九章 伝えたいことはひとつだけ
数十年ぶりの天国は何も変わっていない。トリスタンが珍しそうに周囲を見渡していたから、その手を引いてゆっくり神様のもとに向かった。
虹色の噴水に、ジュウシマツが腰掛けていた。僕とトリスタンを交互に見て、満足そうに口元をほころばせる。
「神様、ふたりを待ってるよ!」
「女神様が……」
トリスタンは、途端に緊張して表情を強ばらせる。僕はその手を握って、微笑みかけてやることしかできない。
「行こう、大丈夫だよ」
「急いで急いでー!」
急かす天使の存在もあって、僕たちはまっすぐに神様の元に向かう。相変わらず神様の机の上は紙の束に溢れていた。僕が見たときよりずっと増えて、机より高く積み上げられていると言ってもいい。
「ああ、トド松か。やっと戻ってきたんだね」
「おっトド松じゃん、久しぶり」
神様はもはや机につくことをあきらめているらしく、新たな机にかけている。悪魔はその隣に控えていて、僕にひらひらと手を振ってくれた。
「トド松。これでお前の罪は許されたよ」
状況をわかっていないトリスタンは、僕と神様を交互に見て困惑を隠さない。説明するにしても、どこからすればいいのかわからないのだ。何しろ、話が膨大すぎる。
「友よ、罪とは……?」
「ああ、お前は前世の記憶が無かったね」
神様はジュウシマツを呼び、トリスタンに手鏡を渡す。僕が過去の映像を見たのと同じ手鏡だ。
「その手鏡には君が転生する前の人生すべての記録がある、覗いてご覧」
トリスタンは恐る恐る手鏡をのぞき込む。最初は薄目で訝しみながら見ていたけれど、徐々に引き込まれたのか瞬きもしなくなった。
「じゃ、君は僕の話聞いて」
トリスタン――前世の記憶を呼び起こしている今は、カラ松と呼ぶのが正しいだろう。記録を見て、その記憶を取り戻すまで、僕は神様から最後の審判を受けねばならない。
「転生の準備は出来ている。君は新しい人生を迎えなくちゃいけない」
神様は罪の償いが済んだ以上、僕の魂は他の魂と同様に輪廻の中に戻れるようになったのだと言う。神を愛し、善なる行いを経て再び生まれ出でよ。その言葉は真実、神が人間に求める輪廻転生の姿でもある。
「やっぱり記憶は消えてしまうんですよね」
「それは決まりだからね」
「その前に、その……からまつと、話がしたい、です」
僕たちの話を聞いていたジュウシマツが、あたふたと神様の前に出て頭を下げる。カラ松はまだ手鏡を見つめている。
「あのっ、このまま転生したところで、新たな人生にも影響があると思うんだ! 保護観察、最後まで勤めたんだから、トド松の好きなようにさせてみたらどうかな?」
神様は苦笑を浮かべ、ジュウシマツの頭をぐりぐりと撫でる。わかっているさと言いながら、僕に向かって小さくウィンクをした。
「ここまでやって、お勤めご苦労はい転生でおしまい、じゃあんまりだろ? 話だってちゃんとさせてやるさ」
「はい、じゃここから俺が説明するね~」
神様に変わって、悪魔のおそ松が前に出る。カラ松は手鏡の映像を見終わって混乱しているのか、僕たちの会話を聞きながらぼうっとしたままだ。
「あのね、君の魂の次元はもうよくわからないことになってるの。因果が絡まって滅茶苦茶ってやつさ。神様天使悪魔も巻き込んで大変なことになってるわけ」
そうなんだよね、と神様はため息。天使は仕方のないことだよと笑い飛ばしている。悪魔については、気にしてもいないらしい。僕は僕で、魂の因果というのがそこまで影響を及ぼすかと驚いている。
「だからしっかりケリをつけなくちゃ駄目なんだ。原因は君なんだからね」
神様がついと指先を動かせば扉が現れる。転生の扉に似ているけれど、少し違う。
「二人で話して決めなよ、後は……ゆっくり話ができるところに送ってやるからさ」
手を貸すのはここまで、と天使も神様も声を揃えて言った。僕は思い出す。たった一言が言えなくて、ここまで来てしまったことを。扉が開き、悪魔に背を押され、僕たちはここではない場所に放り出される。
