七章 女神の加護を受けた騎士
延々と田舎道が続いている。道は舗装されているけれど、小さな林に並ぶ木々は変わっていない。青白い月に替わって、目映い太陽が昇っている。道々に残るまだらな雪が日を跳ね返している。
教会へ急ぐ。トリスタンは誰かを待っているわけではない。教会を出たら、その足取りはわからなくなってしまう。
アイビス。トドロップ。バルサム。どれも雪が積もり、緑も見えない。
道中、都の方へ向かっていく馬車をいくつか見た。人々の顔は一様に暗く、不安に満ちている。あの手鏡で見た光景がよぎる。彼らは、街から逃げる人たちなのかもしれない。
僕の姿は本当に誰にも見えていないようだった。馬車の真上を飛んでいるというのに、誰も人間が飛んでる、なんて声が上がることはないのだ。彼らが俯いているせいかもしれないけれど。僕は、馬車を見送りただ急ぐ。
マリエシ。デンサ。ファーガシー。マリエシの木は、なぜだか雪が積もらない。葉についた成分が雪を弾き落とすのだ、と教えてくれたのはカラ松だった。
丘が見えてきた。大きく羽ばたくだけで、教会が見える。飛べばあっという間なんだな、と思うと何だか不思議な感覚だった。
教会につく。外から見た教会は、僕とカラ松が暮らしていたころの面影はなく、廃墟そのものだ。壁が崩れ、屋根が落ちていない分、人のいない気配がそのまま残っているのが余計に怖く見える気がする。
表の扉は開いたままだ。僕はそこから中に入り込む。
カラ松――いや、トリスタンは地下から引っ張り出してきた絵をしげしげと眺めていた。手には、シャン・エミュ教会にあった美術品のリストを持っている。地下室で保管されていたからか、紙はあまり劣化しなかったようだ。
小さく並ぶ一松の字が懐かしく、彼の傍で記録を一緒に読み始めた。
――以上、三十六点の保管を依頼する。シャン・エミュ教会の被害は大きく、再興には時間がかかるだろう。放火を行った人物については、当方で捕捉済みである。なお、保管した絵画の一部には放火された際の仕掛けが残っているものがあるので、取り扱いに注意されたし。
火災の記録。ここにある美術品の一覧。火をつけたあの人のことについてまで、細かく載っている。
「仕掛け、か……」
地下から引き上げた絵に視線を投げ、ため息を吐く。
九十九年放置されてもなお絵は変わらず、つまり火事のあったとき――恋人を失い、転生を信じられなくなったあのひとが仕掛けた火薬が残っている状態らしい。
黙々と額縁の裏に仕掛けられた火薬を外し、状態を調べている。一瞬火をつけてみようとしてやめ、小さなケースに入れて荷物の中にしまった。
火薬の仕掛けられた絵を持ち上げ、そのまま静止する。絵に見入っているようだった。僕はその顔をじっと見ている。トリスタンは、カラ松とほとんど変わらない容姿をしている。けれど、彼は僕と思い出を分かち合ったカラ松とは別の人間なのだ。同じ顔の他人というのは、どこか落ち着かない。
「ただ愛でることが出来ないのがもったいないな」
ぼそりと呟く。どうやら絵を持って帰るつもりらしい。火薬の仕掛けをつけたまま、大きな布でくるんで持ち上げた。
教会を出る背中を追って、ゆっくりと丘を下りていった。舗装された道というのはどうも見慣れない。そのまましばらく歩く。彼は僕の故郷へ向かっているようだ。
街のあまり風景は変わっていないような気がするのだけど、どこか雰囲気が暗い。さっきこの街から離れていく馬車を見かけたこともあって、人がいないのではと不安が過ぎる。
