イラスト:しまだめりこ様 表紙デザイン:さかぽん様

【WEB再録】遣らずの雨もさかりては(15/05 発行)

曰く付きの景趣を入手してから本丸ではある事件が発生、兼定にもその兆候があることに気付いた堀川が先に手を打ち……。
雨、紫陽花、芽生え、がテーマです。堀川君が兼定を意識するきっかけのような。

 

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 最初に姿を消したのは薬研藤四郎だった。次いで蜻蛉切が消え、既に十日経っている。
 そして今朝、三日月宗近も姿を消した。
 点呼の際に姿が見えず、部屋まで行ってみればもぬけの殻。ぬかるんだ中庭を突っ切る足跡だけが残っていた。行きのそれはあるが、帰りのそれはない。その足跡が彼のものだろうと想像するのは容易いことだ。
 本丸内での失踪が三件目とあっては、誰もが不安と恐怖を膨らませる。何故かこんな状況になってなお、主は何も言ってくれない。異常事態でない、とでもいうように。
 不穏な空気に包まれた朝の本丸で、その空気を何とかしようと動いたのは、主と長く共にある歌仙兼定だった。
 数人が彼の部屋に集められ、息を潜めている。僕もその内の一人だ。
「皆も知っていることと思うが、三日月殿の姿が今朝から見当たらない」
 ざわついていた部屋が、凛とした声でしんと静まる。
 続けて、庭に足跡が残っていたこと、彼の履物がないこと、傘がないこと。今わかっていることを並べた上で、彼は一つの提案をした。
「総員での捜索でなく、数人での見回りをしよう」
 その場に集まった数人の顔を忍び見る。誰もが、それに異論を唱えない。次にいつ誰が消えるかわからない状況で、総動員するのは危険だと皆理解していた。
「二人一組、手がかりを見つけても深追いしないよう」
 二人、という言葉が出た時点で相棒である和泉守兼定は立ち上がっている。
 ちらと目線を上げれば、視線が絡む。それに頷いて返せば、その背は既に中庭へ向かって歩き出していた。彼の足跡を追う、と決めたらしい。
「僕ら、まず足跡を追ってみます」
「……深追いはいけないよ、いいね」
 まだ話は終わっていない、と言いたげな歌仙さんに小さく頭を下げ、誰がどこを見回るかと言う話し合いを背中で聞きながら庭先に下りた背中を追いかけた。
 本丸の中庭から先には二の丸や三の丸、曲輪は存在せず、ただ鬱蒼と茂る森へと繋がっている。
 森と言っても、小さな山程度のものだ。その森は、不思議なことにいつの間にか同じ場所――本丸に繋がる中庭や、長屋の奥――に戻るようになっている。何故そうなっているのかは、僕らも、主さんですらも知らない。
 だからこそ、行きの足跡しかないのは不自然なのだ。
 昨晩まで降りつづいた雨で出来た水たまりに足を取られながら、黙って歩く。半歩前を行く兼さんは何も言わず、ただ足跡だけを追っている。
 景色は殆ど変わらず、どれくらい歩いたかわからなくなる。奥へ、奥へと進んではいるが、いつ中庭へ戻されるか。どこで彼が消えてしまったのか指し示す足跡も、殆ど消えている。道も、獣道すらなくなりつつあった。生い茂る草木が時折髪や服に引っ掛かり、雫を落としていく。
「……見当たらねえな」
 ぽつりと前歩く兼さんが零した言葉に、僕は何も言うことが出来ない。頑張ろうよ、というのが無駄なのだと知っているからだ。こうして捜してはいるが、彼は見つからないだろう。僕には、確信めいた予感があった。
 彼も二人と同じように消えてしまったのだ。
「足跡、なくなっちまった」
 立ち止まる。花が落ち、緑鮮やかな桜の木の下に傘が一つ、落ちている。黒い傘だ。本丸で見たことのあるそれを拾い上げて、眺める。恐らく彼のものだ。
 戻ろう、と声をかける機会を失って、ただ立ち尽くす。
 本丸を出てどれくらい時間が経ったのか、振り返った森は薄暗くなったように見える。じっとりとした湿気が纏わりついて、鬱陶しい。額に浮いた汗を拭って、溜息をついた。
 頬に、ぽつりと粒が落ちる。続いて手のひらに、首筋と続いて、雨が降り出したのだとわかった。顔を上げれば、木々の隙間に重い色をした雲が見える。時間が経ったわけではない、ただ雨雲に日が遮られただけだ。
「またか、飽きずに良く降りやがる……」
 苛立ちを隠そうともせず、兼さんは空を睨みつけてから、来た道を戻りはじめる。これ以上得られる情報はない。足跡も途絶え、雨も降りはじめてしまった。この雨で足跡も完全に消えてしまうだろう。
 僕も同じように空を見上げる。生い茂る葉ではっきりと見えないけれど、雨粒が額に、頬にと落ちてくる。
 すぐに雨が降るのも、失踪騒ぎが始まったのも、主さんが新たな景趣を買って来てから始まった。一月ほど前のことだ。


