【WEB再録】海の味は忘れました。(16/03 発行)
クリスマスに海に行く十四松とカラ松の話。
おおよそクリスマス関係ありません。
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海の味は忘れました。
街には光が溢れている。赤と緑、それに星型の金、六花の白。クリスマスに華やぐ世界を見ながら、俺を探しているであろう美女たちを待って既に半日が経過した。
今いえることがひとつだけある。
とにかく寒い、ということだ。暖冬という言葉をよく聞くが、日が沈んでしまえば冬は冬でしかない。日が陰れば急速に温度を失い、コンクリートジャングルは容赦なく冷気を放つ。
そう、この寒さは都会と季節のせいであって、半日も立ち尽くしていた己の心情のせいではない。道に迷ったらしいご婦人を案内し、両親とはぐれたらしい子供を交番に導き、誘拐と誤解されそうになり慌てて人に紛れて姿を隠した虚しさのせいでは断じてない。
腕組みをしながら自らに言い聞かせるように深く頷き、ジャケットの襟を立てる。忍び寄る冷気を経つには、冷気の入り込む隙間をなくしてやればいい。
隙間から入り込む冷たい風から身を守りつつ、周囲を伺う。凍えている俺を見れば、ガールズたちは心配するだろう。あからさまに心配してくださいというようなモーションはカッコ悪すぎるから、あまり見られたくはないものだ。
うつむいて襟を正していたら、俺の目の前でぱたりと止む足音がひとつあった。人の気配がある。
――ついにお出ましか子猫ちゃん、俺をこんなに待たせるなんて罪深いにもほどがあるぜ。俺は君が見つけられるように一日ずっとここで待っていたのさ。これは運命だと思わないか。
口にすべき言葉を考えながら、俺の運命の相手は一体どんな様相なのかと顔を上げれば、目に飛び込んできたのは眩しいほどの黄一色だった。
「兄さん、何してんスか!」
わは、と大きく口を開けた笑顔に一瞬ひるむ。じゅうしまつと小さく呼べば、鼓膜がびりびりと震えるような音量で松野十四松ですと元気な返事があった。知ってる。俺の六つ子の兄弟で、俺は二番でお前は五番。
今日はカラーコーンを被っていない。代わりに、フリースのビーニーを被っている。宵闇の中で見るそれは黒に近いが、実際のところ濃いネイビーだというのを俺は知っている。俺の色だなあなんて思ったのはつい最近だから、なおさらだ。
「お迎えに来たんだあ」
晩飯か、と問えば十四松はううんと小さく首を横に振る。銭湯か、と続ければそれも違うときっぱり言い渡されてしまった。他に何かあるだろうか。毎年恒例六つ子プレゼント交換は既に済んだし、今年のブラックサンタ当番は一松だ。今頃どこかでリアルが充実した誰か相手に黒い贈り物をしている。
「ふ……降参だ、ブラザー」
俺への要件、聞かせてもらおうじゃないか。指先で銃を作って突き付けてみれば、そのまま人差し指を掴んでぐいと引かれた。すっぽ抜けそうだ。
「逃避行!」
「は?」
何から。人差し指はすぐに開放され、代わりに手首をがっしり掴まれる。尋ねる間もなく、人混みに逆らうようにそのまま駅へ辿りつく。これから街に繰り出す人たちを押しのけ、運賃分は入ってるからと渡された電子カードを使って改札を抜け、まばらに人のいる電車へ乗り込んだ。
「じゅ、十四松?」
「あと二駅で乗り換えね!」
見なれた街並みから徐々にビジネスマンが増え、背広に混ざりながら別の電車に乗り換える。地上のホームから地下へ潜り、くたびれた人たちと浮かれた人たちで半々の特急に乗り込んで、行き先を見れば港の文字。
「海じゃないか」
知らない場所ではない。兄弟だけで海にいったこともあった。中学にあがってから兄弟だけで行った海だからよく覚えている。おそ松とトド松が揃って寝坊をしたことも覚えているし、チョロ松の浮き輪がひっくり返ったことも、散々泳いでぐっすり寝て帰って、深い眠りから目覚めない一松を背負って帰ったのも覚えている。それから一松の運搬は俺の仕事だ。
海と言えばすぐ夏を思い出すくらい、今から行くと言われてもぴんとこない場所だ。冬の海と聞くだけでいかにも寒そうだし、何故か想像ではサスペンスのような荒れた海が黒々と広がっている。
十四松はビニールバッグを大事そうに抱えてご機嫌に鼻歌なんて歌っている。
ここには俺と十四松しかいない。あとは見知らぬ乗客たちが、手元の端末を見たり、本を読んだり、眠ったりとそれぞれの時間を過ごしている。
「皆はいないのか」
「兄さんだけだよ、やだった?」
小さく首を横に振る。今日を過ごす相手に俺を選んだというのが少しばかり嬉しかった。同時に、十四松のいない家はどれだけ静かなことだろうとほんの少しだけ考えたが、それもすぐやめた。じっと出来て、あったかくて、適度に揺れる、この状況で眠気が起きないわけがない。
「しばらく寝てていいよ、起こすから」
容赦なく襲ってきていた眠気に負けるところだった。普段の十四松とはかけ離れているような落ちついた声音が気にかかるが、眠気には逆らえず目を瞑る。