彼は迷うことなく一軒の大きな建物の扉を叩いた。どうやら宿屋のようだ。宿の店番をしているらしい少女は眩しい笑顔で迎えてくれた。心なしか、トリスタンもほっとしているように見えた。
「いらっしゃい、都の騎士がこんなところまで?」
宿に部屋を取るらしい。僕は彼の背中について、宿屋のお嬢さんとやり取りをしているのを見ている。
「どこにだっていくさ、騎士だからな」
「こんな辺境まで気にかけてくれてるなんて、大変なのね?」
少女の言葉を受けてか、指先で頬をかいて目尻を下げた。照れくさいときにこの表情を浮かべるのを、僕は何度か見たことがある。その表情にカラ松の面影を見てしまい、胸の奥がちくりと痛んだ。
「ふっ……何、この国を守る騎士として当然のこと……してお代は?」
「金貨三十枚ね!」
「……レディ、ここにある額と違うようだが」
フロントには金貨十枚とある。三倍の額だ。
「仕方ないじゃない、最近このあたり物騒で人が来ないんだもの!」
「……そうだな、仕方ない」
手鏡の中で見た映像を思い出す。アカツカに侵略の疑いが掛かっている今、国境は緊張状態にあるであろうことは想像に難くない。国境にほど近いこの街もそうだ。宿はがらんとして静かで、トリスタン以外に客の気配はない。
「そのかわりおいしいご飯出すから、期待しててね」
「楽しみだな、よろしく頼む」
二人の談笑を聴きながら、本当に僕は誰にも見えないのだと実感する。こんなに近くにいるのに、と思うと少し寂しい。けれど、これを乗り越えてこそ僕はカラ松への償いが出来るのだ。両手で頬を叩き、宿の二階へと消えるトリスタンの後を追った。
宿は二階建てで、部屋の数は片手では足りない。僕が住んでいた頃はこんなに大きな宿なんてなかったから、割合新しい建物のようだ。
部屋につく。荷物を置く。一息つく彼を見ながら、僕は保護をするにも何をやればいいのかと考える。そもそも、何から彼を守ればいいのだろう。
僕が考えている間、トリスタンは机に向かい、ペンを走らせている。報告書を書いているようだ。彼の叔父から依頼を受けてきた以上、使者として訪れることを拒まれたことや、僕のいた教会のことなんかをまとめないといけないのだろう。僕のことは書くのだろうか。しばらく机から離れることはなさそうだ。
彼を見守りながらしばらく考えようとベッドに腰掛けた瞬間、窓ガラスが硬質な音を立てて割れ、破片が床に散らばる。ガラスの破片とともに、手のひらほどの大きさの石が転がっていた。
子供のいたずら? いや、外に子供の影は無い。人の声だってしない。騎士への嫌がらせ? 到着に気が付いた人たちはそもそも多くない。嫌がらせをするとして、国境が緊張状態である今、自国の騎士にする意味なんてあるだろうか。
彼はため息を一つ、慣れた様子でガラスを片付け始める。階下から、宿屋の少女が大丈夫かと尋ねる声がする。
「すまない、外から石が降ってきたようだ」
「ホウキと塵取り持っていきます! 危ないから、触らないでくださいね!」
すでに集めかけたガラスの破片をそっと床に戻す。指を切らなくてよかったけれど、あまり安易に触るものではないと思う。
さて、問題は石を投げ込んだ人物が誰であったかと言うことだ。割れたガラスから外の様子を見れば、木の陰に隠れて こちらを食い入るように見つめる目を見つける。手には石。再び投げ込むつもりらしい。
――こういうことか!
