冷たい雨

 僕がジェイソンと名前をつけられてからどれくらい月日が経ったのかは、もうわからない。松野カラ松と名乗った男とは、何故かまだ一緒にいる。離れる理由も機会もあったのだが、それを必要だと感じなかった。

 簡単に言えば、彼自身に興味が湧いたのだ。

 カラ松は、その時々で自らの名前を変えているようだった。画商のスミスとして富豪の家に堂々と営業に行くこともあれば、貴族のジョンとして僕を下男のように扱って情報を仕入れにいくこともある。そして仕入れた情報は余すことなく使うし、盗れる金は根こそぎ奪う。こそ泥としては優秀なのだろう。金が紙切れに見えると言っていたのも納得できた。

 不思議なのは、場所と名前さえ変えればこの男は誰からもまったく別人のように扱われることだった。

 冷たい雨の日だった。富豪の家に絵を売りつけて金庫の在り処を探り、ダイヤルを解除して根こそぎ奪ってきた夜のことだ。

 スミスは、伊達眼鏡を外してゴミ袋にたたき込む。さっきまで札束がごっそり入っていたが、今は空っぽだ。

「もうスミスは使えないな」

「あんだけやりゃ当然だろ……」

 カラ松は、一緒にやると言いながらも現場に僕を連れて行くことはなかった。連れて行ったとして、なんだかわからないものの運搬や、移動のために車を回すことを求める程度だったから、僕はただただ積み上がっていく金を見ていることが仕事と言っても過言ではなかった。

「名前を捨てなくちゃあな」

 スミスとして行動していたときの服やら靴、信頼を得るために使った名刺なんかの小物を順に袋に放り入れていく。

「俺の名前は捨てなくていいの」

 ふと、気がついた。カラ松は何度も名前を捨てて、新たな名前を作ってを繰り返しているが、僕のジェイソン、という名前が変わることはなかった。

「捨てたら君の名前、なくならないか

「いや俺にも名前、あるから」

 言っていないだけで、本名はある。単純に必要でなかったし、伝えることで何かトラブルがあっても面倒だと思っていたから言わなかっただけの話なのだが、カラ松は珍しく声を荒らげる。

「バッドボーイだ、ジェイソン 悪い子だな 何故だ 何故俺に言ってくれなかったんだ 本当の名前は大事にしなきゃいけないだろう

「お前が俺の名前を勝手に使わない保証がないから」

 カラ松はがっくりと肩を落とし、シャツのボタンをぷちぷちと外していく。途中から面倒になったらしく、腕を抜いて適当に脱ぎ捨てた。僕はなるべくそれを見ないよう、視線を外す。なんだか、肌色というだけでぎょっとするのだ。

「君が望むなら、ジェイソンという名前を捨てていいし、本当の名前を俺に教えてもいい」

「俺だけ名前を言うの 不公平じゃない

「もう俺の名前は教えたろう 松野カラ松だと」

 驚いた。名前をとっかえひっかえしているからきっとその名前も本名ではないのだろう、と思っていたのだ。

 カラ松。出会ったとき、すぐに本当の名前を僕に教えていたことになる。そんなことがあるだろうか 自分を怪しんでいる人間に対して、殺人現場を無視して金を奪ったことを知っている人間に対して、名前を教えるなんて。僕が通報しないとも限らないのに。そんなに他人を信頼しているのだろうか。

「怪しまれているからこそ誠実に……というわけではないが、君があんまり怯えるものだから俺もテンパったというか」

 事故じゃねえか。小さく舌を打つと、カラ松はびくりと身体を震わせた。大げさなくらいだ。

 仕事のときはそれなりに手を抜かない姿を見ているだけに、急な事態への対応の雑さに呆れてしまった。単純に、想定外の出来事に弱いのかもしれない。

「フェアじゃないのは君のほうだったな、ジェイソン スミスという名前をお下がりであげても構わないがどうする

 カラ松はにやにやと笑いながら白いバスローブを羽織る。今夜はこの部屋で眠るつもりらしい。いつもは名前を捨てたらすぐその町を出るから、珍しい光景だ。

「スミスはいらない、足がついたら面倒」

「ならジェイソンは

「それも別に……あんたしかその名前で呼ばないし」

 今は、ジェイソンと呼ばれる方がしっくりくるくらいだ。そう言うのはなんだか照れくさくて、僕は言葉を飲み込む。沈黙は、窓を叩く雨音が埋めてくれる。

「……寒いな。ジェイソン、一緒に寝よう」

 カラ松はベッドに潜り込んで、僕を手招きしている。一緒に寝るだけだ。人の体温がある方が落ち着くし暖かくてよく眠れると言うから仕方なくそうするだけで、僕が一緒に寝たいわけじゃない。

 のろのろと立ち上がり、カラ松の隣に寝転ぶ。柔らかな毛布を肩までかけてやれば、満足そうに目を細める。何でまだ一緒にいるんだろう、と改めて不思議に思った。

「君が来てからよく眠れるようになった」

 枕に頭を預け、毛布にくるまりながら、カラ松はぽつりぽつりと話し始めた。雨音の憂鬱さがそうさせたのか、仕事を終えた満足感がそうさせたのかはわからない。僕はただ、ぼんやりとその声を聞いている。

 昔からずっと一人でいること。幸福な王子の童話を聞き、まねごとをしてみようと思ったこと。盗んだ宝石を与えた家が、盗人の疑いをかけられたこと。疑いを晴らすために宝石をその家から再び盗んだこと。話を聞きながら、そういえば名前がたくさんあって、こそ泥であること以外はほとんどカラ松のことを知らないことに気がついた。

「俺は耳がいいから、金庫のダイヤルひねって開けるくらいは簡単なんだ……人を虐めて稼いだ金を奪って世界平和に使う、こんなにクールなことはないだろ

「好きそうだね、あんた。そういうの……」

「でもな、誰も俺がやったって知らないんだぜ

 そんなのはつまらないだろう、とカラ松は唇を尖らせた。子供っぽい動機は、本人の性格に由来しているのかもしれない。

 カラ松が寝返りを打つと、視界いっぱいに白いバスローブが広がった。パジャマも下着もいらない、らしい。

「知られたくない気持ちもあるんだ。俺が金を奪うことで不幸になった人間もいるわけだから」

 それならやめれば、と言いかけてやめる。言ってやめるくらいならとっくにやめている、と思ったからだ。時に人に知られたいと思いながら、時に誰にも知られたくないと思いながら、こんな生活を続けている。それがカラ松と言う人間なのだろう。少なくとも僕からはそう見える。

「だからこそ君が居てくれると、安心する」

 僅かな沈黙。窓を叩く雨音は、さっきより随分激しい。外はきっと嵐のように荒れている。

「ジェイソン、君の名前は……いつか俺に教えてくれよな」

 おやすみ、と会話が唐突に終わった。外はごうごうと風が吹き荒れている。時折、稲光も走った。

 そんな言い方あるか、と思いながら、バスローブを睨み付けている。ほとんど言ってくれと言っているようなものだ。僕にジェイソンと名前をつけておきながら、あまりにあっさりとそれを捨てて本当の名前を言えと態度で示している。

「俺の名前はジェイソンだよ」

 捨てるのであれば、もう呼ぶ人間のいない名前の方だ。親兄弟はなく、社会的な立場もない。ただ、必要とされるときに呼ぶ名前があればいい。

 カラ松の背中に、名前を教える日は来ないと呟いた。けれど、僕の声は雨音に消されてしまった。

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