続、冷たい雨
カラ松が名前をつけては捨て、町を転々としていた頃のような冷たい雨の降った日のことだ。小鳥の囀りに目を覚まし、いつも通り朝食を作ろうとキッチンへ続く通路の途中で、バスローブのカラ松が倒れているのを見つけた。
さっと背筋が冷える。白いバスローブの背中には、愛用の包丁が突き立てられていたからだ。床に広がる血の海、ぴくりとも動かない身体。死んでいるな、というのは直感でわかったが、わかったからといって混乱しないわけではなかった。
走りより、触れる。身体が冷たい。随分時間が経っている。蘇生も何も出来ない、と思って早々に警察を呼んだ。迷いは無かった。
警察を呼ぶには、百十番。二コールでつながる。何がありましたか、と柔らかな声。人が死にました、と言えば電話口の向こうが凍りついた。松野カラ松という男です。住所を続けて告げれば、通報者であるあなたの名前は、と尋ねられた。
「……一松です。松野一松」
案外、すんなりと名前を言うことが出来た。名乗ったのは何年ぶりだろう。わからない。カラ松に伝えたことはなかったが、同じ名字を持っていて、名前に同じ字を持っていた。今、向かいますから。冷静に。落ち着いて待っていて下さいね、と告げて電話が切れる。僕はしばらく電話の前でぼんやりと立ち尽くしていたけれど、カラ松の側に行こうと思った。
冷たくなった身体の側に立つ。床に、血文字でふくめんと書いてある。まず間違いなく殺人だが、心当たりがありすぎてわからない。
「カラ松」
名前を呼ぶ。当然、返事はない。
「カラ松……」
名前を、言いそびれてしまった。松野一松という僕の名前を知らないまま、あいつは逝ってしまった。いや、呼ばれなかった名前なら、そのまま知られなくてもよかったのかもしれない。
なら、ジェイソンという名前はどうなるのだろう。あいつにもらった名前だ。あいつが僕につけた名前だ。あいつしか呼ばなかった、僕の名だ。
「……知らなきゃよかった、お前の名前なんて」
カラ松という名前に、思いがありすぎる。嫌いでは無かった。むしろ心地よかった。もうお前の名前を呼ぶことが出来ないのなら、知らなければ良かった。最初から偽りの名を名乗ってくれれば、こんなことには。
ジェイソンと僕を呼ぶ声だけが、耳の奥に残されてしまった。