八章 信仰は儚き人間の為に
案内人に連れられて国境を越え、燃やされた村の近くへ辿り着いた。この村で見つかったアカツカの兵装は何者かに持ち出されたらしく、行き先についても案内人が詳しく教えてくれた。
神様予定にない事態で、本来であれば人間に干渉しないという悪魔が案内を勤めている。僕だって神様から遣わされてきたわけだから、トリスタンは人間の代表としてというより、神の代理人として役割を果たすことを求められているように感じている。
焼け落ちた村を通り過ぎる。小さな村だ。本来であれば、きっとこんなに不快な焦げ臭い匂いに包まれることはなかったのだと思う。家々は軒並み崩れ、そこかしこに残る生活の形跡が胸を締め付ける。
「……戦争がしたい連中がいるのだろうな」
「騎士さん、こっち。兵士たちがあっちに逃げていったって聞いてるんだ」
彼は瞬きひとつせず、その景色を瞳に焼き付けていた。案内人が袖を引く。義憤に駆られ、そのままの勢いで道を誤ったりしないだろうか。僕ははらはらしながら彼らの後に続く。
村から暫く歩いた。山々に隠れるように、不穏な気配の漂う建物が佇んでいる。彼の泊まろうとしていた宿と同じくらいの規模だろうか。
山間にこの規模の建物が建つことはあまりない。人里離れた場所を選んで建てたということは、あまり人に見せたいものではありません言っているようなものだ。
「俺が案内できるのはここまで。がんばってね騎士さん」
「ありがとう。君は気をつけて帰ってくれ」
目深にかぶったフードではっきりとした表情は見えない。けれど、悪魔はくすぐったそうに笑い、去っていく。
建物を前に、彼は立ち尽くしている。建物までの距離は遠い。何しろ、遠目に見ても警備に立つ人影が目につくのだ。彼だけではどうにもならなさそうだ。僕はくるりと宙返りをし、鳥に姿を変えて甲冑の肩に降りていった。
「おまえ、この間の……付いてきたのか?」
――そうだよ、ずっと一緒にいたんだよ。
「ふふ、鳥に懐かれる……俺!」
指先で頭を撫でられる。その指先に噛みついてじゃれつくと、トリスタンの表情が和らいだ。緊張していたらしい。そりゃそうだ。潜入捜査なんてきっと初めてのことだろうし、さっき見た村の惨状もあって体に力が入り気味だ。
「うれしいがこのあたりは危ないぞ? 帰りなさい」
肩から引きはがされ、地面の上に離される。飛んで帰る、と思っているのだろう。僕はもう一度肩に飛び乗る。彼はまた下ろす。何度か繰り返し、彼が折れた。
まず、建物入れるところを探すために見つからないよう静かに移動を始める。近づいて見れば、警備兵たちは疲労の色が濃いようで、所定の位置について船をこいだり、ぼんやりしたりしている。ただ、人数が多い。彼が一人で対応するには厳しいだろう。
がさりと近くの藪から物音がする。彼は音を追いかけ、静かに草藪の中を進んだ。誰か、僕たちの他にあの建物に近づこうとしている人がいる。音に近づいていく。見えてきたのは、小さな背中だ。
「きみ!」
小声で呼びかければ、草藪の中で小さな背中はびくりと体を震わせて止まる。おそるおそる振り返れば、まだあどけない少女の姿があった。
「このあたりの子か? 一人で何を……」
「中に姉が……」
少女はびくびくしながら建物を指さす。トリスタンはしばらく考え込む。中にいるのはてっきり兵士だけだと思っていたから、他の人たちが何をしているのか予想ができない。
「もう三日も工房から出てこないんです。わたしは小さくて役に立たないって入れてもらえなくて……」
「工房……、あれは工房なのか」
