【WEB再録】逃避行失敗(16/03 発行)
駅から徒歩十分、兄さんたちに報告をした上で家と駅の中間にあるカフェでバイトを始めた。
別のカフェに勤務していたこともあり、学生が入りたがらない土日のシフトのスキマにすっぽりはまる僕は重宝されて、使える新人くらいのポジションをいただいて安寧の日々を過ごしている。
きっかけは些細なものだ。
三ヶ月くらい前、手書きの求人ポップを見かけた。駅から近い、そこそこ雰囲気がいい、時給も悪くない。
前に働いていたカフェは逃げるように辞め、そろそろお金を稼ぐ手段を見つけなくてはと思っていた矢先に好条件を満たすバイトが見つかった。
いざ行動に起こす前に兄たちに報告を入れたのは過去のトラウマからだ。僕がこっそり成功に近付くとどうやら逆鱗に触れるようだから、一言入れた。興味なさげに、がんばってねえ、と言われたのを覚えている。
そうなるのがわかっているから、大体のことは兄弟に言わない。僕に興味があるというより、僕が何かをして一人だけちやほやされるのが気に入らないのだ。
僕は、勤労意識が高いわけじゃない。人付き合いにはそれなりにお金がかかるから仕方なく働いている。飲み会でも合コンでも荷物持ちでも、男の僕が財布を開くことが圧倒的に多い。機会を作るためのコストだ。代償として新たな出会いを手に入れている。
カースト最下層、のし上がるための手段は選ばない。泥臭くチャンスを狙い、確実に勝てる勝負に持ち込んでさえしまえば、この地獄からは脱出できると信じている。
せめて普通になれれば。
駅前の通りがよく見えるこのお店は、ウィンドウの向こうに兄弟の姿を見かける機会が多い。
火曜と金曜は新台を見におそ松兄さんが通るとか、チョロ松兄さんがここを通る日は面接の予定が取り付けられなかったら日だとか、そんな調子だ。見かけないのは一松兄さんと十四松兄さんくらい。
顔が同じだから、同僚たちにも一卵性の兄弟がいるのはすぐに知れた。話題の種にはなるけれど、詳しくは話さない。自ら地雷を踏む奴なんていないから、当たり前のことだ。
カラ松兄さんも、同じように一定の周期を持って店の前を通り過ぎるのを見かける。ニートだから日付の感覚はないものだと思っていたけど、案外そうでもないらしい。
今日は金曜日。昼過ぎからのショートシフトだったから、おそ松兄さんの姿は見ていない。
会社帰りの会社員たちの一服を捌き終え、バイト終了までの時間は残り僅か。五分前にお客さんが来るとあがる時間がちょっとずれて一分か二分損だからドアを見つめて開かないでくれと念じるのが常だ。
けれどそういうときに限って人が来るのも、いつものことで。
カラン、とドアベルが鳴る。はっと姿勢を正してなるべく柔らかく発声、それから姿を現したのがいつもの黒い革ジャンに身を包んだ兄であることに気付いて緩やかにトーンダウン。
「……ご注文は?」
「ブラザー、あからさまにテンション下げるな」
苦笑と共に、いつも同じメニューを指差す。カフェラテ、トールサイズ。エスプレッソの追加を時々するのだけど、今日は特に言わないから無しで良さそうだ。
「ラテとキャラメルマキアートですね」
「え?」
そっと声を落とす。疑問符を浮かべながら支払う準備をしているカラ松兄さんは物分りがいいというよりは、諦めが早い。
「僕そろそろあがるから、それもって待ってて」
ぱちりと片目を閉じてやれば、兄さんは目をきらりと輝かせる。
兄さんが一番だよ、兄さんだから甘えるんだよ、という態度をわかりやすくしたときに力になってくれるのを僕はよく知っている。そう、普通の弟がするように。
「しょうがないな」
そういう口がにやけているからいいように使われるっていうの、そろそろ学習してもいいはずなんだけど変わらない。僕らは六つ子だから同い年の男なのに、すぐ甘やかす。
カラ松兄さんは決まって僕がそろそろあがる時間にやってくる。先週から注文のついでに僕の飲みたいものを追加しても叱られないようになった。シフトを事前に話してあるわけじゃないのに、示し合わせたようにやってくるのは少しだけ不思議だ。
「松野くん、お兄さんよく来てくれるね」
初老に差し掛かったオーナーは、同じ顔の兄弟が姿を見せると僕を見てにっこり微笑む。仲が良さそうでいいねえ、といわれて悪い気がしないから、僕も同じように微笑んで返す。