 春の風が花満開の枝を揺らし、悪戯に花弁を散らしていく。はらはらと落ちるそれに何となく手を伸ばしたけれど、するりと逃げられてしまった。
 風に飛ばされていくそれを目で追いかけて視線を上げれば、新緑に萌える山々が見える。芽吹いたばかりの若々しい緑。
 人の身体を与えられたばかりの僕が言うのもなんだけれど、春らしい景色とはこういうものを言うのだろう。
「堀川、置いて行ってしまうよ」
「あ、待って下さい!」
 前を歩いていた主さんが振り返って僕を呼ぶ。ててと後を追いかけて、半歩後ろへ付いた。
「まだ慣れないかい」
「慣れない、というか……眩しい気がして」
 目を細めて山々を見ると、主さんは満足げにうんうんと頷く。青々とした山、淡く優しい色をした花たち、どれもが新鮮だった。人として触れるのははじめてだから、当たり前なのだけど。
 本丸は主さんの暮らす時代の技術で、快適な生活ができるように作られている。人の身体をもった僕ら付喪神にとって、四季で変わる日差しの強さや、じっとりとした湿気がどう作用するかわからなかったからというのが大きな理由らしい。
 だから、本来であれば本丸には季節が存在しない。
 それがなぜ今、満開の花々と、瑞々しい新緑に囲まれているのか。
 答えは簡単で、季節を生み出す仕組みを審神者自身が購入できるようになっているからだ。
 快適な生活をわざわざ変えるのだから、調律には大金がいる。けれど、ここにきてから日付の感覚がなくなってしまったことが恐ろしい、と主さんの口から聞かされると、例え不便になろうとも構わない気がしてくる。
 数多の時空へ介入し、歴史の改変を阻止し続けるという任務をこなす中、本丸だけは変わらない。繰り返される戦闘は、僕らと命の長さが違う彼には辛いものだろう。
 それが癒されるなら、多少の変化など気にはしない。僕たちもまた、前向きに人の身体で季節を楽しむことにした。
 先日手に入れた春の景色は、あたたかでやわらかい。咲き乱れる花々は見事で、何をするでもなく庭を眺めている人も多くいる程だ。
「おや」
 主さんが小さく声を上げ、手を振る。その先に、花見に興じていたらしい粟田口の短刀数人が立っていた。傍には、見事な枝垂れ桜。
 こちらに気付いたらしい彼らの中から、薬研藤四郎が一歩前へ出て主さんに声をかける。
「大将、お出かけか?」
「ああ、堀川にご褒美をやろうと思って」
 ちらと僕を見て、主さんは言う。
「遠征隊長さん、このところ大成功の連続だものなあ」
「いやあ僕は、前線の役に立てばって……」
「謙遜するなよ隊長、俺っちも鼻が高いぜ」
 目を細めて笑う彼との付き合いは長い。遠征、と言えば僕と彼とで組むことが多かったためだ。よく知った人に褒められるのは気恥ずかしくて、そわそわと落ち着かない。
「しばらくは太刀と打刀での遠征になるからね、労いさ」
 太刀が増えたのはここ最近だ。僕や薬研くんでは力が及ばなかった遠征も、彼らならこなせるのではと遠征部隊の組み直しが行われている。
 ぼったくりには気ィ付けてな、と僕に耳打ちしてひらりと手を振る彼に同じく手を振り返して、再び歩きはじめる。万屋までは、あと少しだ。
「こういうことはパアッとやってしまわないとね」
 主さんの足取りはうきうきと踊り出すようなそれだ。
 長く遠征隊長を勤め、任務を果たし、更には小判箱まで持ち帰って来た僕の成果が目覚ましいということで、ご褒美を与えるために、万屋へのお供を命じられたのは今朝のことだ。
「僕をダシにして、買いすぎないでくださいよ」
「君が活躍してくれたから懐は潤っているよ」
 釘を刺してみたけれど、ぽんと懐を叩くご機嫌な主さんにはいまいち響いていない。その上、いいことを思いついたとばかりに目が輝く。
 経験上、こういう瞳の時にされる提案はあまりよろしくないものであることが多いと知っている。
「お金が無くなったとして……あれだけ神様が揃っているのだから一儲け出来ると思うんだよね」
「罰があたりますよ、主さん……」
 苦笑を返すが、普段と変わらない口調に本気なのか冗談なのか区別がつかない。売るとしてどこに、と言うのは一時置いて、主さんの空想に耳を傾ける。
「例えば石切丸がお祓いしたお守りとか」
 神剣の魔除け守りなんかは人気が出そうだが、僕ら刀剣が持っても仕方がない気がする。そもそも魔を避けていては歴史修正主義者と遭遇出来ない気がするし、お守りはもっと平和な生活をしている人が持った方がいい。
「あと和泉守の髪も良さそうだね、あれだけ長いとたくさん念が込められる」
「髪、ですか?」
 そこで兼さんの名前が出るとは思わなくて、驚いた。
 兼さんの髪。人の身体になったときから長かったそれの面倒はもっぱら僕が見ている。編むのも、まとめるのも、案外楽しい。
「念を込める、ってどういうことですか?」
 どんどん歩いていく主さんに追いつこうと、小走りしながら尋ねた。
「媒介にしやすんいだ」
 丑の刻参りとかわかりやすいでしょう、という主はどこか意地悪い笑みを浮かべている。審神者、というのはどうもそういう知識に精通しているものらしい。
「でも伸ばすのって時間がかかるだろう? だから高く売れるのさ」
「売らないでくださいね?」
 兼さんは長い髪を気に入っているだろうが、執着はない。主さんから切っていいか、と聞かれたら簡単に頷いてしまいそうな気がする。
「今のところ、その予定はないから安心しておくれ」
 主さんは振り返って僕の顔を見てから、からからと笑う。どうやらからかわれただけらしい。
「ようし着いた、今日は堀川の欲しいもの探しだね」
 目の前にそびえたつのは一際大きな蔵。入り口には、誰が書いたのか、万屋という札が下がっている。
 ここに商人が居るわけではなく、政府の管理する貯蔵庫へつながっている。蔵の中から、資材であったり、甘味の材料を持ちだすと料金が発生するような仕組みだ。
 欲しいもの探し、と言われても特段何かを必要としているわけではない。資材の類は遠征で潤沢だし、甘味が必要なほど疲労しているわけでもない。
「うーん、でも僕は自分に出来るお仕事をしただけだし、ご褒美なんて……」
「いや!」
 主さんは万屋の扉を開きながら、怖い顔をして僕の方を振り返る。
「縁があって私のところに居るんだし、大事にしないと前の主にも悪いだろう」
 主は今あなただけなのだから、好きにすればいいのに、僕の中に残る前の主を尊重してくれている。いい主に会えた、と思うのはこういうときだ。
 重たい扉が開き、主さんはさっさと中へ入っていく。僕もそれに続いた。外から見たときは普通の蔵より一回り大きいくらいなのに、中に入ると終わりの見えない廊下と棚が続いているのには何度見てもどきりとする。
「私も適当に選ぶから、遠慮せずにね」
 無数に続く棚に圧倒されている間に、主さんは目当ての物を捜しに蔵の中を早足に進んで行く。
 やっぱり、ダシにされた気がする。何だか嫌な予感だ。適当に選ぶ、と言いながら迷いもせず奥に進んでいったあたり、目的の品はもう決まっているような気がする。
 主さんが大きな買い物をしてしまう前に、僕の欲しいものを見つけなくちゃいけない。棚を一つずつ覗き、品を手に取っていく。
 柘植櫛、髪結い紐、手入れ用の油。
 髪の話をした後だろうか、そういうものばかりが目につく。それを選んでもいいのだけど、あまりに相棒贔屓すぎる気がして、自分でもどうかと思うと手が迷う。
 小物の棚を離れ、甘味の棚を覗く。出来上がっているものもあれば、材料だけ置いてあるものもある。自分で作るのもまた楽しみの一つなのだろう。僕は台所仕事は苦手だから、出来上がっているものから選ぶことになる。
 棚の端に一つ、はじめて見るものがあった。桃色が葉で包まれたそれには桜餅、という札が添えられている。丸いものと細長いものが二つずつ入っていて、これなら相棒にお裾分けも出来そうだ。
「おや桜餅、珍しいね」
 いつの間に現れたのか、主さんが僕の後ろからそれを手に取ってしげしげと眺める。
「堀川が欲しいのはこれ?」
 はい、と返事をすれば主さんはそれを持って、満足げに頷く。彼は、僕らが食べる姿を見るのが好きらしいのだ。人間っぽくていい、とか言われたことがある。
「じゃあ帰ろうか」
「はい、僕荷物持ちますよ!」
 返事をしてから主さんの手元を見ると、桜餅の他に紫色の珠を一つ持っている。
 見慣れないそれをじっと見つめていると、視線に気付いたのかくすくすと笑われてしまった。少し恥ずかしい。
「これは新しい景趣」
「……主さん、それ買っても大丈夫ですか……?」
 景趣は、本丸の四季を調律する仕組みだ。眩暈がするほど高価なのはよく知っている。それこそ、桜餅とは桁の数が違う。
「これ、何だかお安いみたいだから」
 紫の珠にぺたりと貼られた値札には、元の値段に赤線が引かれて、半分以下の値段がついている。ここまで値引かれていると何か理由があるのではと思うが、ご機嫌な主は気にしてもいないようだ。
「春は楽しんだからね、明日から梅雨にしてみよう」
 そう言うと、主さんは出口へ向かって颯爽と足を踏み出す。持ち出せば、それは購入と見なされてしまう。半値以下と言えど、零の数はそれなり。遠征で成果を出せども、演習で結果を出せども、容易にその額が集まらないことは知っている。
「せめて歌仙さんに相談っ……!」
「相談したら買わせてくれまいよ、勢い勢い」
 待ってと言う間もなく、それは主さんのものになってしまった。近侍の歌仙兼定の怖い顔がすぐに思い浮かんで、消える。雷を落とされるかもしれない。
 追いかけて外に出ると、まず手渡されたのは件の桜餅だ。僕のものなんだ、と思うと少し嬉しい。だが、それより今は新しい景趣について聞いておかなくては。
「そんなに値引きされてるなんて、変ですよぉ」
「訳ありだろうが、曰くつきだろうが、出会ってみなければね」
 早速その珠を天にかざし、ぼそぼそと何かを呟く。言葉が鍵になっているようで、天が一瞬きらりと光って返事をした。
「堀川、桜餅を食べるなら今日中に」
 明日には桜も散りはじめるからと笑い、来たときより更にご機嫌な足取りになった主さんの背中見送る。
 何もないといいのだけど、と空を見上げる。風に舞う花びらの数が、いつもより多いように感じた。