一瞬見えた電車の窓から見える町並みは暗闇に沈んでいて、寂しい色をしている。
「兄さん、ニーーサン、着いたあ!」
肩を揺さぶられて飛び起きた。駅の名前を確認するより前にまた手を引かれるまま電車を降りて、まず鼻をくすぐったのは潮の匂いだ。
そうだ、海に来たんだったと思い出したのは改札を出た後で、それからずっと十四松の背中を見つめている。
よれよれのビニールバッグが一つ、大股で歩くたびに十四松の腰に当たって跳ねる。黄色のツナギは薄っぺらで、寒くはないかと気になったものの俺の手を引いていく十四松はどう見てもご機嫌で、鼻歌にスキップまでしだしてもおかしくないようなテンションだ。寒くて凍えてたらこうはならないから、さほど寒くはないのかもしれない。何しろ十四松だから。
「海で何をするんだ?」
「あー、えっとね、デカパン博士のね、シタイケン?」
「試験体?」
それそれ、兄さんさっすがあ。おだてながら、十四松が俺の手を離した。ぐいぐいと引っ張られ続けていたものだから、急に引く力がなくなってしまってたたらを踏んでしまった。格好がつかない、と思いながら体勢を立て直す。
道端にしゃがんでビニールバッグを開ける。中にはボールや路上で配られているティッシュ、真新しいタオルなんかが詰め込まれている。ビニールサンダルも一組あった。その中から、青いフィルムに包んだ飴玉のようなものを二つ取り出して手のひらに転がす。
おそらくこの飴玉のようなものが発明品だ。あの博士の得体は知れないけれど、ほえほえ言いながら何かしら開発できるっていうのはすごい才能だと思う。昔からずっとそうだけど。
そのうちの一つを受け取って、しげしげと眺める。見た目はただの飴だ。市販の飴より一回り大きいくらいのサイズ。頬張ったら飴を食べていることがすぐにバレるそれだ。
「……ちゃんと説明、聞いたか?」
「そりゃあーもちろん! フィルムにも書いてあるよ」
既に日は沈み、月明かりも雲にさえぎられた今、半透明の青いフィルムに写る文字を読み取るのは困難を極める。愛用のサングラスを外して目を細めてみても読みづらい。改善点として上げるならまずこのフィルムを使うのをやめたほうがいい、と言うところからだ。
ふと前方を見れば、煌々と輝くコンビニがある。二十漆黒の闇夜、という言葉をぶち壊す二十四時間営業という存在に助けられ。
「おやつ買おーよ、博士に先払いしてもらってんの!」
ビニールバックの前方についたポケットのジッパーを開けて顔を覗かせたのは、白い紙でひとつにまとめられた札束である。ハタ坊――今はミスターフラッグと言うべきか、旧友の家で見た覚えのあるようなそれだ。それがひとつやふたつでなく、ポケットの中にぎっしりと詰まっている。
一瞬で嫌な汗をかいてしまった。その額がもらえる試験体ってやばいんじゃないか? 危ないものを預かったりしていないだろうな? 心配事に考えが支配されつつあるが、俺の中に疼く男心が、不穏な気配にどこかそわついている。
「兄さんにはから揚げね!」
「肉まんもつけていいぞ」
コンビニに飛び込んでいく十四松を見送り、その明かりでフィルムを読み取る。
曰く、知覚を鈍くするらしい。例えば気温の変化を感じなくなるとか、触れられたのに触れられた感覚がしないだとか、麻酔の類に似ているのかもしれない。
深く考えなくてもわかる。ヤバいやつだ。冷や汗をかきながら、こんな身近から映画やドラマみたいなものが出てくるとは思わなくて、動揺と同時に興奮してもいる。ハードボイルド小説なんかに出てきそうな代物だ。
読みながら、十四松がなぜ海に来たのか、考えていたことがほんの少しだけわかった。
知覚が鈍くなって、寒いのがわからなくなるなら寒いところにいけばいい。うちからすぐいける寒いところ、安直に考えて海なんかうってつけだ。
けれど自分で寒いのがわからないから、知らない間に凍えてしまうかもしれない。誰かが一緒にいてくれたら凍え死ぬことは避けられる。それで、外に出ていてすぐ捕まる俺が選ばれたのだろう。
両手いっぱいのおやつ、好きなおにぎり、ホットスナックをいくつか、大型の貼るカイロを袋につめた十四松は満足のいく買い物をしたらしく、いつだか作った六つ子の歌のメロディを口ずさんでいる。
「兄さんは俺が死なないように見ててね!」
「これは十四松じゃないといけないのか?」
ぱかりと開いた口角が僅かに落ち、首をかしげている。言っている意味がよくわからないという表情だ。
「禁断の果実を口にする資格は俺にもあるのか?」
十四松の手がぽんと鳴る。それは全く考えていなかった、という様子にアイデアを出せた自分が誇らしい。
「じゃあ、俺がにーさんが死なないように見てるし、寒くないようにしてあげるから!」
任せて、泥舟に乗ったつもりってやつ。
大声で言うそれが間違えていると指摘するのは野暮が過ぎたから、指で銃を作って打つ振りをしてから青いフィルムを剥く。手のひらに転がる飴玉は、ラムネみたいな薄透明だ。十四松の手が伸びてきたから、慌てて口に放り込む。兄弟が多い宿命か、こういうのは口に入れたもの勝ちみたいな意地汚い反射だ。