建物の外見からはわからないが、何かを作っている。少女の不安そうな姿に胸を打たれたのか、彼はその頭をくしゃりと撫でて自分の胸を軽く叩く。
「代わりに見てきてやろう。俺に任せてくれ」
「でも……」
少女の顔には不安がありありと浮かんでいる。確かに、いきなり草藪で声をかけてきた男に任せろと言われても不安だろう。
「俺一人なら逃げるのも簡単だからな」
逃げ足は自信がある、と胸を張る彼を見て少女はくすりと笑う。
「お姉さんの様子を見てくるくらいは簡単さ、ただ……」
建物へ視線を移す。警備兵が入れ替わり、入り口が開く様子はない。忍び込むにしても適した場所がない。
「俺もあの中に用事があるんだが、……どこから入ろうかちょっと考えていてな」
少女がぱっと目を輝かせる。
「こっち!」
少女に手を引かれ、草藪の中を走る。建物をぐるりと回って裏に回り込めば建物の二階に割れた窓が放置されている。
「わたし、木登り得意だからあそこから……」
結構やんちゃなお嬢さんらしい。トリスタンは苦笑を浮かべる。
「ありがとうな、じゃあお嬢ちゃんは一度お帰り」
「うんっ、ありがとう……!」
少女は茂みの中に消えていく。茂みの中に完全に隠れてしまうから、気を付けてさえいれば警備兵に見つかることはないだろう。
「さて」
窓の近くには木が一本生えている。これを登らないと彼はあの建物に入ることができない。甲冑の重さに枝が耐えられるかどうか、恐る恐るといった様子で登り始めた。
気をつけなよ、と言う代わりに窓から先に建物の中へ入り込む。窓の割れていた部屋は倉庫代わりにされているらしく、埃まみれで人の気配はない。
――人はいないよ、早く上がっておいでよ。
窓の外に顔を出し、未だ木と格闘を続ける彼を見やる。ようやく二階の窓枠に足がかかるかどうか、と言ったところだ。高いところが苦手らしく、ちらりと下を見ては強く目を瞑るのを繰り返している。
「待ってくれ……ええと、窓枠を外して」
トリスタンが窓枠に手をかけ、がたがたと音を立てていれば廊下の方から足音がする。気づかれたかもしれない。ただの見回りだとしても、見られたら厄介だ。
一対一なら彼もどうにかできるかもしれないが、まだ窓と悪戦苦闘を続けている。この場を切り抜けられるのは僕だけだ。
何かないだろうか。窓から離れ、部屋を見渡す。この部屋の中には空の木箱しかない。何より、ここに彼がしばらく隠れるために、人を近づけることはできない。
廊下に出る。廊下には中身を詰め終わった木箱と、材料らしきものが半端に入ったもの、それと炭が入った麻袋が積み重なっている。鳥の力でなんとかできそうなのは、麻袋だろうか。中身が入っているから、これをたたき落として引きつけることができるかもしれない。
見回りの兵は一部屋ずつを見回っているらしい。くちばしと爪を使って積み荷を解く。紐を掴んで羽ばたけば、積み荷から炭がこぼれ落ちて乾いた音が散った。
ため息とともに、見回りの兵は飛び散った炭のあたりにしゃがみ込む。ぶつぶつと文句を言っているあたり、この工房では積み荷が崩れることが頻繁に起きているようだ。
部屋に戻る。彼は無事に入ることが出来たらしく、僕が戻ってきたのを見てほっとした顔をした。
「助かったぜ……おまえは賢いな」
くるる、と小さな声で返事をする。僕の気持ちが伝わるとは思わないけれど、やはり返事ができるだけでもうれしいものだ。
見回りの兵は僕たちのいる部屋をちらりと見て通り過ぎていく。足音が遠くなってから、彼は動き始めた。
工房の中は、埃と炭の匂いに満ちている。二階には荷物しかなく、一階へそろそろと下りれば火薬の製造や銃火器が作られている心臓部があった。
