担を持ちかけられたと言う。漢への忠信が厚い彼はそれを了承したが、計画が曹操に露見。捕らえられ、一族もろとも首をはねられたと聞く。そこからたった一人逃れてきたのが目の前にいる彼で、馬超は西涼の軍閥を集め、軍を起こした。
 それすらも忘れ、ただ正義という不確かなものを理由に武を振っているのか。
「難儀だね」
「だから俺がいるんだよ」
 声から一切の感情が消える。
「誰が敵で誰が味方か、一度言えば寝るまでは忘れない」
「じゃあ、うちに降ったのはほぼあんたの意思ってわけだ」
 寂しげな横顔が、企み顔に変わる。こちらの様子を窺う瞳があまりに暗く、背筋が冷えた。敵に回したくない種類の人間だ。目的を果たすためなら躊躇をせず、使える手段は何だって使う。味方にすれば心強く、敵に回せば痛い目を見る。
「俺は若が槍を振るうのに適した場所を考えただけだよ、あんたたちにとっても錦馬超を受け入れる利は大きいと思ったしね」
 否定はわざわざ口にしない。沈黙でこちらの答えを読み、彼は続ける。
「城は開いたんでしょ?」
 成都城に逃げ込んだ劉璋は、錦馬超が劉備軍にいることを知り城を明け渡した。これ以上血を流したくはない、と苦悩していた劉備が一番望んでいた無血開城だった。
「俺は若が生きていてくれたらそれでいい、そのためなら誇りだってなんだって捨てる」
 深く、暗い瞳だ。訥々と語る口調に、先ほどの朗らかさや明るさは無い。恐らくこれが彼の本質なのだろう。口元に湛える笑みも、とっつきやすい態度も、全ては己の暗闇を隠す仮面でしかない。
「難儀だね」
 同じ言葉を繰り返す。彼は、口の端だけで笑う。
「好きでやってんだから、いいのよ」

 


忘却の人

 ホウ統殿に若のことを話したのは、この事実を知っている俺がいなくなったときに困らないようにするためだ。軍師たちは情報を共有しているから、知ってさえいれば若のことをうまく使ってくれるだろう。もし、俺が若より先に死んだとしても。
 死にたくはない。
 強く思う。知らず、歯を食いしばっていた。奥歯が軋んで気付く。息を吐いて、力を抜いた。
 死ぬのは怖い。生きてまだやりたいこともある。若より先に死ぬなんてことも、考えたくなかった。世が平和になったなら、絵を描いて暮らしたい。故郷にも帰りたい。どれくらい変わってしまっただろう、若が覚えているものはあるだろうか。それまで若が覚えていられるのだろうか。
 若の病は、治るのだろうか。
 そこまで考えて、まだ治るのではないかと期待している自分が滑稽で笑ってしまった。頭を打っているのだ。その中を治すのに、薬でどうにかなるものか。どんな名医でも、頭に穴を開けて無事に終わるとは思えないし、この国にいるとも考えられなかった。乾いた笑いが喉を突く。すれ違った侍女が、俺の顔を見てすぐに目を逸らした。顔を青くして、通り過ぎて行く。
「おっと、いけない」
 両手で頬を挟み、表情を崩した。疲れのせいだろうか、表に出してはいけないものがふと浮かんできてしまう。急ぎ、与えられた邸に帰ることにする。若はそこで眠っている。俺がいないときに目を覚ましていたら厄介だ、という思いもあった。