飴は妙に塩辛いような甘いような不思議な味がする。ラムネみたいに時折口の中でぱちんとはじけ、鼻に抜ける匂いはミントに似ている。
そういえば海ってどんな味だったっけという疑問が、ふわりと湧いた。
この先百メートル、市民海水浴場。
看板を二人で読み上げてから、看板の矢印の方へ歩いていく。途中、海と反対方向にあるホテルの看板が出ていた。海が見えるホテル。なるほど、ロマンチックだ。
既に波の音は聞こえているし、きらきらと光る水だって見えているから確かめるまでもないのだが、あと何メートルと示されるとわくわくする。ちょっとしたレジャー気分なのだった。
博士から貰った飴はずいぶん小さくなったが、効果らしいものは感じられない。潮風が冷たくて寒いし、指先に食い込むビニール袋の感覚ははっきりとしている。
食べきらないと効果が出ないのかもしれないが、小さなそれがまだ口の中を転がっている。噛み砕いたほうが早いなと奥歯に挟んだところで、前を行く十四松が振り返った。
「そのアメ噛んだらだめだよ」
「どうしてだ?」
まさに奥歯ですり潰そうとした瞬間に釘を刺されて少し驚く。十四松はうーんと唸りながら腕組みをしている。
「こうかそくていに、ならないって」
「博士か」
「そう、だから、噛んだらだめ」
大人しく舌の上に飴を戻す。塩辛いような、甘いような味だったそれは、僅かな苦味を持つそれに変わっていた。かろうじてミントに近い。
さっさと飲み込んでしまいたいのが正直なところだが、それでは試験体にならないだろう。謝礼は今さっき手をつけたし、なるべく穏やかに済ませたいところだ。
海沿いを走る広い道路を渡っていく。車は全く通らない、人間も居ない。
道路にてんてんと立つ明かりを頼りに砂浜に下りれば、革靴の先が砂に埋もれた。踵側からは、既に細かい砂が進入していている。
「海、暗ぁーっ」
十四松は夜の海にテンションが上がったらしい、いつもの調子でざくざくと海に近付いていく。
背中をおいかけようとは思うのだが、どうも砂粒が靴に入って煩わしい。歩きづらいことこの上ない。
麻酔的な効果はどうなったと思いながら、十四松の足跡にぴったり自分の靴を納めるように歩く。これだと既に足型が出来ているから、砂が零れない。
これはそこそこ賢いのではないかと思いながら俯いて歩いていたら、ふつりと足跡が途切れた。顔を上げれば、十四松の靴が転がっているのが見えた。
ばしゃん、と水音。まさかと一瞬過ぎった想像を、あっさりと現実が越えていく。
「ちべってえ!」
「うわ、うわ、十四松!」
真冬の海に素足で入って喜んでいる人間はなかなかいないと思う。慌てて袖を引くけど膝まで捲くられたツナギからしてなかなか本格的だ。そうじゃない。試験体としての条件が満ちていないだろう、入るなら俺が道理だと言って見ても十四松はぽかんと口を開けたままだ。
「だって冬の海なんて、もう来ないかもしれないし」
「だからってそんな、寒いだろうが、一旦出たらどうだ」
「兄さんもほら」
すそを掴んでいた手首を、十四松ががっしり掴む。足元に寄せていた波は引き、砂が波に飲まれ、ころころと丸くなった貝のかけらが転がる。波が膨らんだのが月光でよく見える。これはまずい、このままここにいたら間違いなく俺も濡れる。冬の海は真っ黒で、冷たいというよりまず、その波を受けるのが恐ろしいことのように思えた。
「ね、さきっぽだけー」
さきっぽだけですむわけがない。十四松はいつもと変わらない笑顔だ。むしろ楽しんでいるのかもしれない、案外人をからかう癖があるから。
膨らんだ波が、ぶわりと落ちる。広がる。迫ってくるそれに反射的に逃げようとすると、手首を掴む力が増した。あっと声を上げると、十四松の目が細まった。道連れか。兄弟、おイタが過ぎる。
「あーっ、せめて靴は脱がせてくれよお!」
並べた言葉は呆気なく十四松になぎ倒され、寄せる波を革靴のまま受けた。
脛まで波を浴び、革靴の下では砂がぐるぐると波に巻かれている。奇妙なことに、濡れたスキニーがぺったりと皮膚にはりついただけで、冷たいとはかけらも感じない。
「効果あったね、兄さん」
ひそやかに笑う弟の唇は、僅かに青い。
「全然、冷たくない」
不思議な感覚だった。普通に考えれば、水風呂だっていきなり入れば体が強張るのに、全く温度を感じない。膝から下が濡れているのはわかる。
波をそのまま受け続ける。寄せて返る波の音と、段々と重たくなるスキニー。十四松は海から上がって、波打ち際を濡れないように歩いている。ビニールサンダルが暗闇の中でもよく見える。
「あの博士、ほえほえ言ってるだけじゃなかったんだ」
一旦海から上がる。つま先が強張っているような気がしたけれど、自分の思うように動くからまだ大丈夫だ。
重たくなった靴を脱ぐ。砂塗れになった靴下は軽く絞っておいて、肌にべったりと張り付いて気持ちが悪いスキニーも脱ぎたいが、さすがにパンツ一枚で冬の海は滑稽が過ぎるから諦めた。
十四松が寄ってきて、じいっと俺の顔を見る。片手には肉まんがあって、一口で半分がその口に消える。
「兄さん生きてる、大丈夫」
