【WEB再録】夢の中にいる(16/01 発行)
じぐ蔵との一件のあと、彼の持つ劇団のチケットを手に入れたカラ松が十四松をさそって見に行く話。十四松がよくしゃべる。
※一部創作設定を付与しています。
※平成アニメおそ松くんのエピソードネタが多少含まれます。(見ていなくても大丈夫な程度)
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チェーンソーを握っていた手で白い封筒を手渡された。真っ白い封筒の宛名には俺の名前があって、劇団の名前と公演のタイトルに劇場の場所が印刷されている。
封筒の裏には薄茶色の汚れがこびりついていて、指でこすっても落ちない。その汚れが茶渋やコーヒーの飛沫でもなく、錆びから移ったことを俺は知っている。
つい先日のこと。演劇部に所属していた頃に仕掛けた些細ないたずらが兄弟全員を巻き込み、まるでホラー映画のような事態に発展した。
一松と俺、それに十四松はおそ松を探していると聞き、おそ松は十年前に演劇部に所属していた六つ子への恨みがあると言われたのだと俺を詰めた。生憎、演劇部に所属していた松なんて俺しかいない。
どこで恨みを買ったんだよお、と楽しげに絡むおそ松は捨て置き、思い出そうと頭を捻るが全く心当たりが思い浮かばない。そもそも十年も前のことなんてろくに覚えちゃいないのだから、気の毒だが忘れてくれたほうがいい気がする。
俺が狙われているとわかった以上、なるべく家から出ないよう気をつけていた。だが就寝中を襲われあっさり捕まり、再びチェーンソーと対峙してしまった。薄暗く湿っぽい部屋。拘束された手足。目前に立つ男。黄色のチェーンソー。視線が泳ぐ。泳がないわけがない。
十年前の恨み。そう言って振りかぶられたチェーンソーを前に、あれは俺の提案ではなくてトド松なのだと言うのが精一杯だった。
ややこしい、と荒れ狂うチェーンソーを前に、たどたどしく話を聞いてくれと続ける。
十年前の、台本に挟んだ鳥の糞というのは、言われるまで思い出せなかったがそれに至るまでのことはすぐに思い出せた。正しく言えば、挟んだのではない。たまたま台本に落ちただけだったのだ。
あの日、台本は配られたばかりで、製本すらされていないゼムクリップで留めたままの紙束だった。各自読んでおくように、と部室に詰んであった一部を持ち帰り、土手でトド松を相手にぽつぽつと台詞を追っていたらそれが落ちてきてしまったのだ。
役が貰えるかどうかもわからない台本にそれである。無くしたことにして予備を貰おうとした俺に大使、トド松は何事もないようにそれをぱたんと閉じて、取り替えてしまえばいいんじゃない、と言った。
幸い部室にまだまっさらな台本は積まれたままであったし、残っているということはまだ全員に渡っていない。であれば、すり替えてしまってもわからないだろう。
俺の罪は、それを受け入れて、その台本誰を入れ替えたことだ。あれを戻そうと言うトド松は豪胆だなあ、と思ったくらいで、それがまさか十年後に問題になるなんて思ってもいなかった。
彼は一言、そうだったのかと言った。その後、居心地悪そうに頭を掻く。恨みを晴らして終わりのつもりが、原因自体が偶然の産物であり、提案をしたのが別の松とあっては恨みの持って行き所がないだろう。
その居心地の悪さを解消するように渡されたのが、件の白い封筒である。トド松と間違えられた十四松がチェーンソーと激闘を繰り広げて事態は収束したが、これだけは手元に残ってしまった。
封筒には二枚のチケットが入っていて、明日の公演であることを示している。これを誰に手渡すべきか考えていた。
話の筋からして、トド松と行くべきなのではないか。いや、おそ松が最初に誤解されていたし、おそ松だろうか。チョロ松は今回の件と一切関わりがないからやめておこう。一松はそもそも、人のいる場所がそこまで好きではないし誘いづらい。
十四松は、どうだろうか。彼に最後にあったのは十四松だ。トド松じゃないけど襲われたものだからチェーンソーの電源をもいで拳でなんとかしたらしいことはわかっているのだが、どんな会話をしたのかまで俺は知らない。それと、何をしでかすかわからない兄弟が、どういう感想を言うか気になった。