 与えられた邸は、以前劉璋軍の誰かが使っていたものだと言う。そのまま譲り受けたから、調度品を用意する必要はなかった。若は厩が遠いことだけが残念だったようだ。動物を慈しむのは昔から変わっていない。そういうところを見つけると、ほっとする。
 若の寝室に滑り込む。寝台は、普通の大きさのものを横に二つ並べた。さすがに大の男が二人、一つの寝台で眠るわけにはいかない。
 同じ部屋で眠るのは理由がある。若が目覚めた時最初に目に入る人間が俺ではないといけないからだ。毎朝、記憶が変わる。昨日覚えていたことを、今日は忘れていることもある。見知った人間がいれば、起こしてでも確かめるだろうと常に傍にいる。
 若の睡眠は、頭を打ったあの日からぐっと深くなった。寝ている間に、記憶の整理が行われているせいだろう。整理されても、朝になると思い出せなくなっているのだが。
 蹴とばした布団をかけ直し、隣に寝転ぶ。ざらついた敷布だけれど、野宿よりはましだ。土の冷たい感触を思い出し、苦々しい気持ちになる。それを忘れようと、眠る若の顔を覗き込んだ。戦場に出た疲れのせいか、よく眠っている。
 穏やかな若の寝息を聞いていると、どうしようもなく切なくなる。
 若が何をしたっていうんだ。俺が何をしたっていうんだ。乱世が俺たちにした仕打ちはあまりにも重すぎる。生きる目的を失くしかけた時、若は頭を打った。それから、若を生かすことが俺の生きる理由になっている。その若が次に目覚めた時、俺のことを忘れているのではないかと思うと、怖かった。若の寝顔を見て過ごした夜も一晩じゃすまない。
「若、俺のこと忘れちゃいやだよ」
 眠る前に呟く言葉は、いつも決まっている。

「起きろ」
「うう」
「起きろと言っている」
「まだ暗いじゃない……」
「何故俺はここにいる?」
 寝ぼけたまま応対していたが、疑問に揺れる声音で意識が覚醒する。布団を跳ねのけ、起きて、若の肩を掴む。一連の動作が急すぎたせいか、若は目を丸くしていた。
「お、起きたか」
「……若、俺のこと、わかる?」
 何度これを尋ねただろう。
 若はきょとんとしている。俺の顔を見て、小首を傾げた。何かを思い出そうとするときの癖だ。結果はいつも同じだ、思い出せない。肩を掴む指先に力が入った。覚えていてくれと、叫びだしたくなる。
「馬岱、さすがにお前の顔を忘れるわけがないだろう?」
 その声で呼ばれる名に、酷く安心した。
「そうだよ、あんたの従兄弟の馬岱……ここはね、」
 そして今日もまた、何度目と数えるのもやめたことを告げる。
 若の父親、弟は曹操の手にかかって亡くなったこと。軍を起ちあげたけれど、策によって打ち砕かれたこと。流浪したこと。妻と子が殺されたこと。
 今日は新たに、劉備軍に降ったことを付け足した。俺の話を聞きながら、怒り、泣き、悲しみ、曹操への復讐を誓う。何度この朝を迎えたことだろう。でも、若が生きていてさえくれればいい。生きていてさえくれれば、俺が支えられるから。
 一人で歩いていくには、乱世の道は険しすぎた。

 