十四松はぐっと親指を立てて、一口かじったそれを俺の手のひらにぽんと置いた。 薄い膜の上から何かが乗っているような感じで、温度がわからない。
買ってからしばらく時間が経っているから十中八九冷めているのはわかるのだが、もし保温性に優れた肉まんだったら口の中を火傷するかもしれない。舌を火傷すると、おいしいものがおいしく食べられないからいやだ。
「十四松、これ、熱いか?」
「ううん、もうひえひえ!」
「火傷しそうなのもわからなのは不便だな」
改善点の二つ目として上げるべきなのか、考えながら一口に飲み込む。冷めているという事実を知っているせいなのか、味気ないものだった。
身体に薄い膜の張った感覚がまだある。再び海に行こうか悩んで、裸足のまままた海に寄っていく。波が引いたばかりの砂は濡れていて、足の裏の砂粒が大きくごつごつしている。
「全身つかったほうがいいのか?」
ざぶん、と広がる波が足の裏の砂粒をさらっていく。さすがにそこまでしなくてもいいだとうと思うのだが、何しろ試験体なんて初めてでよくわからない。
「にいさん」
振り返ったら十四松の目がこっちを見ていて、一瞬ひるんだ。十四松は時々、猫みたいな目をする。明るいところで瞳孔が開く、みたいな具合に。今は月明かりしかないというのに、大きな黒目がじいっとこっちを見ているのがわかって、気圧されるように海の方へ一歩踏み出してしまった。瞬間、高い波が弾けて落ちる。
「唇、真っ青」
「え、ほんとか」
唇に指先を当てる。ぐにぐにとした皮膚の感覚があるだけで、冷えているかどうかは自分で全くわからない。自分で自分の様子がわからないのはいけない、改善点というか一人で使ってはダメな代物だ。
「あがってきて!」
十四松がタオルを構えて待っている。細長いフェイスタオルだ。飛び込んで来いとばかりに両手で伸ばしているそれは、ゴールテープみたいに見える。
波が引いたのに会わせて、重たい足を引きずってあがる。濡れた足に砂がついて歩きづらいが、十四松の広げた腕の中に飛び込んだらしっかり抱きしめられた。タオルは長さが足りず、俺のジャケットの背中あたりで十四松の手がぱたぱたと背中を叩いている。
「兄さん、こんな冷たくなっちゃヤバいね」
「……全然わからないな、ちょっと眠い」
「このまま寝たら死んじゃうかも」
それはだめでしょ、という声が思ったよりきっぱりとした声で驚く。何とかなるよね、みたいに海まで来て、いざやってみた結果がこれというのまで十四松も予想できなかったんだろう。
「死ぬのはやだな」
十四松の肩に額をこすりつける。ツナギの表面は粗くて、結構強くこすりつけた額には痛みくらいあってもいいのに全く何もない。
じっとしていると眠気が来る。雪山で遭難したらこんな感じなのかもしれない。行く予定も死ぬ予定もないけれど、さすがに何の熱もわからないのはまずいと俺も思い始めていた。
「ホテルいこ」
さっき通り過ぎた看板を思い出した。当日部屋が残っているかどうかはわからないけど、行ってみないとどうにもならない。
「サンダル、兄さんが履いて」
濡れた革靴はコンビニのビニール袋へ突っ込み、濡れたスキニーはそのままで歩き出す。十四松の足跡の横に、薄っぺらなサンダルの跡が残る。砂だらけの足が少し落ち着かない。
来た道を戻っていく。道路に転々と点いた明かりは変わっていないし、道路を走る車だっていない。
さっきと違うことと言えば、十四松が珍しいくらい真一文字に唇を結んでいることだった。目もまっすぐ前を見ている。好奇心のままどこかにぶっ飛んでいくこともなくて、標識を見て、信号を見上げて、全うな足取りで俺の前を歩いていく。
「カラ松、ついてきてる?」
「うん、十四松」
俺の兄弟は頼もしい。暗闇の中に浮かび上がるような黄色の背中はやけに大きく見えて、腰のあたりで弾むビニールバッグからはみ出るおやつの類は子供みたいで、まったくバランスがおかしいのが面白かった。
赤信号が点滅する横断歩道を渡る。ホテルまでの看板がまた出ていた。この先、坂を上って道なりに三百メートル先。フロントは本館にて。
きつい坂道を上る。うねうねと続く細い小道は明かりがほとんどなく、ほぼ真っ暗といってもいい。
俺は夜目が利かない。サングラスつけてるから、とトド松に指摘されたこともあるのだが、夜の闇にサングラスなんて周りが見えなくて当たり前だ。それを理解してつけている、カッコイイの体言には何かの犠牲が伴うのだ。外していてもほとんど見えないのだけど。
「手繋ぐ? 兄さん、夜目きかないでしょ」
「ああ、段差とかあったら教えてくれ」
道の幅はわかる。けれど、月明かりが無くなると遠くがぼんやりとしか見えない。普段、銭湯からの帰り道でだって躓いて痛い目に合うこともある俺にとってはありがたい申し出だ。
「指先までキンキンに冷えてまんがなー」
似非関西弁にとっさに返事が出来ず、手を強く握り返す。十四松の手はごつごつしている。暖かいかどうかはわからなかった。
「十四松の手はどうだ?」
「今? 冷たいかもー、海寒かった!」