行き先の決まったチケットを封筒に戻し、それをポケットにねじ込んで二階へ上がる。夕暮れに差し掛かる頃、十四松は屋根の上に登っていることが多い。
「いるか、兄弟」
声をかけながら戸を開ける。部屋の中にいたのは、一松が家の中にご招待した鯖柄の猫だけだった。開け放たれた窓を見るに、屋根で間違いなさそうだ。
ベランダの手すりを足がかりにして屋根に登る。予想通り十四松はそこにいて、色の変わっていく空を見上げていた。膝の上にあるノートは俺と兄弟のもので、六つ子の歌やら夕飯の歌やらが書き込まれている。新しいページが開かれているあたり、新作を考えていたようだ。
「うた、できたか?」
「エイイセイサクチュー!」
隣に座ってノートを覗き込む。文字と文字が繋がった、ところどころ丸く角張った文字はパッと見では読めない。
「完成をお楽しみに!」
文字を追いかけようとしたら、呆気なくノートを閉じられてしまった。どうやらとっておきらしい。にんまりと笑えば、それ以上の笑顔が返ってくる。
二人で適当な歌を作って歌うのが俺は結構気に入っている。十四松が先導してくれ、俺はただ弦を押さえて弾くだけでよいのが気楽でいい。何より、十四松は楽しそうに歌うのが気持ちいい。
「んで、兄さん、用事? もう夕飯?」
「ああいや……俺も、夕焼けの色を見に来たのさ」
どう切りだしたものかな、と思いながらチケットの所在を考えている。いかないか、と言えば十四松は断らないと思う。ただ、きっかけがきっかけだけに、言い出しづらい。
「今日はねえ、黄色から青だよ!」
十四松は長い袖で空を指差す。日はとっくに沈んでいて、黄金のような薄い黄が、淡い青に徐々に染まっていこうとしているところだった。ミステリアスだな、と言えばそういうのじゃないよと軽く訂正される。違うらしい。
「兄さん、そういえば明後日ひま?」
舞台は明日。明後日は街で待っているカラ松ガールのために外出するつもりだったくらいで、予定はない。
「野球しよ、人の球打ちたいんだあ!」
兄弟の頼みだ、予定を空けるくらい簡単なものだ。良いとも、と頷きながら封筒の存在を思い出す。聞くならまさに今。チャンスである。
「十四松、明日は空いているか」
兄弟の目が丸くなる。俺からこうして兄弟を誘うのは、中々レアケースだ。気を使わせるのが面倒だし、誘って断られたあとの空気は居心地が悪いからあまりしない。
「舞台見にいかないか、チケットが一枚余っててな」
ポケットに忍ばせていた封筒を空け、チケットを一枚差し出す。直接受け取ることはせず、それをじっと見つめてから顔を上げ、俺の目を覗き込むものだからどきりとさせられた。不快だっただろうか。ただ誘うだけなのに心臓がやけにうるさい。めったにしないことをしている緊張のせいだ。そういうことにして欲しい。
丸い目が細くなって、十四松はいいよと一言いった。差し出したチケットは黄色の袖の中に引っ込み、楽しみだねえという柔らかな声にほっと息を吐く。空の色は、既に紺色の夜に変わっていた。
封筒にあった劇場を調べ、最寄りの駅で降りたのは開場時間より少し早い時間だ。徒歩十分ほどの小さい劇場だから、開演までには到着できるだろう。
夜からの公演だ。駅前はこれから飲みますとばかりに待ち合わせをしている人たちと、それらをどう捕まえてやろうかというキャッチでそこそこ混雑している。
「兄さん、どっち?」
きょろきょろと当たりを見回す兄弟の首には、ショッキングピンクの派手なマフラーが巻かれている。トド松から借りたらしい。これなら迷子になってもすぐ見つけられそうだ。
「こっち口から出て、銀行を右に……」
「わかった!」
十四松は俺の手をがっしりと掴み、人ごみに真っ向から向かっていく。その勢いで人混みが真っ二つに割れた。
「十四松、早い、走ると危ないっ」
「だいじょーぶ! 兄さんの手は離さないから!」