「居心地がいいって気に入ってくれてるみたいで」
はにかんで頬を掻く。僕と兄さんの注文は、手早くオーナーが済ませてしまっていた。
勤労意欲はそこまでないけれど、職場に愛着がないわけではない。表通りに面している割にそこまで混雑しないとか、時間が過ぎるのが遅く感じるような雰囲気は貴重だと思う。オーナーの人柄に似ているのかも、と思った。
一礼をして帰り支度を急ぐ。時計の針は七時を過ぎた。僕の勤労意欲は、とっくに根をあげているのだ。
「ブラザー、お疲れ」
「外でブラザーはやめて兄さん」
小さな丸机を挟んで座る。
ぬるくなったマキアートは猫舌の僕にちょうど良くなっていて、くたびれた足をうんと伸ばしてから口元に運んだ。
周りに人がいない奥まった席。表に面したところからは見えず、同僚もオーナーも近くにいないことを確認して、机の上にあるカラ松の手をぱちんと叩く。
「いたい」
「わざわざ時間見計らって来るの何で?」
手の平をぺちぺちと叩く。カラ松は動じない。きょとんと丸い目を僕に向けているだけだ。
「勝手に来て勝手に帰ってよ」
「ふ、これが俺の行動サイクルだ、気にするな」
「何が狙い? サトーさん? 彼氏いるよ」
当店の看板娘である。娘、と言いつつ年上のお姉さんなのだけど、砕けた雰囲気がとっつきやすくて可愛い。けれど残念、彼氏がいるので僕は何も出来ないのだった。
「そうかもな」
空になったカップを両手で包んで俯く。
嘘だ。
カラ松は嘘を吐く時に絶対に人の目を見られないからすぐわかる。何度指摘しても直らないから、いっそ嘘を吐かなければいいのにと思う。
「嘘ついても無駄、本当は何?」
あー、と居心地悪そうな返事。カラ松の手の中でくるくるとカップが回っている。
「こういう時でもないとトド松と二人になれないだろ」
うわ、と声が漏れる。頭を抱えたい衝動を堪えて、ぬるいカップを両手で握る。図らずも同じようなポーズになってしまって、慌てて膝の上に拳を移した。
「ここだと、トド松は結構自分の話してくれるし」
それはカラ松がちゃんと僕の話を聞いてくれるから、そうしているだけだ。報告するラインが曖昧な兄弟より、ただうんうんと聞いてくれるから、ついしてしまうだけで。
「内緒の話するの結構好きなんだ」
照れたように笑って、頬を掻く。それ、さっき僕も裏でやった。そういうシンクロを見るたび、六つ子の血を感じたりする。
これ以上気恥ずかしい言葉を浴びるのは耐えられない。半分ほど残ったカップを持って立ち上がる。カラ松は唖然と僕を見上げたまま、空のそれを握り締めた。
「帰ろ!」
「でもトド松、まだ飲み終わってないだろ」
「歩きながらでも飲めますー」
ドアベルが鳴る。一瞬目があったサトーさんが、子犬のじゃれあいを見ているような和んだ顔をしていた。多分、見られていたんだろうな。
後ろをついてくる足音を聞きながら、家までの道を歩き出す。十分。何も考えないで歩いていればすぐついてしまうなんでもないような距離。
普通になりたい、と思う。六つ子の末っ子ではなくて、ただ普通の、二十代の男になりたいと思う。彼女が出来れば普通に近付くのか、カーストが上がれば普通なのか、僕にはそれが近道のような気がしているのだがこれで合っているかわからない。
「トド松、そんなに早く歩いても家は逃げないぞ」
「……逃げないけど」
逃げたいのは、カラ松兄さんからだ。歩調を緩める。カラ松が追いついてきて、僕の手の中からすっかり冷えたマキアートを攫った。
「今日、何かヘンだぞ」
「変? 僕が?」
足が止まった。カラ松兄さんは心配そうに僕の様子を見ている。少し離れたところにたつ街灯の明かりが、ぼんやりとそれを照らしていた。
兄弟に甘えるのは普通のことだ。でも、どこからどこまでが普通なのか、もう僕にはわからなくなっている。
六つ子の兄弟には話してもしょうがないな、と思うことのうちいくつかは兄さんに絶対聞いて欲しいと思っているし、実際に話して共感して貰えるとうれしい。
もしかしてカラ松兄さんだからうれしいのか、と気付いたのは割と最近だ。カラ松は僕の特別らしいのだ。