トリスタンの生命保護、その一端を理解してひらりと宙返りをする。目の前が一瞬白く染まり、自分の手が翼になっているのがわかった。鳥に姿を変え、割れた窓をふさぐように立ち、犯人をじろりと睨む。
こちらを見上げている小柄な男は、僕が邪魔で石を投げ込むことが出来ないようだ。それからしばらく、男の姿が消えるのを待ってから部屋の中を振り返る。
「……いつの間に、どこから鳥が?」
まん丸の目が、僕を見つめている。しまった、部屋の外から入ってくればよかった。知らんぷりをして、そのまま窓に止まった。どうやって誤魔化せばいいだろう、鳥なんて
少女が部屋に入ってくる。僕の姿を見て、きょとんと目を丸くした。
「鳥が突っ込んできたの?」
「それはな……」
「ま、いいや! ガラスの代金上乗せしとくわね!」
少女はにっこりと微笑む。親指と人差し指で丸を作って、ひらひらと手を振って見せる。トリスタンは苦笑を浮かべたままだ。金貨三十三枚、と言うご機嫌な声に深いため息が続いた。
「えぇー……」
少女は割れたガラスを片づけてばたばたと去る。僕はまだ窓から動けない。
「そこにいたら危ないぞ?」
鳥になると姿が見えるらしい。小さく鳴けば、表情が和らいだ。よしよし、と恐る恐る撫でる指の感触が心地よく、僕はしばらくされるがままになっていた。差し出される指の形まで、僕の知るカラ松のそれと同じだったから、拒む理由もない。
「仕方ないな」
好きなようにさせてくれるらしい。僕はそのまま、窓辺に立っていた。トリスタンは何かに狙われているらしい、というのを感じながら。
「鳥よ、誰にも言えないことだが聞いてくれるだろうか」
トリスタンは割れた窓をそのままに、文を書いては封筒に留め、何かを書きつけては残し、というのを続けていた。僕はその間ずっと窓に止まっていたのだけど、追い払われるどころか喜々として彼に話しかけられる始末だ。返事をする鳥というのもおかしい気がして、首を傾げておく。彼はそのまま話し始めた。
「隣国の国境にある村が焼かれたんだ。村からはアカツカの騎士団が使う矢や折れた剣が落ちていたと聞いている」
歯切れが悪い。自分の目で確かめたわけではないようだ。
「……もしそれが本当なら大事だ。アカツカの騎士団に所属する誰かがやったというなら、俺たちはそれを許すわけにいかない」
彼の瞳は静かな湖のようだった。激情に駆られるわけでもなく、淡々と独り言は続く。
「調査の使者として赴いたのだが、追い返されてしまった」
困ってしまうな、と笑う彼の様子からして、あまり良い扱いはされなかったのだろう。悲壮な空気が僕にもはっきりとわかった。自身の感情を隠すのはあまり得意ではないらしい。
机の上に広げた封書を指先でとんとんと叩く。宛先はない。ただ書き残しておくのが目的なのかもしれない。
「国境警備隊の騎士たちは自浄せねばとぴりぴりしているし、燃やされた村の方で青い炎を見たなんて話もある……何も解決しないでは、叔父上に会わせる顔がないな」
彼はふと手を止め、荷物の中から小さなケースを取り出す。中身は教会で見つけた絵に仕掛けられていた火薬だ。白い紙に包まれている。薬包紙らしい。
「……青い炎か。獅子神信仰の儀式で使われる炎は、青の焔と呼ばれていて火薬師と呼ばれる一族しか製造方法を知らないと聞く」
机の上に広がる紙の中に、シャン・エミュ教会に火をつけたあの人の出自が書かれたものがある。一松の小さな字で、火薬師と走り書きがされていた。
書類の上に火薬をころりと転がす。およそ百年、地下に保管されていたものだ。火がつくかどうかもわからない。けれど、この火薬は何色の炎になるのだろう。
机の上に飛び降り、つついてみようかと足を伸ばす。鳥の姿だから、実際のところ爪の先になるのだけれど。
「いけない」
両手で捕まえられてしまった。ぎゅっと捕まれると、手のひらの熱をじんわりと感じる。
