三章 あなたにあたたかいスープを

 神父の朝は早い。

 日が昇る前に起き、身体を清め、小瓶に聖水を詰め、朝の礼拝に間に合うように教会の扉を開け、礼拝堂を暖かくしておかなければいけないからだ。

 他にも礼拝の前に身体を清めるとか、聖水の小瓶を回収しておくとか色々あるのだが、とにかく早起きが肝要だ。

 礼拝堂を暖かくしておくのは義務ではない。

 だが、朝の祈りで一日を始めたいという人を聖水すら凍るほど寒い礼拝堂で迎えるのでは愛がない、と思う。つまりは俺が勝手にやっているだけの話なのだ。

 身体を清めて聖堂に入り、暖炉に火を入れたらカソックに着替え、朝の礼拝に訪れる人を待つ。礼拝堂が十分温まった頃にいつも朝一番に訪れるお爺さんを迎え入れるのが習慣なのだが、今日は違った。

「神父さま

 暖炉に火を入れ、薪を積んでいる最中のことだ。教会の二枚扉が、ばたんばたんと忙しなく開く音がした。

 飛び込んできたのは街と都と繋ぐ定期便の御者だった。

「おはよう、君がここに来るなんて珍しいな」

 御者の後ろからゆっくり入って来た人影がある。街の医師だ。胸に白い花を模したブローチが着いていて、何の用事かすぐに察しがついた。

「早くからすまないね」

「いえ、先生も早朝からお勤めでしょう

 白い花は、死を意味している。医師が白い花を持って教会まで知らせに来るのが葬式の決まりなのだ。昨晩か、今朝か、誰かがその命を天に還したのだろう。

「もう墓守との話はついているから」

「では、支度を」

 葬式の支度はそう掛からない。死を迎えた以上、その肉体は迅速に女神様にお返ししなくてはいけないからだ。

 墓守に話がついているなら、肉体と魂の繋がりを断ち切り、魂を天に、肉体を土に還す儀式を済ませるだけだ。

「して、天に昇ったのは……」

 御者が青い顔で、とどまつ、と言った。医師も頷いている。

 トド松。俺の幼馴染だ。昨日までここにいたが、都に帰っていった。同じ名前の他人など、この地にはいない。

「……トド松は、都に帰ったんじゃ……

「都で事件があったらしいんだ、巻き込まれたんじゃないかって先生と話してた……」

 都で事件。領主のところへ早馬が来ない限り、正確な情報は知れない。それか、都の中央教会から人が来ない限りは。

「確かに、トド松だったよ」

 先生に念を押され、ぐにゃりと視界が歪んだ。

 トド松が この間までここにいたのに その命が失われたなんて信じられるだろうか。葬式が急に恐ろしいものに思えてきた。

 死因についてはどちらも口を噤んだ。言われたとして、何も頭に残らなかっただろう。

「君とトド松のことは皆知っている。……辛いとは思うが、こんなときだからこそ早くお還ししてやりたい」

「……はい」

 目の前が白くなる。点滅していると言ってもいい。二人が去っていくのを見送りながら、俺は葬式の手順を思い出そうとしていた。

 墓守が、墓穴を掘ってくれている。まっさらな柔らかい麻で肉体を包んでその中に入れ、たっぷり聖水を撒いて祈りの言葉を紡ぐ。

 墓標の代わりに木を植える。小さな苗木だ。マリエシ、トドロップ、ファーガシー。苗木は教会が庭で育てているものを使う。あとは土を被せて終わりだ。肉体は土に還り、魂は天で癒やされてから再び生まれる。

「……トド松」

 暖炉の中で薪が爆ぜる音しか聞こえない。葬式がある日は、教会でのミサは行われない。この礼拝堂の全てが、亡くなった人の魂を見送る場となるからだ。

 家族がいれば、悲しみを和らげるためにこの礼拝堂で時を過ごすことを勧める。だが、トド松は孤児だ。身内がいない。教会に訪れる人は、いない。

 目を瞑る。まだ実感がない。きっと儀式の最中も、わからないと思う。

 じわじわと目頭が熱くなるのを感じて、暖炉の傍を離れた。

 トド松に贈る木は、何がいいだろう。実がなる木がいい、この寒いアカツカの国でも実がなる華やかな木が。

 葬式の支度を始めるために、俺は少しの間自分の感情に蓋をした。



 朝方までは晴れていたのに、葬式が始まったら雨が降り出した。きっとお迎えだ、と呟いた俺の声は掠れていた。

 ゆるやかな坂を登りながら、先程終えたばかりの葬式を思い返している。傘もささずに教会へ戻る。頬を打つ雨は冷たい。お迎えの雨なら、濡れてもいいと思えた。

 トド松に贈る木には、アイビスを選んだ。小さな白い花を付け、桃色の実を付ける木だ。実を求めて小鳥が来れば、寂しくはないだろうと思って選んだ。

 頭をぶつけたのが、死の原因と聞いた。見た目には大きな怪我もなくて、この間一緒に眠ったときと全く同じだった。今にも目を覚ますのではないかと思うくらいに。

 トド松の歌を聞きながらクローバーを編んだ草原を通り過ぎる。今は雨に濡れ、頭を垂れている。もうあの声は聞こえない。

 蓋をした感情がじわじわと漏れ出して、目の奥がずっとずきずきしている。思い出がありすぎて、気持ちが重たい。

 登りきった先にある教会を見て、少しだけ落ち着く。

 この雨はトド松を迎えに来た女神様のもたらした雨だ。善行を積んだ魂はすぐに生まれ変わると聞く。

 身寄りがない俺とトド松はずっと一緒だった。兄弟みたいに思っていた。いつかまたどこかで会えたら嬉しいと感じるだろうか。今はただ、悲しい。

 扉を開け、礼拝堂に入る。暖炉の火は消したが、まだわずかに暖かい。濡れて重たい身体を癒やすべく火を入れ、薪を積み直したところで背後に気配を感じて振り返った。

「カラ松神父」

 のっそりと動く影が一つ、背後に立っていた。鍵はかけていったはずなのに。しかも俺の名前を呼んだ。

「……一松修道士

 思わず悲鳴を上げかけたけれど、よく見れば知り合いである。中央教会で細々とした仕事をしている修道士だ。盗人ではない。心底ほっとして、ため息が出た。

「……葬式。お疲れ様」

「ああ……」

 さっき見送ったトド松を思い出して一気に薄暗い気持ちに引き戻される。

「トド松が何で死んだかって話は、もう聞いてる

「……頭を打った、と」

「そう」

 修道士は近くの長椅子に掛ける。俺は暖炉の前に立ったまま、言葉の続きを待った。濡れたカソックが重い。

「……中央教会が燃えた。トド松は……俺を手伝ってくれて」

 修道士は、祭壇の方を向いて淡々と話し始める。

 病で恋人を失った女が火を点けたこと。夜ミサの最中にぼや騒ぎを起こして市民を混乱させ、その間に祭壇を燃やしたこと。怪我人が多数出たこと。修道士は人々を外に避難させたあと、教会美術品の救済にいったこと。トド松とはその時に合流したらしい。