 その日の夜、近侍にしっかりがっつりと締められたにも関わらず、主さんはご機嫌だった。
「暖簾に腕押しってこういうことさ」
 そう言ってぷりぷり怒る歌仙さんの姿にはつい笑ってしまったけど、買ってしまったものはしょうがないと場が収まってほっとした。
 僕はと言えば、桜餅のお裾分けに兼さんの部屋を訪れている。
 風が強い夜で、月にかかる雲がどんどん流れていく。桜が、梅が、花弁を落として、それを休むことなく風が運んで行く。さながら嵐のようだった。
「桜餅ねえ」
「桜の葉で包んであるんだって、甘くてしょっぱい」
「悪くねえ」
 新たな味覚を楽しみながら、庭を見る。春の景色は急速に終わりを告げ、新たな季節が訪れようとしている。
「次は梅雨だってな」
 桜餅を齧りながら、兼さんも同じように庭を見る。食べるときに邪魔になる、と髪を耳にかけるようになったのは最近だ。耳から首筋、項までの流線が好きでつい見つめてしまう。
「梅雨ったァどういうもんなんだ、知ってるか国広?」
「さあ、僕もはじめてだから……」
 残った桜餅を摘まんで、口に運ぶ。細長い方が僕は好きかなと呟けば、兼さんも同じだったらしくくすりと笑った。
「時々不便だけどよ、楽しいな」
「……そうだね」
 曰く付きの景趣だったことは、僕しか知らない。何も起こらないといい、ただ楽しめれば。
「甘味に酒は合わねえな、茶飲んで寝るか」
「僕、淹れてくる」
 廊下に出る。遠くから、蛙の鳴き声がする。空気がどこか重い気がして、不思議な感じだ。
 その夜のうちに、春は終わってしまった。


