【WEB再録】えっちなおねぇさん(16/03 発行)
一、
僕こと、松野一松には秘密が三つある。
一つは、高校を卒業してから一向に定職に就くつもりがないことだ。毎日飽きもせず、気まぐれに路地裏の猫と戯れて日々過ごしている。
僕の中にある僅かな良心と世間体はそのうち働くと言っているのだが、それが実行されないことはとっくに家族にばれている。夕暮れになると兄か弟が路地裏を覗きに来たし、父とは会社帰りによく見かける猫はお前の知り合いかと話題になるくらいだ。
公になっている以上秘密とは言えないのだが、働くといった手前働きたくないという本音は秘密ということになっている。
二つ目。猫――僕の数少ない友人たちのために、小銭を稼ぐための手段を持っている。学生時代に採用されてから不定期に続いている数少ない僕の生活の一部だ。
パソコンを使った簡単な文章作成のお仕事なのだが、やっている内容は法的に限りなく黒に近いグレーの内容であるため、あまり口外しないように言われている。
特殊な事情の仕事であることは、長男と次男を除く兄弟にはばれているのだが、小遣いを稼ぐ手段に口出しはしないことが暗黙のルールになっている。何しろ、働いた結果手元に残る金をそれぞれ守るためにだ。秘密に数えてもいいはずだ。
最後、三つめ。社会の底辺である自覚がない、昼間にお日様を浴びて歩くことを何にも思っていない、何故か自信に溢れている六つ子の兄弟のうちひとり、カラ松の秘密を握っている。
時を少しさかのぼる。
高校二年生、六月。十七になったばかりで進学と就職と言う言葉が現実的になり始め、梅雨の雨がよりうっとうしかった頃のことだ。
しとしとと降り続く雨。いざ帰ろうと傘立てに突っ込んでいた己の傘を探すもどうも見当たらない。紫の猫のストラップを柄につけてすぐ見つけられるようにしていたのに、そもそも傘立ての中にその紫がないのだ。
ビニール傘はこれだからダメだ。舌打ちひとつ、他に持っていけそうな傘も見当たらないし、濡れて帰る以外の選択肢がなく諦めてそのまま校門を出た。
雨脚はそこまで強くない。濡れても冷たいというより温く、体が冷えないのはいいのだけど、どうも視線が刺さる。見ないようにしなきゃ、みたいな視線は逆に気遣われて辛い。気の毒そうな、それでいて関わりたくはないという視線に耐えかねて裏路地へ逃げ込んだ。
表通りと違って、裏には全く人がいない。天気のせいもあって猫一匹だって通りがからない。このあたりはどうもラブがつくホテルが多くて、日中の人通りはびっくりするほどないのだ。
ラブホテルの近くを通るときは何だか見てはいけない気がして、俯いて早足で通り抜ける。
軒から軒へ、人様の家の軒先やらビルの裏口やらを渡り歩く。雨脚は徐々に強くなっていく。さすがに、バケツをひっくり返したような雨の中に立ちすくむのはごめんだった。
雨宿りするにもホテルの玄関にあたる軒しかない。飛び込むしかないか、いやホテルに用事なんかない、彼女いない暦イコール年齢、これからできる予定もない僕には全く無関係の場所だ。クソ、何でこんな目に。誰だ僕の傘もっていったのは。
毒づいても雨脚は全く弱くならず、いっそ走ろうかと鞄を持ち直して顔を上げる。髪からしたたる雨がうっとうしく、垂れた髪を指先で除けた時、人影があることに気がついて反射的に電信柱に身を隠した。
ホテルの裏口に立つ人が一人いる。俯いて傘をさしているせいで、顔までは見えない。誰かを待っているのか、じっと佇んでいる。
それだけなら、お盛んなことでと更に毒づくだけで済む。足を止めたのは、傘の下の人物が見慣れた制服を着ていたからだ。学ランのボタンが安っぽい鈍色をしているから、すぐわかる。
学生服のままホテル。相手は恐らく年上、しかも財布に余裕がある。リアルが充実してますみたいな象徴に苦い気持ちになる。入ったの確認してから火でもつけてやろうかまで考えて、雨だからろくに燃えないという結論にたどり着く。
雨に感謝しろよと舌打ちひとつ、せめて顔を見てやろうと電信柱から出ようとしたところで俯いていた傘が持ち上がった。待ち合わせの相手が来たらしい。待たせて悪い、という有りがちな言葉。待ち合わせの相手は女じゃない、男だ。
その時点で不味いものを見たと目を逸らしかけて、傘の持ち主の顔が見えた。
本当は傘を見た時点で気付かないといけなかった。紫の猫のストラップが下がったビニール傘は僕のものだ。わかっていてその傘を持っていくなんて、兄弟だけだ。こんなところにいるわけがないって決め付けていたから気がつかなかった。
からまつ。
名前を呼びかけて、堪える。呼吸を止めて、徐々に早足になる。なるべく見ないように意識をして、そのまま逃げるように走った。
さっき表通りで僕を見ないように見ないようにしていた人たちの気持ちがわかる、気になるのに見ないっていうのは意識してやるからぎこちなくなるのだ。
――なんでカラ松がこんなところに、一緒に入っていった男は誰だよ、見たことない顔してた、笑っていた、柔らかくはにかんだその顔を僕は知らないぞ!