放り出された場所は庭園だった。噴水の近くにあった庭園とは違う景色だ。きっと人があまりいない場所なのだろう。
知らない木、花、ひらひらとリボンのように舞うのは何という生き物だろう。僕はただぼんやりと庭園を眺めている。
「トド松、大丈夫か?」
「うん……平気」
カラ松の手を借りて立ち上がる。僕のことを、トド松と呼んだ。天使でもなく、友でもなく、トド松と呼んだのだ。
「ずっと俺のそばにいてくれたんだな……」
トリスタンでもある。そうだ、ずっとそばにいた。君のことを守っていた。その命を見届けたかったんだ。
「ありがとう、トド松」
記憶を取り戻したカラ松は、再会の喜びを隠さずに僕を強く抱きしめる。思わぬことに一瞬手の行き先がなくなったけれど、そろそろとその背中に回した。あたたかな熱が、そこにあった。
「ありがとうなんて、言わないでよ……」
「それとも、お疲れ様……と言うべきだろうか」
カラ松は口元を緩ませ、目元に浮かんだ涙を拭う。
「トリスタンの俺は……少し無鉄砲なところがあった。一人で出来ると思い込んで……トド松の助けがなければどうなっていたか、わからない」
僕を労う言葉は、トリスタンの持つそれではない。僕の知るカラ松だ。トリスタンじゃない、これはカラ松なのだと思うとじわじわと胸に熱いものがこみ上げてくる。鼻の奥がつんと痛んだ。
「僕は、ただ……お前に伝えたいことがあって」
言うんだ、言わなければいけない、そのために僕はここにいるのに。沈黙が場を支配する。何を今更悩むことがあるのだろう。だからこそ言葉にすると陳腐で、小さくて、小さすぎて情けない気がしてくるのだ。
「……時間は有限だぞ、トド松? 何でも言ってくれ」
カラ松は僕を抱きしめる腕を緩め、代わりにしっかりと手を握ってくれる。僕は本当に、意気地がない。ようやく、言葉が喉の奥からせり上がってきた。
「僕はお前のこと、すきなんだ」
一度あふれた言葉はもう止まらない。ずっとせき止められていた思いが、ただただ溢れていく。
「伝える勇気がなかった。どう言えばいいか、わからなかった。嫌われるかもしれないと思ったら、怖くて……だからこんなにこんがらがっちゃって」
カラ松は、ただただ僕の言葉を受け止めてくれている。ほんの少し、頬が赤く染まったように見えるのは、僕の幻想だろうか。真っ直ぐ伝えられる好意には、カラ松も照れるのかもしれない。
「……あの時言っていればよかった」
「もうずっと昔なんだな」
思い出す。僕は死んだはずで、それでもカラ松は迎えてくれて、僕の未練が果たされるのを見守ってくれていた。僕が伝えられなかったのと同じ時間、カラ松はずっと待っていてくれたのだ。
「ゾンビには驚いたが、あの生活は結構楽しかったな」
「僕も楽しかった。楽しかったけど……」
後悔の念はなくならない。トリスタンとしての人生を見守ってきたとしても、罪は消えないのだ。
ただ僕に残されたのは、カラ松が好きだということ。たった一つ、それだけだ。
「ずっと昔、僕の歌声を褒めてくれてありがとう。ゾンビになった時、僕の面倒見てくれたのも……心強かった」
思い出すたび、鼻の奥がつんと痛む。一呼吸おいて、まだ言葉は尽きないけれど、何度も言いたいのは一つだけだ。
「ずっとカラ松のことが好きだよ、今でも」
カラ松は照れくさそうにはにかむ。ずっと、ずっと伝えたかったことを言えて、僕もほっと胸を撫で下ろしている。
「転生して忘れたって、また俺のことを好きになるんじゃないか? トド松は……」
「はは、まあ……そうかもしれないけどさ」
「愛されているからなあ、お前に」
カラ松が手を差し出す。差し出された手に、反射的に自分の手を重ねていた。指先が熱い。まるで燃えているみたいに。
「だが今度は、俺がお前をもっともっと愛すことになる」
