【WEB再録】笑う声が聞こえる(14/05)

6エンパ鍾会記憶喪失モノ鄧艾義兄弟パロ

 

序章


 荒れ果てた田畑の真ん中で、民が何事かを叫んでいる。一人が二人になり、三人、四人と声を上げる民は増えていく。田畑の面倒を見たことがない私には、それが普通の会話なのか、それとももめごとなのか全く見当がつかない。
 手綱を握り直し、馬を急がせる。よくわからないことに巻き込まれたくはない。早足に駆け抜けてしまえば、声も聞こえないはずだ。
 頬に当たる風が冷たく、身体が震える。朝焼けに染まる空は、未だ夜の空気を残していた。
 近づくにつれ、彼らの様子が見えてくる。手には薄汚れた布、額にそれと同じような色をした手ぬぐいを巻いていて、集まった数人が声を合わせていた。どうやら争い事ではないようだが、止まる理由はない。そのまま駆け抜けるべく、再度手綱を握る。
 最も近づいた瞬間、彼らの声がはっきりと聞き取れた。
 蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。
 聞き覚えのある言葉だ。耳にたこが出来るほど、と言っても過言ではない。ここ何年かで、急に信徒の増えた宗教の決まり文句のようなものだ。漢王朝の権威はついに落ち、黄巾がそれに代わるべきだと彼らは主張している。
 通り過ぎた後も声は徐々に大きくなり、わあっと歓声に変わった。彼らはそれに希望を見ているのだ。
 確かに、中央は今や形だけの王朝が残るばかりだ。贅沢ばかりで政治もわからない帝、それに取り入って甘い蜜を吸う宦官、賄賂で官位だけを持つ将軍がのさばっている。今まで続いて来たそれを大切に取り扱う忠臣もいるが、数は多くない。
 国として、上層が乱れれば犠牲になるのは民たちだ。だからこそ彼らは、黄布党がそれにとって変わることを望んでいる。
 彼らは黄巾の教えを以て、教祖が立つべきだと思っている。自分が立つわけではないのに、何故あんなに目を輝かせて、皆一様に同じことを叫ぶのか。自らが道を開き、頂点に立とうとは思わないのだろうか。
 思わないのだろう、十分な教育を受けていない者たちは。自分たちにその力が、知恵がないことを無意識に理解しているのだ。
 私は違う。自然と手綱を握る力が強くなった。
 世が乱れているからこそ力や知恵を得るべきと家を出た。幸い、家は兄が継ぐことになっていたから身は軽かった。乱世を渡るならば、家や血族の心配がない方がいい。元々教育熱心な両親であったから、勉学のために家を出ると言っても私を止めず、それであればと最高学問である太学への道を用意してくれた。
 太学へ入った後は勉学に励んだ。故人の残した兵方書や真新しい論文、様々な知識を吸収出来た。
 様々な知識を得るにつれ、武を身に着けたほうがより良いということを理解した。知識を実行するためには力も必要なのだ。
 それからはただひたすら、努力を重ねた。誰に何を言われようとも関係なく、ひたすらに。
 結果として、私の名前はよく知られるようになった。若くして英才教育を受け、智も武も備えた期待の新星として。
 名が知られるようになってから、どうしても私の力を借りたいと言う熱心な文が届いた。肥沃な土地で、資材も豊富と聞く。素材は良くても、生かせる将がいないと文に
 あった。私の力を生かすには、ちょうど良い土地だ。機を得て、太学を離れた。
今は、小さな火が燻っている。蓄えた知識を、力を、生かす場所を得たのだ。
 再び、身体が震えた。寒さからではない。もちろん怯えなどもない。
 朝日が眩しい。日が昇りきる前までに、関所へたどり着かなくてはならない。私の栄達への道は、そこから始まるのだから。



切っ掛け


 春の爽やかな風が吹いている。木々は色鮮やかに咲き乱れ、柔らかな日差しが心地よい。
 こんな日はのんびりと地図を眺め、訪れたことのない土地へ思いを馳せたいものだ。
 書庫には取り寄せたまま放っている地図が複数ある。一度も開くことなく、埃が積もってしまった。遠き地へ思いを馳せるより前に、書庫の掃除をしなくてはならないだろう。
 だが、掃除をする暇もないことは己が一番よくわかっている。
 元々ここらは民の気質も穏やかで、治安の良い土地だった。
近隣の大きな勢力と同盟を組み、協力して肥沃な土地や豊富な資源を欲する者たちの排除を行うことで平穏を保ってきたのだ。
 その均衡が崩れたのは、同盟勢力が倒れてからだ。王朝の権威は弱まり、取って変わろうと力を付けていた別の勢力によって侵攻され、敗れた。
 後ろ盾を失った我々も、変わらなくてはいけなかった。軍の補強として最初に行われたのは新たな人材を発掘することだ。個々の勢力が力を持つ中で、優秀な者を迎え入れるのは重要なことだった。
 武で名を残す者、智を持つ者、自ら志願した者。新たに加わった将の中で、一際目立つ青年が居た。
 主が直々に文を出し、熱心に誘ったのだと言う。彼は二つ返事で応え、太学を出てすぐこの地へ現れた。
 丁寧な仕事ぶりで、報告も簡潔で結果がわかりやすい。効率良く執務をこなしていく彼を文官らも頼りにしているようだ。かといって机仕事だけでなく、国境の侵攻を防衛、牽制として他勢力への襲撃も積極的に執り行う。武だけでなく知にも長け、心酔する部下も多いと聞く。
 優秀な将が増えたことは喜ばしいのだが、どこか心に引っかかりを覚える部分がある。合理性を追求するあまり、生かせるものを切り捨ててしまう面がある。戦場においては兵をみすみす亡くしてしまう事態に発展しかねない。自分の成果を誇りすぎる所も、少し危うい。若さからかと思えば可愛く見えるかもしれないが、忠告をするべきかどうかは悩むところだ。
 彼も自分には思うところがあるらしい。引き継ぎなどで一緒になった際は表情が硬く、言葉も少ない。意見が食い違えば、あまり雰囲気の良くない沈黙が混ざる。どうやら、好かれてはいないようだ。
 例え良く思われていなくても、与えられた任務はこなさなければならない。感情の揺れで仕事をしくじるような種類の人間とは思わないからこそ、自分も平静を保って一緒にやっている。
 今日はその彼と共に、練兵を行うことになっていた。打ち合わせを行うべく城内にある一室へ向かう。
 いつ、どこの勢力が攻めてくるともわからない状況だ。戦の経験がない兵たちには、戦を体験させておく必要がある。
 しかし、一人の将が訓練を施すにも限界があった。
 そこで提案されたのが、複数の部隊で訓練をする方法だ。以前にも行われたことがあったが、そもそも投入する実戦がないと定着しなかったのだ。
 自分には、合同での訓練に関して経験がない。複数の部隊で行う訓練では何をすべきか、彼の考えを伺うところから始めねばなるまい。
 考えながら歩いていたせいか約束の時間より早く着いてしまった。彼の姿はまだ見えない。
 立ったまま待つのもおかしいかと椅子を引いた瞬間、扉が開かれた。
 彼は室内に自分の姿があることを確認し、一瞬ではあるが驚いた表情を見せた。自分が先に着くつもりでいたのだろう。
「……随分早いんですね、鄧艾殿」
 遅れて申し訳ない、と付け足しながら彼は軽く頭を下げる。
「自分も今来たところだ、早速始めよう」
 卓の対面に座り、用意した竹簡を開く。所属している兵の数と、兵種をまとめたものだ。
 今は騎兵が少なく歩兵が多い。全体を見て兵の数は多いが、半分は戦の経験がない兵で構成されている。戦力として数えるべきか、不安の残るところだ。
「まずは鍾会殿の意見を伺いたい、どのような訓練を共にすべきだろうか」
「実戦を想定した訓練が宜しいかと」
 回答は簡潔で、はっきりしている。
「近頃国境の辺りに敵勢力の将を見たという噂があります」
 最近勢いのある勢力と面している辺りのことだろう。見渡しの良い平地で、侵入者は目視でも十分に確認出来る。何度か侵攻を受けているせいで、そこらは民も住んでいない。
「見回りを兼ねて私の軍と、鄧艾殿の軍をぶつけて見ては」
 住人がいないのであれば、演習にはちょうど良いだろう。
「自分は構わない」
「それでは三刻後、現地で落ち合いましょう」
 交わす言葉は短い。彼は早々に退室し、支度へ向かった。
 練兵のための演習と、近隣の勢力を牽制するための演出。見回りも兼ねるなど、彼の提案は合理的で無駄がない。
 反対をする理由が見つからないが、素直に飲み込むことに抵抗がある。
 彼の合理性は、全てが成功するという前提で成り立っている。
 実戦の経験がある兵たちであれば不安もそこまでではないのだろうが、経験のない兵たちが気にかかる。
 もし噂が真実であれば、そのまま戦場へ叩きだすことになってしまう。
 何もなければ良いのだが。僅かに胸騒ぎを感じながら、自分もまた支度へ向かった。


