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【WEB再録・R-18】二人分だけ残しておいて(16/06 発行)

 眠気を促す声が途切れたと思ったら、今度は鬼のような板書の音がうるさい。
 高校最後の夏休み。僕たち六つ子は、それぞれ夏休みの補修授業を受けていた。
 おそ松兄さんとカラ松兄さんは仲良く五教科の補修があり、一松兄さんと十四松兄さんが二教科と続く。僕とチョロ松兄さんが一教科で、今日はこの一時間半を終えれば家に帰ることができる。
 斜め前に座るチョロ松兄さんの頭を見ながら、ぼんやりとペンを回す。初老に差し掛かった現代文の先生は、板書をしてから説明をするのがお決まりだった。
 就職や進学どちらを選ぶか。夏になってもぴんとこなくて、遊ぶ予定ばかり待っているというのに貴重な夏休みを潰しての授業に集中出来るわけがない。真面目に出席すれば赤点を免除されるとはいえ、出席率は芳しくなかった。現に、ここにいなければいけないカラ松兄さんの姿がない。
 サボった分のノートをどう売りつけてやろうか考えながら、またペンを回す。少し目を話した間に、鬼のような板書は終わっていた。再び眠気を促す呪文が始まって、手を動かすことに集中する。
 教室はカーテンを閉め、日光を遮っている。備え付けられた扇風機がゆっくりと首を振って、ブーン、と低く鳴る音がしている。見るからに年代物のそれは、今にも壊れてしまいそうな、それでも壊れる気配がないような雰囲気を持っている。時折外から風が吹いてカーテンが揺れて、ちらちらと光が差し込んでくる。同時に、外で叫び続ける蝉の声が一際大きく聞こえるのが、夏が主張してくるようで少し煩わしかった。
「……今日はここまで、続きは明日」
 呪文が終わり、先生が教室を出るのと同時に鐘がなる。時間きっかりに終わるのが、この先生のいいところだった。
「カラ松は?」
 チョロ松兄さんが振り返って、当然知っているだろうというような声音で僕に聞く。
「知らなーい、どっかで倒れてるんじゃない?」
 チョロ松兄さんは大きく舌を打つ。往々にして機嫌が悪い時に限定されることだが、この兄は、兄弟に対して露骨にあたりがきつい。
「見つけたら捕まえて、前の補修も出てないんだよ」
「サボってんのくらい、放っておけば?」
 ここでひと睨みが飛んでくる。高校三年、夏とくればこの後に待っているのは進学か就職かといった選択肢だけれど、卒業することが前提の話だ。このままじゃ卒業もできない、さすがにそれは不味いという基準がチョロ松兄さんを苛立たせている。
「僕はおそ松捕まえるから、カラ松は頼んだよ」
 そう言い残して、チョロ松兄さんはさっさと教室から出て行く。僕、もう帰るつもりだったのに。このまま黙って帰ったら家に帰った時にどやされるだろうし、ポーズだけでもカラ松兄さんを探さなくちゃいけない羽目になってしまった。
 のろのろと帰り支度をしながら考える。真夏のクソ暑い校舎の中、補修をサボってまで行く場所はどこか。
 図書室。冷房が効いていて、静か。あそこだけは蝉の鳴き声がどこか遠く聞こえる。けれど、夏休みの間は自習室として開放されているから案外に混み合っているのだ。皆さん真面目なことで結構、そんな空間に僕ら六つ子が居られるわけがない。
 演劇部の部室。部室棟の二階、一番手前の部屋だ。過去に上演された映像、脚本、その他諸々が詰め込まれている。物が多くて、人は三人くらいしか入れないし、何より暑い。そこにいるとは考えづらい。
 鞄の中にペンケースとノートを放り込んで閉じる。あとはどこか、あっただろうか。
 ――屋上の給水塔の裏は意外と涼しいんだって。
 思い出した。思い出してしまった。思い出さなかったらこのまま、探したけどいなかったよって言うことができたのに。
 一度、話したことがあった。給水塔の日陰から見る校庭と緑のコントラストがすごく夏っぽくていいんだって。僕があの話をしたのはカラ松兄さんにだけだ。
 鞄を乱暴にひっつかんで教室を出る。蝉の鳴き声が近くなる。校庭の方で、キン、と乾いた音がした。バットにボールがあたって、放物線を描いて遠くへ飛んで行くのが見えるようだった。
 教室を出て廊下を突っ切り、階段を登る。二階から三階、三階から屋上に続く扉を開く。熱気が立ち上り、一瞬外に出ることを迷う。暑いのも、日焼けするのもいやだ。でもここまできてちゃんと見ないで帰るのも出来ない。嘘が吐けないというか、見破られてしまうというか、とにかく見て、いなかったらそれでいい。
 一歩踏み出す。内履きが地面につく前に、ふと誰かの声が聞こえた気がして動きを止める。内容までは聞こえないが、女子の声だ。
 そっと扉に身を隠して様子を伺う。伸びる影は二人分。雰囲気からして、おそらく告白の最中だろう。人が補修で学校に来てるっていうのに何で現実を充実させようとする現場に遭遇しなければならないのか、運命に問いたい。
「……カラ松?」
 誰だそんな浮かれたやつは、と顔を確かめてやれば六つ子の兄弟の一人が立っている。女子の方は、背中を向けられているから顔がわからない。
 彼女がカラ松に手を振るのを見て、覗き見していたのがバレれば面倒になることに今更気がついた。慌てて扉の影に逃げ込む。告白の後で浮ついているのか、彼女は僕に気が付かないまま早足で階段を降りていった。
 屋上に残されたのはカラ松だけだ。扉の影から出ていって、ぼんやり立ちすくんでいる兄さんの側に立つ。ちらと僕を見て、いつもは鋭い眉が僅かに下がった。安堵したように見える。
「今のさ、告白でしょ? 受けたの?」
「……俺と誰かを間違えたんだと思う」