走る。泥が跳ねる。制服を洗わなくちゃいけない、そういうことを考えながら、一方では混乱のどん底につきおとされた僕がいた。
その晩、カラ松は、いつもより少し遅い時間に帰ってきた。傘借りた、という事後報告を添えてだ。
「遅かったじゃん、何してたの」
「部活の買い出しから衣装作成、試着までフルコース」
自然に嘘をつきやがった、こいつ。愕然としたことを覚えている。
嘘は僕だってつく。兄弟たちをいかに出し抜くかがこの家で生き抜く術なのだからしょうがないけど、ラブホテルって。しかも一緒にいた人、男だった。どこの誰だよ。まさか売春なんじゃないだろうな。自分の想像ながら寒気がして、それから心の奥底にずっと沈めている。
カラ松が嘘をついているのを知っているのは僕だけだ。
人の隠し事を知っている罪悪感と、ちょっとした好奇心でころりとそちらに目覚めたのは高校三年の冬。しかもカラ松の痴態まで夢に見て、どうやらカラ松が好きな自分を自覚させられて以降は特に自分がゴミクズのように思えて仕方がない。人の秘密を握って、勝手に空想して、空想に焦がれているのか現実に求めているのか。これを四つ目の秘密に数えるかどうかは考え中だ。
雨が降りそうな重たい雲の色が濃い日は、あの日を思い出して憂鬱になる。無論、小雨の降る今日だってそうだ。居間でひざを抱えて、兄弟たちの談笑を聞いている。
おそ松兄さんがとちゃぶ台をばん、と叩いて立ち上がる。この人はいつも唐突に行動を始める。
「今、めっちゃおでん食べたい気分になった」
すこし肌寒いから、何か温かいものが食べたくなったんだと思う。簡単な連想ゲームだ。
「チビ太んとこ行く人!」
五人がそれぞれ兄さんが見上げている。単に動くものを目で追ってしまう反射のようなものだけど、おそ松兄さんは視線が自分に集まるとにんまり笑う。
憂鬱な考えをぶった切るようなおそ松兄さんと、提案を断るはずもない他の兄弟に連れられて屋台になだれ込んだ。
飲み始めたのはいつだったか、すでに思い出せない。屋台は寝息に包まれて、主であるチビ太ですら座ったまま器用に寝こけていた。
むしゃくしゃして酒を飲んで途中で寝落ち、ガンガン痛む頭を宥めるように延々と水を飲み続ける僕だけがその寝息を聞いている。
カラ松が船をこいで、ぽてんと僕の肩に頭を預けた。丸い頭に手を伸ばして除けようとしたのだけど、眠たそうにしているから気が咎めてこの手は行き場をなくす。ざらりとパーカーに当たる髪は猫の毛並みよりはずいぶん固い。そっとその頭を撫でる。
「俺、見ちゃったんだよね」
なぜか、口をついて出た。ささやくような声。密着しているから、カラ松にだけ聞こえればいい程度の細い声。
カラ松は、何を、とか言わなかった。ただちらりと俺を見て、肩の上に頭を乗せたまま軽く息を吐いた。
「それと、ずっと、違うって思ってたんだけど」
これを言ったらやばいっていうのはわかってた。でも、出かかった言葉をいまさら引っ込めるなんてことも出来なくて、もういいやってあきらめた。言わないつもりだった言葉を口にするって、中々重たい。
「あんたが好きみたいでさ、ぼく」
いっちゃった。重たいと隠していたのに、心の奥底にしまっていたのに、外に出してみるとなんて軽い言葉だろう。それくらいのほうがいい、ゴミだから。燃えないゴミが覚悟なんか決めるべきじゃないんだ、もっと自分の気持ちを軽く扱ったほうがいい。大事にしようとするから、重たくなる。守らなきゃって思うほどの自分でもないくせに。
「忘れてくれていいよ、俺も見たこと忘れる」
「明日」
カラ松の突っ張った声が、結末を遮った。
「水族館行かないか? 早く起きてさ」
「は?」