トリスタンの横顔は険しい。作業に手を動かす人々は、どう見ても火薬の種と思われる物質の扱いに不慣れで、部屋のそこかしこで小さな破裂音がしている。指先には幾重にも包帯が巻かれており、怪我をしてもなお作業を続けるよう監視らしい男から檄を飛ばされている。
――ひどい。ひどすぎる。
「……いた、彼女だな」
彼の指さす先を見れば、建物の外で会った少女によく似た人物の姿を見つけた。彼女がおそらく、姉だろう。顔色が悪く、ひたすら荷物を詰める作業を続けている。手元を見るに、火薬の塊――発破に使う爆薬のようだ。
今すぐ助け出してやりたいところではあるけれど、監視の兵を含めこのあたりには警備兵が五人確認できている。声をかければ外から呼び込むこともできるだろう。トリスタンもそのことに気づいてか、悔しげに唇を噛んだ。
「頭を取る」
末端から潰すことが出来ないのなら、その頭を取って組織ごと潰すほかない。作業を続けてさえいれば危害が加えられることもないだろうと見て、僕たちは一階の探索を始めた。
――建物は二階建て。二階は荷物しかなく、時折見回りの兵が回る程度だから頭とみられる人物はいない。一階は工房で、監視をする男が目立つが頭目ではないようだ。
一階をうろつく。工房の中から脱走するものがいないよう見張っているのが主なようで、廊下にはほとんど人がいない。唯一見張りらしい人間が立っているのは、地下に行く階段の前だ。
「あそこしかないな……」
一対一なら、と零れる声を聞いた。見張りの男は、彼より体格がよく、棍棒を壁に立てかけている。真っ正面から言って互角。助けを呼ばれればこちらが危うい。
僕が出来ることをしなくては。
トリスタンの肩をつつく。じっと見張りの男をにらんでから彼を見上げれば、僕が何を言わんとしているかつたわったのか
「お前が?」
危ない、と彼はゆっくり首を振る。ここまで言葉が通じる鳥がいるのはおかしいとか、気がつかないのだろうか。僕はそれを拒んで首を横に振り、彼の肩から飛び立った。
翼を広げて飛べば、翼の音に気がついたのか見張りが顔を上げる。目が点だ。廊下を悠々と飛ぶ鳥なんているものだろうか。とにかく驚いている間が勝負なのだ。
「わっ、何だ、鳥? こんなところに?」
見張りの頭に止まる。鳥の爪は案外力があるらしく、髪を掴んで留まるだけで痛みがあるらしい。あたふたと僕を取り除こうと伸びる手に噛みつき、さらには無防備な頭をくちばしで……つつく!
僕相手に必死になっているうちに、忍び寄っていた彼が背後からその頭を剣の鞘で打つ。無闇に人を殺してはいけないという教えに従ったのだろうけども、鳥につつかれた上、気絶させられるなんて少し気の毒だ。
「鳥よ、……もうただの鳥と呼ぶのももどかしいな。これより俺は君と友と呼ぼう」
感謝を、と短く言葉を繋げる彼に驚かされる。声が出ない。鳥でよかった。いや、天使の姿だと彼の目には見えないから、それはそれで困る。真面目と言うか、何というか。とにかく照れくさく、僕はトリスタンの肩に止まってただ沈黙した。
階段を下りる。地下には見張りの兵がおらず、一室から明かりが漏れている。中から漏れる声を聞くに、部屋の中には男が二人。彼はそっと扉の外に控え、その声を聞いている。
「こんなにうまくいくとは思わなかったな」
高笑いをする男。なんとなく、胡散臭い印象の残る声だ。
「戦争で武器を売りつければ我々は大金持ち間違いなし、楽に人生暮らすんなら手段だけ与えてやればいいってことよ」
これでいくら儲かると指折り数え、数えているうちに愉快で愉快で仕方がないとばかりに声が震え、下卑た笑いに変わっていく。