 本丸が梅雨を迎えてしばらく、庭の様子は一変した。桜や梅は瑞々しい葉をつけ、いつのまにやら中庭には藤棚が出来ている。しゃくなげの花が開き、紫陽花が藍に紫にと染まっていく。
 それを見事だと楽しめたのは最初のうちだけだ。
 僕らを苦しめたのは、長雨の湿気だった。むしむしする日と肌寒い日、それに交互に襲われて随分悩まされた。そのまま一月ほど過ごし、各々が過ごしやすい服装なり場所を見つけた頃、薬研藤四郎の姿が消えた。
 酷い雨の日だった。僕はたまたま非番で、部屋で休んでいた。兼さんも非番なら手合せなり何なりで暇をつぶすには事かかないのに、残念ながら彼は練度の高い太刀が必要な遠征に駆り出されている。
 暇を持て余して、部屋の隅から隅を掃除して一休みしていた夕方過ぎ、五虎退くんが僕の部屋を訪ねて来た。そわそわと落ち着かず、視線を彷徨わせている。
「堀川さん、あの……薬研くんを見ていませんか?」
「今日は見ていないけど……何かあった?」
 見ていないと言う間に、彼の大きな瞳が涙で満ちる。ただならぬ様子に、詳しく聞けば、今朝から姿が見えないのだと言う。
 雨の中、散歩でもしているのかもしれないと兄弟たちと話していたけれど、夕餉過ぎても戻らない。その上、外の様子は大荒れ。
 もし帰れないような怪我をしていたらと想像したら、いてもたってもいられなくなってしまい、本丸を探し回っていると聞いて、放っておくことは出来ない。
「僕、一緒に探すよ」
「あっ……ありがとう、ございますっ!」
 今にも泣きだしそうだった顏がぱっと笑顔に変わる。
「主さんには言った?」
「まだ……」
 小さく首を振る彼の肩を軽く叩き、僕の部屋を出る。外出にしても、この時間まで連絡なく戻らないなんて、今までにないことだ。主さんに報告は必要だろう。
 それに、まず確認すべきは遠征の編成だ。時折、主さんが指示を間違えて本来行くべき人が編成されていないことがある。彼は僕と共に遠征に行っていたから、指示間違いで連続した遠征になることも珍しくなかった。
 主さんの居る部屋には、その日の近侍から主力の部隊、遠征部隊に内番の担当者が開示されている。名前の入れられた札がそこにかかっていたら担当、という簡単なものだが、誰が見てもわかるから重宝していた。
「もうすぐ帰ってくると思って……」
「うん……入れ違いになってるだけなら、いいんだけど」
 そうじゃなかったら大事だ。励ましながら、主さんの部屋を訪ねる。この部屋は常に解放されているから、自由に出入りが出来る。
「主さん、堀川です」
「五虎退です、入りますっ!」
「どうした、騒がしいね」
 訪ねて来た僕と五虎退くんを見て、主さんは不思議そうな顔をしている。事情を話すと、ふうんと首を傾げた。
「薬研藤四郎は、今日どれにも割り当てていないよ」
 主さんの言葉通り、彼は遠征隊に含まれていなかった。もちろん内番にも組み込まれていない。
 五虎退くんは極度の不安のためか、ついに涙を零してしまった。主さんがその頭を撫でながら、近侍の歌仙さんを呼ぶ。
「本丸の内部は私にもわからない、どこかへ紛れ込んでしまったのかもしれないね」
 主すら本丸の構造を知らないとあっては、僕らじゃ太刀打ちできない。呼ばれて来た歌仙さんも、腕組みをして難しい顔をしている。
「あの、薬研くん……庭を気にしていたから、中庭から散歩にいったのかもしれないです……」
 ちらと外を見る。硝子窓に叩きつける雨粒と、轟々と吹く風の音。今日は蛙たちの合唱も聞こえない。本丸の中はとにかく、この雨では外を探すことは難しい。第二、第三の被害者が出てもおかしくないくらいだ。
 どうしよう、としゃくりあげる彼の頭を撫で、主さんは僕と歌仙さんへ目配せをする。
「とりあえず待とう、明日の朝から捜索隊を出す」
 朝になれば、遠征部隊も戻ってくる。それを待つ、と指示して主さんは離れの自室へ帰って行く。ぱらりと傘が開き、庭の先へ消えて行った。
 ぱらぱらと集まりはじめた他の粟田口の彼らには、歌仙さんから説明がされている。皆、見つけられなかったことに肩を落とし、互いを支え合うように身を寄せ合っている。明日、と祈るように呟く彼らの肩を軽く叩き、僕もその場を去った。
 本丸には、刀が二十一振りに槍が二本。短刀が一人欠けているから、二十二の手勢だ。不安一杯の短刀らを捜索に出して二次被害を出さないように、と考えれば実際に動かせる人員は十人程度。
 恐らく、僕も捜索隊に配属されるだろう。ぬかるんだ山道を歩くのは中々に骨が折れる。早めに休んで備えておかなくては。
 遠征から帰る兼さんを迎えてやれないことが小さく胸に引っかかっている。
 遠征部隊が戻る時刻は不規則で、迎える人が居ないことが多い。おかえり、と一言あるだけで疲れは解せるのだと僕はよく知っているけれど、今日はそうもいかない。
 目を瞑る。例え眠気が未だ訪れなくても、休んでおいたほうがいい日というのはある。いざというときに動ける身体にしておくことも必要なのだ。
 外は、未だに風が轟々と鳴っている。止まない雨に、せめて薬研くんが震えていなければいいと思った。