言葉通り、手はがっしりとつかまれたままだったのだが、周りの人にガンガン当たる。すまない子猫ちゃんたち。すまない迷える子羊たち。ぎょっとした視線を背中に浴びながらも何とか人波を渡り終え、ついに広場を抜けた。
十四松が振り返って、俺の手をぱっと離す。信号は目前だ。青信号が点滅したのを見て足を止めると、隣に並んだ十四松が小さく笑う。
「たのしみ!」
どうもはしゃいでいたらしい。ご機嫌ににこにこと笑われると、突然走ったら危ないとか、そういうのは言う気がなくなってしまう。これは後でしっかり注意しよう。
「俺も楽しみだ!」
入手したきっかけがきっかけだけに、純粋に楽しみなだけではなかったが、ただ楽しむくらいで行くのが良いのかもしれない。舞台は何も悪くないし、むしろ悪いのは過去の俺なのだから。全く罪深き人生だ。
細い路地に入り、駅前というより住宅街といった様子が強くなる。住宅地の中にある建物らしく、近隣への騒音を配慮して静かに来るよう注意書きがあった。
「ここからは、静かにな」
唇に人差し指を立てて添えれば、十四松はツナギのジッパーを口元まで閉めて、きりりと眉をつり上げ神妙に頷く。妙にしっかりした様子がおかしくて笑いを噛み殺した。
何人か同じ方向に向かう人がいると、もしかしてあの人も見に行くのだろうかどどこか浮かれたような気持ちになりながら、無事についた。こぢんまりとした建物である。入り口に人が立っていて、俺たちを見るや内緒話をするようにそっと手招きをしてくれた。
十四松と顔を見合わせる。無くしたら怖いから、と電車に乗り込む前に預かったチケットを渡してやり、先にいっていいと背中を叩いた。受け取って、何故か神妙にチケットを見つめている。
「卒業式」
小さく呟かれた舞台のタイトルに、俺は一度頷いて先に歩き出す。手招きをしてくれたスタッフらしき人物にそれを見せれば、半券が切られて建物の内部へ案内された。十四松も少し遅れて、俺の後ろに並ぶ。
「足元、薄暗いから注意しろよ」
兄弟を気遣い、地下へ続く階段を下りていく。わっせ、わっせ、と小声がついてくるのがすこし楽しい。
階段を降りると、そのまま劇場が広がる。劇場とは言っても、舞台と客席が五十もない小規模なものだ。十四松は感嘆の声を上げ、舞台と客席とをせわしなく見ている。
「兄さん、兄さん、こんなに近いんだねえ」
「え、ああ……小さい場所だからな、本当に目と鼻の先だ」
学校で見た課外学習みたいなのと兄さんの都大会見に行ったくらいだから初めて、と言う十四松は劇場の観察に忙しいのか、足を止めたまま動かない。
そういえば都大会に出たのを、兄弟全員が見に来たこともあった。懐かしい。緊張で喉が渇いて、けれど水を飲んで手洗いが近くなっても困るし、結局何も出来ずからからの喉で舞台の幕が上がったのをよく覚えている。
半地下の劇場は暖房が効いていて、暖められた空気と外気が混じってぬるい空間になっている。
中にはまばらに人が入っていた。一人で来ている人もいれば、友達同士で来たらしい人たちもいる。囁くような話し声の間を縫って、半券にあった席へ向かった。後列の中央に当たりで、舞台全体がよく見えるいい席だ。
椅子の上に、簡単なあらすじと出演する役者の一覧が印刷された紙とチラシが乗っている。十四松の席にあったそれも一緒に取り、ひざの上に乗せた。
「チラシがいっぱい」
「ん、見るか?」
チラシを差し出すと、小さく横に首を振られる。必要ないらしい。チラシをぱらぱらとめくっていく。このチラシは並べる順番が決まっているから案外準備が大変なのだとか聞いたことがある。
「どんなお話?」
「……原作がピーターパンらしい」
チラシを束ねていた公演の概要が書かれたそれは、簡単なあらすじが載っている。小声で十四松に読み聞かせているうちに、ブザーが鳴った。
袖から一人、青年が現れる。公演に際しての注意を述べるその声には聞き覚えがあった。ちらと横目で十四松の様子を伺う。同じく気がついたらしい弟は、俺の耳元にそっと唇を寄せた。
「今日は、チェーンソー持ってないね」
「仮面も被っていないな」