燃えた村。街を去る人たち。働かされる少女の姿。それぞれが脳裏に思い出され、身勝手な言い分に思わず飛び出しかけた。もし喋れたなら、それ以上喋らせるなと叫んでいただろう。僕の翼は、トリスタンの手にぎゅっと包まれている。
「我慢だ」
ただじっと会話を聞いている。瞳が怒りに燃えている。僕だけが怒っているわけではないと気づいて、包み込むトリスタンの指を甘く噛んだ。
「そう、戦争。戦争だよ、我々は戦に武器を売り込むのさ! 威力だってあの村で確かめただろう?」
燃えた村。工房で作られていた爆発物。考えずとも、自然にそれらは結びつく。彼は決定的な文言を聞いてから部屋に踏み込んだ。
「我こそは女神の加護を受けし騎士トリスタンなり! 貴様らの悪事はすべてこの耳で聞いたぞ!」
部屋の中、わかりやすく豪奢な椅子に座った男は動揺を隠せず細い悲鳴を上げている。怯まないでいるのは、側に控えた近衛らしき男だけだ。
「悪事? 何のことかさっぱり心当たりがありませんなあ!」
声を震わせながらも反論する男を睨み付ける。言い逃れをしようとするあたり、己の言ったことが聞かれてはいけないことであった自覚があったようだ。
「自ら言った言葉も忘れたか? 続きはアカツカで聞かせていただこう。大人しく縄につけ!」
椅子に座った男は腰が引けている。先に動いたのは近衛の方だ。トリスタンはすらりと腰に佩いた剣を抜く。
「先のかけた剣? それで何ができる!」
「カーテナは人を斬る剣ではない、悪心を切るのみ!」
男の指摘した通り、トリスタンの持つ剣の切っ先は欠けている。悪心を斬るというのはどういう意味だろう。戦うことは出来るのだろうか。どう対応するのだろうと距離をとって眺めれば、彼は刀身を横薙ぎに使い、近寄ってきた近衛を柄で殴りつける。……剣じゃなくてもいいのでは、と一瞬考えてしまい、やめる。
彼が近衛とやりあっている間、僕がしないといけないことは諸悪の根源を逃がさないことだ。案の定、隙を見てあたふたしながら逃げようとするのを逃がすまいと顔に飛びかかる。目玉をつついてやればしばらく動けなくなるだろう。一声高く鳴いて顔に爪をかければ、男は怯えた表情を見せた。
「ヒッ、目は、目はやめて!」
あまりに怖がられてしまい、少し怯む。こいつ自身は戦う力をもたないようだ。さっきまで戦争がどうとか言っていたのと同じ人とは思えない。
背後で聞こえていたトリスタンと近衛の剣戟の響きが途絶え、どさりと音を立てて近衛が床に転がる。
肩で息をする彼は、先の欠けた剣――カーテナを男の目前に突きつけた。
「……証言をしてもらおう。それで戦は避けられる」
「何の証拠があって……」
なおも言い逃れを続けようとする男を見て、トリスタンは目尻を険しく吊り上げた。
「ここで創られている火薬は、獅子神信仰の儀式に使う火薬と似ているな?」
男は青ざめ、唇をわなわなと震わせる。
「神へ言葉を届ける儀式に使っていた術を悪用して村に火を放ったのだろう。ここで延々作り出されている火薬たちを調べれば同じ青い火がつく。村の人間をここで使っていたな? 生かしてやるから口封じにここで使っていたのだろうが」
彼はここで作られた爆薬たちの炎もおそらく青に変わるだろうことを指摘し、男を冷たい目で見下ろしている。話を聞けば工房で働かされていた人たちから証言も得られる。何より、火薬に火をつければその色は自明だ。
「火薬師、神はおまえの行いを見ているぞ」
がっくりと肩を落とす男。彼は男に向かってカーテナで斬りかかる振りをする。ひゅ、と風を切る音。同時に何か、男の背後から黒い影が消え去ったような気配がした。悪心を斬る、とトリスタンが言っていたのは本当だったのだ。