 露骨に目を逸らされる。カラ松は嘘をつくと、人の目が見られない。自覚がないみたいだから指摘しないままだったけれど、嘘を吐かれているのが悪いのはいい気分じゃない。
 高校最後の夏に、屋上で、女子から告白される。漫画か何かなのか。現実を充実させるつもりか、六つ子で一人だけにいい思いなんて、させるつもりはない。
「嘘つかなくてもいいじゃん、ひどいな兄さんたら」
「と、トド松? ヘイ、ブラザー、キープスマイリングだ」
「笑顔じゃん、僕ねえ知ってんだ、だってさ」
 兄さんだけ現実を謳歌するなんて許されるわけがないでしょ、それならいい思い出作る前にちょっとからかってやろうって思うくらい弟の可愛い悪戯で済まされるはずだ。
「見てたから」
 じりじりと追い詰める。カラ松兄さんが一歩、二歩と下がり、給水塔の日陰に入った。逃すまいと両手を広げ追い詰める僕は、案外本気で羨ましいと思っている。
「トド松、ウェイト! やめるんだ、何をするつもりだ」
「何って……こうに決まってんだろがっ!」
 一気に距離を詰め、がっしり肩を掴んで給水塔に押し付ける。日陰とはいえ、日光を浴び続けたそれの表面は温い。困惑した瞳が僕を見ている。
「ぼ、暴力反対……」
「暴力じゃないよ、僕を何だと思ってるわけ」
 ばたつくカラ松が混乱している間に、その唇を奪った。甘酸っぱい、女子とのファーストキスなんて兄さんにはもったいない。何よりそんないい思いを兄さんだけがするっていうのも許しがたい。実際のところ、僕たち兄弟は風邪をうつしたりうつされたりで、とっくに初めてなんて終わってしまっているのだけど。
「今は風邪をひいていないだろブラザー!」
「僕とはやったことなかったでしょ」
「やめ、トド松離せ、まだするつもりか、トド松ーっ!」
 給水塔の影、蝉の鳴き声、校庭から聞こえる乾いた音を聞きながら重ねる唇は熱い。そういえば一松兄さんは舌まで入れる。思い出して、舌で唇をつついた。息を止めていたらしい兄さんが、感触に驚いて短く息を吐く。その隙間かたら舌を滑りこませれば、スポーツドリンクの味がした。
「っふ、ぁ……!」
 何て声出してるの、この人。薄く目を開けば、ぎゅっと強く目を瞑って顔を真っ赤にしている兄さんがいて、思いの外どきりとさせられた。よく考えたら舌まで入れる必要はなかったんじゃない、と気づいて慌てて開放した。
「と……トド松……」
 がくりと崩れ落ちる兄さんを横目に、しっかりガッツポーズを決める。いい思い出を積極的に破壊しにいくところに、僕もあの六つ子の一人であることを今更思い出した。
 誰かが成功するなら足を引っ張る。日常の光景である。
「トド松、唇が痛い……」
「唇って腫れるんだね、知らなかった」
 ひりひりする唇を押さえながら笑えば、兄さんも釣られて引きつった笑顔を浮かべた。
「補修ちゃんと出ないと卒業できないよ」
「……これから出る」
「じゃ、僕帰るね、お先ー」
 鞄をひっつかんで、屋上から出る。うるさいくらいの蝉しぐれは、学校の中に入ってしまえば随分遠くなった。
 羨ましいと思ったのは、どっちにだろうか。女の子に告白されるなんて夢みたいなシチュエーションを掴んだ兄さんか、それとも兄さんに対して、特別になることができるあの子に対してか。考えるのをやめたほうがいい。これ以上考えたら、本物になってしまう。
「……冗談だよね、僕?」
 童貞だから、触れる熱に対して貪欲になっただけだ。それが兄さんでも、兄さんじゃなくても、変わらなかったと思う。思いたい。冗談で済む土壌があって助かった。いつもの兄弟のじゃれあいだ。普通のことだと思う。
 だから、ばくばくとうるさい自分の鼓動の意味は、考えないほうがいい。


 夏になると、決まってあの日を夢に見る。毎年、僕の唇には生々しい感触が蘇る。手の甲で唇を拭っても、ひりつく痛みはない。美化した記憶でもなく、ただそういうことがあったよね、と僕に思い出せることが目的の夢。
「……目覚め最悪」
 ぼそりと呟いて、枕元のアラームを止めた。
 六人並んで眠っている布団の中、無職の他の五人はこれくらいじゃ目覚めやしない。おそ松兄さんが小さく身じろぎをしたくらいだ。
 もちろん、カラ松兄さんもぐっすり眠っている。のんきに寝ている兄さんを見ると、何だか脱力してしまう。あの後彼女と何にもなくて、自然にそんな話が立ち消えた兄さん。夏の思い出はいつもどおり六人だった兄さん。
 アラームがもう一度鳴る。支度をしなくちゃ、バイトに遅れてしまう。
 兄さんたちに報告をした上で、家と駅の中間にあるカフェでバイトを始めた。興味なさげに、がんばってねえ、と言われたのを覚えている。
 無関心にされればされたで腹が立つもので、店に来ないでねとわざわざ余計なひと言を足してしまった。そのせいか、兄弟たちはがちょくちょくカフェに遊びにくる。例年、夏は外に出たがらないところがあるから頻度が下がればいいのだけど、嫌がらせに全力を出すことも知っているから頭が痛い。
 布団を抜けだして台所に降りる。真夏日の接待ゴルフに父さんを送り出した母さんが、のんびりとお茶を楽しんでいた。
「あら、今日はお仕事だったのね」
「うん、ご飯何かある?」
 何かあったかしら、と立ち上がる母さんに並んで台所に立つ。流し台には茶碗が二つと、小皿がいくつか水に晒されている。昨晩のおかずはどうやらもう無さそうだ。
「ピザトーストはどうかしら?」
「お願いしま~す!」
 うちに殆ど常備されている厚切りの食パンは、松代特製ピザトースト用の食パンと言っても過言ではない。冷蔵庫から取り出されたチーズとケチャップ、薄切りのベーコンを見て気が早いお腹がぐうと鳴いた。
「もう慣れたかしら?」
「うん、皆良くしてくれるよ」