 翌朝、やはり薬研くんは戻っておらず、戻って来た遠征部隊を加えての捜索隊が組まれ、僕と兼さんは槍の二人と共に中庭から繋がる森へ向かうことになった。
 昨日の荒天は何だったのかと思うほどの快晴が広がり、朝方止んだ雨のせいでじっとりとした空気が纏わりつく。額に浮かぶ汗を拭って、顔を上げた。
「山に入っていったのかねえ」
 先頭を歩く御手杵さんが草を踏み倒してどんどん進んでいく。僕がそれに続いて、少し離れた後から兼さんと蜻蛉切さんが続く。僕らは道を開いて、彼らは探す。そういった役割分担だ。
「庭を気にしてたって聞いたんです」
「庭か……」
 花しか咲いてないだろうに、と言って更に前へ。昨晩の雨のせいで、足跡も碌に残っちゃいない。本丸の傘が一つなくなっていたから、外に出たのは確かだ。けれど、どこへいったかは全く手がかりが残っていない。
「確かに近頃、よく見かけたな」
「何か変わった様子とか、ありました?」
 足がぴたと止まり、腕組みのまま首を傾げる。
「藤棚まで傘持ってって、そのまま帰ってきてた」
「藤を見に行ったわけではなくて?」
「おう、雨降ってたのに傘ささねえんだなって思ったから、覚えてる」
 誰かが藤棚にいたのだろうか。そのまま帰って来たということは、見間違いか。今回の件に関係がありそうな気はするのだが、結びつきが全く見えない。
 再び歩き出し、背の高い草をかき分けた先に開けた場所があった。泉が湧いているらしく、涼しい風が吹いている。
「あ、おい堀川、あれ」
 御手杵さんの指さす先に、本丸備え付けの黒い傘が落ちている。
「兼さんっ、傘、見つけた!」
 後ろに向かって叫び、二人を呼ぶ。そっちへ行く、という返事を聞いてから、僕はその傘の元へ走る。御手杵さんが先にその傘を拾い上げ、しげしげと眺めていた。
「壊れちゃいねえな」
「……開きっぱなしで放るなんて、何かあったのかな」
 追いついた兼さんも傘を覗き込んで、首を傾げる。傘の持ち手は、落ちた衝撃でか泥が跳ねて汚れている。
「こんな風に物放っておくような奴じゃないだろ」
「何かに襲われたとか、どこかに足を取られて傘を手放したとか……」
 悪い想像を口にすると、ぴりと空気が張り詰める。
 鳥や兎なんかを見かけることはあったが、大型の野生動物がいるという話は聞いたことがない。とはいえ、普段入らない場所にいるのだ。何がいてもおかしくはない。それに、見えない場所に崖があって落ちたとか、そういうのも十分考えられた。
「自分が周囲を確認してきます」
「じゃ、俺はあっち見てくる」
 槍の二人がぱっと散る。僕は傘を持たされたままだ。
「兼さん、これ持ってて」
「俺がお留守番かよ」
 つんと唇を尖らせる仕草がどこか幼く見える。兼さんは、こと細かに調べ上げるというのはあまり得意じゃない。僕がそこを受け持たないと、という思いがあった。
「だって兼さん、偵察苦手でしょ」
「……このあたりに手がかりないか、見ておく」
「任せた!」
 傘を託して、僕も周囲の様子を探る。
 本丸の中庭から続くこの森もまた未来の技術で出来ているからか、不思議なことが多い。
 森といっても、どこか雑なのだ。不規則すぎる、と言ったほうがいいだろうか。唐突に泉が湧いていたり、ぶつんと木々が途切れて竹林になっていたりする。まるでつぎはぎだ。恐らく、本丸のおまけだからだろう。だから突然崖が出てきても、穴が出てきてもおかしくない。
「……藤が多いなあ」
 木に巻きつく蔦を辿っていくと、薄紫の藤が目に入る。庭に出てよく眺めていたらしいが、それで森にまで来るだろうか。庭で十分楽しめるんじゃないかと思っても、本人がいない以上その理由はわからない。
 周囲を探ることしばらく、危険な場所は見当たらなかった。勿論、薬研くんの姿もない。あるのは新緑の木々と藤の花、蕾の紫陽花くらいのものだ。
 泉まで戻ると、同じく周囲を探っていた御手杵さんが戻っていた。兼さんと一緒に地面にしゃがみ込んでいる。表情を見るに、情報を掴んだわけではなさそうだ。
「国広、何か見つけたか?」
「ううん、藤が咲いてるくらいだった」
 そうか、と兼さんが俯くと途端に沈黙に支配される。
 時間ばかりが経って、手に入れた情報と言えば傘くらいだ。姿も見当たらない。
「神隠しとか、そういうのかなって話してたんだよ」
 沈黙を破るように、御手杵さんがぽつりと呟く。付喪神が神隠しに会うなんて聞いたこともない。
「何か、見つかりましたか」
 背の高い草をかき分けて、蜻蛉切さんが姿を現す。黙って首を横に振れば、彼も肩を落とした。
 溜息と共に視線を地面に落とすと、ぱっと一瞬白い光が見えた。続いて、ごろごろと唸るような音。急に冷たい風も吹きはじめた。顔を上げれば、青空はなく、不穏な雲がこちらへ広がりつつあった。
「俺のせいかなあ……」
 雨男なんだ、と頭を掻いて御手杵さんがのっそりと立ち上がり、見つけた傘を拾い上げる。
「雷が来たら厄介だぞ」
 兼さんが視線を巡らせる。切り上げよう、と言葉に出さずに伝えている。先に立ちあがった御手杵さんが小さく頷き、一番最初に動き出した。
「自分は少し、気になるところが」
 蜻蛉切さんは横目で泉の近くを見る。そのあたりは兼さんが既に調べた後だけど、どうも引っかかるところがあるらしい。降りだす前に手分けして探すべきか、人員を分けるべきか一瞬悩む。
「付き合うよ、二人で探した方が早い」
 傘を持っていた御手杵さんがくるりと向き直り、兼さんへ傘を託した。
「僕らも一緒に」
「いや、まず傘が見つかったっていうのを伝えたほうがいい」
 他にも情報が集まっているかもしれないし、と言って二人は走っていく。そう言われると、僕らはここを下りるしかない。
「あればあるだけ役に立つ、行くならさっさと行こうぜ」
 どうしようか、と聞く前に兼さんは草をかき分け、下りはじめている。
 情報集めは迅速、かつ正確に。前の主の性格が移ったかな、と思いながら僕もその後に続く。同じことを考えていた、と言う機会は逃してしまった。
 山を降りる途中、兼さんが一度振り返る。つられて振り返れば、山の中に一瞬藤色が見えて足を止めた。藤の花にしてははっきりしすぎている紫だった。
 あれは何だ、と考える間を奪うように、雷光が僕の目に飛び込んでくる。続けて頬を打つ雨。音は未だ遠いけれど、うかうかしていられない。
「国広、さっさと行くぞ!」
 手元の傘を使うわけにもいかない、兼さんは足早に道を進む。藤の花が眩しく見えたのかもしれない、自分にそう言い聞かせてその背中を追いかける。髪を留める赤い紐が揺れて、生き物のように見えた。


 本丸に戻り、情報の共有をする。傘を見つけたこと、付近に薬研藤四郎が見当たらなかったこと、二人がまだ残って探していること。
 報告を済ませる間にも、外の様子は朝とすっかり変わってしまった。引っ切り無しに空が光るし、時折大きな音がする。
 ここには雷が落ちない、と主さんは言っていたけれど何だかそわそわする。二人が戻るまで休む気にはなれなくて、出迎えようと主さんの部屋に控えさせてもらった。
 どれくらい待っただろう、廊下の方からわっと歌仙さんの声がした。何事だろうとそちらを見れば、びっしょりと濡れた御手杵さんが立っている。常は立っている髪も濡れてぺったりと落ち、顎先からは雫が滴る。廊下にはくっきり足跡が残っていて、なるほど悲鳴の原因はこれだと知った。
「ひっでぇ雨だぜ、全く」
「おかえりなさい、蜻蛉切さんは?」
 一緒でないことに気付いて訪ねるも、御手杵さんは目を丸くして主さんの部屋を覗き込む。当然だが、ここに蜻蛉切さんはいない。一緒に帰って来たものだと思っていたのだが、様子がおかしい。
「帰ってきてないのか?」
 訝しげな表情と、僅かに青ざめた顔。まさか、と不安に揺れる声。
 それを見て、僕たちはようやく本丸から消えたのが二人になったことに気付いた。