 噂はどうやら真実であったらしく、国境には敵が潜んでいた。
 演習は中止となり、碌に経験のない兵たちを連れての小競り合いに発展した。腰を抜かしてしまった新兵たちを逃がしながら応戦することになったが、一部の新兵たちは初めて戦場に出たと思えぬほど奮戦してくれ侵入者たちを遠ざけることが出来た。
 噂を知らぬまま遠征しての演習となっていれば、自分たちが留守の間に襲撃を受けてしまっただろう。襲撃を回避し、逆に相手へ痛手を与えることが出来たのだから戦果は上々と言える。
 だが犠牲が出なかったわけではない。鍾会殿の部下である新兵は、二割ほどが命を落としていた。
 逃げ道を上手く伝達出来なかったと聞き、地形に明るい自分がついていながらと歯がゆく、胸が痛む。
 陣幕の中は、彼と自分の二人だけだ。先ほどまで、彼の部下から何人が倒れ何人が負傷をしたと報告を受けていた。自分の軍と比べて彼の軍の被害はあまりに大きく、沈黙にどんな言葉をかけるべきか少し迷う。
「……残念でしたな」
「いえ、今回は少なかった方ですよ」
 いつもは半数が命を落としますから、と付け加える彼に驚く。
「半分も」
「兵を庇って戦を長引かせれば被害は広がりますし、戦線の維持もままなりませんから」
 彼はそれがさも当然という口振りで言う。
 自分が兵を半分も失ったことは、今までない。自国周辺の警備、同盟勢力の救援と戦自体が多く無かったから当然のことだ。
 一度の出陣で、兵の半分が命を落とす。それが常だと言うのが、自分には異常な事態に感じられた。
「不利な状況を作るくらいなら、多少の犠牲は仕方のないことでは?」
 そうだな、とすぐに返事をすることは戸惑われた。
 彼の言うことも理解は出来る。戦が長引けば長引くほど、弱国である我々は不利になってしまう。戦況を覆す一手も、流れを変える将もいないのだから、当たり前のことだ。
 その中で彼は、自ら身体を張って敵の大将を狙い、撤退させることを目的にしている。彼と、彼の兵たちが体を張って、命を使い、そうしている。
「私だって心は痛みます」
 俯く彼の瞳は暗く沈んでいる。
「……時間をかけて、戦線を上げて行くよう方針を変えてはどうだろうか」
「それが出来れば、こんな捨て身の戦法は取っていません」
 顔を上げる。吊り上った目が、自分を鋭く睨み付けた。
「自分たちが協力すれば」
「二部隊とも被害を受けるより、片方が引き受けた方が効率的では?」
「やってみなければ、結果どうなるかはわからない」
 短い期間ではあるが、彼と共に行動をすることでどれほど彼が優秀かがわかった。
 なればこそ、兵の命くらいと簡単に切り捨てて欲しくは無い。彼の軍と、自分の軍が協力すれば犠牲は減らせるかもしれない。やる前から諦めるのは早計に思えた。
「確かめるために何人の兵の命が消えるか、わかっての発言でしょうね?」
「このままでは兵からの信頼を失ってしまうぞ!」
「すぐに入れ替わる兵たちから得る信頼など」
 鼻で笑い、何でもないことだと言って彼は自分から目を逸らした。
 心は痛むとさっき言った口が、信頼を得る意味はないと言う。
 自分とは、考え方が違いすぎるのだ。
 彼のやり方や懸念していることもわかるが、みすみす兵力を削るような戦い方を受け入れることが難しい。
 代案が浮かばず、沈黙を返すと呆れたようなため息が聞こえた。
「あなたとはどうも、反りが合いませんね」
 苦笑を返すに止め、負傷した兵の様子を見に行くと告げその場を離れた。彼は優秀な人間だ、自分が理解出来ないのは仕方がないのかもしれない。だが、歩み寄ることも出来ないのでは、と思うと胸中に不安が生まれた。