 手持ち無沙汰の僕は、流し台にある洗い物に手を伸ばす。この後増えるのはわかっているんだけど、僕は一気にやるより都度片付けたい方なのだ。
 そうなの、という母の手元は早い。食パンはとっくにトースターに放り込まれ、じりじりとタイマーが進む音がしている。
「今日は何時までなの?」
「うーんとね、お昼かな」
 シフトを思い出す。一日四時間か五時間くらいでいい、とふんわり決まった僕のシフトは、八時から十三時までだったはずだ。
「そう、頑張って働きなさいね」
 そしていくらか入れなさい、と続く言葉に肩を竦めながら返事をする。六人の中で唯一収入があるから、家に少し入れるくらい、しなくちゃいけない。
「私は庭の草抜きするから、あとは好きに食べなさいね」
「うん、熱中症気をつけてね? あとニートも使って」
「そうねえ、ニートたちは裏庭かしらね」
 くすりと笑いながら庭に出て行く母の背中を見送り、タイマーが進むのを待った。オレンジの光、チーズの溶ける匂いを嗅ぎながら、唇を撫でる。夢の感触がまだ消えなくて、早く忘れてしまいたいのにと小さくため息をついた。
 とん、とん、と階段を降りてくる足音が聞こえる。兄弟のうち、誰かが起きたらしい。早起きといえば十四松兄さんだけど、そういえばさっき布団の中にいただろうか。もういなかったような気もして、廊下に視線を投げる。
「……トド松、バイトか」
 カラ松兄さんが、眠たい目を擦って僕を見た。
「兄さん起きちゃったの、まだ朝だよ」
 背後で、タイマーがチンと音を立てる。いい匂いがする。けどそれを隠すように、記憶にある匂いが蘇ってくる。夏の屋上、湿った日陰の匂いと、スポーツドリンクの味。
「トイレいったら……もう一回寝るさ」
「ねえ」
 くるりと向けられた背中に、なぜか声をかけていた。喉元まで、言葉が登っていた。あの夏を覚えているのか、と。
 聞いてどうするのだろう。覚えていたとして、僕はそれをどうしたいんだ。言葉を飲み、小さく頭を振った。
「なんでもない、早めに出てね」
「……? わかった」
 トイレの扉に兄さんが消えるのを見送り、言葉の代わりに短く息を吐いてトースターを開けた。焼きたてのピザトーストは熱いけれど、空腹には負ける。勢いのままかぶりつけば、口の中にトマトの味が広がった。ケチャップ黒胡椒をちょっと混ぜてあるのが松代特製だ。ベーコンの脂とチーズ絡むのが美味い、腹の虫もすぐに黙りこんでしまった。チーズが伸び、手のひらに落ちた。さすがに溶けたそれが肌に落ちると熱い。トーストを咥えたまま、流しの水道を捻って水で流す。
 湿った日陰の匂いなんて、この家のどこにもない。流れる水の音を聞きながら、記憶も流れちゃえばいいのになあと他人事のように考えていた。
 

 カラン、とドアベルが鳴る。夏の強い日差しの中に出て行く背中を見送り、ありがとうございましたあと間延びした声をかければ、店内で寛ぐ数人のお客さんとジャズだけが残った。
 僕は、勤労意識が高いわけじゃない。バイトだって、人付き合いにはそれなりにお金がかかるから働いているだけのことだ。
 何しろカースト最下層からのし上がるためには手段を選べない。泥臭くチャンスを狙い、確実に勝てる勝負に持ち込んで、この地獄から脱出してしまいたい。
 せめて普通になれれば。
 あの夏を引きずりすぎなのだと自覚はしていても、どうも上手く消化出来ていない。そういうのは僕のキャラじゃないのに、と思っても、コーヒーカップの底にたまる砂糖みたいに、どろどろのままそこにある。
 カラン、とドアベルが鳴る。はっと姿勢を正してなるべく柔らかく迎え、それから姿を現したのが黒い革ジャンに身を包んだカラ松兄さんであることに気付いて、声は緩やかにトーンダウンしていく。
「……ご注文は?」
「ブラザー、あからさまにテンションがダウンしたな」
 真夏に革ジャンの男が来たら多少怯むでしょ、と軽口を飲み込んでそっとメニューを差し出す。サングラスでメニューが見づらいらしく、そっとレンズを持ち上げて、いつも同じメニューを指差した。カフェラテ、トールサイズ。「ラテをおふたつ」
「……ふたつ?」
 既に何を求められているか察しているらしいカラ松兄さんは、疑問符を浮かべながらも支払う準備をしている。
「それもって待ってて」
 ぱちりと片目を閉じてやれば、兄さんは目をきらりと輝かせる。兄さんが一番だよ、兄さんだから甘えるんだよ、という態度をわかりやすくしたときに力になってくれるのを僕はよく知っている。兄さんの注文のついでに、僕の飲みたいものを追加しても叱られないようになったのは先週からだ。そう、普通の弟がするような小さな我儘に、同い年の兄さんはひどく弱い。
「松野くん、お兄さんよく来てくれるね」
 初老に差し掛かったオーナーは、同じ顔の兄弟が姿を見せると僕を見てにっこり微笑む。どれがどの松か説明したことはないから、六つ子であると知らなければいつも同じ兄が来ている、と思っているのかもしれない。
「居心地がいいって気に入ってくれてるみたいで」
「普通、兄弟がいるからってこんなに熱心に来ないんじゃないかな? 次は新作お勧めしようかな」
 夏の新作はスイカジュースになるらしい。熱中症対策も含めてちょっと塩を入れると、甘さが際立つ。うちではスイカに塩なんてかけないから、試飲して驚いたのを覚えている。
「勧めてみます、次に来た時に」
「ゆっくりしていってね」
 オーナーは柔らかい微笑みを浮かべ、ラテが二つ並んだトレイを僕に手渡してくれる。僕と兄さんの注文は、手早くオーナーが済ませてくれていたようだ。軽く頭を下げてから、トレイを兄さんの方に渡すのにその場を離れた。
「次はケーキもつけようかな?」