「……その最中に怪我、したんだ。俺が医者を呼びに行っている間に消えたもんだから……」

 殆ど、懺悔だった。

「どこにいったんだろうって、思ってたんだ……」

 彼からすれば、姿を消してどこかで休んでいるだろうと思っていた人物が、自分の知らぬところで生き倒れて死んだことになる。

 自分の手助けをしていた最中に怪我をしたのだから、責任も感じていることだろう。どちらともなく、自然に祭壇を見上げた。天秤を持つ女神様の像。ステンドグラスの向こうにある光は霞んでいる。

「……お迎えの雨が来たのだから、女神様は許して下さる」

 トド松が迎えられたのだから、間接的に死の原因を作った彼もまた許される。後悔の念が滲んだそれを聞きながら、二人で祈りを捧げた。天に向かう魂が安らかであるように。

 しばらくの沈黙の後、修道士は顔を上げる。

「本題。中央教会は今、殆ど焼けてしまって、美術品なんかは収めておく場所がない」

 親指の爪ほどある紙の束がどこからか出てきて、手渡される。ぱらりと捲れば、一階廊下の絵画だの、二階楽廊の飾り鏡だのといった文字の羅列が出てきた。

「この教会の地下倉庫、借りた」

「ああ、それで……」

 この小さな教会には、礼拝堂と変わらない広さの地下室がある。元々は薪やお布施で頂いた品を収めておく場所だったのだが、俺の代になってからは空っぽだ。

「そこに書いてあるものが全部あるかどうか確かめておいて」

「わかった、やっておこう」

 修道士は本題を全て話し終わったのか、口を噤んだ。俺は暖炉に薪を足して、その沈黙の居心地の悪さを感じている。

「一松修道士、この後は……」

「都に帰って教会の再建」

 都の信徒たちの気持ちが不安に揺れているから早く再建してしまわなくてはいけない、という修道士の横顔は少し疲れているように見える。

「そんなに、女神様への気持ちが揺らいでいるのか」

「不安は伝染するから、パニックになっていないだけマシ」

 水面に広がる波紋のように、不安は伝わる。信仰は不安から救うためにあるのに、その信仰の根本が揺らいでいるのでは気持ちは紛れないだろう。

「こっちにも何か来るかもしれないけど……」

「出来ることをするだけ、だな」

 人を愛し、善き行いをする。女神様はその姿を見ている。

 修道士は俺の顔を見て、満足げに頷いた。

「それじゃ、俺は帰るから」

「道中、お気をつけて」

 カソックがすっかり乾いてしまった。長椅子から立ち上がった修道士を追う。見送りのためだ。

 扉を開ける直前、修道士は思い出したかのように荷物を漁って一つの麻袋を取り出す。片手で持てる大きさ、角張った袋の形。おそらく中身は本だ。

「これ、あんたに」

「俺に

 手渡された麻袋を開こうとしたら、小さく首を振って止められた。俺に預けはするが、開けてはいけない中身。厄介なものの気配がする。

「困ったことがあったら開いて」

「困ったこと……っていうのは、どういうことだ

「そのままの意味だけど……あ、人には見せないように」

 それ以上の解説はないらしい。

 わからないまま受け取って、抱えた。人に見せてはいけないのなら後で自室に持っていこう。

「じゃあ倉庫の件、よろしく」

「女神様のご加護がありますように」

「カラ松神父も」

 互いに片手を上げ、小さく礼をした。別れはさっぱりとしている。

 一松修道士の猫背がゆるやかな坂の向こうに消えていく。俺の腕の中には開けてはいけないという袋と、地下倉庫に収められた物品の羅列が残された。

「……何かしていたほうが気が紛れるな」

 雨脚は随分弱まった。この分なら、もうすぐ止んでしまうだろう。

 俺の気持ちも、同じように晴れてくれはしないものか。

 感傷的になりながら教会の中に戻る。暖かな暖炉の火は消しておく。地下倉庫へ行かなくては。

 喪に服した祭壇を横目に、奥の扉を潜る。

 地下倉庫への入り口は居住区にあるのだ。リビングのテーブルの上に修道士から預かった袋を置いて、カソックを脱いだ。ずっと暖炉にあたっていたからか、濡れた身体も随分温かい。

