雪山でソリに乗った夢
雪山でソリに乗った夢
ソリレースは過酷だ。びゅんびゅんと冷たい風が頬を切る。
カーブが近づく。ゆったりとしたカーブだけれど、ソリは簡単にコースアウトしてしまうから慎重さが求められる。現に、兄弟六人で参加したはずのレースは僕とカラ松兄さんしか残っていない。
赤いソリに乗って、雪の上を滑っている。目の前には、青いソリに黒いジャケットの背中が見える。
レースで一位にならなきゃ。一位にならきゃ氷にされてしまう。氷になったら雪山でずっと眠っていないといけない。誰も来ない雪山で眠り続けるのだ、一人で。
「フッ……トド松、お前が追いかけてくるとは思わなかったぜ、さすがこのカラ松の兄弟だ」
「うるさいよ、前見たら?」
なぜこの環境でお互いの声が聞こえるかわからない。でも、カラ松兄さんの少し弾んだ声が聞こえるのだ。すっかり勝つつもりの兄さんに刺々しい言葉で返し、僕はカーブを睨み付けた。
もうすぐカーブだ。減速のタイミングによってはコースの外に飛び出してしまう。もし飛び出したら、どうなるか。背中に冷たい汗がつたう。ブレーキを踏まなくては。僕より先にカーブに突入するカラ松兄さんのソリに、減速の気配はない。
「カラ松兄さん、コースアウトしたら僕が一位をもらうよ」
このままいけば僕は勝てない。僕が確実に勝つためにはここでカラ松兄さんがコースアウトしてくれれば良いのだけれど、ソリの上からでは何も仕掛けられない。そうなってくれ、という願いの籠もった野次を飛ばした。
「俺は逃げ切る自信があるぞ、トド松」
悪いな、と言ったきりカラ松兄さんの背中は見えなくなった。
ソリにつけたエンジンが火を噴いたのだ。あっという間に消えたカラ松兄さんのソリと、遠くからゴールの祝砲が聞こえる。
そんなこと許されるのだろうか。めちゃくちゃだ。公平じゃないレースなんて参加する意味がないじゃないか。
「なんでカラ松兄さんは僕から逃げるわけ!?」
叫ぶ。僕のソリは十分に減速していたにも関わらず、コースから飛び出して深く積もった雪に突き刺さった。
「逃げたのはお前が先だぞ、トド松」
まるで隣にいるかのようにカラ松兄さんの声が囁く。
「逃げたって、僕が何から逃げたっていうの!」
よく考えるんだ、と言う声ばかりが優しい。イヤだ、こんな誰も来ない山においていかれたくない。自分の身体が指先から凍っていく。氷になるのなんてお断りなのに、なんで僕が!
「トド松、トド松~? ちょっとお前、うるさすぎだよ」
おそ松兄さんに頬を叩かれて目が覚めた。身体を起こせば、眠たい顔をしたおそ松兄さんが僕の顔を覗き込んでいる。
「どしたの? 変な夢でも見た?」
「なんか怖い夢見たんだけど……」
何だっけ。氷。そう、冷たかった。あとカラ松兄さんが何か言っていたような気がする。何だっけ。怖い夢って、思い出そうとすればするほど消えてしまう気がする。嫌な夢だから、忘れてしまった方がきっといいのだけど。
「ふーん、大変だねえ……じゃ兄ちゃん寝るね、おやすみ……」
「あ、うん。おやすみ」
華麗に二度寝に戻るおそ松兄さんに布団をかけてやり、僕はのっそりと布団を抜け出した。外はもう明るい。カラ松兄さんはまだぐっすり眠っている。
平和そうな寝顔に腹が立って、鼻をつまんだ。僕が悪夢で魘されていたっていうのに、一人でぐっすり眠ろうなんて許しがたい。それに、現実の兄さんはこんなに簡単に捕まえられる。
「ふがっ、トド松ぅ……俺のプリチーノーズに何をするんだ」
「可愛くねえよ! お団子みたいな鼻じゃん!」
「いたた、痛い! やめるんだ、起きる、起きるから」
起きて欲しいわけではないのだけれど、二人で揃って布団を抜け出した。寝癖で髪が跳ねている。寝起きのカラ松兄さんは格好つけることを忘れて僕のことをじっと見つめている。
「トド松、クマが出来てるな」
「変な夢見てばっかでさ、あんまり寝た気がしないんだよね」
目覚めも最悪だし、爽やかな朝って感じじゃないよと拗ねて見せれば、カラ松兄さんはにっこりと笑って胸を叩いた。ああ、目が覚めちゃったんだなと一瞬で分かる。
「フゥン、そんなこと……グレイトなブレックファストでお前をご機嫌にしてやろう、俺に任せろ」
料理なんて出来たっけ、と水を差すのはやめた。一応、僕を励まそうとしてくれているのがわかるからだ。そういうのを揶揄するほど子供じゃない。