「それは自分で買うんだな、トッティ」
 サングラスを取りながらふっと息を吐く兄の姿はさすがに見慣れた。夏ならサングラスくらいは普通に見えるのだけど、黒のジャケットはよろしくない。熱中症で死ぬ前にやめたら、と言っているけれどやめる気配もない。せめてお店に来るときはやめてね、とまた言わなければならないだろう。
 シフトの時間が終わったから、後はあがるだけだ。すれ違う同僚に声をかけて帰り支度を急ぐ。時計の針は十三時を過ぎた。僕の勤労意欲は、とっくに根をあげているのだ。
「ブラザー、お疲れ」
「外でブラザーはやめて兄さん」
 小さな丸机を挟んで座る。くたびれた足をうんと伸ばしてから机に倒れ込んだ。周りに人がいない奥まった席は、店の外からも見えず、かつ同僚やオーナーの目も届かない。 僕はトレイにのったマグを片方持ち上げ、口をつける。冷房の効いた店内にずっといたからか、温かい飲み物が喉の奥に落ちる感触があった。
「兄さん、珍しいね?」
 カラ松兄さんはきょとんと丸い目をして僕を見ている。
 カフェによく顔を出すのはおそ松兄さんで、一週間に一度くらい顔を出しに来る。その次がチョロ松兄さんだ。ライブの前後に来ることがあって、一ヶ月に一度か二度くらい。一松兄さんと十四松兄さんは殆ど来ない。
 カラ松兄さんは毎日来たと思ったら二週間顔を見せないこともあって、周期が読めない。ただ、決まって僕のシフトが終わる時間の近くにやってくる。シフトを事前に話してあるわけじゃないのに、示し合わせたようにやってくるのが少しだけ不思議だ。
「なんでもないさ、通りすがっただけで」
 空になったマグを持ち上げ、サングラスを指で押し上げる。口元には余裕の笑みを浮かべているけれど、レンズの奥にある目はあからさまに明後日の方向を見ていた。
「嘘ついても無駄、本当は何?」
 カラ松は嘘を吐く時に絶対に人の目を見られないからすぐわかる。何度指摘しても直らないから、いっそ嘘を吐かなければいいのにと思う。
 カラ松の手の中でくるくるとマグが回っている。。手持ち無沙汰なのか、言い出しにくい雰囲気をごまかすためか。ああ、と居心地悪そうな返事があって、それでもまだ口を割らない。
「大丈夫だよ、僕、口は固いよ?」
 何か、他の兄弟に知られたらまずいことでもあったのだろうか。ちょっと儲け過ぎたとか、何かやらかしたとか。あんまりフォローできないことじゃ困るけど、僕だって兄弟の秘密を胸のうちに留めておくことくらいできる。
「いや、違うんだ……朝、何を言いかけたのが気になってな」
 ぬるいカップを両手で握った。原因は僕にあった。意味ありげに引き止めたりしなければ、変に疑問を持たせることもなく、今二人でお茶を飲むなんてこともなかった。
「ここだと、トド松は結構自分の話してくれるだろ?」
「……まあ、カラ松兄さんだから話してるんだけど」
 指を鳴らし、足を組み直し、サングラスを颯爽と取り外して煌めく目が僕を見る。あまり人がいない時間で良かったと心底思った。この店に、カラ松兄さんの美意識は似合わなすぎる。あまりに浮いているから、くすりと笑いが漏れるほどだ。
「シークレットヒストリーは嫌いじゃないぜ……」
 これ以上気恥ずかしい言葉を浴びるのは耐えられない。兄さんとキスする夢見てちょっと気まずいんだよね、と言えたらこんな事態にはなっていないし、ここはごまかすに限る。これ以上この話題が広がると、まずい。
「変な夢見ただけなんだ、それがちょっと怖くてさ」
 ひといきにラテを飲み干す。嘘を吐くときは時は、少しだけ本当のことを混ぜるとバレにくい。自身が嘘はついていないのだから、と自信ありげに振る舞うのがポイントだ。
「兄弟、俺を頼ってくれてもいいんだぜ」
「普通の悩みならそうしたよ」
 お前にキスしたのが忘れられないなんて言い出したら、この兄はその意味をわからないまま、いつもの煌めいた目をするだろう。求められる俺、とか言って。
 できれば普通になりたかった。彼女がいたり、就職できていたりして、兄弟としていい距離を持って、今みたいに甘えたりして、そういうことが出来るのが普通なんだと思っていたから、普通に振る舞えるようになろうとしている。普通ってなんだっけって、ちょっとだけ思っている。
 空になったマグをトレイに戻す。お互い次に言う言葉も思いつかなくて、ほとんど同時に立ち上がっていた。僕は夢に見たものを話したくない、カラ松兄さんはそれをいつでも待っていると言った。それなら、ここで出来ることは、もうないのだ。
「かえろ」
「……いつでも待ってるぜ」
「どーも、ありがとう」
 トレイを返却し、重たいドアを押して外に出る。ドアベルが鳴って、僕たちは夏の日差しの中に踏み出す。かんかんと照る日差しに、一瞬目が眩んだ。蝉の鳴き声はあの日と何も変わっていないように感じる。
 言えないようなことがあるのは、僕の方だ。
 普通だったら、兄さんに対してもっと触れたいとか、こうしてみたいとか、思うこともなかったんだろうか。あんな夢を見て、感触を思い出すこともなかったんだろうか。
誰が問いに答えてくれるわけでもなく、ただ蝉の声を聞いていた。


「ただいまー」
 二人同時に玄関を潜れば、瞬時に居間の襖が開く。夏はこの部屋だけエアコンをつけっぱなしにしているから、基本的に開け閉めは素早く行われるのだけど、開けた主によっては襖は開いたまま放置されることになる。
「トド松とカラ松兄さんおかえり! スイカあるよ!」
「十四松兄さんただいま、スイカなんて珍しいねえ」
 出迎えてくれた十四松兄さんが僕の手をぐいぐい引っ張って居間まで連れて行ってくれる。カラ松兄さんが後に続いた。襖を閉めるのは、いつも兄さんの方だ。