もっと早く切り上げればよかった。そうするべきだった。冬で仕方ないとはいえ、弟を寒空に放置するのはよくない。
俯いて歩いたら、砂だらけのつま先が目に入った。片手に下げたビニール袋の中で、革靴が摺れる音がしている。このびしょびしょの革靴を何とか乾かさなくては。
「兄さん、ここ穴があるよ」
「トラップだ」
「二時の方向、回避しまーす!」
手を引かれ、穴を避けて斜め右へ。敬礼の真似をしたら、十四松も開いた手で小さく敬礼を作った。ちらりと見えた弟の目は、もう猫の目ではなくなっていた。
繋いだ手の体温すらわからないのが、寂しい。
頂上が近付くにつけ、遠くに街灯が増える。ホテルが近いのだろう。
坂を上りきると、パッと見てホテルとわかる建物と、マンションが道路を挟んで建っていた。マンションの方には、ホテル別館と言う看板が出ている。本館と別館の二つの建物があるリゾートホテル。いかにもお高そうだ。ビニールバッグにある札束がなければ、ホテルに泊まろうなどという発想は出来なかった。
「フロントは本館だったな、十四松」
「うん、兄さん濡れてるからここで待ってて」
スキニーの裾からは今だ海水が滴っている。このまま入っていったらロビーを汚しそうだ。何より、誰かがスベって転んだら悪い。いい男は他人を傷つけないものだ。
きょろきょろしていたら、入り口横に足洗い場を見つけた。夏は海水浴客が使うだろうそこに最近使われた気配はないが、開放されていたから使うことにした。
蛇口を捻る。ホースの先端から出る水をしばらく流してから、砂塗れの足に先端を向けた。まだうすい膜が張っている感触がある。冷たい、とは感じない。乾いた砂が剥がれて落ち、ざらざらと足の裏にある砂はサンダルの上から流した。足の爪に砂が引っかかっているのが見えたが、それは風呂で流せばいい。
水道の後始末をして、ロビーの様子を伺う。 何を話しているかまではわからないが、受付は無事済んだらしい。十四松は俺と目が合うと、手で大きく丸を作ってわかりやすく合図をくれた。手を振って返事の代わりにしてこちらに向かってくる弟をしばらく待つ。
「風呂トイレ別でベッドは四つもあるよ!」
「……スイートか何かか?」
「グループ泊の部屋って言ってた」
部屋がスムーズに取れてよかった。十四松は人差し指に鍵をひっかけて、器用にくるくると回している。ナンバーは見えない。
「別館の方だから、あっち」
指差したのは、マンションの方だ。十四松の一歩前を歩いて本館のロビーを出る。濡れたサンダルが、歩くたびにぺたん、ぺたんと音を立てるのがやけに耳についた。
「夏っぽい音だね」
「十二月には合わない」
「先取り、先取り」
けらけら笑い合いながら別館へ向かう。別館のロビーには人がいなくて、御用事の際はお部屋備え付けの電話機でと案内がある。人件費削減、と十四松が呟いた。
部屋番号は四一九。四階の一番奥、突き当たりの部屋だ。この階では一番大きくスペースが取られている。「四、一、九……あれ、鍵差さらない」
「俺が見よう」
玄関と格闘が始まりそうな十四松の手にある鍵を受け取って穴に差そうとするのだが、ゆがんでいるのか上手くささらない。右側から、少し押すように入れてやるとすんなり入った。
「ドア、開けたい!」
玄関前の細い通路で場所を入れ替える。十四松は目を輝かせながらドアノブを握っている。ぐ、と奥に押せば金属のぶつかる鈍い音が廊下に響いた。
「引くんじゃないか、それ」
「ああ、そっか!」
ドアは押すだけではない、手前に開くのも出来る。家は引き戸だから、ドアを引くというのが咄嗟に浮かばないのだ。
重たい金属音と共にドアは開き、真っ暗な中に二人で入り込んだ。入ってすぐに部屋があるわけではなさそうだが、暗くてよく見えない。
「玄関真っ暗、電気探して兄さん」
「おお、えーと」
暗く狭い玄関に立って、二人で手探りで電気のスイッチを探す。うちの玄関ならすぐに居間があるから、部屋が暗くて玄関の様子がわからないなんてことはないから新鮮だ。マンションタイプだとこうなるんだ、なんて考えてみたりする。
「あった」
玄関にサンダルを脱ぎ捨て、一歩上がる。玄関を開けてすぐ右に洗面室と風呂があった。その隣にはトイレがある。トイレのすぐ横に電気のスイッチが集まっていたから、全部のスイッチをひとまずつけた。
「お風呂いれるから、荷物あっちもってって」
「俺が入るのにお前にやらせるの、悪いよ」
「温度わかんないから危ないっしょー」
試しにシャワーの温度を変えて手に当ててみた。見た目にはどちらも湯気が出ている水であるのに、熱めの湯とぬるい湯の違いがわからず、お役御免となった。
申し出に素直に甘え、十四松のビニールバッグを抱えてリビングらしき部屋に入る。ダイニングキッチンには小さな冷蔵庫とポットが並んで鎮座。中央には大型のソファーにテーブルが並んでいる。
「あ」
テーブルの上に、今日の日付の新聞がある。手元でがさりと揺れる濡れた革靴。乾かすには、新聞紙とか丸めて突っ込んでおくといい。梅雨の時期に重宝していた知識が役に立った。