「これは火薬だ。火がついたらどうする? おまえの美しい羽が焦げてしまうぞ」
そう、火薬だ。教会が燃える原因になった、あの火薬。あの炎。僕は教会に燃え移ってからの炎しか知らない。彼は僕を机の上からどかし、そうっと指先で火薬に触れた。
「……これはまだ燃えるのか?」
荷物の底からマッチを取り出し、そっと火薬に近づける。まさか地下に百年近く放置されていた火薬が燃えることがあるのだろうか。煙が出て終わりだろう、と僕も間近でそれを眺める。
薬包紙に火がつく。ちりちり、と小さく音がする。細く煙が上り、やがて火薬の端に熱が移る。着火の助けとするためか、この火薬自体は大きな炎にはならないようだ。
「……青いな」
青い炎がゆらゆらと揺れる。すぐに火を消し、難しい顔のまま腕組みをした。
「燃やそうと思ったのだろうな、あの絵ごと」
側にあった絵の包みを解く。絵画の額には、同じ火薬が隙間なく仕掛けられている。
「叔父上を頼るか」
トリスタンは、自分で考えるのをすぐに諦める癖があるようだった。僕は火薬の端、灰になった薬包紙を爪でひっかく。
ぱらぱら、と屋根を打つ雨の音がした。雪ではなく、雨が降っている。ガラスは割れたままだから、雨粒が床板を叩く。
「雨だとおまえのような小鳥は困るだろうが、女神様から与えられる水は吉兆なんだぞ」
彼は機嫌よく僕の頭をぐりぐりと指先でなでた。そんなことは、僕も知っている。カラ松は騎士になっても女神様への信仰は変わっていないらしい。元々そういう性質の人間なのかもしれない。
トリスタンは、トリスタンだ。カラ松じゃない。けれど、彼の声から、言葉から触れる思想から、仕草から、すべてにカラ松を思いだしてしまう。これも悪くはない、けれど。
コツン、と扉をノックする音が響く。
「……ふむ、人を呼んだ覚えはないのだが」
彼は小さく首を傾げ、絵を机の上に置く。燃えたあとの火薬を隠すためかもしれない。
「あの、こちらのガラスが割れたということで、修理にお伺いしたんですが……」
「ああ、ありがとう。ご苦労さま」
割れたガラスを取り替えにきたという男を彼が招き入れる。小柄な男だ。その顔にはっとする。見覚えがあった。ついさっきまで睨んでいたのだから当然だ。
――トリスタンの部屋に石を投げ込んだ男じゃないか!
僕は知っているけれど、彼は知らない。伝える手段もない。僕はただ、男を警戒している。
何かするつもりじゃないだろうか。トリスタンに直接危害を加えるつもりなのかもしれない。僕は彼と男の間にすぐ飛び込めるように、距離を測る。
「雨粒が入ってきて困っていたんだ、よろしく頼むよ」
男は机の上に出ていた絵をちらりと見て、目を光らせた。
「転生の絵ですか?」
彼の返事を待たず、男は矢継ぎ早に言葉を続ける。
「女神信仰における転生の絵と言えば、扉が描かれるものですから……転生の扉を描いたものは数多くありますが、こちらは珍しいですね、扉が閉じている。扉が開くことで転生を示すのではありませんでしたか?」
絵の話を嬉々としてする男は不自然なほどの笑顔を浮かべている。怪しい、と感じたのだろう。彼も少し表情を強ばらせている。
確かに、彼が持ち出した絵は転生のときに通るとされる扉が描かれたものだ。同じ題材をもつ絵では、大体にしてこの扉が開いている。
「転生を拒む、もしくは転生できない、ということでしょうか? 私はあまり明るくなくて、お恥ずかしいかぎりです」
男が床においた工作器具からは点火器が顔を覗かせている。これから何かを燃やしますよ、と宣言するように。その何かに、僕はうすうす気がつき始めている。
「……状態が悪くなると困る。窓を頼む」
「これは失礼しました。では早速」
彼が背を向けた一瞬を、男は見逃さなかった。点火器を持ち、絵に向かってそれを差し向けたのだ。
――絵が、燃えてしまう!