ひそひそと囁き、今日は危害を加えられることはなさそうだという確信を得てからジャケットに入れっぱなしの携帯の電源を落とした。彼の舞台を、二度も台無しにするのは避けたかったから。
「あ、おれ、ケータイ忘れちゃった」
十四松はポケットを叩き、目的のものがないと膝の上で手をぱたぱたと踊らせた。ないならないでいい、観劇中のマナーモードは必須だ。
青年が袖に消える。客席にはいくつか空席が見えるが、殆どに人が居た。二度目のブザー。落ちる照明、鳴り始めた音楽が徐々に大きくなり、俺は舞台をまっすぐに見つめる。
楽しみだねえ、ともう一度十四松が言った。それに頷きながら口元に人差し指を当てると十四松も真似をして人差し指を唇に添えた。舞台の幕が上がる。
客席に、拍手の残響がまだ残っている。十四松は興奮気味に手を叩き、面白かったねえ、楽しかったねえ、としきりに俺に報告してくれる。せっかくきたのにダメだったねえ、なんて結果にならなくて良かった。
「挨拶してくの、にィさん」
「いや、忙しいだろうからやめよう」
ざわざわと人の声が生まれだし、アンケートにペンを走らせる音がする。俺も何か書こうかとアンケート用紙を見つめるが、何を書くべきかは思いつかなかった。白紙のそれをそっと椅子の上に置き、席を立つ。
「おれ、あそこすき、何の意味もなく労働させられてるところ」
「いわゆるブラックワーキングってやつだな」
ぼそぼそと感想を話しながら、階段を登る。ロビーで受付をしてくれた人に軽く頭を下げて、劇場を後にした。駅に向かって歩き出す。携帯の電源を入れ直しつつ時間を確かめれば、家ではとっくに夕飯が終わっている時刻を示していた。
十四松が思いの外気に入ったようで、目をきらきらと輝かせながら、あそこが好きだった、面白かったと繰り返している。身を寄せ合って小声で囁きあうのは内緒話をしているみたいで、俺も楽しい。
ピーターパンは子供から大人になり、フック船長という新しい仕事に着かねばならないと永遠のライバルであった元フック船長に宣言される。一緒にネバーランドを冒険したウェンディも大人になり、とっくに子供を卒業してしまっていた。話は二転三転、ネバーランドを巻き込みごたごたと騒ぎは続き、次のピーターは誰だろうねえ、なんてどこか寂しさのあるエンディングを迎える。
卒業と言うのは、子供から大人への卒業という意味でのタイトルだったのだろうか。それだけ、聞けばよかったかもしれない。変わらなくてはいけないという焦りを吐露するピーターが俺とあまり変わらない年頃に見えて、なるほどこの年代にはそういう焦りがあるのかもしれないと気づく。生憎俺はこの生活を謳歌しているので、そこまで変わろうとは思わないのだが。
足早に駅まで戻り、改札を抜けて電車に飛び乗る。平日の夜、そこそこ混雑した電車からは酒の匂いと、くたびれた人間がぎゅうぎゅう詰めだ。
電車に揺られながら、まだ十四松の感想は続く。案外楽しんでくれたんだな、と思うと嬉しい。誘ってよかったと再びほっとする。
「おまじない、可愛かったね」
「ウェンディの?」
「そう、夢が叶うっていうの! おれもできるかな」
唇をつまんで、ちょんちょんとつつく。子供に戻りたいというピーターの夢が叶うようにウェンディがしたおまじないだ。子供騙しだねえ、と拗ねるピーターにそんなだから大人になっちゃったんじゃないとさし返すウェンディの物言いは厳しい。残念ながら夢は叶わなかったわけだ。
おまじないなんて気休めさと鼻で笑われたそれを試そうというのは風刺めいているような気がしたが、新しい文化を真似したがっているだけだろう。
「ブラザー、まず夢があるか聞いてからだな」
ビッグなレジェンドと叫ぶおそ松が十四松にホールドされる未来が見えて、くつくつと笑いを噛み殺す。そういう意味で期待を裏切らない兄だから愉快だ。
赤塚台、赤塚台というアナウンスに慌てて吊り輪から手を離し、駆け下りる。うっかり降りられないと遠回りになってしまって面倒この上ない。
「家帰る前に、よりたいところある!」
「誘われているな、何かに」
「公園!」