「おう、おかえりー! 長男様のおごりよン」
 どう見ても叩き割った形跡のあるスイカが、新聞紙を敷いたちゃぶ台の上に鎮座している。四人はそれを自分がたべたいだけ適当に切ってかぶりついていたようだ。松代が見たら泣く。犬を育てた覚えはないのよニートたち。
「ごちそうになりまーすっ、何、勝ったの?」
「へへーっ今日はね、沼がいい感じで」
 くい、と手首をひねる。銀玉の神様が長男様に微笑むと、こうしてご相伴預かることが多々ある。自分が食べたかったのもあるだろうけど、僕らにとって果物は貴重だ。六人均等に分けられないもの、特に個々の大きさが違う果物は喧嘩の元で、あまり家で食べられない。恵みをくれない神様より施してくれる長男様だ。素直に拝んでおく。
 スイカをざっくりと切り出しながら、お店のスイカジュースを思い出した。試飲のときに入れたひとつまみの塩。塩を振ったスイカを、家で食べたことがない。そういう習慣がないだけで、塩をかけて食べる人がいることは知っている。どれくらいおいしいのだろうかと考えて、試してみればいいと席を立つ。
「食べないの?」
「塩かけようと思って」
「はー? 塩?」
「お店で出すスイカジュース、ちょっと塩入れてるんだ」
「普通そのままでしょ」
 チョロ松兄さんが突っかかってくると、物事が面倒くさくなる。機嫌が悪いと完全否定されるから、今日はまだましなほうだ。
「味塩じゃだめなの?」
 一松兄さんはは台所を指差して、小さく切って並べたスイカのひとつをかじっている。
「どうせかけるなら、いい塩がよくない?」
「味、変わらないでしょ……」
「わっかんないなあ、そういうとこ……」
 真ん中の二人が呆れたように息を吐く。僕が言い出したら聞かないことをよく知っているから、強く引き止めることもない。
 財布と鍵の入ったバッグを拾い上げ、スマートフォンのブラウザを立ち上げる。このあたりで、こだわりの塩をおいているような高価格帯スーパーの営業時間とフロアー案内を見ながら、襖に手をかけた。
「まだお店開いてるし、買ってくる」
「あっそお、いってらっしゃ~い」
 おそ松兄さんはひらひらと手を振り、十四松兄さんは如何にしてスイカを割ったかカラ松兄さんに熱弁している。
「わざわざ塩なんて買いに行く?」
 チョロ松兄さんは、ちょっと理解できないみたいに首を傾げた。
「普通なんて人によるんだから、チョロちゃんはそのまま食べればいいでしょ」
 そう言いながら、おそ松兄さんはスイカの解体に入ろうとしている。大きなスイカが小分けにされていくのを見ながら、僕はわざとらしく頬を膨らませた。
「そうだよ、僕はそうしたいからするのー」
 言いながら、ふと気づく。普通なんて人による、という言葉が、自分のどこかに引っかかっていることに。
 襖を半端に開け、ぼんやり突っ立ったまま、おそ松兄さんの言葉がぐるぐると頭の中を回っている。普通だと自分で決めつけていたのなら、それを捨てるのもまた自分なんじゃないか、なんて。
 五人がスイカを食べるのを見ながら、ぼろぼろと、自分の思考じの一部が変わっていくのを感じていた。そうだよ、そうだ、別にいいじゃないか。自分が普通だと思っていた生き方と、僕が本当に望むそれが違うくらい。皆違うんだもの、スイカに塩かけるかかけないかだって、別々なんだ。だから、僕がずっと抱えているこれだって、どうにかなるんじゃないか。
 今更気付く。気付いてしまった。僕は何もかもを、自分で決めつけていただけだったんだ。最初から何もしないで逃げていたのは僕なんだ。だから未練がましくあの夏の夢なんて、見てしまうんだ。
「ねえ兄さん、ちょっとさ、付き合って」
「ん~」
 スイカをもりもりかじっていたカラ松兄さんの腕を引く。十四松兄さんには珍しく長い袖をまくって、僕らに手を振った。
「トッティ、カラ松兄さん、いってらー」
「二人分、残しておいてよね!」
 スイカにむかって言って、それから兄さんの手を引っ張って外に出る。
 蝉が鳴いている、日陰と緑のコントラストが強い。何をしていなくても汗が出て、じっとりした空気がまとわりついてくる。けど気持ちはすかっと晴れていた。
 日は傾きかけて、蝉の鳴き声はひぐらしに変わっていた


 駅前、カフェの前を通りすぎる。ドアベルの横につけた風鈴が揺れて、りんと音を立てた。一瞬振り返る。明日のシフトに僕はいないから、このままどこか遠くにいったっていいんじゃないか。
 手を引いたまま、方向転換をする。塩なんて、どこでも買える。それより今は、なんだかすっきりした気持ちのまま、どこか遠くいってしまいたい。
「塩買うんじゃなかったのか?」
「ちょっと気分が変わった!」
 兄さんの手を引いて、衝動的に駅に飛び込んで電車に乗った。電車のドアガラスに、妙に晴れやかな自分の顔がうつっている。口元がへの字になるのを、両手で頬を包んで解した。すこしばかり、逃避行に緊張しているのだった。
「どこまで行くんだ?」
「どこでしょうね」
 新宿で一度下りる。雑多なホームを抜けて高崎線へ乗り換える間、ずっと手を繋いでいた。暑いだろうに振りほどかない兄さんに甘えて、そのままでいた。
 特別な感情の理由なんてわかっている。それを血のつながった兄弟に持つなんて普通じゃないと見ないふりをしていただけだった。今はそれを、大事に抱えている。
「シークレットツアーか?」
「かもしれない、ね」
「ふ、気ままな旅もまた良し」
 カラ松は手を繋いだまま、器用にポケットからサングラスを取り出してかけた。確かに西から指す光は眩しくて、僕も目を細める。
「何しろお前が一緒だからな」
 楽しげに笑われると、お前のへの恋心から毎年夢を見るんだよ、とはうまくいえない気がしてくる。まだ、手を繋いでいる。