鋭く鳴き、彼が気づくより先に男の手から点火器をたたき落とす。僕の鳴き声に気づいて振り返った彼は、ほとんど反射的に床に落ちた点火器をつま先で蹴り飛ばしていた。
「……! この鳥、一度ならず二度までも!」
「そこまでだ」
トリスタンはとっくに絵を男の手に届かないところにしまい込んでいる。僕が蹴落とした点火器も部屋の隅だ。これで、絵が燃やされることはない。
「いや最初から気がついてはいたんだ、ドアの向こうに君が隠れていたというのは」
男はわかりやすく動揺し、目を泳がせる。気づいていながら招き入れたことを信じられない、という顔だ。僕だって気がついていなかった。
「でなければあんなに一人でべらべらしゃべるものか」
……独り言ではなく、わざと聞かせていたらしい。僕に話しかけていると思っていたから、少し恥ずかしい。
「石を投げ込んだのも君だな? 俺が絵を持ち出したことを知っているのは、俺の後を尾行していたからだろう?」
ずっと跡をつけられていたらしい。石を投げ込んだのは気が付いたが、それより前から彼の後を尾行していたのは知らなかった。
「……目的はやはり開戦か?」
「神の力は弱っている、神のもとへ往ってお助けしなくてはならんのだ」
見当がつかない、というように困った顔をしている。男の言う神は、おそらく僕たちの信仰する女神様と違う。
「……誰に吹き込まれたかは知らないが、本当に神はそれを喜ぶのか? 地上の命を奪い、神を助けよと言うのが君たちの信ずる神なのか?」
僕たちと違う神の信仰を持ち、それを信条にしているらしいことはわかった。彼は疑問を思うままに口にする。
「あの赤々と燃える炎の中に往くのが我々だ、愚かな人生を繰り返すお前たちとは違う!」
男の目は爛々と燃えている。儀式に使う炎が青であるなら、その生を送るのが赤い炎だ。彼らは火葬を執り行うことで、炎を通して神々の国に行ける、と聞いている。
「我々は女神に与えられた命を全うさせ、世を発展させていかねばならない。……神はどこからでも我々を見ている」
トリスタンの言う我々の中に、僕は含まれない。転生をするどころか、拒んでいるのだから当然だ。
二人の会話は平行線をたどっている。男は彼に理解させようと躍起になっているし、彼は理解ができないことに混乱しつつある。直も何か喚こうとする男の声を聞くのが、辛くなってきた。
「……? 鳥、何を」
彼の声は聞こえないふりをして、机の上から飛び、空中で助走をつけて男に頭突きを見舞う。鳥の頭は結構頑丈だった気がする、と思ってやってみたが案外うまくいった。男は意識を失ったのか、ばったりと床に倒れ込む。
「う、うるさかったのか……?」
そんな感じ。ふん、とそっぽを向く。
「跡を付けられているのはわかっていたんだが……直接手を出してくるとは」
彼は気絶した男の情報を得ようと彼の荷物を調べ始める。しっかりしている、と思った。果たして、神様が言うように彼を保護する必要はあるのだろうか。外で降り続く雨足がようやく遠くなりつつあった。
気絶した男は縛り上げておき、雨を上がるのを待ってトリスタンは宿を出た。直接手を下してきたのを見て、このまま宿にいるのは危険だと判断したらしい。
宿の少女は料理を振る舞う機会を失って残念そうにしていたが、いつかまたくるという彼の言葉に笑顔を浮かべていた。何より金貨三十五枚が効いた。財布か何かだと思われているのでは、と僕は少しはらはらしている。
お礼のつもりか、人を連れて行くのは大変だろうからと少女がロバを貸してくれた。確かに男をつれて、さらに火薬を仕掛けられたままの絵を持っていくというのは無理がある。
「そろそろ日が沈みますから、道中お気をつけて」
「ありがとう、世話になった」
手を振り合って別れ、僕たちは街の向こうにある国境警備隊へ向かう。ロバの歩みは遅く、再び月が昇っている。
「鳥よ、お前も山に帰るか?」
鳥は夜目が利かない。僕は鳥に化けているだけだから、夜でも昼と変わりなく見える。ロバの鞍に止まったまま、半歩先を歩く彼の顔を見る。微かに笑う表情の中に、どこか寂しげな気配がある。僕はそのまま鞍に止まっていた。