知らない

「若が起きたらとりあえずこれを」
「はい」
「昼寝くらいなら記憶は飛ばないけど、様子を見て使って下さい」
「承りました」
 背後で交わされる馬岱殿と孔明の会話を聞きながら、卓上の地図を眺める。漢中を中心としたそれに、馬超殿が筆で印をつけていく。例えば人が通るのには不向きな道であるとか、地図にはない安全な経路、立ち入ってはいけない土地など。俺には知らぬことばかりだ。地図の上は見る間に情報で埋まっていく。
 彼の記憶に障害があることは、士元から聞いていた。
 精神的に大きな衝撃を受けると、一時的に記憶を失うことがあると聞いたことがある。戦場に出たばかりの兵卒があまりの凄惨さに耐えられず、戦場に出たことだけを忘れてしまった、とか。けれど、眠る度に記憶が消えるというのは初めて聞いた。
 蜀で名医と呼ばれる人に馬超殿を見てもらったけれど、手の施しようがないと言われてしまった。本人がこの状況を素直に受け入れているから、まだ救われている。本心がどうかはわからないけれど。
 この地図に書かれた情報のどれが新しく、どれが古いかはわからない。ただ、全く知らないよりはいい。張魯の所に身を寄せ、軍事的な情報を知る立場にあった彼だからこそ知っている情報があるのではないかという淡い期待だ。
「漢中が取れたら、天水まで足が伸ばせることになりますね」
「……ここからであれば西涼は近いだろうな」
 地図に視線を落とす彼の言葉からは、郷愁が滲み出ている。不思議なもので、自分がどこで生まれて育ったかは忘れたことがないのだと聞いた。今までそうだったというだけで、明日はどうなっているかわからないけれど。明日への不安を常に持っているのは、どれだけ恐ろしいことだろう。
「その……刺史のお話があると聞きましたが」
「そうなのか? ……自分がわからないことを他人が知っているのは、妙な気分だな」
 劉備軍に降ってきたからには、何らかの官職を用意すべきだと声があり、その中に涼州刺史があったというだけの話だ。現地に行けない刺史に何の意味があるのか、と馬超殿は笑う。自嘲的な笑みだった。話題を変えなくては、と頭を巡らせる。
「ええと……恥ずかしながら、俺は涼州のことをあまり知らないんです」
 涼州は西の果てだ。中央からあまり出たことのない俺にとっては、果てしなく遠い土地であるように感じている。馬超殿が顔を上げる。筆を置き、口元に手を当てた。しばらく沈黙があり、重々しく口を開く。
「……星がよく見える、あとは馬で駆けると気持ちがいい」
「……それは馬超殿が好きなことでは?」
 思わず笑いが零れる。馬超殿は他にも、様々な部族がいることや、西域から変わった酒や物が届くこと教えてくれた。
 故郷のことを話す彼の表情は穏やかで、こちらも満たされるような気持ちを覚える。その内容が本当かどうか、西涼を知らぬ俺にはわからない。ただ、知ることで彼のことをよく知ることが出来るように思えたのだ。
 突然言葉が切れ、馬超殿はまた口元に手を当てる。どうやら考え事をするときの癖のようだ。
「いつだか、同じ話を誰かにした気がするな」
 うん、これを聞くのは三度目だから。
 そんなことは言えないから、曖昧に笑って場を濁す。卓上に視線を戻すと、墨壺の中身が空になっていることに気付いた。この場から逃げる言い訳にしようと掴み、席を立つ。
「墨が切れてしまったみたいだ」
「では俺が」
「いや、そのままで……俺が行ってくるよ」
 立ち上がろうとする馬超殿を留め、隣の部屋へ向かった。