兄弟は既に俺の手をひっぱって走り出している。まだ改札の中なんだけど、と言う暇もない。自動改札に行く手を阻まれた十四松に切符を渡しながら密やかに笑っていたのは秘密だ。改札を出たら、ふたたびがっしりと手を掴まれて有無を言わさず走らされて、公園までの道のりを延々走る。
大きな公園は家と反対方向にある。昼間は小さな子供たちの遊び場で、夜が近づくにつきランニングコースになり、周りに建物が少ないから夜空もばっちり見えるロケーションということで仲睦まじい男女も多い。近頃は寒いから、日が沈んだら人なんて殆どいない。
「じゅ、しまつ、はやいなあ!」
片腕を引っ張られながら走るというのは、自分のペースで足を動かしているわけではないからバランスが取りづらい。しかも十四松の足は兄弟の中でも飛び切り早いのだ、転ばないようにするのが精一杯で、息も上がってしまっている。
「担いだほうが早いね!」
情けないと思うより先、急に止まった兄弟は引っ張っていた手を離して俺の身体をがっしり両手で抱き上げ、俵を抱えるように軽く肩に乗せた。
「えっ」
「走るよぉ!」
やめて待って怖い下ろして! 残念ながら俺の悲痛な叫びは、十四松がぐんぐんスピードを上げることで風に流され、公園に到着するまで全く相手にされることはなかった。
「ご利用ありやとーございましたっ!」
急ブレーキ、急発進、急カーブ、急発進を経てたどり着いた公園はどこか遠い世界のように揺らめいて見える。街灯の明かりと地面がぶれぶれだ。酔った。どう考えても三半規管がまともに働いていない。
「おれもー、ブランコでー、空飛ぶー!」
十四松は既に遊具に走っている。元気だ。回る視界に足をよたつかせながら、ゆっくりとその後を追いかけた。
昔は空を飛べたのに、今はブランコからジャンプするくらいしか出来ない。ピーターの悲壮な声が耳に蘇る。飛べないのを見たのに、飛ぶつもりなのが十四松の前向きなところだ。そのポジティブシンキングに花丸をつけたい。
「ブラザー、どっちが早く天につくか競争だな」
立ち漕ぎを始めた弟を見ながらブランコに座る。さすがにこんなにふらふらな状態で立ち漕ぎは出来なかった。座面はちょっとじゃりじゃりしている。
大人の体で思い切り漕ぐと、ブランコは奇妙な金属音で鳴く。加減しろといっても十四松は空を飛ぶつもりだから止めようもない。俺も座ったままで漕ぎ出し、徐々に勢いがついていく。
「ピーターパンも、大人になっちゃうんだねえ、僕らっておとな?」
「年はなー」
「夢の国にはいけないねえ」
大人二人を乗せて、ぎいぎい、と金属が鳴く音にノスタルジーな気分にさせられる。六人で遊びに行くと遊具に乗り切れないから、自然と空き地で遊ぶようになったっけ。その頃から野球はしていたなあ、次はサッカーで、他にはどんな遊びをしていたかぼんやり思考を飛ばす。
一際大きくブランコがゆれて、立ち漕ぎの勢いのまま黄色が飛んで行く。飛んだ。ざり、と地面を擦る音。ぴんとした指先、まっすぐ伸びた背筋。見事な着地に、俺はブランコを漕ぎながら拍手を送った。
じじじ、とツナギのジッパーを上まで上げながら戻ってきて、今度はブランコに座る。寒くなって来たらしい。
「おれの夢は叶ってるから、まー上々だけど!」
夢の国にはいけなくても全然大丈夫、と言って勢いよく漕ぎ出した。ちらと横目で十四松を見る。気づけばトド松に借りたピンクのマフラーがない。忘れたな、と思ったがいつからないのかは思い出せなかった。
「夢って、なんだ?」
ブランコを漕ぐ勢いのまま尋ねてみた。勢いがついて、結構高くまで登るようになってきた。空がよく見える。それとぴかぴかに磨いた革靴のつま先も。地面に戻り、隣のブランコとすれ違う一瞬に視線を送った。言いづらいのか、ブランコの鎖を掴みながらじっと地面を見ている。
漕ぐのをやめた。徐々にスピードが落ちるまでの間、十四松は黙っていて、ぎいぎいと金属の音だけが俺たちの間にあった。足でブレーキをかける。じゃりじゃりと靴が砂に塗れることなんて、些細なことだ。
「シークレットだったなら」
すまない。謝ろうとした俺の声にかぶせるように、十四松はまだ揺れている俺のブランコの鎖を掴んだ。
「みんなと一緒にいたいなって、ずっと」