人の持つ悪心、それが神様すら予想できない事態を引き起こしたのだろうか。僕はただ、トリスタンが無事に済んだことに安堵していた。
工房は停止させた。監視をしていた男たちは、火薬師の男が捕らえられたのを見て逃げ出したらしい。解放された少女の姉は、外で待っていた少女と無事に再会させることができた。やはり彼女たちは燃やされた村から連れてこられたという。今までされたことの証言を約束してくれた。
幸いだったのは、案内人を勤めた悪魔が国境警備隊まで戻って援軍を呼んでくれたことだった。気絶していた近衛を縛り上げたり、見張りをしていた兵たちを捕まえたりと力を貸してくれた。僕は十分戦ったから、トリスタンが工房から引き上げられる火薬の一つを回収するのを見ていた。
トリスタンは迷わず火薬に火をつける。上る炎の色は青。火薬師の技術が使われたことを確かめてから、彼は事態の報告のために引き上げることになった。
「トリスタン様、馬をお使いください」
国境警備隊から来た騎士たちはどこかほっとした様子をしている。警備隊から誰かが害を加えたわけでもなく、アカツカへの疑いを晴らせることがわかって安心したようだ。主犯である男については、数人がついて見張っている。
「あの男の護送は特に注意するように頼む」
部下に声をかけ、アカツカに戻るため騎乗するトリスタンを見ている僕は、どこか誇らしい気持ちだった。これで彼は、役割を果たしたことになる。
――終わった。トリスタンの保護、完遂になるだろうか。
駆け出す馬を追って、僕もまた空を滑る。一瞬、強い風が吹いた。草陰が揺れ、きらりと何かが光った。ほとんど反射的に、光と彼の間に飛び出していた。胸がざわつく。あれはよくないものだ。翼を広げる。ほとんど同時に、弦のしなる音が聞こえた。矢だ。彼を狙う矢が放たれようとしている。
――つまり保護観察っていうのは、これからが本番なわけよ。悪魔の声を思い出す。そうか、それなら、僕がやることは一つだ。
どうと体を貫かれる感触があった。馬のいななきと、背後で彼が息をのむ気配を感じる。矢は、トリスタンに届かなかった。
「曲者ッ」
トリスタンが馬から下りるより早く、援軍の騎士たちが弓を放った人物を捕まえている。僕は矢ごと近くの草陰に落ちてしまったようだ。
いたくない。くるしくもない。そうだ、僕は最初から死んでいる。かりそめの体、それも姿を変えただけなのだから。
彼が僕を探している。がさがさと草を分ける音がする。見せたくない、と思った。きっと姿を戻せば矢は残る。けれど鳥がいたことは残らない。
何も言わず消えることが惜しくて、代わりに羽を残すことにした。翼からくちばしで一本を抜いてその場に残し、鳥の姿から元に戻る。
一瞬遅れて現れたトリスタンは僕の残した羽と矢を拾い、羽だけを大事なもののように丁寧に、自分の懐にしまった。
トリスタンに与えられた役割――今回で言えば戦争を阻止することは、これでは終わったことになる。僕はアカツカに戻る彼の姿が小さくなっていくのを見ながら、この後はどうすればいいんだと天を仰いでいる。
「……? 空が……」
国境にある砦を出立したのは早朝だった。案内人とともに国境を越え、工房の中に入って主犯格である男を捕まえた今、もうすぐ日が沈む頃になるだろうか。
夕日が見える空がにわかに曇り、ごろごろと雷鳴が響いた。雷は天使が降りる合図とされていた。雷光が走る。眩しさに目を瞑るのと同時に、体に体にどしんと衝撃があった。
「久しぶり、お疲れ様~! 偉いねえ、ちゃんとできたね!」
「ちょっと、こ、子供じゃないんだから……」
天使は僕の頭をくしゃくしゃにしながら撫でる。