着いてこいとやる気満々の兄さんの後を追って二階から降りる。台所でいつも父さんが座っている位置を指さし、座って待つように僕に言って、朝食の支度は始まった。
「変な夢って、どんな夢なんだ?」
トースターに入れた食パンがじりじりと焼けていく香ばしい匂いがする。夢。どんな夢、と言っても覚えてないのだから話すのは難しい。夢を思い出そうと、記憶をたぐり寄せる。
「なんか……僕がカラ松兄さんを捕まえようとする夢」
「フフ……俺は罪な男だからな、弟をも虜に」
「違うから。夢の中の話だし。でもカラ松兄さんすぐ逃げる」
冷蔵庫から取り出した卵をボウルに割り入れて、これでもかと大さじの砂糖を二杯。甘い卵焼きは好きだから文句を言うつもりはないけれど、ボウルの中でじゃりじゃりと音がすると少しドキッとする。砂糖がこんなに入っている、という意味でだ。
「夢だってわかってるのに捕まえられないんだよね……」
「明晰夢ならある程度コントロールできるんじゃないか?」
火を入れたフライパンに、卵液が落ちる。柔らかな甘い匂いだ。おいしそうな匂いを嗅いで、僕の内臓が動き出す。具体的にはお腹が鳴った。お腹がすいたな、と口の中に湧いた涎を飲み込む。
「コントロールっていうけど、僕、自分の夢を都合よく変えられたことなんて一度もないよ!」
「あー……トド松はダメだって思ったことは諦めるだろう? だからきっと、夢が変わる前に諦めているんじゃないか?」
しゃかしゃか、フライパンの卵がスクランブルエッグに変わる。ほかほかと湯気を立てるそれを皿に空け、次はベーコンがフライパンに乗った。順番は逆のほうが良かったかもしれない、とカラ松が呟いた。
「だって、出来ないことを出来るって思うなんて出来ないもん」
「トド松が見ている夢なんだから、お前が諦めたら何も変わらないじゃないか」
チン、と明るい音がトーストの完成を告げている。ベーコンも焼けたらしく、カラ松は慌ただしくパンの上にスクランブルエッグを乗せ、皿にベーコンを重ねてぐっと親指を立てる。
「完璧だ」
「……どのへんが?」
「食べればわかるとも、ミルクも今出すからな」
とにかく出されたそれをまじまじと見つめる。不格好。絵に描いたようなおうちごはんだ。いや、スクランブルエッグが作れるだけ僕たち兄弟の中ではかなりマシな方に入る。お湯しか湧かせない長男とか、皿洗いしか出来ない僕とか。
スクランブルエッグがこぼれ落ちそうだ。パジャマに落とさないようそろそろと口に運ぼうとするのだが、ゆっくり運ぶと余計にバランスが崩れる。こぼれ落ちかけた端の方から思い切って齧り付いたら、口の中があたたかなスクランブルエッグでいっぱいになった。
かさついたトーストは歯切れ良く、てっぺんに乗せたベーコンの塩気がスクランブルエッグの甘みと混じる。なるほど、甘いだけで物足りないとか、ちょっと甘いものが欲しいとか、そういうものを一気に満たす完璧であるらしい。
カラ松兄さんはマグカップを差し出しながら、僕の反応を待っている。口の中いっぱいに頬張ったせいで、喋ることが出来ない。マグカップを受け取って、口の中いっぱいのそれを牛乳で飲み込んだ。
「完璧じゃん、カラ松兄さんありがとね」
露骨にほっとしてから、カラ松兄さんもトーストを頬張る。
「夢の中で頑張れそうか?」
「うーん、もう見たくないけど……次があったら頑張ってみる」
最初から諦めるより少しはましだろうか。僕の返事を聞いて、カラ松兄さんは満足げに笑っていた。
知らない街で追いかけっこをする夢
夢を見ている。これは僕の夢だ。僕の夢だから、変えることが出来るのは僕だけだ。
「トド松、今日は何だか雰囲気が違うようだな」
僕の目の前には、いつもの青いパーカーを着たカラ松兄さんが立っている。周囲は閑静な住宅街という見た目をしているが、僕たち二人以外の声は聞こえないし、音もしない。張りぼてみたいな街だ。
「うん、今日でこの変な夢を終わらせたいからね」
「いいだろう、ではスタートだ!」
兄さんが走り出す。一方的な開始宣言にたたらを踏んだけれど、とにかく青いパーカーを追いかけて駆け出した。
知らない街はとにかく走りづらい。一戸建てとアパートが隙間なく並ぶ路地は狭く、余所の家の庭を横切りながら追いかける。こっちにいった、と素直に追いかければ袋小路、先回りをしようとルートを変えれば行き止まりと僕の邪魔をする仕掛けには事欠かない。自分の夢なのに全く腹が立つ。
「どうしたトド松、俺はこっちだぞ!」