肩の重さがなくなる。ゆらり、大きく揺れて水の入ったグラスを持って、一息に飲み干した。それから、兄弟たちの寝息から逃れるように、僕の耳元に唇を寄せる。
「ここじゃちょっと、全部話せない」
「なんで水族館なんだよ」
「……行きたいから」
ささやく声には僅かな緊張がにじんでいる。ダメか、と問うそれに、嫌だなんて言うわけがない。言えるわけがなかった。
二、
平日の水族館は人が少ない。気付けば通路に僕とカラ松しかいないなんて場面も多くて、昨日の今日だけに胃がぎゅっとするような沈黙に冷や汗をかいた。
クラゲがふわふわと浮かぶのを見るカラ松の横顔は、昨日のことなんて何でもなかったみたいにいつもどおりだ。一緒に家を出るときも、電車で隣に座っていたときも、ずっと普通だった。
順路どおりに歩きながら、魚のことなんか何にも頭に入ってこなかった。ただ、チンアナゴの群れはちょっとテンションが上がった。カラ松は苦手みたいだった。集合体が苦手っていうやつだ。
薄暗い深海魚ゾーンを抜けると、ドーム状のエリアに出る。アザラシとか、ペンギンとか、見た目にもわかりやすい可愛いものゾーンだ。
展示エリアの近く、カラ松が立ち止まってじっとペンギン型の看板を見つめていた。後ろから覗き込む。最初に目に飛び込んできた単語を、そのまま口にした。
「ペンギンの散歩」
「見たいな、ここを歩いていくんだと」
カラ松は足元のタイルを指差す。ペンギンの散歩ゾーンには鳥の足跡が点々と続いている。看板に書かれた時間まではあと三十分。広めに場所が取られたこのエリアは休憩とカフェエリアも兼ねているらしく、小さなカフェとソファーがまばらに置かれている。
「……三十分なら、なんか飲んで待ってようよ」
注文はカラ松に任せて、先に人が近くにいる席は避けた席を取る。知らない人しかいない場所とはいえ、これからする会話の内容を考えるとあまり人に聞かれても困ると考えてだ。偶然聞こえた人もきっと困るだろう、ほとんど同じ顔の二人の男が顔を突き合わせてするような話ではないのだから。
水族館の中は薄青の照明が揺れるように細工されていて、まるで水の中にいるみたいな錯覚を覚えた。
「コーヒーとジンジャーエール、どっちがいい?」
「生姜」
テーブルを挟んで座る。カラ松の手からジンジャーエールを受け取って、一口飲む。喉が渇いていた。
「それで、言わないといけないことなんだが」
やっと本題だ。コーヒーのマグにミルクが落ちてぐるぐる回っている。魚の飾りがついたスプーンを見ながら、ストローをかじった。
「断るだけなのに外に出るなんてロマン主義なの?」
十中八九断られると思って、苦々しい気持ちでいた。思い出なんていらないんだけどと付け足して、答えから逃げるように視線を逸らす。
展示ブースの裏側にあるこの席は、視線を逃がしたところで展示物の裏、通り過ぎていく魚たちしか見えやしない。僕は入場してからずっと、水族館なんてもう二度と来ないぐらいの覚悟はもう決めていた。
「断るなんて言ってないだろ」
どういうことなの、と問う僕の声は震えている。
「俺、元々そっちで、昔付き合ってた人もいる」
「……?」
豆腐の角で頭を殴られたのかと思った。当たり前に告げられた言葉は瞬間的な衝撃より、じわじわと驚きに変わっていく。本当に豆腐をぶつけられたとして、その豆腐が崩れて肌の上を滑り落ちていく感触で本当に豆腐の角で頭を殴られたことを自覚するように。
「お前の話?」
「うん、二年…くらい前だな?」
時期は大体合っている。あの六月の湿った空気もすぐに思い出せる。
「お前に見られたから、知ってるんだと思ってた」
知っていて何も言わないから安心してたんだけど、とまで言われるとあの日の自分に問い詰めろと教えてやりたくなった。
「クソ松、あの後嘘付いたろ」