 蜻蛉切さんが消えて既に一週間、未だ二人は戻らない。
 主さんは、本丸の境界の隙間にでも入ってしまったんだろうなんて言っている。皆は心配するな、と言われても、姿が消えてしまったのに無茶な話だ。帰ってくるはずの人が戻らないというのは、辛い。
 二人が消えてから、僕らは朝と晩の点呼をするようになった。全員が揃っているとほっとする。寝つきが悪くなった粟田口の兄弟たちが、大部屋に揃って眠る姿も見慣れた。
 それと、兼さんが雨の庭をよく眺めるようになった。その姿を見ていると、僕は何だか落ち着かない。理由らしい理由はないから、やめてということも出来ない。
 今日もまた、同じ場所から庭を見ている。囁くような雨の音を聞きながら、身じろぎひとつしない。
 細められた目はどこを見ているかわからない。睨んでいるようにも見えて、何を見ているか知りたいと思った。
「何を見てるの?」
 兼さんの背中に回って、視線が同じところへ届くように庭を見る。急に後ろから声をかけたからだろうか、兼さんの肩は大げさなくらいびくりと跳ねる。
「な、何でもねえよ」
「本当に? 僕をほったらかして庭ばかりなのに」
 あからさまに拗ねて見せると、くすりと笑ってくれた。本丸は静まりかえっていて、こういった笑い声もあまりないから貴重だ。
 ちらと庭を覗けば、雨の中にぽつんと藤色の傘が見えた。誰の傘だろう、あまり見かけない色をしている。誰か庭先に出ているのだろうか。
 藤色の傘は、庭の奥へと消える。そろそろ朝の点呼の時間なのに、これでは全員が揃わない。
「兼さん、僕、ちょっと庭に出てくる」
 部屋を出て、庭への最短の道を走る。誰かがうっかり、点呼の時間を忘れたのかもしれない。点呼で全員が揃っていないと、その日の出陣も遠征も、内番も止まってしまう。一人のうっかりで本丸は停止するのだ。
 ただでさえ、失踪騒ぎで成果が芳しくない。主さんの戦績に響くだろうことは想像出来るだけに、声掛けは必要だと思っていた。
 この角を曲がれば、庭に下りられる。つっかけに足を突っ込み、音はないけれど雨が降っていたことを思い出す。このままいくと足が濡れるなあ、と一瞬考え込んだところで、誰かの手が僕の背中を叩いた。
「うわッ」
 驚いた。気配が無かったのだ。背後に誰か立っていれば気が付くのに。振り返って手の主を確かめれば、天下五剣たる三日月宗近の姿があった。
「好んで雨の庭に居るのだから放っておけ」
 本丸にいる太刀の中で、最も古い時代から存在する彼は口元に柔らかな笑みを浮かべている。本丸に迎えたのは最近だが、柔らかな雰囲気ですぐに馴染んでいた。
 実のところ、僕は彼が苦手だ。何を考えているか全く読めない。今だって、気配に気付けなかった。
「点呼とやらではあれも数えたぞ」
「それなら……いい、のかな」
 声をかけられた一瞬の間に傘を見失ってしまった。点呼で数えてあるのなら、わざわざ連れ戻す必要はない。強い雨でもないし、雨の中過ごしたい日もあるだろう。
「せっかくここまで来たのだ、茶に付き合わんか?」
 和やかな微笑みを浮かべ、手招きをされる。出来れば断って兼さんのいる部屋に戻りたいところだが、咄嗟に断る理由を作れなくて、呼ばれるままに頷いてしまった。
 中庭から彼の部屋は程近く、藤棚よりも紫陽花がよく見える。彼の青に影響されたのか、淡い水色の花が多いように感じた。赤と青と、何が原因で花の色が変わるのか、誰か知っているだろうか。
「おれは人の身体になってからこれをするのが好きでな」
 彼の部屋に通され、ふかふかの座布団を渡される。好きに座れ、と言ったところだろう。部屋の構造は同じはずなのに、生活する人が違うだけで全く違う印象になるのは不思議だ。
 どうやら湯を沸かして来た帰りだったらしい。手に持つ鈍色の水柱は主さんから贈られたものだ。不思議なことに、それに入れるとお湯が暖かいまま何時間ももつ。
 堅苦しいお茶の席は苦手で、どうしたものかとただ庭を眺めて過ごせば、差し出されたのは抹茶でなく普通のお茶だ。茶菓子も主さんがよく僕らにくれるようなそれをうきうきと並べていく。
「火傷をするなよ」
「ありがとう、ございます」
 お茶を受け取り、口を付ける。暖かいそれを飲んではじめて、身体が冷えていたというのに気付いた。
「身体を冷やすと風邪をひく、お前が倒れると相棒が心配するだろう」
 風邪なんかひいてんじゃねえよ、と笑い飛ばされそうな気がする。もう一度お礼を言って、茶碗を手で包む。思ったより雨の日というのは身体が冷えるものだ。
 しばらく、さらさらと囁き流れる雨の音を聞きながら、庭を眺めた。話題らしい話題もない、持て余す沈黙の空気。茶を飲み終えたらしい三日月さんが顔を上げ、僕と目を合わせて目を細めた。
「雨にまつわる曰くというのを知っているか?」
 すぐにこの景趣のことだと理解出来た。主さんが手に入れたときにはすでに、曰くのある状態だった。
「いえ、僕は……そういうのあまり詳しくなくって」
 彼は新たにお茶を入れ直して、話を続ける。
「古臭い話さ、おれが古臭いというのだからここにいる大半は知らないだろうな」
「どういう話なんですか?」
「雨降りの中、外を歩いていると傘を持つ人が一人」
 彼は棒状の菓子を傘に見立てて、人差し指に沿わせて立てる。両方の指に沿えて、二本。自分の他にもう一人、と言うことだろう。
「誰だろう、と覗きこむと……もう会うことの出来なくなってしまった縁者がいる」
「えん……?」
「自分に関係のある人のこと、前の主とかな」
 前の主、と言われてぎょっとする。幻の類なのだろうか。ただ立っているだけなら、蜃気楼みたいなものだ。
「その傘に招き入れられると、どこかへ連れて行かれてしまうのだ」
 菓子を立てた両方の指が近づいていき、こつんとぶつかったあとにどちらも彼の口の中へ消える。なるほど、それを聞くと今起こっている失踪事件も説明が出来る。雨の日の幻が、前の主の姿を借りて出てくれば心が動く人もいるだろう。
 問題は、何故その話を僕にしたのかということだ。
「何が、言いたいんです?」
 彼は菓子を飲み込んだ後、ゆっくり茶を啜ってから僕の目を見る。言いたいことはわかるだろう、と言わんばかりのそれだ。
「君も、君の相棒も、気を付けたほうが良い」
「……ご忠告、ありがとうございます」
 手のひらで包んでいた茶碗の中身を一気に煽り、彼の部屋を出る。温くなったお茶の苦味は、僕の胸のささくれを癒してはくれなかった。