承認


 淡い光で彩られた広間は賑やかで、そこかしこ祝杯があげられている。賑やかではあるが、どこか緊張感の残る宴だ。
 先日、自分と鍾会殿とで国境に現れた敵を返り討ちにし、敵軍の戦力を大きく削ぐことが出来た。それを機に、敵国の領地を制圧すべきでないかという意見が軍議に上がった。
 ――敵国の力は日に日に増していく。このまま何度も襲撃を受けいつか侵攻を受けるより、攻勢に出て彼の地を制圧した方が良いのではないか。
 国境より先は、長く同盟を組んでいた国の地だ。民の気質や産出される資材、奇襲に利用出来る地形もよく知っている。
 我々の方が情報を多く持っている分、有利に事を進められる可能性がある。機を逃せば我々も危うい。
 主から襲撃、侵攻の命が下された。敵が弱っている今、攻勢を行うべきと決断されたのだ。その地を制圧することに成功したのが一昨日のことになる。
 新たな領地には、統治を行う者が必要だ。そこで白羽の矢が立てられたのが、本日の宴の主役である。
 自分より古くから主に仕えていた将が太守に任命され、この地を離れることになったのだ。
 こうして太守を立てることも初めてであるから、祝いの席とはいえどこかぎこちない空気が残る。酒の席だからと明るく努めてはいるが、戦乱の世へ巻き込まれていくのではないか、領土拡大へ向け攻勢を強めるのではないかとそれぞれが不安を抱えているのが浮き彫りになっていた。
 宴会の場にはもちろん、鍾会殿の姿もあった。周りが不安を隠して明るく務める中、彼だけはいつもと様子が変わらない。赤ら顏の太守に捕まって、少し困っているように見えるくらいだろうか。そろそろ助け船を出してやらねばと思ってはいるのだが、太守に任命された将は有能な鍾会殿を特別目にかけているらしく中々解放されることがない。
「次はお前がこの地を離れるかもしれないな」
 呂律の回らない激励に、そうありたいと鍾会殿は頷く。その目には意欲が燃えている。やる気になるのは良いことだ、と嬉しく思いながら杯を煽った。
 歓談している間は笑顔を浮かべていたが、他の将に呼ばれた太守がその場を離れるとどこか面白くなさそうな顔になり、そのまま席を立つ。風に当たりに行くには険しすぎる表情だ。纏う雰囲気に影があって、どうも気になる。
「すまない、少し風に当たってくる」
 言葉を交わしていた将に断りを入れ、自分も後を追う。
 広間を出て、月光の射す通路へ出る。庭先にぽつんと佇む彼の姿があった。年若く、細身な彼の姿は月光の元ではより頼りなく見える。さて気分が悪いのか、それとも機嫌が悪いのかでかけるべき言葉が変わる。どういったことを言えばいいのか、自分にはわからず逡巡しながら庭へ足を踏み入れた。
「何か御用ですか」
 機嫌の悪さを隠しもしない声と共に彼がこちらを向く。刺々しい雰囲気に思わず苦笑が漏れた。暗闇の中であるから、顔色ははっきりとわからない。具合が悪いわけではないようだ。それより、自分が追いかけて来たのが面白くないらしい。
「気分が悪くなったのかと」
「あなたは本当にお節介ですね」
 ふんと鼻で笑い、俯く。暗闇に目が慣れるにつれ、彼の様子がはっきりと見えるようになった。酒を飲んでいたせいか妙に顔が赤い。水を持ってくればよかったと思うが、取りに戻ればもっと機嫌を損ねるであろうことは想像に難くない。
「あまり楽しんでおられないようですな」
「楽しいわけがあるものか!」
 かっと見開かれた目には、わかりやすく怒りが浮かんでいる。誰が聞いているかもわからないこの場で大声を上げるなど、思慮深い彼らしくない行動だ。驚きに声を詰まらせると、鍾会殿は感情を乗せ、早口にまくしたて始める。
「今回の戦で大将首を引きずりだしたのはこの私だ! たまたま、譲ってやっただけで……今回だけじゃない、前も、その前も私が」
「鍾会殿、声を小さく」
 どうやら酷く酔っているようだ。広間から離れてはいるが、大声を上げれば衛兵の一人や二人すぐ飛んでくる。いつ誰がこの庭に訪れるかもわからない。話の内容によっては、叛意があると誤解されかねない可能性も十分に考えられた。
 自分が距離をとっているから、大きな声を出しているのかもしれない。早足で彼に近寄って、触れるでもなくただ立ち尽くす。
「……襲撃も防衛も侵攻も、任務もこなしているのに……私は評価されない」
 どんなに功績を上げても認められないのは何故か、ぶつぶつと呟く彼の表情は思いつめているように見える。優秀で、自信のある普段の彼からは想像も出来ない姿だ。
「古くからの者を立てることも、組織には必要だ」
 太守に任命された彼は勤めて長く、そのうえ実力も申し分ない。総合して能力を見れば、若い鍾会殿の方が高く評価出来る。
 両者を比べ、大きく違う点がある。得ている信頼の高さだ。
 鍾会殿の捨て身の戦略は、そのまま兵たちの士気に繋がっている。いつ、誰の盾になって死ぬかもわからない。彼らは生きることを半ば諦めながら戦場へ出ているのだ。その彼らは、鍾会殿のことを信頼していない。いつか切り捨てられるだろうという不安が、そうさせてくれないのだ。
 戦果は褒められても、将としての信頼は低い。そのような状態では、任せられるものも任せられない、と主は判断している。
「あなたのせいでもあるんですよ」
「自分の?」
「あなたが太守に任命されてもおかしくなかった、……どちらかといえばあの男よりあなたのほうがましだと私は思っています」
 鍾会殿は腕組みをしながら、値踏みするように頭の天辺からつま先に至るまでを見て、目をぎらつかせる。嫉妬なんて可愛いものではないということは、直感的に理解できた。
「そのあなたが一般の武将に甘んじている以上、私がそれ以上に評価されることはない」
「買いかぶりすぎだ」
 まさか自分の話になるとは思っておらず、動揺する。
 鍾会殿は一歩、二歩足を踏み出し、自分の胸倉を掴んでよろめいた。近づくと、酒の匂いが濃い。随分飲まされたのだろう。
「この私が認めているんですよ」
「しかし、自分は……鍾会殿のように知恵を使えるわけでもなく、軍に貢献出来るでもない」
 鍾会殿の唇が、力ない笑い声を漏らす。それは自嘲を含んでいるように聞こえた。
「まあ、あなたにその自覚が無くても一向に構わないですけど」
 踏み台は高ければその分踏み甲斐がある。胸倉を掴んでいた手が離れ、ぶらりと垂れた。
「気分が悪いので失礼しますと、太守殿にお伝えください」
「……わかった、伝えておこう」
 ふらつきながら、鍾会殿は去っていく。すれ違う一瞬、彼の目に激しい野心が宿っているのが見えた気がする。
 今度はその背中が追えない。喧騒が随分遠くに感じた。