 シャツに袖を通し、ボタンを留めてから袖を捲った。癖のようなもので、袖が煩わしくてつい捲ってしまう。

 カンテラに明かりを灯す。昼を過ぎた頃ではあるが、地下倉庫の中は暗い。渡された紙の束と万年筆を抱えて地下へ続く階段を下りていく。

 手すりはないから、壁伝いに下りるしかない。カンテラの明かりがゆらゆらと足元を照らす。

 昔、トド松とここに二人で隠れたことがあった。隠れんぼをした。誰かが見つけてくれるまで、二人でずっと手を繋いでいた。

 思い出すトド松の姿に、心が軋んだ。思い出すのなら、もうしばらく後がいい。生々しすぎる。

 熱くなった目頭に気付かないふりをして、倉庫の扉を開けて中に入った。それからは、頼まれた仕事をするだけだ。



 手を動かすと気が紛れる。

 地下倉庫にぎっちり詰め込まれた美術品は、カンテラの薄明かりでも美しかった。多少煤けていたり、壊れていたりするものはあったが、目の前にすると息を呑んでしまう。

 絵画にしろ、器にしろ、どのようにしてこれが出来上がっていくのかと考えると興味深い。俺も趣味で刺繍なんかをすることがあるが、それとは全く規模が違うなと思う。

 地上へ上がり、カンテラの明かりを消す。外はようやく夕方に差し掛かった頃だ。

 日が沈むまで、トド松の魂が安らかであるように祈ろうか。同時に、俺自身に悲しむことを許したいと思った。

 袖を捲ったシャツのまま礼拝堂に戻り、祭壇に一番近い長椅子へ座る。見上げる。女神様の像を前に、俺はぐったりと長椅子に身体を預けた。

 未だに信じられない。トド松がもういないなんて。

「……トド松」

 なあに、という明るい声はない。じゃれて俺の方に寄り掛かる重さはない。

 鼻の奥がつんと痛い。もう我慢しなくてもいい、神父としてやることはやった。悲しいなら泣いてもいい。

 葬式の後、ご家族に掛ける言葉を自分に向けてみる。白々しさに笑えたけれど、瞬きをしたらぽろりと涙が零れた。

 がちゃ。ばたん。

 背後で扉の開く音がして、慌てて涙を拭う。今日の夜ミサはない、喪に服すならここで祈りを捧げてもいい。頭のなかに言葉を用意してから振り返った。

「からまつ」

 掠れた声が俺の名前を呼ぶ。その声音に、体が石のように固まった。

 扉の前にゆらりと立っていたその人は、ゆっくりと祭壇の方に歩いてくる。ぶつぶつと何か言っているようだが、俺には聞こえない。

 絨毯を擦る足は、裸足だ。歩くたびにじゃりじゃりと音がする。土が落ちているんだ。肌が粟立つ。あれは何だろう、とどこか他人事のように見ている自分もいる。

 近付くにつれ、人相がはっきりと見えてくる。夕暮れを迎えた教会の中は薄暗い。とはいえ、近付けば誰かくらいはわかる。

 トド松だった。

 何の冗談だろう、夢だろうかとも思ったけれど抓った頬は痛いから夢ではないことは確かだ。

 祭壇に向かうトド松の足が、絨毯に取られて転んだ。それを見て、ようやく体が動いた。起こさなくては。

 駆け寄ってその手を取る。指先が驚くほど冷たい。生きている人間のそれとはとても思えなかった。

「からまつ……」

「トド松、……本当にトド松なのか

「ぼく、だよ」

 トド松は床に手をついて上体を起こし、真っ直ぐ祭壇を見た。俺はその顔色の悪さに気付いてしまい、目を逸らす。

 埋葬した後に生き返る死者というのは、昔ならよくあった話だ。確実に死んでいるかどうかなんて昔はわからなかったから。

 誤って埋葬された死者たちは、己に被せられた土をどけて出て来る。爪の先には土が詰まっていて、じゃりじゃりと土を撒きながら歩く。トド松の手も、同様に土で汚れている。

「都で火事が、あって……僕、少しだけ、女神様はいないのかなって思っちゃったんだ」

「……そうか」

「そのことを女神様に謝りたくて……それと、死んだらどうなるのかカラ松に教えてほしくて、ずっと歩いてきた」

 トド松が行き倒れていた理由はこれだったのか、と俺は小さく頷く。燃える教会の中で見た何かが、トド松の信仰をも不安定なものにしている。

「教えを疑うなんて、聖歌隊なのに……僕、天になんていけないんじゃないかなあ……」

 トド松の声が震えている。俺の手を握る指先は、未だに冷たいままだ。

「そんなことはない、トド松は己の罪を認めて謝ることが出来たんだ……天にいける、はずだ」

 多分、という言葉は飲み込んだ。

 言えるだろうか。俺は今日の朝からお前が死んだと聞かされたことを。葬式はもうとっくに済んでしまったことを。一松修道士から、その死の原因について聞いたこともだ。

「ぼく、死んじゃうかもしれなくて」

 死んでいるのだ、とっくに。

 トド松の死を信じたくなかったけれど、生きていてくれればと思ったけれど、実際に目の前にすると思った以上に心臓に悪い。

「その前に祈りを、捧げてもいいかなあ」

「ああ……そうだな、祭壇の前に行こう」

 聖水の入った小瓶を持っていないから、正式な手順ではない。けれど本人が捧げたいというのなら、止める理由もないだろう。

 ふらつく歩み。支えながら歩くのは難しい。触れる体はやはり冷たく、掘り返した土の匂いがする。

「……人の世よ」

 人の世よ、渇いた心を潤す女神様の慈愛は深く。人の命よ、清き水と共に女神様の元へ還らん。天上に輝く光を見よ、女神様は遥か高くより我らを見ている。

 一息に言ってしまい、トド松は両手の指を組んで目を瞑る。その横顔が眠っているときと同じで、俺は安堵していた。知らない何かでは、ないのだ。

「……ありがとう、僕……他にも言わないと、いけないことがあるんだけど……」

 トド松は急に言葉を詰まらせる。

「……なんだ

 どう切り出せばいいか俺にもわからない。

 お前はもう死んでいるんだ、何も不安に思うことはない。あとは眠るだけなんだトド松。これだけなのに。

 並んで座るトド松が、ちらりちらりとこちらを見る。言いづらいことがある時の癖だ。変わらないんだ、と思えばこそ胸が痛んだ。

「……なんか、うまく言えないや……ねえ僕が死んだら、トドロップの木を植えてくれる 木目が綺麗だから」

「いや、お前の墓に植えたのはアイビスだ」

 トド松がぱっちりとした目を俺に向ける。