ソファーにバッグをおく。前についたポケットのジッパーが半分開いて札束が丸見えになっていたから、慌てて閉めた。ここにいるのは俺だけなのに、剥き出しになった金というのは心臓に悪い。
ふと、飴はもうひとつあったのを思い出してジッパーを開く。ゴールテープになったフェイスタオルは砂塗れのまま詰め込まれていて、おやつの群れの中に混じった異質な青いフィルムを摘み上げる。
今から食べようというのではなく、フィルムに何か書かれていないかが知りたかった。主に、効果がどれぐらい続くか、その一点が知りたかった。
試験体として、その効果がいつまで続くかは知っておかねばいけない情報だ。俺が食べる、というのが優先事項だったから、よく読んでいなかった。
「効果時間、一時間程度」
口に出してみる。いつ食べたんだっけ。一時間、そもそも今は何時何分だろう。備え付けのテレビの横にデジタル時計がある。時刻は二十二時過ぎ。一時間前というなら、二十一時になる。十四松と二人で電車にのったときは、確か十七時だった。それからしばらく電車に乗って、駅についたのは二十時頃で。
さっきまでの行動を思い出す。海にどれくらいいたかはっきりしないが、駅についてからコンビニに寄っている。そのあと食べたから、二時間は経っていないが一時間は経ったかもしれないといった状態だ。効果の抜ける時間には個人差があるのかもしれない。
もうすぐ効果は切れる。せめて湯船につかるまでには効果が消えて欲しい。湯に身体を浸けた瞬間の何ともいえない開放感が味わえないなんて、人生のどれだけの損になるかわかったものではない。
ソファーに座って新聞を広げる。聖なる夜、全国的に晴れる模様。見出しだけを見て、くしゃくしゃに丸めた。
「兄さん、風呂できた!」
「おー、わかった」
呼ばれて風呂場まで戻る。十四松の黄色いツナギが脱ぎ捨てた状態のまま、床に転がっている。このまま踏んだら濡れそうだから、とりあえず洗面台に乗せてやる。
俺のインナーと下着もその上に重ねてから、さすがに真っ裸で風呂に入るのは、と一瞬考える。銭湯のときはそれぞれタオルを巻いている。バスタオルと浴衣が並んで入れてある箱からフェイスタオルを見つけ、くるりと巻きつけて留めた。これで安心して風呂場に突入できる。
ようやく開けた風呂場のドアから、湯気がもうもうと広がっていく。霞んだような中に、十四松が仁王立ちで俺を待ち構えていた。
「よっしゃ来いやあ!」
「十四松、声が響くとお隣さんが困るかもしれない」
「あ、ゴメンなさい」
言えばやめてくれる。素直である。
「風呂椅子がないからさ、ここ座って」
部屋に備え付けられたフェイスタオルを頭に巻き、薄いタンクトップとハートの柄が入ったボクサー一枚で十四松が風呂の淵を叩く。湯船にお湯はたっぷり入っていて、見るからに体がほぐれそうだ。
湯の温度を確かめながら、つま先にシャワーのお湯が差し向けられる。脛についていた細かい砂が落ち、排水溝に消えていった。
「あったかい?」
「まだわからないな、水が流れてるのはわかる」
「じゃあ俺が気持ちいい温度で洗うね」
湯の温度を調節してくれている。この調子だときっと、風呂も暖かく感じることは出来ない。そろそろ切れてくれはしないかと、溜息を飲みこんだ。
「お客さん、どーですかー、気持ちいいですか」
「はは、気持ちいいです」
ボディソープをつけたスポンジが膝から下を滑っていく。爪の先についていた砂粒も、丹念に磨かれてひとつも残っていない。
右足、左足が済んだら体全体をシャワーで流されて湯船に浸かるよう言われる。俺も言われるがまま湯船に沈んだ。湯が身体を包むほっとした感じは味わえず、今だ身体に薄く膜が張っている感じがある。
「顔色よくなったね兄さん、俺も一安心」
「身体もほぐれた気がするなー、わからないけど」
「だよねー、あ、髪も洗う?」
「サービスがいっぱいだな十四松!」
湯船の淵に腕をしいて顎を置き、俯き気味にしてやればシャワーが頭上から降ってくる。温かいような気がするのだが、まだはっきりとはしない。
「かゆいところあったら言ってね!」
「わかった!」
兄弟それぞれ洗い方も違うものだな、と感心する。最初に泡立ててから洗うなんて知らなかったぞ十四松。
泡が垂れてきて首筋やら頬やらを落ちていく感触は落ち着かないが、十四松の手のひらはごつごつしていて、指の腹がしっかり地肌をもんでいくのが気持ちいい。
「シャワーいきまーす」
「んー」
口を開くと泡が入ってくる。うめき声だけで返して、泡が流れていく感触にじっと耐える。シャワーでざっと洗い流し、リンスはちょっとだけなじませてすぐ流す。短い髪から水が滴るのを、下から上にかきあげてからおしまいとばかりに頭を撫でられた。弟に世話をやかれるのは、楽しい。機会さえあればまたお願いしたい程だ。
「あったかかった?」
「何となくだな、はっきり温かいとは感じない」
風呂は長い方だから、湯船に使っていてもすぐにのぼせたりはしないと思う。
温かく感じない風呂は、海と全く変わらない。波がない分、風呂のほうが退屈だというくらいだ。