 鍾会殿が倒れたと報告を受けたのは昨日のことだ。大事を取って出仕は取りやめたと聞いて、彼の邸まで様子を見に訪れた。
 近々隣国が攻め込んでくると噂が流れている。貴重な戦力である彼がいないのは大きな痛手だ。
 先日行われた宴会の後に言葉を交わす機会もなく、気まずい距離を保ったまま過ごしているのも解決したい。見舞うという目的があれば、顔を合わせる理由が出来る。
 次の防衛戦では指揮を執れという任務を預かっている。戦力を見極めると言う意味でも彼の様子を見ておく必要があった。
 他人に気遣われることを彼は嫌がりそうだが、任務に必要であれば仕方がない。
 彼の邸は城下を少し離れた西側に位置している。昼を過ぎ、傾き始めは日が眩しく感じる。
 ここらの近くは春先になると立派に花を付ける桃の木があったはずだ。彼は恐らく知らないだろう。この地に移住してから働きづめで、休んでいる時間が惜しいとほとんど休むこともなかったのだから。
 しばらく歩くと、小さくはあるが手入れの行き届いた邸が見えてくる。過度な装飾はないが、質の良いもので作られていることは一見で判断出来た。門をくぐると、庭先を手入れしていたらしい家人が立ち上がり、小走りにこちらへ走ってくる。客人が来たことに少し驚いている様子だ。
「鍾会殿の具合は如何だろうか、見舞いに訪れたのだが」
「主人に確認致します、こちらでお待ち頂けますか」
 客室に通され、暫し待つ。
 体面を整えようとするところがある彼のこと、寝間着で人前に出るなどは考えにくい。わざわざ着替えて何でもないと言いにくるのではと予想しながら、ぐるりと部屋を見渡す。他人の家をこうして眺めるのは不躾とわかっているが、鍾会殿が現れるまでの少しの時間であるしと己に言い訳を用意する。
 家人が優秀なのだろう、ほこり一つも落ちていない。花瓶に生けられた花は瑞々しく華やかだが、主である鍾会殿は気付いているだろうか。
「お待たせいたしました、寝室に通すよう仰せつかりましたのでご案内します」
「了解した」
 こちらへ現れると思っていた手前、寝室へ通されると聞き少し驚いた。もしかしたら、自分が思っている以上に状態が悪いのかもしれない。起き上がれないほど重症であれば、倒れた原因についても詳しく話を聞かねばならない。
 廊下へ抜け、寝室まで案内を受ける。扉を開けた後に家人はそっとこの場を離れた。話の邪魔をしないという配慮だろう、気遣いをありがたく思いながら寝台の近くにある椅子へ腰かける。
 鍾会殿は身体を起こし、少しぼんやりとしながら自分を見上げていた。いつもより覇気がないのは、弱った姿を自分に見られることを良しとしないせいだろうか。
「鍾会殿、具合は如何か」
「怪我は大したものではありません、ご心配をおかけしました」
 努めて明るい調子で問えば、鍾会殿はしゅんと頭を垂れて謝罪をした。
「わざわざ見舞いなど、お時間を取らせて申し訳ない限りです」
 その様子に違和感を覚える。自分が良く知っている彼は、言葉の中にちらと毒が見えることがある。素直な謝罪の言葉であれば、言い辛そうにしていることも珍しくない。特に面白く思わない自分に対しては、露骨なほど態度に出るのに、今日はそれがない。
 心の底から申し訳ないと思っていることに間違いはない。その態度に違和感を覚えるなど、失礼極まりない。
 だが、何かがおかしいと直感が告げている。
「いつもの覇気がございませんな、一日の休暇くらいでそこまで落ち込みなさるな」
 その一日で成果を出さねばならぬのに、と彼なら言いそうなことだ。先日の宴であった出来事を思い出す。勿論、進んで怒らせたいわけではないのだが、確認をすべきだと思ったのだ。
「……いつも、私は覇気があったのでしょうか」
 言葉が不安げに揺れる。口元に手を当て、考え込む様子は年相応の、青年のそれだ。
「頭を打ったせいか、どうも曖昧なのです……」
「頭を打った?」
「ええ、よくは覚えていないのですが……このあたりを」
 彼は自分に背を向け、後頭部を擦る。結った髪が流れ、無防備に項が晒された。
 例え味方であっても、他人に首を晒すなど、普段の彼では考えられない。
「侍医に相談は済ませましたか」
「大きいたんこぶと笑われました」
 そうではなく、と自分が彼に言う機会が来るとは思いもしなかった。
「鍾会殿、もしやここ最近の記憶が曖昧なのではないか」
 彼は俯き、返事をしない。いや、出来ないのだ。記憶が曖昧であるかどうかすら判断が出来なくなっている。
 急ぎ侍医を呼び、状態の確認をした。たんこぶがいくつあろうがなかろうが、傷はいつか治る。問題は頭の中に何が起こっているかだ。彼の状態は今、普通ではない。診断を聞くため、自分も同席した。
「頭を強く打ったせいでしょう、一時的に記憶が混濁しているようです」
「いつ元の状態に戻るかは、わかりますか」
 鍾会殿の声は弱り切っている。縋るように侍医に尋ねるが、時期はわからないと曖昧に濁された。自分が自分でなく、記憶もどこまでが本当に自分のものであるのか、真実であるのかがわからない。不安に押しつぶされるような心地であろうと思うと、気の毒でならない。
「何かをきっかけに記憶を取り戻すこともあります、普段通りの生活を送ればいつかは」
「普段通りとおっしゃられても、今の私にはその普段がわからないのです」
「微力ながら自分が手助けをしよう、任務は共にこなせばよい」
 鍾会殿の瞳に不安が揺れる。
「次回の戦は本陣の守りをお任せする……戦場の空気に触れれば変化があるかもしれない」
「……宜しくお願いいたします、鄧艾殿」
 素直に頭を下げる彼に、落ち着かない自分がいる。だが、この非常事態に違和感があるなどと言っている場合ではない。
 記憶を取り戻した後、彼はこうやって自分に頭を下げたことを覚えているだろうか。そう遠くない未来であることを祈りながら、彼の肩を軽く叩いた。