 順番を、間違えた。

「アイビスは小さな実をつけるだろう、実をつつきに小鳥がやってくる……小鳥が歌えば、歌の好きなお前も寂しくないと思って……」

 言いながら胸が詰まってきた。たとえ死んでいても、こうして言葉を交わせることを喜んでいる俺がいる。死を、受け入れてはいなかったのだ。俺も。

「……お前の葬儀は、もう、終わったんだ」

「……は

 声を詰まらせるトド松は、責めるような目で俺を見る。事実なのだが、本人からすれば意味がわからないだろう。

「僕、今喋ってるよね ここまでも歩いてきたよ

「……目が覚めたのは森の中じゃなかったか

 怪訝な表情が、じわじわと恐怖に変わっていく。

「それに、この部屋は酷く寒いのにお前は平気だ」

「暖炉に火が……」

「入っていないんだ」

 小さく首を振る。トド松は信じられないとばかりに口元に手を当てた。

「それと」

 トド松の手を取る。親指の付け根からまっすぐ下りて手首に指を当てる。

 脈の取り方は医師に教えてもらった。体調不良は祈りが足りないせいだと教会に来る人が稀にいるのだ。

 病は祈りでは治らない。具合が悪そうな信徒が来たら、熱を測ったり脈を取ったりして医師のところに送り届けることになっている。

 当然、死人の手首から脈を取ったところで何の反応もない。

「……嘘

「嘘なんかついたことないだろう、俺が」

 トド松も同じように自分の手を握り、それから首に手を当て、助けを求めるような縋る目が俺を見た。

 死人が墓から出て、教会まで歩いてきた。そのうえ、懺悔をして天に昇りたいと言う。そんな話、今まで聞いたこともない。

 けれど、実際に俺の目の前で起こっている。

「お前はもう……」

 握った手がぶるぶると震えている。不安だろう。怖いだろう。だが事実を伏せていることも出来ない。

 涙で潤んだ目がふっと閉じ、椅子の上に倒れ伏した。

「トド松っ

 体に触れる。脈は変わらず、ない。口元に手のひらを当てれば、呼吸はある。ゆっくりと繰り返されるそれは、寝息だ。

「……困ったことになった」

 ぽつりと呟く。俺の言葉は、日の沈んだ礼拝堂の中に溶けて消えた。

 残ったのは、トド松の穏やかな寝息だけだった。





 困ったことがあったら開いて、という修道士の言葉を思い出した。

 部屋にあった袋を持って礼拝堂まで戻る。厄介な物を押し付けられたと思っていたそれだが、解決の糸口になってくれはしないかと今は祈ってすらいる。

 祭壇の前の長椅子にトド松が眠っている。

 上下する胸を見ていると本当に生きているのではないかと錯覚しそうになる。見送ったはず、なのだ。

「……頼む」

 袋の中身を、開ける。何が出てくるかと恐る恐る中に手を入れれば、つるりとした冷たいものに指が当たった。指先で探る。瓶だ。他にも中に何か入っている。

 袋の中身を床に並べていく。

 空の小瓶。見たこともない葉。白い粉の入ったブリキ缶。これは聖水を作るための道具だ。俺も一式持っている。

 ずっしりと重く、分厚い本が一冊。これは見たことがない。

 本の表紙には革が貼られている。題字はなく、外側から見ただけでは何の本かわからない。

 聖書だろうか。修道士から改めて渡されるようなものでもないと思うのだが。困ったときに開け、と言われた中身がただの本で、存外衝撃を受けている自分もいた。

 表紙を開く。つるりとした紙の中央に、並ぶ文字は恐らく題字だ。困った時に見ろというそれと、この題字が結びつかず、題字を口に出してみる。

「……魔のものに、対抗する……手段」

 ぱらぱらと捲っていく。中身は文字が小さく内容を追うのに苦労する。記述の言い回しも何だか古臭いように感じる。

 魔のもの、という言葉を俺は知らない。教えの中にも、聖書の中にも、そのような言葉は存在しないからだ。

「これは一体どういうことなんだ……」

 困ったことになった。

 困ったら開けと言われた本の中身が、何に役立つことなのかわからない。

 トド松は墓の中から出てきてしまったし、生きているのか死んでいるのかわからないようだし、魔のものなんて聞いたこともない。頭がくらくらしてきた。

 ばたん、と扉の開く音がして咄嗟に本を椅子の下に隠した。

 今日の夜ミサはない。葬儀があったことを知らない街の人だろうか、慌てて立ち上がる。

 扉から入ってきた人物は颯爽と絨毯を歩き、俺の目の前でぴたりと止まった。今日のミサはないんだ、という俺の言葉は尻すぼみになって消える。

 このあたりでは見ない服装だ。ダークグレーの背広、艶々した革靴。人好きする笑顔を向けられ、なんだか違和感を覚える。

「どうも、どうも。あんたが神父さん

「ああ、神父のカラ松だ……すまないが今夜のミサは」

「ミサに来たんじゃないんだぁ、用事があるのはそっち」

 男は長椅子に横たわるトド松を指差す。

「死体だろう

「いや」

 何故、瞬時に否定の言葉を吐いたのか、わからない。

 男の前を横切り、トド松を隠すように立つ。笑っている男の顔が、恐ろしいもののように感じる。怖気が立つと言えばいいのか、こんな感覚を味わったことは今までない。

「えぇ~っ、そんなわけないよ 俺、悪魔だからわかる」

「悪魔ぁ

 聖書にある悪魔の記述は僅かだ。

 一説には、天に向かう魂は悪魔の手によって罪の償いをさせられると言われている。悪は魂の持つ業、魔は人間技でない、不思議な力をもつことを意味している。

 罪を背負った魂を、天へ運ぶ役割を持つ。もちろんただ運ぶだけではない。罪の清算を行うため、地獄へと導くのだ。

「信じられない 見せてあげてもいいよ、角と羽」

「角……」

「教会美術で見たことあるだろ 一度姿を見せただけでも人間は覚えていてくれるんだからスゴイよね 悪魔びっくりしちゃう」

 男は軽妙に喋りながらくるりと背中を向ける。そこには何もない。

「狂言はいい加減に……」

「えぇ よく見てよ、ほら、あるでしょ」

 俺の目の前を横切る紐がある。ふと目で追いかければ、男の腰あたりから矢じりのような尾が伸びている。瞬きの間に、まるで蝙蝠のような羽が生えていた。色は赤く、けれど炎のように鮮やかな色ではない。