効果はおよそ一時間。そろそろ切れてもいいはずだし、じんわりと温かいような気はしているが、まだ膜のはった感じが取れない。
「身体の中はどうだろう、試してみないか?」
「中?」
「舌とかさ」
風呂の淵に手をかける。湯船にたまったお湯溜まったが揺れて、湯船から零れていくのを視界の端で見送る。
袖を捲くった十四松の腕を掴んで見上げると、また目が細くなった。うれしいがわかりやすい弟はかわいい。
十四松のちょっと掠れたような、上擦ったような声が兄さんと俺を呼ぶ。わざとらしく目を瞑れば、頬にそっと手のひらが添えられた。その熱は感じない。
「たまに、そういうとこあるよね」
「うん、そういう気分だったんだ」
交わす言葉が、互いの唇で消える。一度、二度と触れ合った甘えるようなそれは、閉じた唇を舌で舐められ、呆気なく終わる。
「ん、っ」
薄く開けた唇の間から、ぬるりと舌が入り込んでくる。今までに何度も交わしたそれが熱いことを知っているのに、その熱はどこか遠くて物足りない。
「……ふぁ、う」
歯列を撫で、深くを探るそれに己の舌が捕まる。舌の先に、微かに痛みが走った。瞑っていた目を開けば、十四松の手のひらが視界を阻む。
「じゅ、」
名前を呼ぼうとした吐息ごと奪うように、より深くを求められて視界が解放されるのを諦める。代わりに同じように舌で応え、互いの混ざった唾液が、唇の合間から零れて落ちて行った。
「はっ、……はあ」
手のひらからも、唇からも解放された後はさすがに息が上がった。翻弄されている。唇についた唾液を甲で拭って、軽く湯で流した。
「あち」
掬った湯の熱が、指先から広がる。血が巡るよりずっと早く、指先から腕へ、腕から身体へ、首筋へ昇って顏までが、膜を破るように感覚を取り戻した。
「戻った?」
「お、おぉ……」
自分の手を見る。普段と変わらない、いつもの手だ。ひっくり返しても、もちろん同じ。握ってみる。爪が手のひらに食い込む。湯船に潜ってみる。熱い。ちょっとこの風呂、熱すぎやしないか。十四松、風呂はこんなに熱いのが好きなのか。
「兄さん、あつい?」
「風呂、熱ぃ」
「のぼせちゃったら大変、出よう」
寒すぎて死ぬのではないかという体験の次は、のぼせて目を回す体験か。忙しいのは嫌いじゃないが、こういう何とも間抜けなのは避けたい。
立ちあがって、湯船から出る。滴る湯が身体を滑り落ちて行く。熱が戻ってきた身体は敏感なのか、肌のどこを湯が滑り落ちて行ったか、よくよく俺にわかるように感覚で訴えてくる。
ちょっとだけ、惜しい。そういう気分だった。何しろ今日はせいなる夜だ。このせいなる、にあたる漢字はそれぞれ最適なものがあって、俺は今、性を選びたい気分だった。
「兄さん」
「ん」
唇を尖らせながら振り返れば、爛々と光る十四松と目があった。その一瞬、電気が走ったみたいにばっちりと。
顎を掴まれ、乱暴に唇を奪われる。そのわりに、ちゅっと可愛い音が残って、俺はぽかんと口を開けることしか出来なかった。
「続き、……上がってからね」
僕もシャワー浴びたらすぐいくから、と続ける弟に、以心伝心か、それとも顔に出ていたか、考えるだけで顔に熱が昇っていく。
「待ってる」
一言そういうのが精いっぱいで、おぼつかない足取りで風呂の外へ出た。すぐにふかふかのバスタオルに顔を埋める。顔が熱い。唇も。十四松の手の平の熱が残っている気がして、自分の手のひらで顎を撫でてみた。勿論そこには何にも残っていなくて、しばらくぼうっとそこに立ち尽くしていた。
備え付けられた浴衣に袖を通して、熱を孕んだ身体を持て余している。生憎このホテルはメイクラブのためのものではない。支度には困難を極めたが、そもそも何も揃っていない状態からすることも多いから慣れっこだ。
知覚の戻った身体は、思った以上に敏感だった。浴衣のつるりとした繊維が肌に障っているだけで、何と言うか、落ち着かない。
「お待たせー!」
「うわっは」
バスタオル一枚、まだ背中がびしょびしょのまま駆け込んできた弟は即俺のいるベッドに飛び乗ってくる。ダブルとはいえ、男二人を乗せたそれが悲痛な音を立てた。
「カラ松兄さあん」
「十四松、背中びしょびしょだぞ」
「しよう、早くしよう」
全く俺の言葉を聴いちゃいない。浴衣の帯はすぐに解かれて暴かれ、暴かれた素肌にぐりぐりと十四松の髪が擦りつけられる。その一本一本が肌を撫でて行く感覚がわかって、ぞわりと背筋が泡立った。
「ちゅーする?」
「……するとも」
飛び込んできた弟の首筋を撫で、再び唇を重ねる。互いを食べるように舌を食み、吐息も漏れないほどのそれは酷く熱くて、ようやく安心出来た。俺の知っている十四松の温度は、間違いなくここにあった。
「ふは、あ」
「今日は妙にえっちスね」
何でかな、と尋ねる手が首筋から胸を辿っていく。ぺた、ぺたと撫でる手のひらの熱は、湯上りだから余計に熱い。もう片方は浴衣を暴き、内腿を撫でる。
「したかったからな」
こうして身体を重ねた回数なんて、いちいち数えていない。十四松が俺の身体を撫でて、愛撫をくれるのが好きで、気持ちがいい。それだけでいいと思っている。
「やらしいんだあ」