 隣は孔明の執務室だ。先ほどまで居た馬岱殿の姿は既にない。もう出立してしまったらしい。孔明は、彼から預かった書簡を確かめているところだった。
「元直?」
「墨が切れてしまってね」
 墨壺を振って見せると、孔明は卓上の墨摺りを引っ張り出してくれた。場所を借り、しばらく墨をする。自然に、卓上に広げられた書簡が目に入った。馬岱殿が眠りから覚めた馬超殿に、毎朝言い聞かせる内容が書かれているらしいが、あまりに情報が多く眩暈がした。
「これを毎朝か……」
「ほぼ、人物についての記述ですがね」
 事柄については覚えているけれど、先か後か、順番がわからなくなっていることが多い。対して、人物についての記憶は損傷は激しい。蜀に帰順してから、顔と名前が一致している人物はほぼ居ない。劉備殿のことを思い出せない日も多いと聞く。
 よく顔を合わせる俺たちのことは、ぼんやりと覚えてきたようだ。思い出す糸口を与えれば、そこから記憶が引き出せる。
「馬岱殿のことは、傍に居るから忘れたことがないのかもしれないと言っていました」
「……明日の朝が少し怖くなってきたよ」
「彼のことを忘れさせないよう努めるのが、私たちのお仕事です」
 孔明は、卓上に広げていた書簡を仕舞い込む。一部、目を通していないものを懐に忍ばせた。そちらは、あまり見られたくない情報らしい。誰にでも知られたくないことはあるが、その記録を取られているというのも気の毒なことだ。
 地形の情報は、後で間諜の部門で持っている情報とすりあわせ確認することになる。それまでは、ひたすら馬超殿の持つ情報を聞き出すことになりそうだ。
「……ええと、その、これは個人的に思ったことなんだけど」
 墨をする手を止めて、孔明を伺う。作業とは関係ない、俺個人の考えだ。孔明はちらと目配せして、筆を置く。話を聞く姿勢だ。
「馬超殿は、いっそ忘れたいと思っている、のかなと……」
「親兄弟や妻のことを?」
「いや、いや、そうじゃなくて……」
 俺は孔明や士元と比べると、口下手だ。自分の考えを、上手く相手に伝えることが出来ない。それを伝えたかったんじゃない、と言う俺の声を隣の部屋から聞こえた物音が遮った。扉に何かがぶつかったような。
 孔明と一瞬目を合わせ、執務室を出る。廊下を早歩きに去る人影が一つあった。風体からして文官のようだ。顔に見覚えがある。隣の部屋には馬超殿一人、文官の彼が武官である馬超殿に何の用事があったというのか。
 中を覗くと、馬超殿が口元に手を当て何か考え事をしている。俺の姿に気付くと、助かったとばかりに顔をほころばせた。その表情に、信頼されていると感じる。何だかこそばゆいが、明日には忘れてしまうのだから難儀なことだ。逆に言えば、忘れてしまうからこそ疑うことをせず、素直に信頼できるのかもしれない。
「徐庶殿、一つ聞いてもいいだろうか?」
「ええ、俺でわかることであれば」
「この国は、誰が治めている?」
 俺の後ろにいる孔明が、きつい視線を馬超殿に送っている。
「ええと、……劉玄徳、という方だけど……馬超殿はお会いしたことがあった、はず」
 劉玄徳、と一言呟き、俯く。毎日接触を持っている俺たちならまだしも、一度や二度の劉備殿のことを思い出すのは難しいようだ。
「先ほど、彭ヨウという男が来て」
 名前を聞いて思い出す。あまりに傲慢な態度で、疎んじられている男ではなかったか。あまり良い話ではなさそうだと雰囲気で理解する。背後の孔明にいたっては、刺々しい気を放っている。俺ではなく、彭ヨウに向けてほしいものだ。
「俺とその男でこの国を支える約束をしたというのだ」
 国の内側を彭ヨウが、国の外側を馬超殿が。劉備殿への謀反とも取れる発言だ。詭弁かもしれないが、放っておくのは得策ではない。
「そのような約束を、昨日の俺か、一昨日の俺か、もっと前の俺が……したのだろうか」
「そのようお約束を、彭ヨウ殿とあなたはしていません」
 孔明が一歩前に出る。代わりに俺は半歩下がり、二人のやり取りを見守ることにした。口下手な俺が説明するより、孔明がしたほうがわかりやすい。
「……馬超殿がいつ、どこで、誰とどのようなお約束をしたかは我々が控えておりますので」
 懐に忍ばせていた書簡を、馬超殿に渡す。それも馬岱殿から託されたものの一つだ。彼はそれを開いて目を通し、確かに彭ヨウとの約束がないと言った。口約束で出来る行動ではないし、何より降ったばかりの馬超殿の立場も危なくなる。
「こうでもしなければ、俺は己のことがわからないのか」
「仕方がない、……病なのだから」
「今こうしていたことも、寝たら忘れてしまうのだろう?」
「ええ」
 馬超殿は書簡を丸め、孔明に手渡す。それから卓上の地図へ視線を落とし、指先でそれをなぞった。自分のことを言うのは気が引けるのだがと前置きをして、溜め息をつく。
「難儀だな」
 俺たちはその言葉にただ、立ち尽くすことしかできなかった。

 