 見たことがある。見たばかりだ。そう、地下倉庫に収められた教会美術品の中に、そういう絵があった。

「悪魔……」

「納得してくれたところで、そこで寝てるのを連れていきたいんだけど」

 再び、トド松を指す。俺は二人の間に入って、ぎこちなく笑みを作った。悪魔はにんまりと笑っている。

「俺、悪魔のおそ松。罪を背負った魂を地獄につれていくのが仕事なの、わかった

 悪魔がその手をかざす。宙空を掴み取れば、空中に発光する水の塊がふわりと浮かび上がった。

 外は暗い。夜なのだ。明かりをつけなければ礼拝堂だってろくに歩けなくなる。なのに今はどうだろう、明かりがないのに周りがよく見える。

 人ならざるものだ、と気付いて背筋が冷えた。神々に近しいものに、反抗している。俺は神父であるのに。

「トド松が何の罪を犯したと言うんだ

 悪魔は待っていましたとばかりに羽をばさりと広げる。人と言葉を交わすのが楽しくて仕方がないように見えた。

「死を受け入れず、天に昇らないのは罪だろ

 転生を拒み、死した身体にしがみつく魂は重い罪を背負うのだと悪魔は言う。声音だけが柔らかいのが不気味だ。

「未練があったんだろうね」

 何か言いたげにしていたトド松の姿を思い出す。他にも言わないといけないことがあると言って、誤魔化したことも。

 あの時触れた、冷たい身体も思い出して、やはり死を受け入れねばならないのだと、俺も思う。

「……転生を拒む魂など、聞いたことがない」

「目の前にいるでしょ 教えに疑問があったりするとね、こういう魔のものになっちゃう」

 修道士から託された本の題字と、悪魔の言葉が噛み合う。人ならざるもの、不思議な力を持つもの。総称して魔のものと言うらしい。

 ならばあの本の用途は一つだ。

「拒んだ以上、地獄で償いをしてもらわないと……女神様が決めたことだからさ」

 俺だって辛いんだよ、という悪魔は自分の角を指先で掻く。羊のものとも、山羊のものとも違う形をしていた。

「俺が説得する」

「はいはい、そうやって任せてくれれば……ん

 今何て言ったの、と聞き返す悪魔の表情は楽しげだ。

「連れていく前に、俺が……トド松に死を」

「受け入れさせるってことね、なるほど

 悪魔は腕組みをして、それから歯を見せて笑った。八重歯が随分尖って見え、肉食なのだろうかと全く関係のないことを考えた。

「いいね、そうしよう 友人からの説得ならゾンビも聞き入れやすいんじゃねえかなあ、俺より適任

「ぞんび

 聞きなれない単語におうむ返しをすれば、悪魔は鼻の下を指先でこすってまた笑みを作った。

「魂が死体から離れない状態をゾンビって言うの」

 悪魔は俺の足元を指差す。そこには隠した本があるだけだ。彼の立っている場所からは見えないはずなのだが。

「そこに隠してある本に全部書いてあるから」

 胸がどきりと跳ねる。驚きを隠せない。悪魔は隠し物を見つける力があるのだろうか。

「魂が納得すれば、死体から剥がすことが出来るわけ」

「……死を受け入れればということか」

 悪魔は俺の手を取り、強く握る。握手だ。生きている人間のように温かな手。触れたトド松の身体との差を感じて、俺は勝手に落ち込んだ。

「一週間で足りる 俺、時々見に来るからさ」

 本当に死んでいるのだと、何度も突きつけられるのは辛いことだ。悪魔はそれに気づかないふりをしているのか、三度目の笑みを見せた。

「期待してるよ神父様」

 悪魔の手が離れる。瞬きのうちに、角も羽も、尻尾すら消えてしまった。

「ああ……」

 返事を聞いたのか、悪魔はひらひらと手を振って扉の向こうへ消えていく。

 残されたのは、寝息を立てるゾンビのトド松と俺だけだ。

 引き受けたはいいが、本当に出来るのだろうか。不安に襲われ、足元に隠した本を取り出す。

 魔のものに対抗する手段。対抗はいらない、トド松が死に納得し、未練から解き放たれればそれでいい。

 扉が閉まるのと同時に悪魔の出した水球が消え、礼拝堂の中は闇に包まれる。

 薄闇の中、暖炉の傍にある燭台まで向かって、三つの蝋燭に明かりをつける。本を読むには明かりがなければいけない。

 蝋燭を持って祭壇の前まで戻る。明かりが眠りを妨げたか、トド松の寝息が不意に途切れた。

 ゆっくりとトド松の上体が起きて、視線がふらふらと彷徨っている。虚ろな目だ。生気がない。死んでいるから当然なのだけど。

「……おなかすいた」

 トド松がぽつりと零す。遅れて、俺の腹がぐうと鳴った。

 お互い視線が絡んで、どちらともなく笑った。

「お腹、鳴らないや」

 トド松はお腹のあたりをくるくると撫でる。最後に食べたものは何だったのだろう。教会が燃えた夜から、もう一日経とうとしている。

「何が食べられるのかな、トド松は」

 書を開く。ゾンビについて書いてある項目を探して、ぱらぱらとページを捲っていく。

「昨日、かぼちゃのポタージュを作ったんだが」

「おいしそう」

 小さな文字を辿って、やっとゾンビについて書いてある箇所を見つける。ゾンビ。肉体が死に、魂が天に昇らずしがみついているもの。食欲は残るが、内臓は機能を止めているために消化ができない。食べても吐き戻す。

「……とりあえずリビングに行くか」

 燭台をトド松の手に託した。頷き、ゆっくりとした歩みでリビングへ向かっていく背中を見送る。

 食べられないらしいことは、まだ黙っている。これから死を受け入れて貰わねばならないのにこんなこと一つ言えないのではいけないなと考えながら、俺は小さくため息を零した。

 伝えるべき言葉は、迷わず伝えなくてはいけない。トド松が言い損ねたことも、転生についても。



 かぼちゃのポタージュを入れた器は二つある。トド松はその一つを前に、スプーンを握って俺をじっと睨みつけている。

 小さな頃、同じような顔を見た。つい目尻がゆるむ。

 ゾンビの存在は教えた。肉体が死に魂が残る理由については、濁した。今はまだ、伝えるべき時ではない。

「トド松、さっきも言ったがお前は食べても戻すだけだぞ」

「でも、美味しそう……」

「美味いさ、俺が作ったんだから」

 俺はポタージュを掬って口元に運ぶ。それを見て意を決したようにトド松もスプーンを持った。ふ、と笑いが漏れる。

 食べられないとわかっていても、空腹は抑えられないらしい。息を吹きかけて冷まし、口の中にいれてむにゃむにゃと唇を動かす。喉が、動いた。

「……暖かいことはわかる」

「はは、味はわからないか」

 少し残念だった。一人で暮らし始めてから、ようやく自分の舌を満足させられる味が作れるようになってきたところだ。せっかくなら、味わって欲しかった。

「ん

 トド松が二口目を口につけ、小さく首を傾げる。確かめるように三口目。口角がゆっくりと上がって、俺に向かって晴れやかな笑みを見せた。

「甘い

「わかったのか

 トド松は小さく頷いて俺に向かってウィンクをして飛ばす。お前にも食べて欲しかったと思いながら作ったんだ。昨日の夜。

「一人で食べるよりさ、誰かと食べるほうが美味しいよね」

 トド松はスプーンでくるくるとポタージュをかき混ぜながら俯く。

「食べてもらうのも嬉しいものだな」

 蝋燭の明かりでも、十分青い肌であることがわかる。橙の明かり。青い肌。かぼちゃのポタージュ。自分の器を空にしてからずっと、トド松が食べる姿を見ていた。

「食事中に済まないがゾンビの話、続きをしよう」

 行儀が悪いとわかりながら、器を端に寄せて書を開く。

「暖かい場所にいると身体が腐るらしい」

「……ほんとにそれ、食事中にする話じゃないね」

「お前の身体が死んでいるのは事実だからな……」

 寝室には薪ストーブがある。寝るまでの間、部屋を暖める小さなものだが、それすらトド松の身体が腐るのを早めてしまう。

「一番寒い部屋っていうと……薪小屋

「ほとんど外じゃないか 地下倉庫ならどうだ」

 カンテラを持って下り、その火さえ消してしまえば熱を発生させるものもない。今、教会美術品で多少狭くなってはいるが、寝床を作るくらいは出来るはずだ。

「隠れんぼしたところ

「そう、神父様にしこたま怒られたところだ

「すっごい怒られたよねー……懐かしい」

 トド松の器もいつの間にか空になっている。食べても戻すと書にはあったが、トド松はけろりとした顔をしている。

 案外大丈夫なのかもしれない。ほっと息をついたけれど、みるみるうちに青い顔が更に青くなった。

「……う」

「トド松、こっちだ」

 手を引いて手洗い場まで急ぐ。リビングを出て、廊下の突き当たり。十歩もあれば着く、狭い家なのだ。

「お腹がいっぱいで気持ちいいのに……」

 うぷ、と口元から空気が漏れているのが聞こえる。まずい。限界だ。

 扉を開くのと同時にトド松を中に押し込む。トド松の背中を撫でながら、軽率だったと思う。ごめんと謝られながら背中を撫でるのは、ほんの少しだけ虚しい。



 戻したら疲れた、というトド松を地下倉庫まで送った。

 柔らかなベッドなんて用意出来なくて、ありもので寝床を作る。破れたまま繕いをしていない布だの、クッションだのを並べてそれらしく整えれば何となく形になる。

「おやすみ、カラ松」

「おやすみ」

 扉を閉める。カンテラを持ったまま、扉の前に立ち尽くす。中ではごそごそと布の擦れる音がして、やがて止んだ。

 トド松に、おやすみをもう一度言えることが嬉しいなんて思わなかった。それで感極まって泣き出す俺自身も、昨日までいなかった。

 階段を上り、リビングに戻る。書を読まなくてはいけない。トド松を天に送るために。

 暖炉に薪を足し、夜を明かす覚悟を決めた。書の小さな字を読むには暗いが、人に見せてはいけないと言われているだけに、今晩でゾンビについてだけでも頭に叩き込まなくてはいけない。

 一松修道士は、この出来事を予期していたのだろうか。丸まった背中が一瞬頭をよぎる。だが、都の教会を再建するのに忙しい彼に助けを求めることは出来ない。

 書を開く。目を細めながら、文字を追う。

 ゾンビ。肉体が死に、魂が天に昇らずしがみついているもの。食欲は残るが、内臓は機能を止めているために消化ができない。食べても吐き戻す。生前と変わらない姿、記憶を持つ。肉体が死んでいる以上、命が戻ることはない。

 書の記述を見る度、重苦しい無力感に包まれる。トド松が生き還ることは万が一にもないことを突きつけられるのだ。

 ページを捲る。まだ続きがあるのだ。

 女神様の元に還るはずの魂が転生を拒み地上に残り続けると魂は乾き、いずれ正気を失う。正しい魂の循環に戻すためには魂の説得をし天に昇らせるか、聖水を使って強制的に魂の解放を行うしかない。開放された魂は悪魔を介して地獄へ送られ、罪を償うことになる。