経過


 彼が記憶を失って、半年ほどが経った。
 最初こそ戸惑い躓くことがあったものの、今では差し障りなく任務をこなしている。記憶は失ったが、身に付けた知識まで失われていなかったのは不幸中の幸いだった。
 記憶を失った彼は人が変わってしまった。素直で控えめ、年相応の好青年といったところだ。英才教育を施されたという自信から作られていた壁は、もはや見る影もない。
 そのほかに変わったところがあるとすれば、内政に強い興味を持ったところだろうか。
 武具の開発や商業開発、新たな貿易の取引に着手し、兵糧の確保をも行う。文官や商人との仲も良好だ。
 軍議での提案が採用されることも増え、堅実に成功を収めている。
 特に武具の性質向上は目覚ましい。今までのものより頑丈で、弱き者の力となる強い武器が生産されるようになった。我々の技術を求めて他国から文が届くことも珍しいことではなく、工房は日々大きくなっている。
 周辺の状況もまた大きく変わった。隣接する勢力はこちらへ攻め込むことを一時やめ、南へ勢力を拡大している。
 精強な軍に対抗するため、我々は諸勢力と同盟を組んだ。同盟国が攻め込まれれば援助を出す手はずを整える仕組みを作ったのだ。小国の寄せ集めではあるが、今のところはどの勢力も侵略されることなく、均衡を保っている。
 援助の要請は途切れることがない。自分にも出征の任務が下されることは珍しくなく、先日の戦では愛用していた槍の柄を折られてしまった。工房へ修理を頼んでいるが、技術開発が進んだ今こそ新たな武器を調達する良い機会かもしれない。
 身体を休めるよう頂いた休日ではあるが、こんな機会でもなければ時間も取れない。思い立ったらすぐに行動を起こした方が良い。家人に出かけることを告げ、すぐに城下の市へと向かった。
 戦乱の世ではあるが、城下の市は活発だ。武具や防具の開発が盛んなせいか、珍しい資材や煌びやかな装飾を取り扱う店も多い。たまに売り上げを狙った荒くれも出るが、市には常に警備の兵を置いている。商人の身を守り、有用に市を使ってもらわねば人は集まらないからだ。すれ違う警備の兵たちに堅苦しく頭を下げられ、警備の任務に戻るよう苦笑を返しながら目的の店を探す。
「鄧艾殿!」
 道端の集団から、明るい声がかかった。年若い技術者たちが集まっているようだ。輪の中央には、鍾会殿の姿がある。
「鍾会殿、武器の調達ですかな」
 以前であれば信じがたい光景だった。彼が城下の民に混ざって楽しげに話をしているなど、半年前の自分には想像もできなかっただろう。思わず顔がほころんでしまう。
「そのつもりだったのですが」
 彼は目を逸らし、気まずそうな微笑を浮かべる。
「鄧艾殿、この方さっき飾り物を買って財布が空なんですよ」
 頭に手ぬぐいを巻き、袖を肩までまくり上げたいかにも鍛冶屋らしい青年がからからと笑う。
「宝具か、確かにあれも便利だが」
 宝具と言うのは、特殊なまじないを宿した装飾品のことだ。自身を高ぶらせる効果を持つもの、敵将へ斬りこむ自信を付けさせるもの、効果も様々で戦場においては力になってくれる。ただ、ひとつずつまじないを宿してあるせいか市で買うと値が張る。絶対に手元に無ければいけないわけではないから、自分は一度も手に取ったことがない。
「近頃疲れが取れなくて、これを付けると体力が増えると聞いてつい……」
 朱雀を模した首飾りを下げ、鍾会殿は照れ笑いを浮かべている。
「近頃出陣の要請が多いからだろう、自分から大将軍に伝えておこうか」
 疲労の原因は、同盟国からの出陣要請の殆どが鍾会殿に集中しているせいだ。大将軍を任命された将は自らは動くことがなく、誰かしら他の将に出陣要請を出している。
 鍾会殿は将として若く、大将軍からの要請であれば従わざるを得ない。その上、記憶を失って以降は更に出陣が増えている。自らの兵力がなくとも、無理を押して戦場へ出ている。
「大将軍からの要請をお断りするなんて」
 彼の表情に驚きが浮かぶ。考えたことも無いと言った様子だ。
「私のような凡人に機会があることすら貴重なのに、そんなこと出来ませんよ」
 凡人という言葉が彼の口から出る日が来るとは、露とも思わなかった。
「だが、このままでは戦場で命を落としかねない」
 疲労が溜まれば肉体の動きは鈍る。自分が思った以上にだ。判断を誤り多くの兵を失うこともあるし、最悪自らの命すら落としかねない。以前の彼であればこのような心配は無用だったが、今は別だ。限界まで耐え、自らの力のみで打破しようとする彼の姿は立派だが、命を無駄にはしてほしくない。
「お仕事なんてほどほどで良いのに、真面目すぎるのも考え物ですねえ」
「兄者はもう少し真面目に仕事したほうが良いですよ、将軍は武器をお探しで?」
 話を聞いていたらしい鍛冶屋の青年が苦笑する。店の奥から出てきた商人が、青年の背中を軽く叩いた。親しい間柄のようだが、兄弟のようには見えない。
 そういえば武器を探しに来たのだったと思い出し、ちらと鍾会殿の方を見た。陳列された剣が気になるようで、真剣に眺めている。
「自分の武器と、彼の武器を見立てて頂こうかな」
 剣を眺めていた鍾会殿がはっと顔を上げる。相当に驚いているらしく、目を丸くして自分を見上げている。
「と、鄧艾殿、私は……」
「鍾会殿は難しい任務もよくこなしてくれる、自分から贈らせて欲しい」
 手持ちがと言う彼を留め、共に武器を見る。
 彼の武器は消耗が激しい。五つの剣のうち一つでも欠ければ命に関わる。
 命を落として欲しくはない、それだけの理由だった。

「随分盛り上がっておられましたな」
 武具の調達をし、城までの配達を先程の鍛冶屋の彼らに任せ帰路に就く。
近況を聞くため、さりげなく遠回りの道を選んだ。鍾会殿は話すことに夢中で、いつもと違う道を通っていることに気付いていない。
「鍛冶屋と商人の義兄弟だそうで、お話が興味深く」
「なるほど、義兄弟であったか」
 他人同士が親しくなり、血の繋がりの代わりに杯を交わし縁を繋げば義兄弟となる。戦乱の世、血縁のない他人と兄弟として杯を交わすことが出来るのは一部の人間だけだ。
「私はこの地に来てから、あまり親しい人がいないので」
 任務や執務に忙しく、同僚と親交を深める間もない鍾会殿が苦笑する。太学で友はいたのだろうか。ここに来る前の彼について、今は知る術がない。
 日が傾き始めている。暗くなる前に、彼を邸に送り届けなくては。
「鄧艾殿にはそういう方はいらっしゃらないんですか?」
「生憎、そこまで親しい友はいないな」
 苦笑を返し、自分も任務ばかりの日々であったことを思い出す。気の合う友も、信頼出来る同僚もいる。だが、彼らと義兄弟になれるかと問われれば否だ。
 鍾会殿が突然足を止める。どうかしたか、と声をかけても返事がない。振り返る。
 視界の端に、桃の木が目に入った。花の季節は終わりに差しかかり、桃色の花弁がちらちらと散っていくのが見える。
「私と、義兄弟になってはいただけないでしょうか」
 辛い場面を何度も支えてもらったし、常に助けてもらっている。あなたを頼りにしていることにはっきり気付いてしまった、と言う彼の表情は緊張に満ちている。
 自分を見上げる目が、野心でなく希望に輝いている。昨日今日から考えていたことではないのだろう。
 素直に嬉しく思う気持ちと、彼が以前のままなら絶対に聞くことがなかったであろう言葉に苦い気持ちも覚える。
 断るという選択肢は浮かば無かった。今の彼とは良い関係を築けているし、これからも続けて行きたいと思っている。
 いつからだろう、彼の力になることが自分の喜びになっていたのは。
「願ってもない、光栄だ」
 半月前の彼なら、義兄弟になれることを光栄に思えと尊大なことを言うのだろうか。尖った声音がすぐに思い出せてしまう。
 彼は不器用だった。自分以上に不器用なのでは、と思う面もあった。その態度や物言いに、はらはらさせられる光景もあった。自信にあふれる彼の態度と、極端な不器用さ。
 放っておけない、と思ってからかもしれない。彼の力になりたい、と自然に思えた。
 鍾会殿はぱっと眼を輝かせ、喜びで頬が薄らと赤く染まった。
「これからも共に力を合わせ、使命を全うしましょう」
 彼の笑顔が眩しい。心からの喜びを感じるそれだ。
「ひとつ約束して欲しいことがある、義兄弟よ」
 義兄弟、と呼ぶと彼の表情が引き締まった。
「死んではいけない、共に生きて太平の世を見よう」
 鍾会殿は笑っている。