「遅かったな、庭になんかあったのか?」
「ううん……」
 部屋に戻れば、いつもと変わらない兼さんがいる。出陣も遠征もなく内番の当番でもない。そういう日は、窓辺で日がな兵法書を広げている。
 首を振ってぐったりと座り込めば、本を伏せて顔を上げる。怪訝な顔だ。
「ちょっと走ったらくたびれちゃった」
 誤魔化しになっているかはわからないが、苦笑と共にそう言えば極めて真面目な顔で、手合せでもするかと言い出す。兵法書で見たあれこれをやりたがっているのもあるだろう、もうしばらく後でと先送りにした。
 伏せた兵法書を取る前に、一瞬彼の目が庭先に向いた。嫌でもさっきの話を思い出してしまう。
「最近よく外見てるね、雨、珍しい?」
「まあ、それだけじゃねえけど」
 外を覗き込む。隣に並んで、一緒に。中庭を流れる一本の川に沿って咲く紫陽花に寄りそうように、その花の色と似た傘が一つ咲いている。
 雨の曰くを聞いて、薄々気付いていた。本丸にない色の傘と、いつも庭のどこかへ立つ姿。
 あれか、と思うけど今は行動に出るべきじゃない。どうやってその幻を消したらいいのかも、わからない。
 兼さんは、雨の中知らぬ誰かについていくような人じゃない。でもそれが前の主ともなれば、僕だってどうなってしまうか、予想が出来ない。今の主への気持ちと、前の主への気持ちは全く別のものだから。
「兼さん、手合せ付き合ってくれない?」
「やる気になったか」
 伏せた兵法書をちらと見て、意気揚々に兼さんは立ち上がる。やりたいことがたくさんあるのだろう。楽しそうで何より、と喉の奥でくすりと笑う。
「……何笑ってんだよ」
「別に?」
 新しい知識を得るのも、手合せを好むのも、兼さんの中に残る前の主が影響している気がする。無意識にだろうが、僕にはそう見える。
 だからこそ、幻とはいえ前の主に接触させたくない。函館のあの戦場で、遠くに姿を見つけて感極まったくらいなのだ。熱に動かされ、迂闊に傘に入ってしまえばもう戻れない。
 曰くの正体を知ってしまった以上、僕がどうにかしなくては。
 覚悟をひとつ決めて、今はとにかく庭から遠ざけた。降りつづけていた雨は一時止み、一瞬の晴れ間が射していた。


 そして三日月宗近も、消えた。
 捜索は雨で切り上げられ、今日も飽きもせず雨が降っている。途切れることなく降る雨は、全てを濡らし尽くすまで降りつづけるのかもしれない。
 あの話は僕に聞かせると同時に、己へ言い聞かせていたのだ。連れて行かれる、そうわかっていても人の身体を持った今、感情という衝動に従えば仕方のないことだと想像できる。
 まだ点呼も始まっていない朝早く、僕は主さんの部屋を訪ねていた。彼の朝は僕らよりずっと早い。上に進軍状況を報告する義務があるから、と以前聞いた。
「堀川、今すぐ戦場に行きますって顔だね」
 意見するのに、寝間着や内番をこなすときのような恰好は出来ない。出陣する時のそれを揃えていた。勿論、腰には僕の本体である脇差も差している。
「主さん、景趣を変えてください」
 そう切り出すと、主さんはきょとんとした顔をして、首を傾げる。そうする理由がわからないと言うように。
「一連の失踪事件、この景趣の曰くのせいですよね」
 僕は知っている。今までそれに結びつけなかったのが不思議なくらいだ。主さんは誤魔化すのを諦めたのか、小さく溜息を吐く。
「まだ変えられない」
「どうして……?」
 主さんは目を伏せる。拳を作り、それを解き、足を組み替える。言葉を選んでいるらしかった。言いたくないことなのかもしれない。けれど、これ以上誰かが連れて行かれるのは嫌だ。それが兼さんに及ぶかもしれないとわかっていたら、なおさら。
「堀川は傘が見えるかい? 見えるだろう?」
 沈黙を返事の代わりにして、じっと主さんを見つめる。僕らの不安を汲んでくれないかと、思いながら。
「……まだ私には見えないんだ」
 部屋の戸は常に開かれている。そこからは、庭がよく見える。僕は何度も見かけているその幻を、主さんはまだ見られていないのだと言う。
「だから、すまないけど」
 これは譲れないから、と会話は打ち切られる。主さんは僕に背を向けて、上へ送る資料の作成へと戻ってしまった。
 理由はわからないが、何を言ってもその意志を変えるのは難しいということだけは理解出来た。
 僕に出来ることは、いざというときに引き留めることだけだ。そうとわかれば、僕が居るべきはここではない。頭を下げて、主さんの部屋を出た。


 主さんの部屋から近く、三日月さんの部屋の前に見慣れた人の姿がある。下で一つにまとめた黒髪、襷掛け。これから畑か馬の世話があるらしい兼さんが、じっと庭を睨んでいた。
 ここから離れさせたい。どう言えばいいだろう、迷いながら近づくと、彼の視線が何かに注がれているのに気付いた。
 追いかけた視線の先には、件の傘がある。距離も近い。接触は、まずい。
 もし主さんが景趣を変えることを許してくれなかったら、直接それと対峙するつもりだった。それが早くなっただけだと腹を決め、つっかけの隣に並べていた自らの靴に足を突っ込み、傘も差さずに庭を走る。件の傘はいち早く、庭の奥へと走り出した。
「国広っ!」
「兼さんは、ここで待ってて!」
 来なくていい、僕だけで終わらせる。慌てた声が追いかける気配がしたけど、振り返って一度吠えた。呆気にとられたような兼さんの顔に一瞬怯むけれど、まずはあの幻を何とかしなくては。
 いくら前の主をしていても、幻だ。幽霊を斬った刀もあるって話もあるくらいだし、まずは当たってみなければ。それが僕に出来るかどうかはわからないとしてもだ。
 雨の中、藤色の傘は僕がついてきているのがわかるのか早足で森を抜けていく。
 前の主も足は速かった。恐ろしく健脚だった。それに、こういう入り組んだ地形を使うのにも長けていた。
 きり、と奥歯噛む。幻とはいえ、そんなところ似せなくていいのに。
 傘がぴたりと止まり、振り返る。そこでやっと、傘の下にいるのが誰か、はっきりと目で見ることが出来た。
 人の身体をもって、それを夢見なかったわけではない。主の一部として活躍した脇差としてでなく、主の傍に、手足として、兵として立つことが出来ていれば。そうすれば、あの戦は。
 頬を叩く。濡れた髪から、雫が落ちた。あれはもう終わった戦だ。頭を冷やさなければ。
 幻は傘を肩にひっかけて僕を見ている。むっつりと引き結ばれた唇も、涼やかな目元も、記憶にある主の姿と一致していた。
 付いて行く、という選択肢はない。これは幻なのだから。迷いがあるのは、斬れるかということだった。
 歴史を守るということは、その死を看取ると言うことだった。間接的なそれと、直接手を下すのは、全く意味が違う。
 己を抜く。鞘は手放さない。じりじりと距離を詰める。持つ手が僅かに震えている。戦場ではこんな震え、感じたこともなかったと言うのに。
 ぱらぱらと傘に雨が跳ねる音だけが聞こえる。上手く呼吸が出来なくて、息を呑んだ。
 沈黙を破ったのは、水溜まりを思い切り踏む音だった。釣られて振り返れば、置いて来た兼さんがいる。
「かね、さん」
 漏れる声は、我ながら震えていた。兼さんは、傘を持つ人の姿を見て目を丸くしている。その唇の形が前の主の名をかたどって、音は雨にかき消された。
「行っちゃ、駄目だからね」
「……誰が行くかよ、納得いったぜ」
 先に消えた三人はどれも、前の主について思うところがあったのだろう。それぞれの以前の主と、彼らの性格を考えれば簡単なことだった。
 兼さんは濡れた髪を払いながら幻を睨み、腰のあたりまで視線を下げて、目を細めた。
「なるほどな」
 口端を吊り上げて笑う。何かに気付いたらしいが、僕には検討がつかない。
「そりゃ、手を貸したくもなる」
「どういうこと?」
「いいから、それ貸せ」
 鞘から抜いた僕のそれに向かって手を伸ばす。そのまま、左手で一つに結んで前に垂らした髪を更にまとめる。
 まさかと声を上げる前に、その髪はばっさりと切り落とされた。驚きで声が出ないのは、はじめてだった。
「ありがとよ」
 幻を斬れるか、と少し前まで切迫していた僕はどこへ行ってしまったのか。受け取ったそれを鞘に戻すことが精一杯だった。
 兼さんはまとまった髪を手に、それに念を込める。装備を作るときと手順は同じだ。媒介に対して己の思う形に整えていく。淡い光に包まれ、姿を変えたそれは見慣れた相棒の元の姿をしていた。
「これ、貰うぞ」
 襟を留めていた胸のリボン抜いて、それも同じように念を込めていく。今僕の手に持つそれと、全く同じ見た目の脇差が形作られた。
 そこでやっと、前の主を模した幻が脇差すら差していないことに気が付いた。
「脇差も太刀もないんじゃ、武士としては辛いだろ」
 二本を揃えて、兼さんはその傘へ近づいていく。さっと血の気が引いた。連れていかれたら、と言う不安に襲われて、追いかけて裾を掴む。
「夢でも幻でも、俺たちを持ってて欲しいって思っちまうんだな」
 兼さんはそう言って、前の主にそれを手渡した。鋼で出来ているわけじゃないから、模造刀でもない、ただ概念と見た目だけのそれだ。
 それでも、受け取った彼の顔がどこか笑っているように見えた。
 それを腰に差して、傘は森の中へ消えていく。しばらく、濡れた落ち葉や砂利を踏む音がしていたけれど、いつのまにかそれも消えてしまった。
「帰るか」
「……うん」
 頷いて、前を歩く兼さんに続く。
 拍子抜けだった。幻はあっさりと去り、前を歩く兼さんの髪はもう揺れない。僕は頭からつま先までびしょ濡れで、どこもかしこも冷たい。色々なことがあって、まともに何も考えられない。ただ、雨音だけを聞いていた。