「……ごめん」
カラ松は湯気の消えたコーヒーを口元に運ぶ。
謝って欲しいんじゃない。秘密は秘密としてずっと黙っていたこととか、お前のせいで色々調べて悶々とした時期があったとか、そういうことも言いたくない。言うべきじゃない。
気になったのは、あんなに柔らかな、緩みきった顔を見せる相手とは、とっくに終わっていたということだ。
「仲、良さそうだったのに……別れたんだ?」
「あの人は……似てたんだよな、一松に」
「何でそこで、僕が出てくるわけ……」
似てるから好きになったのか、彼が好きなのか、わからなくなって別れた。そういう風にすることを許してくれる大人だった。淡々とそう答える横顔が悲しそうでもなんでもなくて、それが逆に切ない気がした。
「昨日、好きだっていわれたとき、わかったんだ」
カラ松の手の中にあるマグカップは、もう殆ど入っていない。喉が渇いていたんだ、おそらくは緊張で。僕も同じ理由で、ジンジャーエールはとっくに氷だけになってしまっている。
「俺はずっとお前が好きだったんだな、お前がよかったんだ、一松に選ばれたかった」
はじめて見た。六つ子の兄弟として生まれて二十年、付かず離れず一緒に居て、はじめて見る顔があったことに驚いている。柔らかで、穏やかな顔だった。
「だからめちゃくちゃうれしいんだ、今」
それから笑う顔を見て、大事にしてやりたいとか、今すぐ抱きしめたいとか、何かしてやりたい衝動を我慢できるやつはいるだろうか。僕にはとても我慢できない。今だ、今こそやらなくちゃいけない。
勢いのまま手を握って、ぐいと引き寄せる。小さなテーブルだから、お互いぐっと前に乗り出すような形になってしまった。頬を撫でる手が震える。ドラマとか映画とかAVとか、そういうものしか知らない。
けど、童貞だってここは決めないとダメだってわかる。カラ松は照れたように笑ってから、黙って目を瞑った。わかってるとも言わないところが少し憎たらしい。
唇を寄せる一瞬だけ息を止める。はじめて重ねた唇は乾いていて、けれどやわらかくて、温かかった。
「……ふ、一松、顔……」
「うるせえよ、うるせえ、何も言うな」
顔が熱い。黙って手を離して、それからずっと俯くしかない。耳まで熱いのに、カラ松は余裕しゃくしゃくなのが本当に腹が立つ。
「何というか……本当にいいのか、色々」
「今更でしょ、家の中でそういうのはしないし」
氷しかないジンジャーエールのストローはとっくに平べったくなっている。それでも喉の渇きが尋常じゃなくて、溶けた氷の水分をもとめてまたかじる。
「こっちはずっと、我慢してたんだから」
「何から何まで全部?」
「何から何まで全部だよ! 言わせんなクソ松」
カラ松はすっかり冷えたコーヒーを飲み干して、クラッチバッグを持ち上げる。それから俺の手の平をちょんと突いて、鬱陶しいくらいのウィンクを決めた。
「じゃあ、俺がお前に色々教えるな」
何を教えてくれるのか期待して、僕の脳内で二つ目の豆腐が投げられたのは言うまでもない。
三、
知ってるとこあるから、というカラ松の言葉に甘えて引っ張られるままにつれてこられたホテルに呆気に取られている。不定期でも収入があってよかった、たまたま報酬が入っている報酬でよかったと二度安心をした。
「内装きれいだな、風呂いれるか」
居場所がわからなくて、カラ松について歩く。カラ松は別に気にしていないみたいで、あたりをきょろきょろ見回しながら風呂場らしきドアを開いた。
「一松、ひな鳥っぽい」
「俺はもう、今、自分がどうすべきかわからない……」
「何をするってもう、決まってるだろ……」
でかいバスタブに馴れた手つきでお湯を入れるカラ松を見ながらどぎまぎと視線をさ迷わせて、電子音にびくりと背中を震わせる。湧き上がる湯気、ローションを見つけてかっと頬が熱くなる。そうだラブホテルだった。