変動


 将兵がそれぞれの役目を果たし、多数の勢力を味方につけ、いつしか我々は数多の勢力を求める長となっていた。結果として、強国から同盟勢力や、我らの主を狙われることが増えてしまった。
 自分は主の護衛に付き、戦場へ出ることは少なくなった。主の隣で政務を学び、治水の術を得た。
 義兄弟である鍾会殿は戦場に出ずっぱりで、顔を合わせるたびに疲労の色は濃くなっていく。戦場から帰ったのを迎える度に、代わってやれたらと強く思う。
 鍾会殿はこの国に尽くし、貢献してくれている。だが、その働きが評価されることはない。薄々感づいてはいたが、彼は位の高い将たちに都合よく使われている節がある。今日もまた、国境の小競り合いを治めるために出陣の命が下されていた。
 命を下した大将軍は出仕すらしていない。同盟を組んだ別勢力の地を見聞するという名目で一日外回りだ。奥方も連れて出たと言うのだから呆れてしまう。
 主の護衛で戦場に出られないが、大将軍に代って前線援軍を送ってやったり、早馬を迎え入れたりと雑務をこなす。兵力は十分、武器も強く頑丈な物を仕入れている。簡単に負けるはずはないと言う空気が慢心を生んでいるような気がして、冷たい汗が背中を伝っていく。
 防衛に成功したと告げる早馬が届いた後、鍾会殿が戻ってきたのは日が沈むほんの少し前だった。負傷した兵を励まし、侍医を呼び、自らの怪我の面倒は一番最後に回す。
 鈍い銀の甲冑、薄水色の衿巻に朱が散っている。疲れ切った顔だが、指示を飛ばす声は凛としている。一見して酷い怪我は無いようでほっとする。
「鍾会殿、よく戻った」
 自分の姿を見つけ、鍾会殿の表情が少し綻ぶ。
「ただいま戻りました」
 柔らかな声音。無事に戻ってこられたことに安堵する。
「明日は休めるよう手筈を整えておいた、今晩はゆっくり休まれよ」
 明日、と聞いて鍾会殿が小首を傾げる。
「練兵が、あったような気がしますが」
 戦が終わってすぐ、明日の練兵の心配をする。自分の予定が把握できていません、と苦笑する彼の笑顔が弱弱しい。
 余所の地を回遊することに忙しい大将軍より、この地を守るために奮闘する彼のほうが立派ではないか。義兄弟の贔屓目もあるが、将として見習うべきは彼の方だ。
「自分の部隊と合同の練兵だ、気にせず休んで欲しい」
 合同の練兵であれば、彼の代わりに自分が二部隊の指揮を行えば良い。その間だけだが、彼を休ませてやれる。いつかもそうして合同での練兵をした。もう随分遠い昔のような気がしている。
「鄧艾殿、……少しお話がしたいです」
 彼はおずおずと自分を呼び止める。
 戦の後処理はあるが、大きな作業は既に終わらせてしまった。残るは傷病者の手当だけで、自分が外しても問題は無い。
「……邸まで送ろう、侍医も呼んである」
 義兄弟を邸まで送り届けるのもまた任務か、と呟けば鍾会殿が頬を膨らませた。


 既に日は落ち、邸までの道は薄暗い。くたくたの身体で歩けば、そのあたりでひっくり返っても起きられないかもしれない。沈黙が出来ると睡魔に襲われるのか、 鍾会殿は引っ切り無しに言葉を発している。
「戦ばかりだと、下野して貿易商にでもなろうかと思ってしまいます」
 普段であれば冗談の一つと受け流す言葉だが、つい真剣に考え込んでしまう。他勢力とのつながりもある。この地を離れることも考えるべきなのかもしれない。
「鄧艾殿と一緒ならより心強いですね」
「いっそ、そうするべきなのかもしれませんな」
 並んで歩く鍾会殿の目が丸くなる。義兄弟の契りを交わした日も、こんな顔をさせたことを思い出す。あの時贈った武器はまだ使えているのだろうか。
「どこかの勢力へ移ることも考えたが、戦からは逃れられない」
「……せめて前線から離れられれば、随分楽なんですが」
 鍾会殿が出陣するのは最前線である。敵方の本拠地に近づけば近づくほど、戦力は増し、こちらの被害が増える。最速で本陣を押さえようにも、各拠点に将がいてままならないと聞く。
 戦乱の世の中、軍に属すれば戦をせずにはいられない。それでもきっと、今よりはましなはずだ。大将軍に命ぜられ、ただ防衛戦や襲撃を繰り返し、身体を傷つけるよりずっと。
「戦の無い国を作ることが出来れば一番良いのですが」
 彼がはっと顔を上げ、急に足を止める。視線の先には、細長い月がある。藍色の空に薄く浮かぶ月は頼りない。
「鍾会殿、お疲れなら自分が負ぶろうか」
「自らの国を持てばいいのでは?」
 言葉を発する目は爛々と輝いている。いつか見た、野心に燃える瞳だ。記憶を失い、殆ど性格が変わってしまった彼の奥底で眠っていた野心の炎が見える。
「自分と、鍾会殿の?」
 不可能ではない。
 自分は主の護衛を務めつつ大将軍の留守を預かる身として、軍の内情を良く把握している。目立つ諸将は太守として地方を治めており、この地には前線へ送り出される一般の将や副官ばかり。
 鍾会殿は前線へ赴いた回数が多く、実践経験は十分。自分とて長く戦場に身を置いていたからどうするべきかは心得ている。
 謀反を起こし、それを成功させるには絶好の機会だ。
「この国は変わるべき時を迎えたのかもしれません、鄧艾殿」
「だが、主を裏切るなど」
「いつまでも戦乱の世に巻き込まれていては、穏やかな日など訪れない」
 下から自分を睨む彼の目は、いつかの彼を思い出させる。ついに記憶を取り戻したのかと思ったのも一瞬、鍾会殿は気障すぎましたと笑って流す。
「国を持てば鄧艾殿とゆっくり過ごすことも出来るでしょう」
 彼の目線の先に、桃の木がある。葉が落ち、寒々しい桃の木。花弁が散る中、義兄弟の契りを交わした。義兄弟になってから、自分は彼を助けられているだろうか。彼を支え、共にいると誓ったことを半ば忘れかけていた。
「兵を挙げるなら協力を厭わぬ、……何なりと任務を」
 鍾会殿は力強く頷き、疲労を忘れたように歩き出す。いつかは頼りなく見えたその背中が、とても大きく見えた。
 彼は自分と違い、優秀な人間だ。この乱世を終わらせてくれるかもしれない。
そのためなら、協力は惜しまない。義兄弟として、出来ることをしなくてはならない。それが自分に課した任務だ。