普通になりたかった。普通じゃないかもしれない、この特別という感情のもっていくべき場所が見つかるかもしれなかったから。
「トド松は気が弱ると口数が増えるから」
指摘にどきりと胸が跳ねる。虚勢だ。自信がないと、沈黙が耐えられなくなって口ばかりが回る。そうしないと何もないのがあばかれそうでずっと恐ろしい。
「俺じゃいう気にはならないか?」
「ちっがうよ、違う」
マキアートはカラ松がすっかり飲み干してしまった。
焦る。焦っている。カラ松が黙ったままこっちを見ている。この沈黙が、僕はダメなんだ、何か喋らなくちゃって気持ちになる。何を喋ればいいんだ。焦れば焦るほど、言葉が遠くなっていく。
「……疲れてる、だけだよ」
嘘を吐いた。だって、言っても仕方がない。普通になりたいなんていわれても、きっと困らせるだけだ。それに、きっとカラ松の言葉に甘えてしまう僕の姿も、頭にちらついている。
「……話してもいいと思ったら、いつでも言ってくれ」
カラ松はどこか寂しそうな顔を見せて、僕の横を通り過ぎていった。背筋がさっと冷える。間違えた。嘘を吐くにしても、もっとうまくやるべきだった。
振り返る。カラ松は僕のことを振り返りもせず歩きいている。もう、遠くにうちの前にある明るい色のパラソルだって見え始めていた。
いつまで、続けるのか。ずっとそうやって答えをはぐらかして、カラ松に嘘を吐くのか。どうして特別なのか、もうほとんど認めてしまっているくせに。
「来て」
衝動だった。
追いかけて、カラ松の手を取って引き返す。家とは反対方向に。カフェの前をあっと言う間に通り過ぎ、駅に向かう人々の群れに混じって早歩きで駅の中へ。僕はスマートフォンを改札へかざし、カラ松にはICカードを手渡す。受け取る一瞬だけもたついたけれど、僕の後に続いて改札をくぐった。
改札さえ通ってしまえばあとはこっちのものだ。差額なんて後で出せばいい。電車に乗る。カラ松は大人しく手を引かれている。どこへいくんだとも聞かない。
ただ、僕をじっと見つめる目だけは強い。さっき小さな嘘をついてそらしたくせに、こういうときに絶対その視線は揺らがない。昔から、ずっとそう。
「トド松、俺は逃げないから」
手を離してもいいんだぞ、と柔らかい声がする。駄々っ子のように首を横に振った。握った手が離せない。むしろさっきより握る力は強くなっている。
「ちょっと、痛いってば」
「むり、ごめん」
「……しょうがないな」
通り過ぎる景色を見ている。電車の窓の外、居酒屋とパチンコのネオン、そこから離れてマンションやアパートの明かり。
勝算の無い勝負はしない主義だ。今までもこれからも。じゃあこれはどうなんだ、と思うと背筋が冷える。
特別な感情の理由なんて、わかっている。血のつながった兄弟だ。男同士だ。しかも毎日逆ナン待ちで外に出ているような男に、僕が。
電車のドアガラスに、唇を噛む自分の顔が映る。ぶさいくだ。見ていられなくて、マフラーに顔を埋めた。
「どこまで行くんだ?」
「ちょっとね」
寒いところに行きたい、と思った。深い理由はない。暖かい場所というと東京から遠いから、手っ取り早くどこかへと言うとどうしても北へ行かなければいけない気がするのだ。
きっと、ドラマや映画の駆け落ちとか、逃避行に出る男女が日本海を目指す理由と同じだ。許されないと自分が思っているから、自分に冷たくしてくれる場所を選ぶのだ。その罪すら許されなくてもいいと本人たちは夢を見ている。
僕は夢を見ているのだろうか。
行 き先は決まっていない、とりあえず、ゆっくり遠くへいく。特急とか新幹線じゃダメだ、いくらカラ松兄さんと言えど不審がられる。今だって十分不審がっているのだけど。
これはきっと、恋なんだと思う。否定しても、そろそろしきれない。何で特別なのか、何で僕の全部を言いたいのか、何で我侭いうのも全部カラ松でないといけないのか、その理由なんて一文字で説明が出来てしまう。
繋いだ手を、少し緩めた。カラ松は片眉を上げて、二度瞬きをしただけで何も言わない。
新宿で一度下りる。雑多なホームを抜けて高崎線。北に向かえれば何でもいい。日本海ってどう乗り継いだらいいのか、スマートフォンを片手に、もう片方はカラ松を捕まえて歩いていく。
海が一番近い駅、まで打ち込んで検索ウィンドウに叩き込む。四国の駅がトップに出てくるけれど、さすがにここから四国は遠すぎる。