 繋いだ手を、一度離した。カラ松は片眉を上げて、二度瞬きをしただけで何も言わない。朝の延長だと思っている。何か俺だけに言いたいことがあるのだと、思っている。


 通り過ぎる景色を見ている。電車は都会から離れ、徐々に緑が増え始めた。時々見える線路沿いにある家の明かりは、人がいる安心感をくれた。見慣れぬ光景は、東京から、家から、離れていく実感を僕に与えてくれた。 
「トド松、どこまでいくつもりだ?」
「そろそろ降りようか?」
「……本当にシークレットなツアーだったようだな」
 何もかも衝動だったことは、あとで謝ろうと思う。謝ったところで、何もないまま帰るつもりもないのだけど。
「帰れなくなるぞ?」
「帰るつもり、ないもん」
 カラ松がじっと僕を見ている。電車の中は人がまばらで、この車両には僕とカラ松しかいない。
「そろそろ話してくれてもいいんじゃないか、ブラザー?」
「……なんて言えばいい? どこから?」
「何から楽になりたかった?」
 どこまでわかっているのか、カラ松はゆったり足を組み直しながら僕に尋ねる。
「毎年見てる夢と、今日気づいたけど、思い込み?」
 口に出しながら、そのことを考える。あの夏に囚われている。それから逃げるために、普通になろうとした自分を、捨てに行こうとしている。もうそれはいらないんだって、僕が自分に言ってやらなきゃいけない。
 誰も僕らのことを知らない場所までいけば、僕は。
「楽になれると思うんだ、たぶん」
 やれやれ、というように肩を竦めてから、兄さんはわざとらしいウィンクを僕に投げてよこした。
「高校最後の夏、暑かったな」
「……うん、暑かった、今も暑い」
 がたん、ごとん、と揺れる電車。知らない景色。僕の中にある何かを捨てるために、海に向かっている。
「あの時から、俺は案外悪くないと思ってたんだぜ」
「……は?」
「お前があんまり逃げるから、追いかけなかっただけで」
「え、え、待って、何の話? ねえ」
 冷や汗がどっと噴き出る。僕はまだ、何も言っていない。言っていないはずだ、あの夏の夢を毎年見ることも、その感触が現実と疑うほどリアルだってことも。
「俺を好きだって話じゃないのか」
「わあっ、待って、おかしいとか思わないの!?」
 きょとん、と昼間と同じように目を丸くしたカラ松が僕を見る。なんでその意味を考えないといけないんだと、ありありと顔に書いてある。
「愛は愛だろ、どっちも好きあってるんならオーライさ」
「……兄さんって時々むちゃくちゃ……」
「すきだろ?」
 知っている、と態度で示してくるのに腹が立って仕方がない。でも、たぶん、それでも好きだから、この手を取って逃げてきたんだ。家族の気配がする場所から、街から、今までの僕から。
「すきだよ」
 電車が停まる。終点らしい。降りるように促され、少ない手荷物を持ってホームに降りた。他の車両にいたらしい人たちが改札に向かうのについていって、知らない駅の外に出る。ひぐらしの時間は等に終わり、コオロギと蛙の合唱が始まる頃になっていた。
「……ホテル探す?」
 そう言って振り返れば、カラ松兄さんは僕をじっと見つめたまま立ち止まってしまっている。何か変なこと言ったっけと近寄れば、兄さんの目がいつものように煌めいた。「それはメイクラブのお強請りか?」
「ばっかじゃないの!?」
 反射的に言葉が口から飛び出て、慌てて周りを見渡す。誰もこっちを見てなんかいない。遠くの電線に止まっていたカラスが一羽、飛び立っていっただけだ。
「悪くないと思ったんだがなあ」
「……いくよ!」
 いつかの夢では、キスよりもっと激しく兄さんを求めたこともあった。夢精を迎える朝は虚しく、それも隣の兄弟の夢でと考えれば悩みも深まったものだ。
 それも、小さいことのように感じる。愛があればとかそんなことは格好つけすぎのような気がしてむず痒い。ただ、それが全てであることは、よくわかっていた。
それらしきホテルは案外すぐに見つかった。無人のフロント、光るパネル。馴染みのないそれを二人で眺めながら、本当に来ちゃったけど大丈夫なのと確認することもないまま、カラ松兄さんがひとつの部屋を選んだ部屋に滑りこんだ。どこにも男同士じゃダメなんて一言も書いてなかったから、きっと大丈夫なはず、だと思う。
「案外広いな」
「あ、あのさ、兄さん?」
「シャワー浴びていいぞトド松、俺はトレジャーを探す」
わくわくと部屋の中を見て回る兄さんはどうやら僕が眼中にない。まわってこのリモコンは何だとか、照明が切り替えられるだとか、おもちゃを見つけたみたいに色々遊んでいるものだから、脱力してしまう。
「……僕も遊ぶ!」
「これすごいぞトド松、ムーディなライトが!」
照明のつまみをひねれば、色から照度から色々変更できて、思ったより面白い。何故かスポットライトを浴びられるコーナーがあって、交代で立ってみたりした。どんなプレイに使うのか考えるのは、やめた。
「この箱、何が入ってんだろ? ティッシュ?」
「アメニティとか?」
 枕元においてある小さな桃色の小箱を開ければ、そこから出てきたのはアメニティでも何でもなく、コンドームの束だった。ここがどこだか忘れていたわけではないけれど、遊ぶのに夢中ですっかり頭のなかから吹き飛んでいた。
「……シャワー浴びてくる」
「あ、う、うん……」
一瞬生まれた気まずい沈黙を壊すみたいに、兄さんが先に立ち上がった。風呂場に消えた背中、シャワーの水音を聞きながら、余計なことを考えてしまう。
 男同士でやるって、どうすればいいんだろう。いや、うっすらとはわかっている。どこを使うのかも、そのためにどうするのかも。