一本先の路地に人影が過ぎった。兄さんだ! 慌てて追いかけるものの、路地の先にはもう誰もいない。誰もいないどころか、振り返ったら街はなくなっていて、いつのまにか波打ち際に変わっていた。
海だ。行ったこともないエメラルドグリーンの波が僕とカラ松兄さんの間に寄せては引き、白い泡を残して消えていく。
「フッ……こういうときは、捕まえてごらんと言った方が」
最後まで言い切るのを待つより早く、駆け出した。ロマンスをしにきた訳ではない。砂が飛び散る。波が足下を浚う。
一歩踏み出すたび、青いパーカーがどんどん遠くなる。足が速すぎやしないだろうか。現実の兄さんはそんなに早くないっていうのに、僕の夢の中では一体何があったのだろう。
「絶対っ、捕まえる……!」
走る。息が上がる。いやこれは夢だ、こんなことで僕は疲れない。兄さんを捕まえるまで止まるわけにはいかないのだ。
手を伸ばす。もうすぐ届く、というところで僕の手のひらに飛び込んできたのは、どこから垂れ下がっているのかわからない紐式のスイッチだった。反射的に掴んでぐいと引っ張れば、カチリと音がして目の前が真っ暗になってしまった。
「おっと、砂浜はここまでか……ふふ、まあ俺ほどのスターであれば自ら光るくらいは容易いことさ」
スイッチのせいで、目の前は暗転した。けれど、カラ松兄さん自身が発光していて眩しい。本人はサングラスをかけているからそうでもないようだけれど、相当目に滲みる。
とにかく、暗いとはいえ地面がなくなったわけじゃない。まだ走れる。何より、目の前の兄さんはまだ走り続けている。
「いい加減、止まってよねっ……!」
暗闇の中、瞬きのうちに周囲の景色が変わっていく。視界の端に、雪山の巨大な氷や海を走るイルカの群れ、斜面を滑るソリと夜空を流れ落ちる星に、僕たちの家が見え、すぐ後ろへ流れて消えていく。
赤塚なら、いつもカラ松兄さんがナンパを待っている大きな橋にまで行けば、追い込めるのに。あれなら道は一つしかないし、逃げるには池に飛び込むしかない。
暗闇が終わり、道が開けた。周囲を見渡す。広がる緑、スワンボートの浮く池、見慣れた大きな橋。ようやく、僕の夢は変わり始めたらしい。
「これが最後なら、競争にしようじゃないか」
兄さんが橋の入り口に立ち止まって待っている。僕も追いついて、隣に並んだ。
準備は出来ている。小さく頷けば、カラ松兄さんもじっと前を見つめた。二人で並んで、スタートの合図を待っている。
小鳥はさえずり、初秋の爽やかな風が僕たちの間を吹き抜けて行く。心臓の音が耳まで届くし、隣でカラ松兄さんが唾を飲み込む音も聞こえるくらい、集中していだ。
ぱあん、と頭上で何かが弾ける音がした。これは夢の中である。であれば、スタートを告げる銃声だって勝手に鳴るに決まっている。
スタートは同時だ。けれど僕が目指すのは橋の終点ではない。
「これを……ずっと、待ってたんだよッ!」
競争に応じるなんて、僕は一言も言っていない。隣を走る兄さんのジャケットを掴み、そのまま身体ごとぶつかった。
真横にいるなら、身体ごと捕まえてしまえばいい。橋の上からは逃げられない。これで追いかけっこはおしまいだ。
二人で揃って橋の上に倒れ込む。あれだけ走っても息が上がらなかったのに、橋の上に倒れ込んだ痛みだけは確かにあった。兄さんは頭を打ったのか僕の下で頭を抱えて悶絶している。
「捕まえた! 僕、捕まえたら兄さんに聞きたいことが、聞かないといけないことが……あったんだけど……」
何を聞こうとしていたのか、思い出せない。
イルカになった兄さんを捕まえようとしていたときも、ソリレースの時だって、何か理由があってカラ松兄さんを追いかけていたはずなのに、その理由がわからない。わからないのだ。
「わからないのか?」
「……わからないから聞いてるんだよ」
やれやれ、とでも言うように兄さんは笑う。それから身体を起こして、僕の目をじっと見た。
「ここはお前の夢の中だろう? それなら、俺だってお前の考える俺の姿であるわけだ」
いつのまにか青いパーカーはいつもの革ジャンに変わっている。サングラスをつける気障な仕草。フッ、と空気の音をわざわざと口に出して笑うところなんて完全に兄さんだ。
「俺が逃げていたんじゃない、お前が俺から逃げていたんだ」
「……どういう意味?」
「本当に忘れてしまったんなら、仕方がない」
捕まえた兄さんの両手が僕の視界を覆う。何するんだよ、とその腕を振り払ったら、また周囲の様子が変わっていた。