「君の罪の償いは果たされたよ! すぐにでも転生させてあげられるけど、どうする?」
天使は神様に許可はもらってるから、羊皮紙を見せてくる。あなたは罪の償いを果たしました、よって転生を許可しますとシンプルな文面だ。
これで、終わりなのだろうか。
「ねえ、トリスタンはこの役目を果たした後どうなるの?」
「知りたい? もうすぐ転生が待っているのに?」
「何て言うか、気になって……トリスタンはトリスタンだけど、カラ松でもある」
天使は僕の顔を瞬きもせずに見つめている。
「……好きなんだ、今でも……好きな人がこの後どうなるか知りたいのは、いけないこと?」
最初は、トリスタンを通してカラ松を見ていた。けれど一緒にいるうちに、彼のこともまた、好きになっていた。カラ松に向けるものというより、放っておけないという気持ちのほうが強いけれど。
「好き、という感情は、そこまで人を動かすんだね。……いいよ、教えてあげる! トリスタンは人生の役目を果たしたあとは、死に向かって生きるだけだよ!」
「あと何年? それも決まってるの?」
「あと三十年くらいかな? 僕たちからすれば、瞬きのうちだけれど……じゃあ、君も」
天使が言うのを遮るように叫ぶ。
「ねえ、僕は、トリスタンの保護が役目なんでしょ? それならずっと彼を見ていなきゃ!」
僕の提案は、そのままトリスタンの死を看取ると言う意味でもある。天使は、僕が同じ人間を二度見送ることになることが心配なようだった。それでも僕は、構わない。むしろ命を奪ったからこそ、その終わりと見届けたいというか。
「……それでいいの?」
「いいよ、いいんだ! 傍に居たいだけだから……」
天使は笑みの浮かぶ口元を手で隠し、曇りなく笑う。
「神様に伝えておくよ!」
再び雷光が走り、天使は消えていた。僕はこのまま、トリスタンのそばにいることを許されたことになる。じわじわとこみあげるうれしさに、急いで国境を越えた砦へ向かって急いだ。天使の翼を使ってもすぐにはたどり着かない。彼の姿が近くにないことがこんなにもどかしいなんて!
天使の呼んだ雨雲は流れ、赤く燃えるような夕日が沈もうとしている。彼はきっと、もう砦について隊長に報告を終えているだろう。急がなくては。一際大きく翼を羽ばたかせ、僕は砦へと向かって飛んだ。
僕はカラ松と一緒にいたかっただけだった。死を受け入れるのを拒んだのは、カラ松を一人にしてしまうことが恐ろしかったのかもしれない。
今度は、間違えない。間違うはずがない。彼の命を、最後まで見守り続ける。そう決めて飛び続けたらあっという間で、砦にすぐついてしまった。
砦の中で、ぽつりと明かりの漏れる部屋がある。窓辺のカーテンが揺れているのが気になって、そうっと近寄った。
――トリスタン。
一人で窓辺にと佇み、小さな竪琴をつま弾いている。ぽろん、ぽろんと音が零れているそれは、ただ手持ちぶさただから指を動かしているように見えた。暗いせいもあって、トリスタンの表情はよく見えない。けれど、今朝見た燃える瞳とは明らかに違っていた。
ひらりと宙返りをし、鳥の姿にまた変わる。彼の前に姿を見せておこうと思ったのだ。もし、僕のことを気にしていたならと思って。窓辺に降りれば、竪琴の音は止まる。トリスタンはわかりやすく目に涙を浮かべた。
「友よ、……元気だったか」
震える指先が僕の頭をなで、くちばしをゆっくりと辿る。僕はその指先を噛んで、返事の代わりにした。
「あの時、死んでしまったのかと思ったんだ……逃げられたんだな」
実際はもう死んでいるのだけど、そんなこと伝えられるはずもない。黙ってそのまま、彼の手に身を委ねる。
「……お前が俺を庇ったように見えたんだが」