「……もう、雰囲気でなんとかするしかない? 夢の中なんて都合いいことしか起きないし、僕の妄想なわけだし、あーもうわかんない、無理だよ、考えるのやめよう……」
 ぶつぶつとひとりごとをつぶやきながら、大きなベッドの上を転がる。
 勢いで逃避行、勢いでメイクラブ。給水塔の裏でキスをしたのも、そういえば勢いだった。僕らはきっとそういうふうにできているんだ、いきあたりばったりにぶつかってなんとかするように。
「何ぶつぶつ言ってるんだ?」
「兄さん早かったねっ」
 ベッドから起き上がって、髪がしっとりしてる兄さんの手を引いて、ベッドに招く。驚いた顔をする兄さんの背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。バスローブの紐が解けて、ベッドの上にはらと広がる。
「シャワーはいいのか?」
「……待てなくなっちゃった」
 半分嘘で、半分本当だ。いざ触れられるのが怖いのと、あの夢の感触が現実になるのが楽しみなのとが混ぜこぜになっている。
「……トド松、先に言っておくが」
「何……」
「つっこむのはお前のほうだからな?」
 は、と素っ頓狂な声がこぼれた。呆気にとられる僕を置いて、カラ松兄さんがいうことには、一昨年の夏、僕が寝ぼけながら兄さんの名前とともに、気持ちいいだの何だの言ったらしい。知りたくなかった。できれば一生。
「それから色々調べて、まあ」
「……え、じゃあ兄さん、後ろ……?」
 使えるの、と口に出そうとして、兄さんの顔が赤くなっていることに気づく。余裕がないと何にも気付けない僕はダメなやつだ。
「……ごめんね兄さん、ありがと」
「いいさ」
 結構気持ちいいし、とからりと笑ってくれるから、僕も気持ちが軽くなる。そのまま、兄さんの唇を自分のそれで塞いだ。微かにミントの匂いがする。シャワーの後だからか潤った唇は柔らかくて、何度も重ねて、その熱を奪った。
「っあ、ふ」
 舌を絡め、互いの唾液が混じる水音が耳に届くと、かっと体が熱くなる。唇が濡れて、触れ合う熱をもっとと求めれば、どちらのものかわからないそれが顎をつたって落ちた。一度開放して、今度は触れるだけのそれを一度。
「ん……っ」
「……兄さん、声がさ、かわいい」
 普段は低い声が、甘えるみたいに高くかすれて漏れるのが、たまらなく可愛いと思う。同い年の、六つ子の兄弟に向ける台詞ではないかもしれない。でも、僕は本当にそう思っているのだ。
 兄さんが目をそらす。その耳が赤く染まっていて、照れているらしいことに気づいて、僕もじわじわと顔に熱集まってきてしまった。照れくさいと思ったら、手が止まってしまう。時間が過ぎてしまう。
 つぎはどうすれば、と思いながら抱き寄せていた兄さんの体をベッドに転がした。愛撫は上から下、と言っていたのは何だったろう。誰かのAVだっただろうか。とにかく今思い出したそれに習って、耳の裏から首筋を撫でる。
「くすぐったいな」
「今だけだよ」
 首筋から、喉仏へ。一瞬体がこわばる。急所に触れるというのは、無意識でも体を緊張させてしまうらしい。そのままゆっくりと鎖骨を撫で、羽織ったままのバスローブの前を開いた。
 両胸の飾りが目に飛び込んでくる。ぴんと尖るそれに手を伸ばし、指先でくにくにと潰せば、兄さんは唇を噛んで超えを耐えた。もう片方を口に含めば、大げさなくらい兄さんの体がびくりと跳ねる。びっくりして口を離し、兄さんの顔を見た。潤んだ目が、僕を睨みつけている。
「とっ、トド、まつ!」
「なに」
「そ、そこは、あっ」
 震える声音は、嫌がってなんかいない。かし、と痛くならないように軽く噛めば、兄さんは眉間にしわを寄せてぎゅっと目をつぶる。何かを我慢する、みたいに。
「……ひ、ひとにされるのは……!」
「自分でも触るんだ」
 それでこんなに反応がいいのか、と思うと少し惜しいような気持ちになる。最初から知っているのも面白くないなんて、わがままがすぎるのだけど。
「一緒にすると、どう?」
「んぅ、う、あっ、あ!」
 乳首を捏ねて、先端を摘まんでやりながら、もう片方を舌先で転がす。びくりと跳ねる体が面白くて、組み敷いたそれに夢中で吸い付いた。
「ベイビーに戻ったのか、とどまつ……?」
「そういうプレイはまだ早いかなー」
 相手を気持ちよく出来るっていうのは、ものすごく心がほっとするものらしい。自信がつく、といえばいいのか。
「……でさ、後ろって……どうすればいいの」
「ローション使って、解す……」
 兄さんの視線が、枕元のローテーブルに鎮座するローションに移る。手を伸ばしてそれを取り、キャップを開けて、手のひらにとろりと伸ばした。
「足、開いてくれる?」
「……ん」
 バスローブを敷いたまま、兄さんがゆるゆると足を開く。上半身を起こし、手を後ろについてそうすると、見るからにきつく締まった孔がある。
「皺、伸ばすみたいに……塗ってくれるか?」
「わかった」
 ローションを伸ばすようにして、襞のひとつひとつが馴染むように塗りこんでいく。周囲を軽く触ると、向かい合う兄さんの熱い吐息が僕にかかった。僕の吐く息も、きっと同じような熱さをもっている。
「おれが、息を吐いたら、指入れてみてくれ」
「……ん」
 飲食業において、爪が伸びているのはタブーだ。こんなところで役に立つなんて、思わなかった。短く切りそろえられた僕の爪は、兄さんの内側を傷つけずに済む。
 ローションを足し、孔の周りにくるくると広げていく。
 は、と短い息を吐いた瞬間に、指を埋めた。それは思いの外呆気無く受け入れられ、熱くうねっている。入ってきた指を追い出すような締め付けに、ここに挿れるなんて、とどこか遠い出来事のように感じていた。
「っは、あ、はあ……っ、待って、な」