それって、と聞く前に感極まってカラ松を抱き寄せた。触れることの叶わなかった身体、通い合うことはなかったであろう思いの昇華に背筋が震える。
背中に回された腕に、暖かさに、涙が頬を伝っていった。
「いいなあ、僕らには縁がない話だけど」
神、というのは孤独である。孤独であることも意識することはないのだが、人間同士の絆であったり、魂の繋がりであったりを目の当たりにすると不思議な気持ちになるのだ。
悪魔は二人に当てられたのか、人間はいいなあ、俺も人間をやってみたいとしきりに独り言を言っている。
「ねえ、神様ちょっとお休みしてさ、ちょっと輪廻ってやつに混ざるのどう? 俺ずっと悪魔なんてやだよ、働きっぱなしじゃん!」
「えー?」
「こいつも転生しないって言うしさあ!」
悪魔の指さす先には、眠たい目をした人間が膝を抱えて座っている。悪魔は困っている。この人間、一松という名前の男は転生を七回目ほど繰り返した魂だ。真面目に人生を生きすぎたせいか、天国にいても魂が全く潤わず、かといって乾ききったわけでもない生乾きになってじっとりしている。
潤った魂でなければ転生には耐えられないから、潤いで満ちるまでずっと天国の片隅に置いているのだ。
「俺は、天使も悪魔も神様も、転生するんだって考えてた」
その人間が、喚く悪魔を見てぼそりと呟いた。顔を見合わせる悪魔と天使を見て、人間の言うことに興味を持った。なにより、人の目から見た輪廻転生という概念について、詳しく聞きたい。
「詳しく話してよ、一松?」
「えっ……いや、だって魂は転生するとしか伝わってないからね……?」
聖書にしろ、口伝されてきた女神様の話も、全部そうだと一松はしどろもどろに言う。天使は机に積み上げられた地上の聖書を並べ立て、確かに神や天使は転生しないという記述は見つからないと声を上げた。
「女神様や天使、悪魔にも同じように魂があるのならそれは転生するんじゃないかって思うんだけど……違うの?」
「やったことがないからね、実際」
「転生できるようにしちゃえばいいんじゃない、新しい神様と天使と、悪魔を作ってさ」
悪魔はなんてことないように言ってのける。天使をちらりと見れば、口元に手を当ててじっとこちらを見つめていた。強く何かを言うことはないが、望みがあるときにする仕草だ。
僕だって、人の生に興味がないわけではなかった。今までずっと地上を見てきて、人間を羨ましく思うことだってあったのだ。勝手にできないと思い込んでやらなかったのは、神である僕たちだったのかもしれない。
「連続した人生だからいけないんだ、四次元的に命が巡るようにしよう」
「神様、言ってる意味がわからないんだけど? 俺にもわかるようにしてよ」
「あーもーうるさいな、お前は引き継ぎのマニュアルでも作れよ悪魔も輪廻に入れてやるからさ!」
転生は未来へ向けてのものとされていたが、過去の時代で人生を送るものもあるし、まったく同じ時代を過ごすことがあるように作り変える。神様も天使も悪魔も、同じく転生が出来る。今まで定義していなかったものを改めて定義することができるのは神であるからこそだ。
悪魔のおそ松は最初から準備万端であったのか、引き継ぎの準備は十分だと言う。それがどこまで本当かはわからないが、次に悪魔になったものがやり方を変えればいい。魂は巡るのだから、すべてが同じにならなくてもいいのだ。
「じゃ、ジュウシマツ。ラッパ吹いて」
「あい!」
天使がラッパを鳴らす。天使の吹くラッパは合図である。この世の仕組みを大きく変える合図。響き渡るラッパの音を聞きながら、転生への扉が開かれる。一瞬、神であることを忘れるのは少し惜しいと思えた。なるほど、転生を拒む人間がいることも今ではわかる。けれど同時に、新たなことができると胸を躍らせる自分もいる。
悪魔が真っ先に飛び込んだ。続けて、天使が人間を連れて走って行く。僕はゆっくり深呼吸をする。始まりというのは、こんなに輝いて見えるものなのだ。天国を振り返ることなく、その扉に向かって駆けた。