ふたり

 その情報が入ってきたのは、風の冷たさがやわらいできたある日のことだった。
 曹操が死んだ。
 魏に潜ませていた間諜から曹操の体調が思わしくないという報告があったことは、諸葛亮殿から聞いている。彼に確かめなければ、と思う前に若の執務室に向かっていた。俺の耳に届くくらいだから、若にも届いているかもしれない。今日は比較的落ち着いていたけれど、一族の仇である曹操が死んだと聞いたらどうなるか。何となく嫌な予感があった。
「若、入るよ」
 執務室の扉を開けると、若は窓際に立ち尽くしていた。後ろ姿だから表情はわからない。まだ耳に入っていないのかもしれない、と安堵したのは一瞬だった。
 俺に気付いた若が振り返る。その顔に、表情らしい表情がない。淀んだ目といい、いつもの彼とは様子が全く違う。
「曹操が死んだ」
 人間、感情が飽和すると表情がなくなるのだと知る。どの顔をしていいのかわからないのだろう。最初に、目に光が戻る。その目を見るだけで感情が破裂しそうなのは、痛いくらい伝わってきた。言葉を発する前に、唇が戦慄く。
「若、落ち着いて」
「落ち着け? 何を言っている、俺は、仇を討たねばならなかったのに」
 若の大きな声に、控えていた文官が顔を覗かせる。位の高い人間が動揺するところは、下の者にとって大きな衝撃を与えてしまう。波紋は徐々に大きくなって、兵を不安にする。基盤が落ち着いてきた今、それは避けたかった。
「……っ、しばらくこの辺に人が近寄らないようにして」
 ただならない雰囲気に飲まれたらしい彼は、何度も頷き若の執務室を飛び出す。その間も、若はうわ言のように、何度も父上と繰り返していた。それを見て、俺の背筋も冷える。これも眠ったら忘れてしまうのだろうか。今すぐ眠らせた方が、若にとって良いのではないだろうか。
「復讐を果たせずにのうのうと、俺は何を」
 俯き、肩を震わせる。両手で顔を覆った。そのまま緩く頭を横に振る。感情が言葉にならず、内に渦巻いている。置き場がないのだろう。
 それを見ながら、何も言えなかった。
 曹操のことを忘れたことはなかったけれど、同時に俺は蜀軍の将になっていたのだ。若がいるから、俺は蜀軍の将になった。組織にとって有用になるよう動き、若を支えるためにここにいる。若の居場所を作るために、若が曹操の首を取る機会を作るために、復讐を果たすために。
 曹操の死で、全てが無に帰す。
 復讐を果たす相手がいなくなってしまったのだから当然と言えば当然だ。若はずっと、復讐をすることを、己の正義を果たすことを、生きる支えにしてきたのだから。
「……馬岱、馬鉄や馬休は……どこへいったのだ、思い出せない」
「朝話したけど、忘れちゃった?」
 若が地べたにへたりこむ。俺の顔を見上げ、首を横に振る。金の髪が揺れ、目にかかる。それを厭わず、思い出せないとまた呟いた。
 記憶の混濁が始まっている。亡くなったことを思い出せなかったら、都度話している。そしてその度に悲しむ。今日だってそれをしたばかりだ。曹操の死が、若をまた大きく傷つける。
 違う。記憶を失った若を毎日、飽きもせず、傷つけているのは俺だ。
「馬騰様と一緒に殺されたよ」
「楊は」
「冀城で」
「俺は、」
 地についた手が拳を作る。拳は力なく床を叩く。
「屍の上に立って、なお、曹操の首が取れなかったというのか」
「若」
「復讐を果たせずに、俺は、そんなことも忘れて」
 直感的に、壊れてしまうと思った。
 記憶を失いながら、ここまで生きてきた。それがここで壊れてしまう。
 しゃがみ込んで若の手を握る。拳を解く。手のひらに、爪の跡がくっきりと残っていた。せめてこの感情を俺に向けてくれたら、まだまともでいられただろうか。
「俺は、俺の信ずる正義を貫いていれば、曹操の首へ手が届くと思っていた、思っていたのだ」
 言葉は次第に掠れ、消える。俺はその手を握りながらただ、黙って傍にいることしか出来ない。それ以上、どうすることも出来ない。例えばこのまま戦場に出て魏を討ち果たすことが出来たならそうしただろう。けれど、それも許されない。
「……俺の信ずる正義とはなんだったのだ」
「若」
 壊れちゃ駄目だよ、ねえ。
 それを言うべきかどうか迷って、結局言えずにいる。若には壊れそうな自覚すらないのだ。このままでいても、城内に騒ぎが広がってしまう。いつまでも人払いをしたままではいられない。立ち上がって、若の肩を軽く叩いた。顔を上げてもくれない。傷の深さを垣間見た気がした。
「……ここにいたら息がつまるよ、ちょっと外に出よう」
「ああ……」
 声が返ってきて、ほっとする。手を貸して、立ち上がらせる。若はじっと、俺の手を見ていた。
「顔でも洗ってさ、ちょっと気分変えようよ……」
「……そうしよう」
 覇気が全く感じられない若というのは、少し不気味だ。俺に手を引かれるまま、大人しくついてくる。何とかしなくちゃと思うたびに、胸の奥が軋む。どうやったら、今日だけでも若を救うことが出来るだろう。考えながら、城の外を目指した。