「一松」
「ふぇっ」
「探検するか? 探検」
情けない声を出してしまった。ごまかすように唇を噛んで、カラ松の提案に頷く。目がきらきらしていた。探検したいのはあんたなんでしょ、さっきからわくわく顔だったから。
「お湯がたまるまで暇だし、見ればいいんじゃないの」
「よし行こう!」
バスタブから回れ右をして、俺の背中をとんとんと叩く。先に出ろ、ということらしい。そこまで広くない風呂場で、俺の横を強引に通り抜けるより先に出したほうがいい。それだけなのはわかるのだが、ちょっとした触れ合いがうれしいのが単純すぎて、自分でも引く。
「なんか、思ったより何でもあるね」
「値段の割りに充実してるなー、楽しい」
ゲームあるぞ、ゲーム。タブレット端末を抱えて画面に夢中になってはしゃぐのは、ちょっと可愛い。ソファーの隣に座って画面を覗き込みながらしばらくの沈黙。こうしていると、家にいるときとあまり変わらない。
「あんまり上手く遊べない」
「変わって、俺やりたい」
画面をタップ、説明を読みながら操作に慣れてきた頃、風呂場からはそろそろ湯が貯まると電子音がなった。弾みで端末を落としかけ、そういえばホテルだったと思い出す。何をする場所なのかも。
「一松、俺が先に入ってていいか?」
「……交代で入るの?」
「いや、準備があるから……」
何の準備か聞くほど野暮ではないけれど、生々しさに唾を飲み込んでしまった。
「いいとこまでいったら、風呂いくから」
「それでいい、じゃあ」
カラ松はそそくさと風呂場に消えていく。背中を見送りながら、手元のタブレットに視線を落とす。もちろん集中できるわけがなくて、しばらく大きなベッドの上で転がりながら時間を潰すしかなかった。
十五分経った。どれくらいかかるものなのか知らないけど、呼ばれるまで入らないのもおかしい気がする。毎日一緒に銭湯にいっているのに、場所が変わるだけでこんなに緊張するものなのか、また胃がきゅっとなった。
のろのろ立ち上がって、風呂場に向かった。
「銭湯以外で風呂ってなんかちょっと」
「恥ずかしい?」
くすりと笑う兄の顔が少し憎たらしい。同時に可愛いなと思う自分も居て、中々やっかいな感情を持ってしまったことを改めて自覚した。
風呂に入ってしまえばいつも銭湯に来ているのと同じテンションで体を洗い、同じ浴槽に浸かる。風呂場は狭いけどバスタブは広いあたり、普通のホテルとは違うのだろう。身じろぎをするたび、水面が揺れる。水族館の照明と、唇の感触を思い出して、ずるずると浴槽へ沈んだ。刺激が強すぎたんだ。
「一松? のぼせるから、潜るのはやめとけ」
「うん……」
カラ松はいつもと変わらない。同じすぎて、これってただのお泊まりの練習か何かなのかと考えてしまう。僕の疑問は、僕が口にしない限りカラ松が答えることはない。
「支度、って、終わったの?」
ああ、とカラ松は小さく頷く。
「洗うのはな、あと、解さないと」
洗う。解す。セックスには色々が伴うらしい。男女ならまだしも、男同士でするのだからなおさら。
「これからすんの?」
「……見たいのか?」
浴槽のフチに、頭を預ける。冷たい。お湯は全く温くならなくて、熱いままだ。それと同じくらい、頭の中も茹だっている。
「あのさ、おれは全部初めてなの」
なるべくとげとげしい言い方にならないように、気をつけながら言葉を選ぶ。ずっと秘密を抱えてきた反動だ。
「あんたの、全部、見たいんだよ、言わせないでくれる」
そっか、と言うカラ松の頬が赤い。それはのぼせたからじゃないと、思いたい。
カラ松が浴槽の外に出る。水面が大きく揺れた。
「顔見られるのは、ちょっと心の準備がないから」