 僕たちが帰ってから、主さんは景趣を使うことを一度やめた。何しろ、二人とも雨に長時間打たれて、人間でいう風邪の症状で三日も寝込むことになったからだ。
 寝込んでいる間に、行方がわからなくなっていた三人がそれぞれ戻ったと聞かされた。どこにいたのか、何をしていたのかは答えなかったと言うことも。
 一時とはいえ、前の主と過ごした時間はどうだったのか聞いてみたい気持ちもあったけれど、僕もそこまで野暮ではない。
 何とか起き上がれるようになって、やっと兼さんと顔を合わせた時、まず最初にその髪を何とかしなくてはと思った。適当にまとめて切り落としたからだろう、全体的に偏っている。季節のない本丸だから、庭先で髪を切るくらいは容易い。
「兼さんは座ってるだけでいいから」
 袋に穴をあけて頭から被せ、合羽のようにしているのがどうも気に入らないらしく、へえへえというやる気のない返事が返ってくる。
 黙ってざんばらになった髪にはさみを入れていく。同じ兼定だし、歌仙さんのようになればかっこいいかなと少し迷いながら。
 熱に浮かされながら、ずっと抱えていた疑問がある。髪を梳かされる心地良さに彼が船を漕ぎだす前に、話を切り出した。
「あの傘の下にいたの、土方さんだって知ってた?」
 ぴく、と頭が動く。一旦手を止めた。怪我は直せる。けど、病や変化は元に戻せない。責任重大だ。
「……いや、俺はあの傘見たの、あの時がはじめてだ」
「え? 庭、よく見てたじゃない」
 雨の季節になって、あの傘が現れるようになってから、兼さんはよく庭を見るようになった。それがあの時はじめて見たとなれば、今まで庭で見ていたものは何なのか。
「あ、あれは……」
 言葉を濁す耳が赤く染まる。一度はさみを下ろし、櫛を入れて梳く。ぱらぱらと短い髪が落ち、白い項に散った。
「紫陽花、好きだから、見てただけだ」
 ぼそぼそと言う声はどこか拗ねが混じっている。花が好きだ、と言うのは彼の中で恥ずかしい方に分類されるのだろう。別に何が好きでも構わないのに。
「それじゃ、傘を見てたわけじゃなかったんだ……」
 ああ、そうなるとあの傘は僕を呼んでいたのか。ことが終わってからぞっとする。
 兼さんが連れて行かれるのは駄目だ、と焦りがあったからか、気が付かなかった。彼を呼んでいるものとばかり思っていたのだ。そこから早まった行動を起こしていたら、僕はここに居なかったかもしれない。
「なあ、国広?」
「……何?」
「ここにいるよな?」
 質問の意図がわからなくて、また手が止まる。
「居なくなったりしねえよな?」
 そこではじめて、後を追いかけて来た兼さんの気持ちを薄らと知る。
 僕らは、この肉体に宿る前に別離があった。脇差と太刀、二つ揃ってこそと思っていたのに、あっけなくそれは訪れ、結果として兼さんを残してしまった。
 何も孤独にされたのが堪えたわけではない。同じ主を知る相棒が居ないというのは、虚しいものだ。静かな喪失だけを抱えて、ただそこに在るだけになってしまう。
「しないよ、兼さんが止めてくれたから」
 あのまま、兼さんが来なかったら、僕はあの幻を斬っただろうか。自分のことながら、想像が出来ない。
「……そっか」
 安堵からか、穏やかに細められた瞳を見て、何故か胸の奥が疼いた。不安にさせた、こんな顔をさせたと思うと、ちくちくと痛む。はじめて感じる痛みに、まだ本調子ではないのかもしれないと首を傾げた。
「もういいのか?」
「うん、歌仙さんみたいにしてみたんだけど……」
 手鏡を渡すものの、碌に見ないで僕にそれを突き返す。
「国広がかっこよく仕上げてくれたんなら、問題ねえよ」
 元々俺はかっこいいし、とふざける笑顔が眩しくて、釣られて僕も笑った。胸にある疼きはなくなり、どこか暖かなそれに変わっている。それは春の日差しに似ている気がして、過ぎ去った春が恋しくなった。

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