おそ松も、カラ松も、チョロ松も、一松も、トド松も。それに父さんと母さんもいたら、ばっちり。百二十点。視線が泳ぐ。どこかシリアスな声音に、俺は返事も出来ない。
「昔さ、父さんと母さん、いなくなったことがあったじゃない」
小学生のころだから随分昔の話だ。父さんの親戚だという子と、母さんの親戚だという子が、一週間だけうちで過ごしたことがある。父さんが一週間無断で会社を休んでいるとえらい人が心配してやってきて、はじめて二人の行方がわからないと判明した。
「もう皆とばらばらになっちゃうのかなあって思ったら、めっちゃ怖かったんスわ」
いるはずの父さんと母さんがいないというのは、問題児である自覚のあった俺たちにとって大きな事件だった。それがトラウマに育ったらしい。
「だからみんなで、ずっと一緒にいれたら、いいなって」
俯いていく弟の丸い頭を撫でてやる。恥ずかしい、と両手で顔を覆う仕草がいじらしくて、くしゃくしゃにしてやった。やめてえ、と震える声は笑い声だ。泣かせてはいない。俯いていた顔が上げられて、笑顔であることに胸をなでおろす。
「おれは夢の中にいるのかもしんない」
だから、おれが夢ん中でいられるようにずっとそばにいてね。続く言葉に、これが夢なら、目を覚ますタイミングはここだろうなあなんて考えながら、頷いてやる。いつもは照れるくらい俺の目を見て話す十四松が、照れのせいかそわそわと目を逸らしながら、ツナギの襟に隠れるように首を窄めていった。
「もちろん、兄弟だものな」
「にィさんは?」
「ふ、俺の夢は……秘密さ」
夢は、と問われるとなかなか難しい。人の役に立ちたいとか、世界平和とか、言葉が浮かんで消えるけど本当にそれが夢かといわれると首を傾げてしまう。強いて言えば、この生活が長く続くことだろうか。
人生は何が起きるかわからないし、終わってみなければハッピーエンドかどうかなんてわからない。そのときに後悔が少ないほうがよりハッピーな気がする。
舞台でピーターを演じていた彼を思い出す。チェーンソーは忘れがたいが、彼は過去を清算することで、今を取り戻したかったのかもしれない。十年前、台本の間に挟んであったそれによって引き起こされたことが人生に陰りを落としていたのだとしたら、という仮定の話だが。
「おまじないかけてあげる!」
ブランコが止まる。俺の乗ったブランコの鎖を引いて、ジャケットの胸倉を掴むように引き寄せてから額にちゅっとかわいらしい音が鳴った。
「叶うといいねえ!」
舞台ではウェンディからピーターパンに送られたそれだ。子供に戻りたいと願ったピーターの願いは叶わず、結果として大人になってしまったのだけど。
「そうだな」
返事をしながら、ツナギの袖をひいた。ぎいぎい音を立ててブランコがまた近づいて、十四松のかさついた唇に自分のそれを合わせている。
薄く目を開けると、丸い目と視線がぶつかってどちらからともなく笑いが漏れた。くすくすと笑いながらもう一度、二度と触れる熱は暖かで、これが夢でなく現実であることを教えてくれている。
「もうちょっと遊んでから帰るか」
「うん!」
もう一度飛ぶ、と言い出した十四松はブランコをぎいぎい言わせながら漕ぎ出した。
夜空を見上げる。星がよく見えるから、明日はおそらく晴れるだろう。野球日和になりそうで何よりだ。隣から、十四松の黄色いスリッポンがすっ飛んで空に吸い込まれていくのが見えた。ぽてんと地面に落ちる靴は表向きで、兄弟は明日晴れるよとご機嫌だ。
「明日もデートじゃん、楽しみ!」
悪戯っぽく笑って、片足とびで靴を取りに行く背中を見ながら、俺もまたブランコを漕ぎ出した。
何しろ俺の人生はまだ先が長く、終幕の時刻は決まっていない。それまでは夢の中にいるような、楽しい日々を送ったって良いじゃないか。
兄弟を真似て、革靴を飛ばした。十四松を越えて落ちたそれは、表を向いている。
「兄さん、明日、超晴れ!」
「太陽も祝福してくれているようだな!」
もちろん、十四松といて、つまらない不幸な日々になるわけがないとわかっているから、俺の夢だってとっくに叶っているのだ。