 地獄。この記述も、聖書には少ない。悪魔がさらりと言い出すものだからそのまま受け入れていたが、よく考えてみればおかしい話だ。

 書を開いたまま、己の聖書を取り出す。地獄について書いてあるのは一箇所だけだ。

 肉体が死を迎えたとき、魂の器であった肉体は土へ還り魂は天へ昇る。魂は女神様の天秤で善行と罪の重さを量られ、罪が重ければ悪魔の手をによって地獄に送られる。

 この一箇所だけだ。続きは、悪魔の記述に移る。

 悪魔は、魂が罪を償ったら天まで送る。罪を償った魂は女神の愛によって潤され、天界で穏やかに過ごし、再び人間に転生する。

 悪魔のおそ松は、一週間くれた。トド松の魂を開放するまでの期間だ。聖書を閉じ、魔のものに対抗する手段の本も閉じて目を瞑る。

 魂の開放が早ければ早いほど、罪は軽くなるのではないかと俺は思う。罪の重さは天が決めることだが。

 いずれ正気を失う。ゾンビについての記述が、俺の頭の中に残った。幸いにしてトド松はまだ正気だ。天に昇る前に善行を積めば、罪は軽くなるかもしれない。

 一松修道士から託された袋の中に聖水を作る一式が揃えられていた理由がわかった。

 魔のものに対抗する手段は、強制的に魂を天に昇らせる手段が書いてあるのだ。対話が出来る状態のほうが稀なのかもしれない。

 兄弟のように育った幼馴染。説得するなら友人の方がいいと言った悪魔の言葉。俺の為すべきは何か。

 考えて灯りを落とし、少しだけ休むために寝室へ向かった。



 燃え盛る教会の中、最後まで聖堂の火を消そうとしていた聖歌隊の一員がいたという話が、俺の教会に届いた。

 火を点けた犯人と対話をしようとしたとか、教会の中で身動きの取れなくなっていた老人を助けたとか、聖堂から出た後も怪我をした親子を励ましてどこかに消えたとか。

「神父様もご存知で

「ああ、その人はどこへ行ってしまったのだろうな」

「教会では探しているらしいですよ」

 尊い犠牲であったとか、彼の行方はどこだとか、そういう声も聞こえた。噂が走るのがここまで早いなら、そのうち聖歌隊の一員というのがトド松だと言うのも割れるだろう。

 噂は耳触りのいい話だけではない。不治の病の噂が、ついにこの街にも広まり始めたのだ。

「医師たちは何をしているのだろう、神父様

「肉体を土に還さないまま天に昇るなんて、出来るの

「……お役に立てず、申し訳ない」

 真っ直ぐ、疑問が俺にぶつけられる。皆それぞれ、俺に話をして、不安を吐露したら街へ帰っていく。聖水の小瓶を持たせるのだけは欠かさない。

 困惑を浮かべる信徒たちにかける言葉は少ない。聖書の言葉を読み解き伝えたとしても、慣習を外れた埋葬に無意識に反発を覚えているのは彼ら自身なのだ。納得してもらうのは難しいだろう。徐々に払拭していければいいと考えている。

 噂話と共に教会を訪れる人の中、悪魔の姿があった。今日はダークグレーの背広ではなく、街の人と同じラフな格好だ。目立たなくていい、と俺は内心ほっとする。

「どうだい神父様

「まだ話していないんだ」

「そうだねえ、昼間出歩けるような見た目じゃないし」

 死人が墓から出たという噂話がないことは幸いだった。トド松の肌は見るからに死人だ。

「それに昼間はここ、暖房が効いてる」

 悪魔は目を細める。身体が腐ることを彼も知っているのだ。

「……夜に、話すつもりだ」

 トド松は、地下倉庫へ隠れていると言った。せめて俺の部屋に入れてやれればよかったのだが、トド松の方から断られたのだ。

 カンテラの明かりをなるべく遠ざけて美術品でも見ていればすぐ日が沈むと言う作り笑いが、逆に辛かった。

「トド松だっけ、なんでこっちまで来たんだろうね」

 悪魔は聖水の入った小瓶を珍しそうに両手で抱えながら首を傾げる。

「……故郷で死にたかった、とか」

「俺は違うと思うけどなぁ」

 考えてみなよ、と言って悪魔は祈りも捧げずに去っていく。

 言葉の意味を考えながら、俺はその背中を見送った。

 トド松が都から歩いてきた理由。女神様のことを疑った罪の懺悔に、わざわざ山を越えるだろうか。祈りを捧げるために、丘を登ろうとするだろうか。

 薄々気付いてはいた。トド松がここに来たのは、俺に何かを伝えようと思ってのことだ。何を伝えようとしているのか、それはわからない。

 言わないといけないことがある、と言葉を詰まらせていた。有耶無耶にされてしまったから、見当もつかない。

 死を迎える直前の言葉を、俺は何度か聞いたことがある。死の前に祈りを捧げたいという人のため、街の病院まで赴くことは珍しくない。大体、感謝の言葉を吐露するものだ。

 今まで苦労をかけてすまなかった。ありがとう。元気で。

「……トド松はどれだろうな」

 謝罪。感謝。励まし。他にもある。告白だ。罪の告白、愛の告白。浮気の告白なんかもあった。隠し子がいて、なんて告白は死んでいる場合じゃないと身内が大騒ぎになったこともある。