 とても仕事が出来る状況じゃないから、と厩の兵に伝言を託して城の近くにある水場に来た。外から見れば鬱蒼とし、不気味な森だがその内側には澄んだ泉を隠している。若の調子がいいときはよくここに来たけれど、近頃はご無沙汰だった。
「深いところあるから、入らないでね」
 若はじっと水面を眺め、指先を水につけている。そのまま水を掬う音が聞こえたから、顔を洗っているんだろう。その間に、馬を繋ぎに行く。少しその場を離れた。
 若の取り乱しようは、思ったより酷かった。記憶の混濁が酷く、厩に訪れてここは何処かと真面目な顔で俺に聞くものだからぞっとした。このまま正気を失ってしまうのかと思うと、俺まで恐怖で震える。全ての原因は曹操にある。なのに、もうこの手で奴を殺すことも叶わない。
 背後から、水音。
 何か、重たいものが水中に落ちた音だ。そう、人が飛び込むとこんな音がする。嫌な考えが頭をよぎる。まさか、と思いながら泉へ走った。
 そこに居てほしいと思った人が、いない。水面に広がる波紋の先に、若が見えた。
「若ッ!」
 後を追って泉に入る。雪解け水がどこかから来ているのだろう、恐ろしく冷たい。水をかいて泳ぎ、若の背にすぐ追いつく。その先へ進もうとする彼を羽交い絞めにし、陸の方へ一歩引いた。泉の中には深い箇所がいくつかある。俺や若でも足を取られれば溺れてしまうほどに。
「離せ、岱!」
 若は俺の腕の中で暴れ、もがく。それでも離すわけにはいかなかった。水中で思うように動けないせいもあって、若は俺に引きずられていく。上体が水面から出て、やっと腕を振り払われた。振り返り、きつく睨まれる。あまりの迫力に押されてしまう。けれど、若を失いたくない。再び水の中に進もうとするのを止めるために、帯を掴んで引いた。
「復讐も果たせず、己の正義を貫くことも叶わないまま、俺に生きろというのか」
 言葉に詰まる。痛々しい姿に、今にも泣き出しそうな声音に、鼻の奥がつんと痛んだ。錦、と呼ばれた姿は今ここにない。
 記憶が朧になっても、若は曹操へ復讐するという目的だけは持ち続けていた。正義を確かめるといいながら、その機会をずっと待ってきた。それがもう出来なくなったのなら、と自暴自棄になる気持ちがわからないわけではない。
 こんなこと、俺は若に言いたくなかったのに。
「俺を置いてくっていうの?」
 若は俺を見て目を丸くしている。彼の肩を強く握った。目を覗き込む。琥珀色の瞳に、俺が映り込んでいる。
「死んじゃ駄目だよ、ねえ、俺と一緒に生きてよ」
 肩を握る手に、力が籠もる。
 俺がこれまで生きてきたのは若のためだ。
 負け続けても、他人の下に付き従って戦うことになっても、その全ては、若のため。若が生きていてさえくれればいい。若を生かすことだけが俺に残された生きる理由だった。曹操への復讐だとか、一族の再興なんてのは二の次で、俺は今も昔も若がすべてだ。
「……若が死んだら、俺は一人になっちゃうしさ」
 俺は若にとって生きる理由にならないのだと思うと、悲しかった。俺と共に生きるより、曹操と共に死ぬことを選ぶなんて、許せなかった。
 それが若の心を殺すことになっても。
「……馬岱」
 若からおずおずと伸ばされる手は冷たい。
「俺は、お前を生きる理由にしてもいいのだろうか、お前だけに寄りかかっても」
「いいに決まってるじゃない、だって俺たち二人っきりなんだから」
 復讐を果たすことだけが、若の生きる理由だった。
 俺は若を生かすことだけが、生きる理由だった。
 若が倒れそうになったなら、俺が支えればいい。俺を頼ってくれればいい。
 だって俺たちは、たった二人の家族なんだから。
 伸ばされた手を引いて、強く抱きしめる。ここにある温もりだけが、俺の、俺たちの、生きる理由になる。耳元で、若が小さく咳をした。