闇の中、カンテラの明かりを頼って歩き続けることしばらく。国境の砦、その門が見えてきた。昔、本当にずっと昔だけれど、ここに忍び込んで怒られたことがある。今思えば怒られるのは当然だとわかるのだけど、僕らにとっては度胸試しにちょうど良いどこか恐ろしい雰囲気の建物だったのだ。
門の前に人影が見える。見張りの衛兵とは違うようだ。また追っ手かと睨みかけたところで、彼がぱっと表情を明るくする。
「叔父上!」
「トリスタン、待っていたぞ」
叔父上、と呼ばれたその人は朗らかにトリスタンを迎え入れる。短く刈り込んだ髪、がっしりとした体躯。人の良さそうな優しい目だ。その目は少しだけ、彼に似ている気がする。
「……今は叔父上ではなく、隊長と呼ばれたいところだが」
「隊長、ただいま戻りました」
役職上でも上司と部下の関係であるらしい。彼は門を開けた先にいる衛兵にロバの上で未だに気絶したままの男を引き渡す。二人はそのまま砦の中へと入っていった。
僕はロバの鞍から飛び降り、姿を天使のものに戻して二人についていく。トリスタンは休まない。
叔父上――キタアカツカ地方を治める伯爵であり、現在の国境部隊を預かる隊長と彼は机を挟んで意見の交換を始める。他に控えている人がいないあたり、彼だけがこの任についているらしい。
「使者すら入れないと来たか、厄介だな」
広げた地図にはいくつもの書き込みがしてある。使者にバツ印、情報交換にバツ印。どうやらこれまでに失敗した策のようだった。隊長は口髭をさすりながら深く考え込む。
「数日前に倉庫から武器が盗まれていてな。盗賊団の仕業かもしれないが、これらがあの村で使われていたとしたらアカツカに罪を被せようという思惑があるのではと……」
「……確かめるためには、村にいって使われた武器を見ないことにはわからない」
二人はそろって腕組みをし、うなる。
「既に宣戦布告しそうな気配もある……」
隊長から告げられた言葉に、トリスタンは瞬きを二度して、それからしっかりと隊長の目を見た。何をすればいいかを彼なりに考えているらしい。芯がしっかりしすぎているのではないか、と思う。
「……潜入しかない。私が行ってきます」
その言葉を待っていたとばかりに、隊長は頷く。もうそれしか残されていない、と言うのが正しい。
「ではトリスタン、お前が先行して現地へ向かい、情報を得よ。案内のものをつける」
「はい、すぐに!」
「いや、今日は休め。歩きずくめだったろう」
隊長は食事を用意させるといい、彼を下がらせる。叔父と甥の間柄は、この緊張状態でも穏やかであるようだ。
二人の会話が隊長と部下のそれではなく、叔父と甥のそれに変わっていく。僕はその場を離れ、外に出た。
――なんだか大事になってきてしまった。僕はちゃんと役目を果たせるだろうか。答えはなく、ただ冴え冴えとした月光がこの地を照らしていた。
翌朝、連れてこられた案内人は長いコートを着ていた。国境で運搬の商いをしているらしい。寒がりなのか、室内なのにコートを脱がない。
「どうもー、道案内だったら任せて! 俺、あのあたりの抜け道には詳しいからさ」
「抜け道というのはどのあたり……」
「地図で説明しようか?」
トリスタンと案内人は机の上に広げた地図を指しながら、抜け道についての話を始める。道の広さ、周りに何があるか。挟み撃ちにあって逃げる場所がなかったらと考えると肝が冷える、という彼の言葉に嘘はない。
話をする案内人の横顔に、何となく見覚えがある。どこで見た顔だろう。全く思い出せない。
誰にも姿が見えないというのはなかなか便利で、じっくり相手のことを見ることができる。まじまじと人の顔を見るなんて、人目があるとなかなかできないものだ。
「……ん?」
案内人がちらりと僕の方を見て、瞬きをした。僕の後ろになにかあるだろうか。壁しかない。場所を変えてみると、僕の後を目で追っている。僕の姿は誰にも見えないはずなのに。
彼の後ろに隠れる。肩口からそっと案内人を覗き込めば、目が合った。見えている。見られている!