 まさか都に残してきた恋人がいるとか。いや、それならもっと自慢げに話すだろう。隠し子。まさかそんなことが。愛の告白。誰に。

 夜に行われるミサが終わったら、すぐに地下倉庫へ迎えに行こう。話さないといけないことは、たくさんあった。



「今日のご飯は

 倉庫に入ってきた俺の顔を見て開口一番、トド松はそう言った。ゾンビは食欲が衰えないと書いてあったが、まさしくその通りだった。

「豆でも煮ようか」

 ポタージュは腹を空にするのに時間がかかった。せめて吐き出しやすいもの、と考えてしまうあたり俺は甘い。トド松はそれを聞いて満足気に頷いた。

 リビングの暖炉に火は入れられない。寒い部屋で過ごすために俺は袖を下ろし、セーターを着ている。こんなに厚着をするのは久しぶりだ。

「トド松、昼間退屈しなかったか

 キッチンから声を掛ければ、リビングへと続く扉がきしりと音を立てて開く。顔を覗かせるトド松は物珍しげに俺を見ている。

「……カラ松、エプロン似合うね

「そうか

 人に見せることはない格好だけに、少し照れる。

「あと誰かがご飯作ってくれるの、嬉しい」

「俺も食べてもらえるのは嬉しいが……」

「戻しちゃうの、本当にもったいないよねえ」

 それでも食べるつもりというのだから、もしかしたら生来の食い意地なのかもしれない。

 言葉を交わしながら、本題をどう切り出したものか迷う。

「美術品見るのも楽しかった」

 地下倉庫にある教会美術品は、二十点を越える。絵画、器、貴金属の聖具、彫刻が多い。

「転生の水 滝

「あの絵、綺麗だよな」

 画家の名前は残されていないのだが、天に昇った魂が女神様から水を受ける様子を描いたものだ。

 天上の風景は白く柔らかな雲で囲まれ、その中央に女神様と人間の姿がある。

 人間は跪き、頭を垂れ、女神様の持つ瓶から溢れる水を浴びている。天に昇った魂が生前の記憶を落とし、転生へと向かう姿を示している。

 人間は遠くで見れば若々しく張りのある肌に見えるのだが、近づいてよく見ればその肌は乾きひび割れている。

 何らかの技法なのだろうが、生憎芸術の方面には明るくないからわからないのがもどかしい。

「……僕は怖いと思った」

 ぽつりと零すトド松の声は強張っている。

 ああ、今夜は転生の話を出来そうにない。ただ一人も導けない己の無力に、俯くことしか出来なかった。豆だけはうまく煮えた。



 悪魔は力なく笑って俺の隣に座った。夜のミサが終わり、トド松を迎えに行く前のことだった。

「言い辛いなら、俺がやるって」

「悪魔は問答無用で連れていってしまうんだろう

 今日の悪魔は、つば広の帽子を深く被って暖炉にあたっている。人ならざるものでも夜の寒さはつらいと言っていた。

「そうだねえ……だって罪は軽い方がいいじゃん

 確かにそうなのだが、それでは俺の気が済まなかった。

 女神様を心から信じ、与えられる無償の愛を受け入れ、新たな命を得て欲しい。罪を増やす必要などないのに、核心を暴くことが出来ない。

「まだ二日だからね、ゆっくり頑張っていいよぉ」

 悪魔は本当に様子を見るだけだ。十分温めたコートを羽織って、教会の扉をきっちり閉めて出ていく。もう鍵をかけていいよとばかりにノックまでつけてくれた。

 トド松に、今日こそ聞かなくては。未練の元、俺に伝えなければいけなかったことは何か。

 かちり、と部屋に続く扉が開く。そうっと顔を覗かせたのはトド松だ。思わず周りを見渡す。もう、誰もいないとわかっていたのに。

「お腹空いちゃって、僕もう駄目……」

「昨日も食べて戻したろ

 豆でも戻す苦しみは変わらないらしく、辛そうにしていた昨晩の姿が蘇る。

「野菜が駄目なのかもしれないよね

「……それじゃ、肉とか

「試してみる価値あると思わない

 これは、冷蔵室に隠してあった秘蔵の肉がバレたのではないだろうか。トド松は悪戯っぽい笑みを浮かべて、俺の様子を窺っている。

 トド松が生きていれば、自然に感じただろう。落ちかけた気分を持ち直し、仕方がないと笑い返した。

「冷蔵室のお肉

「この間、狩人さんが鹿をくださってな」

 秘蔵の肉。塩に漬けてある。いつ食べようかと薄ぼんやりと頭の中にはあったが、すっかり手を付けられずにいた。

 生きるために必要な糧だ。革は鞣して靴になるし、内臓は煎じて薬にする。肝を食べることもあると聞くが、それは狩猟を行う彼らのみに許される行為だろう。

 死から三日経ち、トド松の肉体はかなり強張ってきたようだ。歩みも遅くなったし、瞬きもあまりしない。瞼を動かすのが億劫と言わんばかりだ。

「食べたら、少し話をしよう」

 切り出した瞬間、トド松の瞳がゆっくりと俺を見た。

「……わかった」

 返事をして、それからリビングに消えていく。

 俺は、導くことが出来るだろうか。不安を覚え、祭壇にある女神様の像を見る。慈愛の表情。天秤。罪の重さ。

 トド松を楽にしてやりたいと思う。女神様を信じ、己の未来を信じ、先へ進ませてやりたい。そのために出来ることは何でもしようと決め、その後を追いかけた。

 

 

 ゾンビは野菜より肉のほうが受け入れやすい、ということがわかった。

 今度一松修道士に会うことがあれば書の記述に訂正事項があると言ったほうがいいかもしれない。いつもは食後に吐き気はあるが、今のところは戻さずにいる。時間の問題だとは思うが、昨日よりはずっとましだ。

 向かい合うとうまく話せないから、暖炉の前に椅子を並べた。トド松は何も言わずともわかるようで、手近なそれに腰を下ろす。

 リビングは、沈黙に包まれた。話をどちらから切り出すか、お互いが様子を窺っている。こういう時に暖炉に火があれば、薪が爆ぜる音を聞き、揺れる炎を見て落ち着くのだが、今日は外に吹く風の音しか聞こえない。

「……あのさ」

 トド松が切り出した。俺はなるべくいつも通りに返事をする。出来ていたかどうかは、わからない。

「僕、転生しないといけないのはわかってる」

「……何か、やり残したことがあるんだろう

 俯く頬の丸みは変わっていないのに、責めるようなことばかり言ってしまう自身が嫌になる。

 小さく頷く頭。未練となるもの。転生を前に足を止める原因だ。不慮の死が、未練をより強めているのかもしれない。

「……お前と」

「俺と

 トド松の声は徐々に小さくなり、消えてしまう。聞き取れなくて、小さく聞き返してみたらトド松の冷たい手が伸びて俺の手をがっしと掴んだ。丸い爪の先には、まだ土がこびり着いている。

「お前とした約束、守れなかったから」

「約束」

「会いに行くって言った」

 ついこの間交わした約束ではないと気がつくまで時間がかかった。同時に、頬が熱くなる。

 随分昔の約束だ。都にいくトド松を見送りながら、別々に生活する寂しさに涙を零す俺に馬車から叫んだ約束が一つ。

「……覚えていたのか

「思い出したの ……死んじゃう、ちょっと前に」

 トド松は唇を尖らせたままで言う。手は握られたままだ。

 冷たい手でも、それはトド松の手だ。誰でもない。俺と約束をしたことを覚えている唯一の存在である。

「だから……あと何日 僕、ここにいつまでいられるの

「何のことだ

「さっきの帽子の人と話してたの、聞こえちゃったから」

 迂闊だった、と今頃頭を抱えても遅い。悪魔はもしかしたら気付いていたのかもしれないが、様子を見ているだけと言ったのだから教えてはくれなかっただろう。

 俺は観念してトド松に悪魔の話をした。聖書にある悪魔。地獄。罪の清算をしないと転生出来ないこと。早ければ早いほど良いということ。

「俺は……できれば早く、お前を天に送りたい」

 厄介払いではない。そう伝えるには言葉だけで足りなくて、トド松の手をしっかりと握り返した。

「新しい命として、再びお前に……」

 言葉が詰まった。鼻の奥が、つんと痛む。涙を零すのは見せたくなくて、顔を伏せた。

 教えは教えとして理解している。だが、それと俺の感情は別だ。別れがたいと思うのも、忘れてほしくないと思うのも、本当だから余計に何も言えなくなる。

「お前のことは、俺が覚えているから」

「……カラ松、ごめん」

「だから……」

 もう駄目だ。瞼の裏が酷く熱い。涙なんか見せるつもりはなかったのに。これでは引き止めているみたいじゃないか。

 トド松は伏せた俺の頭を撫でる。小さな子どもにするように、優しいそれだった。

「……あと何日

 一週間と、悪魔に言われた日から、すでに二日経っている。

「あと五日、もらった」

「それまでここにおいて」

 だからそれまでは何も言うな、とばかりにトド松は俺の目をじっと見つめている。

 トド松はずるい。いつだって俺を黙らせる術を持っている。神父だからこそ説得をしなければとか、幼馴染として転生したお前を一生かけても見つけるとか、そんなことは言わせて貰えないのだ。