 


終幕

「馬超殿のことは、……残念でした」
「ああ、……気を遣わせてごめんね」
 馬岱殿は、少し掠れた声で言う。笑顔が作れなくてごめん、と繰り返す彼に胸が痛む。
 彼が遠征に出ている最中のことだった。春先から体調を崩していた馬超殿が、ついに帰らぬ人になったのは。早馬がそれを知らせ、彼はそれでも軍に付き従った。
「せめて最後くらい、傍にいてあげたかったけど」
「……申し訳ありません」
「ああっやめてよ、俺あんたを責めてるんじゃないんだから」
 明るく振る舞う様子がなおさら痛々しい。お前のせいだと言われた方がよっぽどましだった。聡い人だから、そんなことを言っても馬超殿が帰らぬことも理解してしまっている。
 外から、じいじいと虫の鳴く音がする。陣幕の中は少し蒸し暑いが、夜になってしまえば随分過ごしやすい季節になっていた。
「その代わりさ、ちょっと俺の話聞いてくんない?」
「お話、ですか」
「流石に他の人には出来ないよ、……いなくなったばかりの人の話なんて、さ」
 彼を遠征に選んだのは、私だ。与えた仕事をそつなくこなす彼は心強く、つい頼みごとをしてしまう。彼もそれを理解しているからやりやすい。実利主義であるところも馬が合った。
 降ってから、馬超殿を通し長く付き合っていたのもある。彼の上司としてではなく、友として出来ることはしてやりたいと思っていた。
「春に曹操が死んだ後から、若は記憶が飛ばなくなってね」
 馬岱殿は、穏やかに話し始める。
 あれだけ治るはずのないと思っていた病が良くなったこと。代わりとばかりに、別の病に冒されてしまったこと。身体が弱りながらも、治療のため奔走してくれたこと。それでもだめだったこと。
 死ぬなら死ぬで治療はいらない、と以前の彼なら言っただろう。曹操が死んだあとは、いかに生き、国に尽くすかを考えてくれた。騎兵を育てる術、自分の持つ馬術、それらを兵卒たちに下ろし、育てて貰えることがどれだけ有り難い存在だったか。結果として、無理をさせたのではと思っていた。彼の死は、私にとっても大きかった。
「でも、若がもう苦しくないならって思ってるんだ」
「……長く、苦労なさいましたね」
「ねえ、諸葛亮殿」
 馬岱殿はじっと、私の目を見つめる。彼の薄灰色の瞳に自分の姿が映っていた。見るたびに、吸いこまれてしまいそうだと思う。
「これからすごく忙しくなると思うんだ」
 馬岱殿の声は弾んでいる。たった一人の身内を亡くした後とは、思えないほどに。
 違和感を抱いた。
「でもあんたはもう手一杯でしょ」
 事実、国の政治と軍事は膨れ上がっていた。元直と士元の手を借りても、足りない。誰の手でも借りたかったが、信頼のおける人物は少ない。人材が見つかるまで待つなんて悠長なことが出来る程、蜀には余裕がない。八方ふさがりだった。
「……俺を使ってよ、例えば邪魔なものを片付けるとかさ」
 そこに、先ほどまでの痛々しさは無い。違和感の正体は、まだわからない。彼の笑顔がここまでうすら寒く見えたのは初めてだ。
「俺は諸葛亮殿のやり口、よおくわかってる方だと思いますよ?」
 違和感の正体に、やっと気付く。閃きに近い気付きだった。
 彼は馬超殿を生かすことを、自分の生きる理由にしていた。若のためなら誇りでもなんでも捨てる、どんなことでもやると言ったことは二度や三度ではない。健気なことだと思っていたが、あれは。
 何か理由が、目的が、欲しいのだ。
 その対象がこちらに向いただけのことだ。もしこの国が豊かであったなら、もしこの国に余裕があったなら、彼の傷も癒やすことが出来ただろう。それを嘆いても、仕方がない。身体をどうしようもない疲労感が襲う。肩が重い。
「馬岱殿」
 彼は、朗らかに笑った。

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