――そうだよ。でも、そんなことはどうでもいいんだ。僕は君と一緒に居られてうれしいんだよ。それだけでも伝えられたらいいのに、僕の喉からはさえずりしか発さない。困ったような顔で笑う彼を見ながら、何で人間の言葉で伝えられないのかともどかしく思った。けれど、満たされている。これからずっと、離れないのだから。
「お前は声が綺麗だなあ。人間だったらきっと良い声で歌うだろうに」
トリスタンは竪琴を取り、美しい旋律を奏で始める。
――昔の僕なら、歌を聴かせてあげられたけれど、今はできない。君は知らないだろうけど、そういう時代があったんだよ。顔や声は同じでも覚えていないのだなと思えばやはり寂しく、けれどこれから共にする時間を思えばささやかな痛みでもあり、もはやそれが愛おしく感じるほどだった。
それから幾数年。トリスタンは病で死ぬらしかった。
トリスタンがかかった病のいいところは、他人にうつらないことと、痛みもなく穏やかに命が終わることだった。僕が生きていた頃に都で流行った病と症状が似ているような気がしたが、同じものかどうかはわからない。何より、僕はここで彼の命が閉じることを知っているから、その病までは知る必要がなかった。
長く一緒にいることができて、よかった。残念だったことがあるとするなら、元々の僕の歌声を聞かせられなかったことだ。彼は竪琴の名手で、剣を取ることがなければ吟遊詩人なんかになっていたのでは、と僕は思っている。一緒に歌って、うまいなって褒めてもらえたらよかった。けれど、僕がさえずるのをいつも耳をすませて聞いていてくれた。
それも、もう終わりだ。
僕はずっと傍にいた。時々鳥の姿を借りて、けれど普段は彼から見えない姿で、その生活を見守っていた。
今は命の終わりを見届けようとしている。
悪魔は回収すべき魂は乾いているからすぐわかる、と言っていたことがあった。僕にも、今はそれがわかる。寝台に伏せる彼は、肉体と魂がいまにも剥がれそうなのだ。
僕は鳥に姿を変え、窓から入り込む。
「友よ、また会いにきてくれたのか」
彼はゆっくりと首をもたげ、僕を見る。
「そろそろ俺も死ぬらしい……神様が迎えてくれるのであれば死ぬことは怖くないが、お前と会えなくなるのは寂しいな」
僕もお前を見送るのは寂しいよ。でも、その魂を天国まで連れて行くことは、僕がしてやるから安心して欲しい。
「ずっと思っていたんだ……お前は、もしかしたら天の使いなんじゃないかって……」
僕は確かに、神様から遣わされた存在ではある。けれど、それは自分の罪を償うためで、元々は罪を犯した人間だ。もちろんこの鳥の姿で伝えられるはずもないのだけど。
瞼がゆっくりと落ちてゆく。眠るのだろうか。それにしては、何だかいつもと雰囲気が違う。
僕に向けて伸ばしていた手が、寝台の上にどさりと落ちる。長く息を吐いて、それから彼の胸が上下することはない。静かに生が閉じるのを、僕はただ見守っている。
ふと、彼の体から、淡く発光する塊が浮き出てきた。肉体から開放される魂の姿がはっきり見えた。
「トリスタン!」
魂に呼びかければ、光る塊は徐々に人の形に変わっていく。肉体を失ったもの同士であれば声は聞こえるようであった。
「お前は……友よ、本当に天の使いだったんだな!」
「そういう話は後で、じゃあ……」
僕は手をさしのべる。翼を広げ、向かう先は一つしかない。
「連れて行くよ、天国に」
トリスタンは僕の手を強く握った。ずっと近くにいて、ようやくふれあうことができたのだ。
飛び立つ空は、雪解けを迎えたあたたかな日差しに満ちている。まるで、僕らの旅立ちを見守っているようだった。