「……では支度をしてくる、暫しここでお待ちあれ」
「はいはい、ゆっくりで構いませんよ~」
タイミングが悪い、トリスタンが席を外してしまった。今は僕の姿が見えるなんて、この人は本当に人間なのだろうか。神様の差し向けた監視、それとも特殊な目を持つただの人間、それとも何か、何があるだろう。僕にはもうわからない。
扉が閉まり、足音が遠ざかって消える。周囲に人の気配がないのを確認してから、案内人はフードを外してひらひらと手を振った。
「久しぶり~!」
コートの裾からはちらりと紐が覗く。紐の先端はやじりような形をしている。自在に動くそれを、僕は知っている。
――とりあえず百年、様子を見ようか。
「悪魔のおそ松だよ、覚えてる?」
瞬間、薄れていた記憶がはっきりと色づく。カラ松の食べたあとの僕を見つけた悪魔。魂を連れて行くことはできないからと教会を封じてくれた、あの悪魔だ。
「覚えてるよっ! 悪魔は生きている人に関わらないんじゃなかったの?」
悪魔が現れるときは、魂の回収を行うときだというのも覚えていた。焦る。まさか彼の魂が、と思うと語気も荒れた。
「神様がイレギュラーな事態だから仕事しろってさあ……俺、悪魔だよ? 魂の回収業務以外なんてやらないのに!」
「あっそう……イレギュラーってどういうこと?」
どうやら魂の回収に来たわけではないらしい。ほっと胸をなで下ろす。悪魔は昔と変わらないように見えた。彼もまた人ではない。そもそも変化というものがないのかもしれない。
もしやトリスタンの回収ではと思ってしまった自分が恥ずかしく、僕はとりあえずふわふわと宙に浮いている。
「本来起こらないはずのことが起きそうなんだってさ。神様の予定にはない事態! 君みたいな感じね」
悪魔はつらつらと話を始める。そもそもこの戦争になりかねない事態というのが神様の予定になかったらしい。予定にある戦争もあるのか、と思うがそれは神様の裁量に寄るものだし、女神様の教えに転生がある以上なにかの事情で一斉に魂を回収する必要があるのかもしれない。僕の生きていた頃に戦がないのは、幸運なことだったようだ。
「つまり保護観察っていうのは、これからが本番なわけよ」
「危険が伴うってことだね」
「そ、トリスタンが死ぬと大変。いろいろね」
足音が近づいてくる。悪魔はコートをきっちり閉じ、しっぽを隠す。フードを目深にかぶって目元を隠せば、さっきまでの案内人の姿に戻る。
「俺がちゃんと連れて行ってやるからさあ、見ててやってね。頼むよ、本当に」
「僕はカラ松を、……トリスタンを守るよ。それが償いだもの」
扉が開く。トリスタンは真剣な眼差しをしている。青のマント、白銀の甲冑。腰に佩いた剣を見るに、支度はもう済んでいると見ていいだろう。
「お待たせした! では行こうか」
「はーい」
これから先、何が待っているというのだろう。砦のぴりぴりした空気に影響されることもなく、トリスタンは使命感に燃えている様子だ。
僕はただ、彼を守ることだけ考えよう。そう決めて、トリスタンの後に続いた。