「……女神様の教えについては、わかってるんだ」

「じゃあ、なぜ」

 ゆっくりと首を横に振る。口を真っ直ぐに結んで、それだけでもう何も言うつもりがないことはわかった。トド松はこうなると梃子でも動かない。

「あと五日のうちに、ちゃんと……納得するから」

「……わかった」

 頷く。それから涙を拭って顔を上げた。ぐずる鼻の奥が鬱陶しい。瞬きの度にぽろぽろと落ちる涙もだ。

「……同じ部屋で寝ないか

 あと五日。きっとあっという間に過ぎる日々に、そう提案をした。トド松はにっこりと笑い、俺の手を離す。ずっと握られていたせいで、俺の熱がトド松のそれに移っている。命も分けられたらいいのにと思って、また涙がこみ上げた。

「床は嫌だなあ、僕」

「長椅子にシーツをかけてクッションを敷けばどうだ

「いいね、じゃあ長椅子……」

 二人で同時に顔を見合わせる。長椅子はでかくて重い。再会のときも二人で苦労して運んだくらいだ。それをこんな夜中に運ぶというのは、少々面倒くさい。

「……トド松のベッドだからな」

「えーっ、死人を使わないでよ」

 ごもっともである。床に寝かせるのも忍びない。二人で首を捻りながら考え、ああでもないこうでもないとしばらく言葉を交わしあう。

「礼拝堂にひとつ、壊れかけた長椅子がある……それで手を打たないか

 礼拝堂に常設されている長椅子は、横になれば足がほんの少しはみ出る大きさだ。壊れかけているそれは手すりのあたりがきしきしと嫌な音を立てている。いきなり手すりが外れたりしては危険だから、そろそろ片付けなくてはと思っていたところだ。

 これなら倉庫まで行かずに済む。長椅子が礼拝堂から消えた理由だって、壊れかけていたから修理中なのだと言えばいい。名案、とばかりにトド松は指を鳴らした。

「僕、夜はあんまり眠くならないしちょうどいいかも」

「朝が来たら起こしてくれよ」

 おはようを言うトド松も、おやすみを言うトド松もずっと覚えておこうと思う。任せろとばかりに胸を張る姿は小さな頃と変わらなすぎて、何だか笑えた。



 トド松のおはようで目を覚まし、いつも通り身体を清める。聖水を飲み、礼拝堂の暖炉に火を入れて扉の鍵を開けると、昨日と同じ格好の悪魔がひょっこりと顔を覗かせた。

「お話、出来た

「ああ……説得できたとは言えないかもしれないが」

 事の顛末を悪魔に話しながら、礼拝堂の掃除をする。悪魔は誰がくるともわからない礼拝堂の中で羽を広げ、ぷかぷかと宙に浮きながら俺の後に付いてきた。曰く、掃除の邪魔にならない場所を選んだらしい。

「なるほどねー、本人が納得してるならいいかな

「やはり罪の重さは変わらないのだろうか……」

「さあ、裁くのは俺じゃないから知らない」

 悪魔は様子を見るだけと言っただけあって、少し踏み込んだ話をするとすぐに結論を濁されてしまう。こう何度も避けられると、本当に彼は何も知らないのかもしれない。

「じゃ、あと四日

「五日だ」

 すかさず訂正すれば悪魔はくつくつと楽しげに笑う。からかわれたようだ。気付いて頬を熱くしている間に、悪魔は床に降りて羽を隠し、俺に向き合う。

「でも、まだ隠し事あるんでしょ

「……そうだな」

 最後まで口を噤んだ内容が何なのか、結局言わないまま五日が過ぎるかもしれないことは俺も気がついていた。

「言ってもらえるといいねえ、神父様」

 何でも知っているみたいな態度でいるのが不思議だと、今更思う。俺はそれに頷いた。

「五日経ったら来るからさ、それまで元気で」

「ありがとう、色々と」

 一人では、きっとわからないままだった。トド松の迷いも、女神様への信仰も、一松修道士から授かった書すら生かせなかっただろう。

 片手を差し出せば、悪魔は目をぱちくりと瞬かせる。それから、くすぐったそうな顔をして俺の手を見た。

 悪魔は握手を知らないだろうかと視線だけで伺えば、おずおずと手が伸びる。触れ合った手の熱は、俺とそう変わらなかった。

「……俺たちさ、未練ありまーす ……って魂たちを運ぶでしょ、恨み言言われてばっかりなんだよね」

「大変なんだな

「だから、まあ……ありがとうって言われたのは」

 はじめてだからさ、と言う悪魔の尻尾が忙しなく揺れる。矢じりのようなそれが犬猫の尻尾と同じに見えて、少し笑えた。



 それから、トド松と過ごす時間を増やした。

 朝はトド松の声で起こされ、眠るときは冷たい手が俺の背中を撫でる。小さな頃、俺がトド松にしてやっていたことだ。お返しということらしいが、大きくなってからされるのは少し気恥ずかしい。

 聖水を作る作業を興味深そうに見ていたから、ほんの少し手伝ってもらった。井戸から汲んだ水に、ガラス瓶。ひとつまみの塩とデンサの芽。天秤も必要だ。塩とデンサの芽が釣り合ったら瓶に入れ急いで蓋をする。それからまじないの言葉を唱えて朝日と月光に当てれば終わりだ。毎日欠かさずに作っていて手慣れた俺と違い、天秤が釣り合う感覚がうまくつかめないトド松は面白かった。

 人の目がなくなったときは、二人で祭壇の女神様の像に向かって祈りを捧げることもあった。これからのトド松が良い人生を迎えるようにと祈りながら、訪れる喪失の気配に気付かない振りをする。トド松は何を祈ったのだろう。神妙な横顔を見ていると、まるで生きているようだと思う。

 トド松は、夜の間ほとんど眠っていないらしい。眠れないと言っていた。逆に昼間は眠くてたまらないらしく、部屋でうとうとしている。

 ふと目が覚めた夜中のこと。ぼうっとしながら部屋を見渡せば、トド松が柔らかな表情で俺を見つめていたことがあった。そこにいるのだというのが嬉しくて口元を緩ませれば、トド松の口元も同じようにへにゃりと崩れる。

「早く寝なよ、それとも寒いの

 時間が止まればいいのにという言葉は、飲み込んだ。トド松がゆっくり立ち上がって、ベッドの傍にある椅子にかける。

「子守唄なら歌ってあげられるよ」

 お前は歌が上手いからなあ。

 掠れた声、ぽんぽんと背中を叩く手。とろとろと落ちていく瞼。終わらなければいいと思った。それじゃいけないこともわかっていた。

 見送る日は、ついに明後日まで迫っていた。

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