壁に手をついて俯く、カラ松の首筋から背中までの曲線を見ながら、元気になりかけている自身をどうどうと制御するのにいっぱいいっぱいだ。
「ローションとってくれ」
「ん」
何とか手を伸ばして渡し、頭の中で無心に素数を数えはじめる。十桁もいかずに諦める。目の前にしてしまうと頭の中が真っ白になって、何にもできやしない。
手の平に広げる、ねとつく水音が風呂場の中に反響して、なんだか落ち着かない。
「久しぶりだから、ん、時間……かかるかもな」
カラ松の尻の間に、細い指が入っていく。壁に手をついて尻を突き出すようにしているのが目に悪い童貞が死ぬぞ、もっとわかりやすく言うと俺が死ぬ。素直に、生唾を飲み込んだ。ごくり、と喉の鳴る音が自分でも聞こえる。カラ松にも聞こえたらしく、くすりと笑う声がした。
「なんだよ」
「本当に興奮するんだと、ぁ、思ってさ」
ローションの蓋がくるくる回って、再びカラ松の手の平はぬとぬとしたそれに塗れる。指が出たり入ったりするたびする水音に、耳も頭もやられそうだった。
カラ松は声をかみ殺しているのだけど、それが吐息として漏れているのがものすごくいやらしい。また股間が痛いし、涎を飲み込むのを忘れて口の端からたらりと零して我ながら呆れた。仕方ない、童貞だから
そういえば気になっていることがあるのを思い出した。口元を拭って顔を上げる。
「そういえば、お前、童貞なの」
「ん? どうてい、だけど」
「……後ろは?」
「それは……非処女ですけど」
誰に教えてもらったの、って思うとやっぱり思うところはある。誰かに教わっているカラ松の姿は想像が出来なくて、そうなんだとしか思えないけれど、嫉妬に狂う人やら、なぜ自分がはじめてじゃないのかとか、いう人がいるのは少しだけわかる。ほんの少しだ。正直、嫉妬とかよりずっと興奮が強くてだめだ。どうにも我慢できない、男ってそんなもんなのか、僕が特別我慢できないのか。
「僕にそっちやってとか、思わなかったんだ」
「だって、気持ちいいからな」
照れた声音が妙にいやらしくて、もういっそ頭が痛くなるくらいだ。あんたに突っ込みたい、って告白を避けられて、僕としてはほっとしている。
「ん、ぅ……」
二本目の指がもぐりこむのが見えて、目をそらすことが出来なくて、生々しさに頭が痛くなった。股間はもう、ずっと痛い。
くらりと目の前が白くなって、浴槽に頭をぶつけた。鈍い音が風呂場の中に響き渡る。カラ松も支度の中断をして、振り返るくらいだ。
「いちまつ?」
「……のぼせる」
倒れる前に、浴槽から出る。浴槽の外は、二人で並ぶと狭苦しい。カラ松の体に触れそうになって、慌てて入り口の扉に寄りかかった。ひやりとした水滴がいまは気持ちいい。
「なあ、一松、手伝ってくれないか」
「は」
練習練習、とスポーツみたいに言われても困る。とはいえ、このまま全部をしてもらうわけにもいかない。そういうのはフェアじゃないから、よくない。心臓がばくばくとやかましい。
「大丈夫、取って喰うわけじゃないから」
お前の童貞は後で食うけどさ、と笑われても今はちょっと追いつけない。高度すぎる。童貞としては、よろしくお願いしますと頭を下げるべきだったか。
ローションを手の平に広げる。ぬとぬとした感触を確かめながら、そろそろとカラ松の後孔へ人差し指をもぐりこませた。
「っあ、ん」
漏れる声、指先が包まれる熱、きゅうと締め付ける圧に全身の毛穴が開いたような感覚を覚えた。背中が燃えるように熱い。
「声、あんた、そんな……はじめてきいた」
「ふ、艶っぽいだろ」
「自分で言うなよ……」