次に出てきた駅の名前を経路検索に入れて、案外届きそうな距離に驚く。一日かけていけばいい。明日がどうなろうと、知らない。明日はシフトに入っていないし、とバイト先のことがちらつくのが、何となく庶民じみていて自分がいやになった。まじめなんだ、僕は。
「トド松、なあ、何か買っていこうか」
「え、何?」
「土産?」
あいつらきっと、二人だけで出かけたって知ったらブーイングの嵐だぞ。付け足されて、面白くなくて早足になる。カラ松が一瞬よろけるのも、知らんぷりだ。
「僕が今、お前に買ってやれるのは弁当くらいだよ」
「ふ、気ままな旅もまた良し」
カラ松は手を繋いだまま、器用にポケットからサングラスを取り出してかけた。夜の室内でそれいらないでしょ、と突っ込む暇もないほど手早く。
「何しろお前が一緒だからな」
楽しげに笑われると、お前のへの恋心をどう昇華していいかわからなくて、衝動的に電車に乗ったと言う気にはなれなかった。まだ、手を繋いでいる。
電車は都会から離れ、徐々に緑が増え始めた。ネオンの眩しかった都内に比べ、この辺りはひたすらに暗い。時々見える一軒屋の明かりが、星みたいにばらばらに散っている。時間はどんどん深くなる。電車は止まることなく、東京から、家から、離れていく。
この電車はここまで、終点まで行かれるお客様は次のお電車へ乗り換えください。
アナウンスを聞いて、しぶしぶ電車を下りる。夜風が冷たいホームに、二人で並んで立っている。次の電車が来るまで、まだしばらくかかるようだ。人々はホームに備え付けられた待合室の中に消えていく。
「トド松、いつ帰るつもりだ?」
カラ松が、自販機でコーヒーを二つ勝って戻ってきた。僕はそれを黙って受け取って、首を横に振る。
「帰れなくなるぞ?」
「帰れなくたっていいじゃん」
向かいの上り電車のホームの電気が消える。もうそのホームを走る電車はない。帰ることは出来ないのだ。
「何がいけないの、僕ら大人だよ、帰らなくたって」
「一日帰らないだけでいいのかって、聞いてる」
カラ松がじっと僕を見ている。
「俺に言うことがあるだろ?」
おそ松兄さんといい、カラ松兄さんといい、僕ら弟に答えを言わせる場面というのは今までもあった。
それは謝罪であったり感謝であったり、素面のままでは言いにくい言葉を言いやすくする導入になったりもしたのだけど、今に限っては死刑宣告にしか聞こえない。
「あるけど、言ったら、もう戻れない」
「戻らないから、俺を連れてきたんじゃないのか」
目の前のホームに滑りこんでくる電車は終電というアナウンスが続いた。待合室から出てくる人たちを見ながら、僕とカラ松は静かににらみ合っている。
電車がホームに滑り込んでくる。押しボタンのドアを開いて下りてくる人たちを避け、乗ろうとする僕の手をカラ松が掴んだ。
「トド松」
これ以上はダメだというように首を横に振られた。
まだ始まってもいないのに、最初から終わってしまったみたいな気持ちになって、そのままカラ松を引きずるって電車に乗った。カラ松はいよいよ、僕から目を逸らした。
東京から離れる電車は皆くたびれて静かだ。一駅一駅の区間が長くて、寝息ばかりが聞こえる。
「僕と一緒じゃダメ?」
僕の武器は弱い。今ここで、末っ子の我侭なんてとっくに通用しないのに、それでも試さずにいられない。勝算は薄すぎた。
「……ダメなのはお前の方だろう、そんな顔して」
「そんなって、何だよ」
「不安で不安でしょうがないって顔」
カラ松が僕の頬をつねる。怒ってはいない、けれど機嫌がよくはない。僕だって、こんな真似されたらきっと怒る。カラ松は我慢が出来すぎた。
「僕たちのことを、誰もが知らない町にいけば」
口に出しながら、そのことを考える。誰も僕らのことを知らない、誰にも咎められない、普通であることを求められない場所までいけば、僕は。
「いけば、僕、楽になれると思った」
顔を覆う。声が震える。喉の奥で声が詰まる。
逃げたかったのは、僕だ。
「何から楽になりたかった?」
背中を撫でる手が暖かくて優しいのがつらい。
「どこにいっても、俺とお前の二人がいるだけだろう」
だから帰ろうと諭される僕は、どこまでも弟だった。
了