大好きだけど。ぽつり呟いて、鎖骨を噛まれた。リブを噛むみたいに。腹が減った気がする。目の前にある、十四松の肩口に同じように歯を立てた。食べやしないけど、舌で舐めれば皮膚の感触で、少し気がまぎれる。
枕元にあったアメニティのポンプに手を伸ばす。ローションの代わりにはならないが、助けにはなる。むしろお誂え向きと言っても良かった。
「美容効果?」
「お前のムスコの?」
「やだ、美白になっちゃう」
ひとりで支度はしてあるから、滑りを伴った指先はすぐに受け入れられる。立てた膝を十四松が支えて、受け入れる支度をする俺をじっと見ている。待てをする犬みたいに。
「僕も手伝うね」
アメニティのポンプ、プッシュ二回。手のひらに広がった滑りを全体に広げて、俺の指を押しのけるように十四松のそれが入ってくる。
「うあ、や、ぁッ」
「前触っていいからねー」
いっそ呑気とも言える声と裏腹に、ぬるついた手はこれから使うであろう箇所を丹念に撫でて行く。ごつごつとした指は加減を知らない。一本から二本へ増やすタイミングなんか、いつもよりずっと早くて滅茶苦茶だ。
「じゅ、しまつ、ゆっくり……」
「え、でもいけそうだよお」
意外に狙いを外さないあたりは、もう慣れでしかない。十四松は好奇心が強くて、向上心がある。俺の身体のそういうところを覚えるのに使うのはちょっと間違えているかもしれないが、俺としては気持ちいいから全然アリなのだ。
「こっちも触る?」
「はっ、あ、あ!」
ぴんと尖って主張する胸の飾りも、突然の刺激に驚いて喉がひきつったように声を上げてしまう。
「締まったよ!」
「お、教えなくていいから……」
困惑を言葉に滲ませれば、十四松はきゅっと唇を閉じる。素直だ。素直すぎるくらいなのだ、俺の弟は。
三本の指を受け入れるのに何の違和感もなくなった頃、指は抜かれて、代わりに別の熱が宛がわれる。腰を浮かせて受け入れる準備はもう万端だった。
「ん、入れるね」
「うん、ん……っ!」
息が詰まる。呼吸がうまく出来なくなるのは、へたくそだからなのか未だにわからない。あつい。滅茶苦茶だ。触れられている部分だけじゃなくて、身体中熱くてたまらない。
吸って、吐いて、と柔らかな声に導かれながら、浅い呼吸を繰り返す。息を吸う、吐く。ふうっと力が抜けた瞬間に、奥まで十四松が入ってくる。
「ぅあ、はっ、あー……」
「あー、良かった、兄さんすっごいあちいね」
死んじゃうかと思った。そう言った口で、熱を確かめられる。案外本当に死にそうだったのかもしれない。そうなれば、弟は俺の命の恩人ということになる。
「お前も熱いぞ、兄弟」
触れ合う肌が、唇が、熱すぎるくらいだ。
「きもちいいからかな?」
「いいほうが、いいだろ」
ゆるゆると動く腰の動きがじれったい。わざとじゃないかと足を絡みつけてみれば、十四松の黒目が爛々と光る。わは、とわざとらしい笑い声も付けられれば、間違いなく焦らされているのはすぐわかった。
「兄さんは?」
黒い瞳が、じっと俺を見下ろしている。その間も焦らされたままだ。この熱に溺れたいのに、攫われたいのに。
「あっ、う、……いいよ、いいから」
だから好きにしてくれと言ったはずが、言葉は十四松の口の中に消えてしまった。飲まれた。わかった、といいお返事。素直だ。言えば届く。わかりやすいくらい。律動が徐々に早くなり、弟の甘ったるい声が耳まで届く。
潤む視界の端で、十四松の黒い瞳を見る。海に似ている。夜の海、寄せては返す波、飲み込んで攫って行く。
「にいさ、からまつにいさん、ぁ」
甘ったれた声に同調するように、俺の唇からも同じような音が漏れる。小刻みに揺れる腰は俺のいいところを的確に押さえているし、気持ちいいところばっかりの思考はもう絶頂を求める熱が競り上がってきている。
「じゅ、ぅあ、もういく、あっ、んん……!」
おれも、と柔らかな声を聴く。身体の内に吐き出されたそれもまた、十分に熱い。閉じた瞼の裏で、波を思い出していた。未だ熱は引かず、ここに留まっている。長い夜になる気配に、自然と口元は笑みの形を作っていた。
翌朝、どろりとした眠りから目が覚めると、すっかり日は昇っていた。チェックアウトの時間なんて全く調べちゃいない。
「……じゅうしまぁつ」
ちょっとした節をつけて名前を呼ぶと、リビングの方から元気な返事が聞こえた。とっくに起きていたらしい。
起き上がる。腰のあたりがだるい。腰と言わず全身がだるい。
「このへん、美味しいお寿司屋さん多いんだって!」
テーブルに広がっていたチラシを眺め、十四松はご機嫌な様子だ。海の近くだから魚も新鮮だし、間違いなく美味いだろうことは容易く想像出来る。
「寿司、いいな」
ほぼ同時に、腹の虫がそれぞれ鳴いた。思えば昨日は飴玉と肉まんくらいしか食べていないから、こうなるのも当然と言えた。
「開店時間に合わせて出るか」
「こぼれ寿司って何かなー、楽しみ!」
博士への報告は一日伸ばして、海を満喫したら家に帰る。冬の海へ二度も浸かる気は起きなかったが、腹が満たされるならまた来てもいいかと呑気なことを考えながらチラシを眺めていた。