言いながら、指先をより深くへと埋める。数多の猫と触れ合いを繰り返したせいか、僕の指先の感覚は少しの変化に対して敏感なところがある。うねる内部の感触、指の腹で辿っていって一点、どうも違う。壁というにはやわらかいそこを撫でると、甘い声が上がった。
「何、いいの?」
「まっ、待ってくれ、ん……っい、あ!」
がく、とカラ松の体が揺れる。壁についた腕が曲がって、つられて僕もスッ転びそうになった。二人で頭打って昏倒なんて、いまどきコントでも流行らない。
「ベッド、一松、ベッド行こう」
「あ、あー……はい」
湯冷めしちゃうから一旦出よう、続きはベッドの上でと言われてこくりと頷く。すでに頭はぼーっとしている、のぼせているというより、あてられたといったほうがいいのではないかと、考えていた。
四、
ベッドの上で二人、膝をつき合わせている。部屋の中は重苦しい沈黙、これをどうしてやればいいのか僕はさっぱりわからない。
「カラ松」
「なんだ、一松」
名前を呼ぶ。返事をしてくれる。きりっとした眉が今は垂れて、ただただ柔らかい表情になっているのが、胸に来る。胸の奥がぎゅっとする感覚だ。
「キス、したい」
言わないと出来ない僕は、きっとチキン野郎だ。カラ松の膝に手を置いて、顎を掬うように手を当てる。すこし震えているのも、きっとばれている。黙って目を瞑ってくれるのはやさしさだ。
「ん……」
ただ唇を押し付けるしか出来ない、拙いキス。角度を変えて、何度も啄ばむように繰り返す。下唇を噛むと、厚い舌が僕の唇を撫でた。
「んぅ、ん……っ」
舌先が唇の間をつつく。開けてくれ、といわれているみたいだったからそろそろと開ければ、ぬるりと舌と舌の絡み合う感覚に背筋が泡立った。息継ぎが上手くできなくて、犬みたいに短く、何度も息を吐き出してしまう。
「はっ、はあ、ん……!」
膝の上についた手、思わずカラ松のバスローブを強く握り締めてしまう。翻弄されている。目の前がちかちか白んだところで、やっと唇を開放された。舌がじんじんしている。
かたく握り締めた拳を取って、ぺたりと胸に当てられた。
すべりのいい肌は妙に手の平に馴染む。よく知っている人の体なのにまるで知らないみたいで、どぎまぎして目を逸らしてしまった。
手の平の下、カラ松の左胸から伝わる鼓動の大きさに、互いに緊張していることを知る。へらりと笑って、僕も自分のローブの紐を解いた。自身の主張が激しい。
俯けば、カラ松のバスローブの紐はいつの間にか解かれて、僅かに勃ち上がったそれが見える。これからすることへの期待がそうさせているのだと思うと、僕と全く同じで緊張が解けていくのを感じた。
「一松の、もう元気だな」
脈打つそれに手を添えられる。すぐにぴくりと反応してしまうのが、わかりやすい。
「足、崩していいぞ」
カラ松は邪魔になったらしいバスローブの袖を抜いて、ばさりとベッドの上に脱ぎ捨てる。僕は言われるまま、正座を崩してゆるく胡坐を作った。これでいいのかどうかは、わからない。
バスローブの合わせを寛がれると、腹に届くくらい期待で立ち上がる自身がそっと手の平で撫でられる。期待でじわりと滲む先走りに混ぜるように、カラ松の舌先から唾液が落とされた。
「ちょ、っと」
落としたそれを広げるように、ぱくりと先端が飲み込まれた。下半身に埋められる頭に手を置いて、くしゃりと髪を握る。
「ひて、一松、髪引っ張らないでくれ」
「おま、おまえ、そこで喋んなあっ……!」
唇が触れる、声の振動さえ刺激になってしまう。カラ松は謝る気なんてさらさらなくて、俺が髪を握る手を緩めたら再び俺のそれに唇を寄せた。今度はちゅっとかわいらしく音を立てられるともう見ていられない。
「一回出しとくと長持ちするんだぞ」