 僕はもう、頷くことしか出来ない。さっさと服を脱いでおくんだった。目の前でこんな痴態を見て、童貞がどうなるかなんてわかりきっていたというのに。
 体にじっとりとにじむ汗で、シャツが背中に張り付いている。兄さんの肌に浮かぶ汗が流れて落ちていくのを、見ている。
「……とどまつ、ちょっと、動かして」
「え、どう……?」
「ハメる動き、わかるだろお……?」
 熱っぽいカラ松兄さんの声に当てられて、頭がぼうっとしてしまう。言われてからはっとして、中に入れていた指をじわじわと抜いて、またローションを足して、もう一度中へ突き入れる。熱いその内側は、さっきまでの追い出す動きとは違って、内側へ導き、誘うようなそれに変わっているように感じた。
 くぽ、とローションが中に入って垂れる音が堪らなくいやらしい。耳を塞ぐことは出来ないまま、その湿った音が耳の内側まで沁みるような、そんな気がした。
「ん、んっ、……!」
 内側からくる刺激に耐えるカラ松兄さんの声を聞きながら、指をもう一本増やす。きつく締められながら、ばらばらに指を動かしていく。ある箇所に触れた、瞬間様子が変わったように見えた。
「あッ」
 ひく、と中が蠢き、つま先がきゅっと丸くなる。伸びていた背筋が、くたりと折れる。後ろについた手を支えにして、ゆるく頭を振った。
「はっ、ぁ、ア」
 聞いたことのない声が、溢れてくる。そこばかりを指の腹で苛めてやれば、震える手が僕の袖を引いた。潤んだ目が、赤く染まる頬が、浮いた汗の粒が流れ落ちて、僕を誘っている。
「もうい、からっ、……わかるだろ……?」
 くらりと目眩を覚えたのは、気のせいじゃない。
「兄さん、カラ松兄さん、からまつ」
 名前を呼んで、縋って、唇を求めながら忙しなくベルトを外す。舌を絡め、唾液が溢れるのももはやどうでもよくて貪るようにすれば、唇がぴりと痛んだ。唇の皮膚は薄い。キスでも十分な刺激で、腫れかけているようだった。
 名残惜しいと思いながら唇を離し、じっとりと背中にへばりついていたシャツを脱ぎ捨てた。ズボンを脱ぐ暇すら惜しくて、間抜け極まりないけれど、中途半端に下着ごと下ろした。
 どちらのそれも、とっくにかたく勃ちあがっている。汚した下着の替えがないとか、今はもう考えていられない。
 腰のあたりにぐいと押し付けてやれば、先走りがシーツに落ちる。兄さんのバスローブはローションと兄さんのそれで、くたくたに湿ってしまっている。
「からまつ、」
 コンドームをつける手は、少しだけ震えた。体はかっかと熱くて、呻くように名前を呼んで、ぽっかりと口を開けた孔へ自身を押し当てる。
「……ぅあ、はっ、あ……!」
 苦痛を訴えるような声を聞きながら、それでも、突き入れる腰は止まらない。太い場所をくぐり抜けた瞬間、あまりの熱さに、うねりに、何もかも攫われそうになって歯を食いしばる。
「とど、あっ、とどまつ……!」
 熱いとか、もう無理だとかいう声を聞きながら、それでも腰の動きが止められない。シーツを握りしめるカラ松の指先は白く、無理強いをしているのは明らかだった。
「ごめ、んっ、止められなくてえっ……!」
「あっあ、いい、からっ!」
 気にしなくていいという意味なのか、気持ちがいいという意味なのか、問いただす余力はない。肌と肌のぶつかる音、自分の声もかすれて情けない響きを持っている。繋がったそこは熱くて、もうあの夏の匂いなんか思い出せないくらいだった。
「触って、トドまつ、おれの……っ」
「ん、んっ、ほら」
 揺さぶられるままのカラ松兄さんは、自分のそれをどうにも出来ない。後ろからの熱に翻弄されるままだ。だらだらと先走りをこぼすそれに触れて、擦ってやれば、後ろが一際強く締め付けてくる。お互い、限界が近いようだった。
「あっ…あ、だめ、だめだ、とどまつ……っ!」
「いいよ、イッて……ぼくも、もう……!」
 瞼の裏に、ちかちかと光が待っている。夏の日差しに似ている。腰の動きを早めれば、兄さんの口からひっくり返ったような、甘い声が溢れる。手のひらに白濁が広がって、釣られるように僕もまた、薄く隔てられたそれの中に欲を吐き出す。
 青臭い匂いの中に、夢に見たあの夏のそれは、気配を消してしまったようだった。


 日が昇った頃、ホテルを出た。強い風が吹いている。潮の匂いが鼻をくすぐって、ここはそういえば知らない街だったのを思い出す。
 十字路、信号、消えかかった横断歩道、堤防に止まったカモメたち。ピーヨロー、とトンビの声がする。それを合図に蝉が鳴き始めて、僕は空を見上げた。
 青い空と、白い雲と、カモメに混じって飛んでゆくトンビのシルエット。知らない夏の景色が、目の前にあった。
「トド松、ちょっと貸してくれ」
「帰れるだけあるかなあ」
 二人の財布をひっくり返して足したら、なんとか帰りの運賃に足りた。
「捨てられたか?」
「まだ残ってる気がするけど……」
「ま、そのときはそのとき、ラブで乗り越えようぜ」
「何とかなる、ね」
 昨日までだったら、普通ってなんだっけ、兄弟ってどうすれば普通なんだっけと頭を抱えるところだったと思う。今は、些細なことに感じた。
「僕が兄さんを好きなのは、本当だから」
 嘘にするつもりもないのだけど、自分の言葉が一番頼りなくて、じっと兄さんの目を見た。視線は泳がず、じっと僕を捉える黒い瞳が、ゆっくりと細くなる。笑っている。
「本当とかいうと嘘っぽいぞ、そういうときはこうだ」
 言葉の代わりに、熱が僕の唇に触れる。あの夏みたいに、少しひりつく唇でじゃれあいながら何度も口づけを交わす間も、蝉の鳴き声は降り続いていた。

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