終章


 謀反を起こした。
 かつての主を討ち、鍾会殿を新たな主として仰ぎ、勢力の維持に努めた。
 内紛が起きた勢力というものは、上層がそっくり入れ替わる。かつての同僚も今は無く、兵力は僅か。周りからすれば攻め込む好機と言えるだろう。
 将はと言えば、自分と彼しかいない。副官もいるが、戦力として頼れるほどではない。要所の防衛が精一杯と言うところだろう。
 勢力の防衛戦が続く。これがもはや何度めの防衛戦なのか、わからない。向かってくる敵がいれば打ち倒すだけだ。兵に気を配れども、もはやきりがない。
 鍾会殿が宝具に頼った経緯を追体験しているようだ。兵は頼れず、将はいない。敵ばかりが目の前に居る。ほんの少しの気の緩みが死を近付ける。気持ちが焦っては負けだ。己を支えるために宝具が必要だったのだ。
 今日もまた、揃って戦場に立っている。兵力も十分にない今、将である自分が動くしかない。
「鄧艾殿、私に任せて本陣で控えていてください」
 鍾会殿が不安げに声音を揺らす。自分も完治していない怪我を抱えているが、鍾会殿も同じだ。彼だけに任せておけるわけがない。
「義兄弟を戦場の真ん中に置き去りにすることなど、自分には出来ません」
 いまだ敵の軍勢は見えない。兵力差はおよそ五倍、地の利は我らにあれど推し返せなければ即時捕縛される可能性がある。
「本陣の守りこそ、君主たる鍾会殿が行うべきだ」
 彼の片腕である自分の任務は、敵の掃討以外にない。一気呵成に攻め敵本陣を落とすしか、この危機を切り抜ける術がない。
「私だって、義兄弟であるあなたにだけ無理をさせたくない!」
 声を荒げる。今にも泣きだしてしまいそうな顔に見えた。
 お互いが譲らないままでは攻め込まれてしまう。本陣に長く連れ添った副官を据え、二手にわかれて攻めのぼる案を出した。
 ここらの地形は把握できている。地図を示し、敵本陣へ至る最短の道を教える。
「このあたりに抜け道があります、自分が敵を引き付けている間にここを抜けてください」
「目印になるものはありますか」
 近くに何かあったか。思い出す。何があっただろうか。
「梅が」
「梅?」
 枝振りが立派な梅の木があったはずだ。付近に脊の高い草ばかりが集まった藪があり、抜け道が隠されている。
「こんな時でなければゆっくり見られたのに」
「いつか行きましょう」
 いつか。いつ来るのだろうか。来るのを待つのではなく、歩み寄らねば得られない未来か。
 楽しみですね、と声を弾ませながら剣を持つ。随分前、彼に贈ったものだ。よく手入れされている。自分もまた、彼と共に設えた槍を構えた。
 拠点の外から馬蹄の音が聞こえる。敵がやってきた。
「行きましょう鍾会殿、我々の国を守らねば」
 門が開く。戦場へ飛び出していく。
 兵の損失を最小限にとどめる余裕も既にない。残された少数の兵たちだけが、執念で戦場に立っていた。
 副将たちが本陣を守ってくれている。鍾会殿たちが、敵の総大将に狙いを絞り、駆けている。
 自分がやるべきことは、各拠点を押さえ、敵の兵力を削ることだ。
 拠点を一つ落とし、防衛拠点へ急ぎ改造する。それが終われば、次の拠点へ火計の指令を出す。息つく暇も無い。
 武器を振う腕が重く、向かってくる敵を受けるだけで精一杯になった頃、ふと昔のことを思い出した。
 鍾会殿が記憶を失う前、合同演習もまともにやったことはなかった昔のこと。彼一人だけが突出し、本陣を落としていたあの頃。
 あの頃の自分は、耐えるのが任務だった。鍾会殿が本陣を落とすまで、味方の本陣を守り、時に攻め、戦う。自分は攻めることが不得手なのだな、と気付いたのは彼がいたからだ。だからこそ、自分の任務を全うすることが出来た。
 じりじりと戦況は悪くなる。追い詰められていく。雑兵に囲まれ、逃げ場も無く、弓が飛び剣が踊る。防ぐ腕に力は籠らず、息は荒い。目の前が白く点滅するのは、血を失いすぎたせいだろう。
 死の足音を近くに感じながらも、どこか冷静な自分がいる。思い出すのは、心穏やかであった日々のことばかりだ。
 まさか彼と義兄弟の杯を交わす日が来るなど、思いもしなかった。共に市へ出たことも、彼の財布が空であったことも、記憶に残っている。謀反を起こした後も、彼と共にあったからこそ歩み続けることが出来た。
 覚悟、と鋭く耳に届く声に、反射的に身を翻す。脇腹が熱い。斬られた、と認識するより前に螺旋槍を叩き込む。鈍い声と共に、それが地面に伏した。
 伝令の声が良く聞こえない。身体の所々が熱を持ち、痺れている。今は痛みを感じないだけだ。
「本陣、確保されましたっ!」
 切れ切れに叫ぶ伝令の声を聞き、武器を取り落とす。安堵で力が抜けた。雑兵たちが引いていく。投降する者もある。
 自分の周りにあるものは、兵の死体ばかりだ。彼が仕方がないと言っていたそれが今、自分の傍にある。彼の胸の内も、これほどの無念さで溢れていたのだろうか。
 膝の力が抜ける。武器を支えに立ちあがろうとしたが、上手くいかない。指先が震え、柄を掴んでいられない。支えをなくし、尻もちをついてしまった。ふ、と笑いが零れる。
「恰好が、つかないな……鍾会殿に笑われて、しまう……」
 無様ですね、と彼の声が聞こえた気がする。きっと鼻で笑いながら、自分を見ている。義兄弟はそんな風に笑わないと知っているが、しっくり来るのは過去の彼の姿だ。
「鄧艾殿っ!!」
 目が霞む。遠く、自分に駆け寄る影がひとつある。はっきり姿が見えない。
 小さな影は徐々に大きくなる。近づいているのだ。
 鍾会殿。
 名を呼んだはずなのに、声が出ない。身体が重い。
「鄧艾殿、鄧艾殿っ……!」
 震える声と共に、身体が軽くなる。背を支えてくれている、と気付くにも時間がかかる。
 戦場にあれば、別れが来るのは遠くないだろうと思っていた。こんな無茶な戦を続けていれば、いずれと。
 こんなに早く別れが来ると、誰がわかっていただろう。
 いや、きっと誰も知らなかった。別れというものは唐突なものだ。
「何で、こんな」
 瞬きをする。霞んだ目の焦点が、自分を覗き込む彼の姿にぴたりとあった。
整った顔が、くしゃくしゃに歪んでいる。今にも泣きだしてしまいそうな顏が、そこにある。
「いつか、お前と……」
 手を伸ばす。涙を拭ってやらなければ、と思った。
 腕が重い。自分に出来ることはもう、それくらいしかないのに。
 いつか、お前とゆっくり地図を眺めてみたかった。
 二人で知らぬ土地を巡り、自分が面白いと思うことを彼に教えたかった。この世が平和であったなら、出来たのだろうか。