そんなこと聞いてない。竿を横から食み、裏から根元までを舌でたどって行く。熱い舌がちろちろとくすぐっていく感覚は、今まで自分で感じたことのないそれで、すぐにも吐き出しかけたそれを必死で堪える。カラ松が時々、ちらりとこちらを見上げて反応を伺ってくるのが妙に悔しい。手の平で転がされている感じがする。
「だから一旦、俺にくれよ」
にたり、口元が笑うのを見て絶対出してやるものかと思うのだが、全体を喉の奥まで飲まれると、ただ熱い息を零すことしか出来ない。
「いや、だっ!」
頭を掴んで、なんとか一旦離れる。残念そうな顔をされると少し心苦しい気がするのだが、童貞にまず口の中で出せっていうのは無茶が過ぎる。
「最初くらい、お前ん中で出したい」
カラ松は目をぱちくりしてから、かっと頬を赤く染めた。童貞の夢見る力が通じたんだと思う、多分。
「わかった、じゃあ」
枕をクッションの変わりに背中に敷いて、カラ松はベッドに横になる。さっき解したそこに再びローションを垂らして、僕を待ってくれている。暴発寸前のそれをひくつく穴に当てる。先端がうまく入らなくて、もどかしい。
「ここな、ぐって入れてくれ」
カラ松が腰を浮かせて、入れやすいように体勢を変えてくれる。導かれるまま、ぐずりと熟れたその中に自身を押し込んだ。
「っん、ぁ、あ」
掠れたような声が、カラ松の口から漏れる。僕もまた、低く呻いた。中が、うねる。飲み込んだ端から奥へ奥へと絞り取られるような感覚に、すぐにでも達しかけて、じっとその波が通り過ぎるのを待った。
「好きに、動いていい、から」
「ん、うん、カラ松……」
喉が鳴る。繋いだところから溶けていって、ぐずぐずになりそうだ。気持ちがいい。カラ松の細い腰を掴む。毎日同じものを食べているのに、何でかこいつの体はほっそりとしている。
一度奥まで収めた自身を抜いて、また奥へ。ぐちゅり、と潤滑を助けるローションの水音がいやらしい。
「あ、っ」
手前の浅いあたりが擦れるとカラ松の腹筋がひくりと動く。気持ちいいんだとわかると、もっと反応が見たくなる。余裕なんかなくて、けれど見たい気持ちもあって、滅茶苦茶に突き上げた。
「いちまつ、んっ、きもちい……!」
上擦った声。甘い声。腰が揺れている。自分から気持ちよくなろうとしている。搾り取られるような内側の熱に引っ張られて、何度も繰り返す。
「からまつ、おれ、あ、もう」
早いとか、まだ終わりたくないとか、そういうことを考えるよりずっと早く目の前がちかちかしていた。
腰にカラ松の足が絡む。
「一松の、おれに」
出してくれ、と耳元でささやかれた瞬間、背筋にぞくぞくと劣情が走った。兄の口から出た言葉と、その熱。
もっといいたいこともやりたいこともあったはずなのに、目の前にある熱についていけない。首の後ろがびりびり痺れて、それからカラ松の中に精を吐き出した。
「はっ、あ」
どっと噴き出す汗、ばたりとカラ松の上に倒れこむ。カラ松がよしよしと頭を撫でてくるのが気に入らない。完全に僕の一人よがりで終わってしまったのも、よくない。
「一松、どうだった?」
「……滅茶苦茶よかった、です」
そうか、と満足げな顔をするカラ松に引き換え、僕は罪悪感に塗れてどん底だ。勝手に突っ込んでイッただけじゃないか。まだ終わっていない、終わりたくない。
「……あのな、我が侭いっていいか?」
「ちょっとくらい我が侭言ったほうが、あんたはいいよ」
じゃあ早速なんだが、というカラ松はそっと僕の頬を撫でて、蕩けたような瞳を向けてくる。
「まだ、したい」
そりゃあそうだ、僕だってお前を気持ちよくしてやりたい。自分だけじゃいやだ、一緒じゃなきゃ意味がない。
「がんばるから」
こつんと額と額をぶつける。間近で見るその目は、期待を孕んでいる。二人だけ、秘密がどんどん増えていく。僕も同じだと返事をする代わりに、その唇を塞いだ。