聞こえる


 門が開く。鄧艾殿の背中を見送って、反対側から拠点の外へ出る。そこからひたすらに走った。
 鄧艾殿から示された道を辿り、敵本陣の大将を倒す。目的はそれだけだ。
 部下は数名。数が多くなれば目立ってしまう。私を無傷で敵本陣へ送り届けるための、云わば盾であった。
 敵はかつての同僚たちである。主を討った謀反人を倒せ、我らの土地を取り戻せと士気を高めている。
 対して我々の士気は下がる一方だ。繰り返される襲撃、恩賞は少なく安定は遠い。軍馬も兵も消耗し、逃げ出す兵の数も増えつつあった。
 それでも私と鄧艾殿を信じ、命を共にしてくれる者ばかりが残っている。諦めるわけにはいかなかった。我々の国を、守らなくては。
 走る。交戦の度に、部下が一人二人減っていく。足止めはお任せを、早く本陣へ。皆が同じことを言う。立ち止まるわけにはいかず、走り続けた。
 ふと、後ろ走る兵が声を上げた。
「鍾将軍、あれが目印では」
 枝を四方に伸ばし、ぽつんと立っている梅がある。緑の中にひとつ、花もつけないそれは確かに目印として十分な機能を果たしていた。
 梅の花はまだつぼみだった。
 梅を背にして藪を抜け、敵本陣の裏手にたどり着く。見張りの兵たちを手早く片付け、閉じた門を前にぐるりと周囲を見た。
 本陣にしては兵が少なく、手薄だ。ここを落とされることなど想定していないのだろう。
 こちらは将は一人、兵は四人。五人でどこまでやれるかなんて考えている暇はない。
「火計の手筈は整えてある、雑兵は捨て置き指揮官を狙え」
 声を潜め、命を出す。短く呼応する声と共に、兵たちは武器を手に取る。自分もまた、剣を宙へ浮かせた。
 敵方が攻め込んでくると噂が流れてすぐ、本陣になるであろう拠点に火薬を詰めておいた。仕掛けを一つ作動させれば、他の火薬にも火が付く。敵陣は一瞬で炎に飲まれる手筈だ。
「行け!」
 声と同時に、腕を振り上げる。剣が交わり、火花が飛ぶ。仕掛けの火種には十分だった。
 門が開くと同時に本陣へ躍り出る。やはり手薄だ。大将を守るのに、二十も兵が居ない。それぐらいの数であれば、私の部下が片付けてくれる。
 大将の顏に見覚えがあった。太守を務めていた男だ。
「何故裏切った」
 圧倒的不利な状況に焦り、剣を持つより早く口が回る。
 裏切ったわけではない。頭を挿げ替えただけだ。
 私は時勢がわからず、利用されていることにすら気付かない程愚鈍だ。だがそんな私を支え、戦乱の世を終わらせるために尽力してくれる義兄弟がいる。この国は変わらなければいけなかったのだ。
「戦乱の世を終わらせるために決まっている」
 彼は私の答えを聞き、ぽかんと口を開く。それから顔を歪ませ、くつくつと喉で笑い始めた。
「何がおかしい」
「貴様らはただ乱世を長引かせただけだ」
 いつしか高笑いへ変わる。声が、耳障りだった。
 乱世を長引かせたいのではない。早く終わらせるために、戦の無い国を作るために、私は。身体の芯が熱くなる。衝動的に宙に浮かばせた剣を取り、男の身体へ突き立てた。
 声は途切れ、体が地に伏す。男の亡骸が、燃え盛る本陣に転がった。
身体を支配するのは疲労感だった。いつまでこれを続ければ、戦の無い世になるのか。いや、作るのだ。義兄弟と共に。
「鄧艾殿」
 気付いたら、走り出していた。私は何も間違っていないと、支えてくれると、そういう彼の声が聴きたかった。
 二人なら何でも出来ると思った。あなたがいれば。あなたがいたから。
 山道を抜け、打ち破られた関所の門をくぐり、走る。
 鄧艾殿は中央の拠点にいるはずだ。そこで敵を引き受けると言ってくれた。
 頭の奥が微かに痛む。
 胸の内に、あの男に頼らなければ天を目指すこともできないのかと言葉が浮かんでくる。
 記憶を失ってしばらく経ってから、微かな頭痛が増えた。そして、決まって言葉が浮かんでくる。声が聞こえるときもあった。最初は幻聴だと思った。他人を罵る声、嘆く声。頭を打ったせいだと思っていたが、ある時ふと気付く。
 これは過去の私の声だ。
 ――情けない。英才教育を受けていながら。何のために、知識を得て来たのか。何のために武を得て来たのか。
 耳を塞いでも意味はない。考え事をすれば言葉が浮かんでくる。無心で走るしかない。
 ――まだわからないのか。他人に頼るなんて無意味だ。踏み台にし、私の役に立つように使ってやるのが一番良い。
 鄧艾殿がいなければ、今の自分はない。戦に勝ったことを伝えなくては。彼の無事を、一刻も早く確かめなければ。
 ――この乱戦の中、本当に無事でいると思っているのか。死地へ送ったのは貴様ではないか。
「煩いっ」
 笑う声が聞こえる。誰の声でもない、自分の声が。

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