【WEB再録】夜明けに見える星の名は(18/10 発行)

騎士の嫡子ルート(ウェンドリン)
グッドエンド前提、タイタス戦直後のウェンドリン、キレハ、テレージャの話。エンダも少し出ます。
「なんでもない」と対になります。(世界線では異なります)

 

 始祖帝タイタスを倒した。
 神の怒りたる雷で構成された身体の中、時渡りの剣が彼の自我を宿す核を貫いた感覚だけが手のひらに残っている。
 主を失った帝都が、夢が、崩れていく。回廊が、円柱が、神殿が、何もかもが夢から覚めるように崩れていく。足場を失い、妙な浮遊感と共に帝都から放り出され、その後どうやって地上へ戻ってきたのかはっきりと覚えていない。
 気が付いたら、わたしは地上に立っていた。血を流しすぎたせいかすべての音が遠く、一歩を踏み出すたびに体が大きく揺らぐ。それでも、わたしは立っていた。幻の帝都が崩れ行く様を見上げていた。
「ウェンドリンは休まなくてもいいのか?」
 すぐそばにエンダが立っていた。擦り傷も打ち身もなく、いつもと変わらない様子でわたしを見上げている。あまりにいつも通りだったから、わたしもいつもと同じようにうんと頷いた。
「テレージャもキレハも寝てる」
 エンダの指さす先にテレージャが倒れていた。意識を失っているらしい。胸が上下しているのを見て、生きていることに安堵した。少し離れた先に、キレハが伏せていた。タイタスとの戦いの中で自身の力を開放したせいか、手足が人間のそれと違う形で残っている。彼女をこちらへ引き戻さなくては、と一歩踏み出せば、視界がぐらりと歪んだ。
「ウェンドリンも休んだほうがいい」
「キレハに声かけたら、休むよ」
「……わかった、エンダが守ってやるからな」
 竜が眠りの番人とは贅沢なと笑えば、今度は酷く頭が痛んだ。剣を支えに痛みの箇所へ手を当てれば、ぬるりとした感触がある。傷が開いてようやく痛みを感じるあたり、わたしもあまりよくない状態であるようだ。
 一歩、二歩。テレージャの横を通り過ぎる。大きな怪我はないように見えるが、何度タイタスから巨大な岩と雷を降らされたことかわからない。後でしっかり医者に診てもらわなくては。
 三歩、四歩、五歩。キレハの傍に立つ。なんとか立っていようとしたけれど、先に膝が崩れた。彼女の手を取る。大きな爪がわたしの手に乗っている。名前を呼ぶ。薄く開いた目と視線があって、爪の感触が徐々に遠くなる。指が五本、丸い爪、いつもの彼女に戻りつつあるのを見て、ほっと胸をなでおろした。
 同時に、わたし自身の体から力が抜けていくのがわかった。
身体の力が抜けた。地面に倒れ、帝都の残骸がきらきらと光りながら消えていくのを見上げる。
 アーガデウムでは高速で日が沈み、月が輝くのを見た。あれは帝都の外で時間が過ぎていた、ということらしい。夜明けの空に残骸が消えていく。薄い月が、遠くに輝く星が、すべてが遠い出来事のようだ。
「ネルが来た」
 エンダが大きく手を振った。遠くからわたしの名前を呼ぶネルの声が聞こえる。地面に耳を当てれば、複数の足音が近づいてくるのがわかった。
「ウェンドリン、あとはエンダがやる」
 眠りの番人は随分頼りになる。エンダは、わたしたちここにいるぞと仲間たちを呼んでいる。その姿を確認して、目を瞑る。わたしの意識は徐々に遠のいていった。


 あれから、一週間が経った。
 ぼろぼろのわたしたちはアルソンやメロダークに担がれて屋敷へ帰り、ネルが調合した薬で傷を癒し、三日三晩眠り続けたという。
 目を覚ましてからはフランの付きっ切りの看病で、腕が動くようになるまでは匙を持たせてもらえなかった。ラバンは滋養強壮に必要だろうと森で狩った獲物を届けてくれたし、ひとり元気なエンダはシーフォンを振り回して遊んでいたというのだから、眠っていたのはもったいなかったなと思ってしまう。
 あの大騒ぎから、もう一週間が経っているという実感は遠い。
 国の一大事を大騒ぎと言うのは少し軽すぎるだろうが、過ぎてしまえばもはやそれは大事ではない。
 紫の水晶に包まれていた子供たちは夢の礎としての役目から解放され、次々に目を覚ましていると聞いた。パリスは随分安堵しただろう。ホルムを異変から救うことは、あの二人の日常を取り戻すことでもあったのだと思えば、幼馴染として最善を尽くせてよかったと思う。
 さらには、アーガデウムの消滅と共に夜種の姿は減りつつあるとフランからの報告を受けている。ホルムの周辺を踏査すれば、他にも変化はあるはずだ。
 この目でその変化を確かめにいきたいところではあるが、フランにきつく止められていた。怪我はもう大丈夫だと言っているのに、ゼペックからも休養をと言われてしまっては無理を通すわけにもいかない。わたしが療養中であるためにあらゆる面会を断ってくれているフランやゼペックの気遣いも理解しているからこそ、こうして部屋に籠っているというわけだ。
 ホルム伯カムールの娘として、何をすればいいのか、これからどうすべきなのか、何をやることが正しいのかはわからない。わからないから、考えることはいったんやめた。自分ひとりで考えられることなんて、たかが知れているからだ。
「ウェンドリンくん、起きているかい」
 隣の寝台からテレージャにひそやかに声をかけられ、思考が中断された。やはり、夜は考え事に向かない時間だ。眠れないからといってこの先のことを考えるには、わたしはまだ回復しきっていない。
「……起きてる。昼間寝すぎたからなのかな、眠れなくて」
「ちょうどよかった、わたしとキレハくんも眠れなくてね」
「エンダは?」
「寝てるわ……さっきまで起きてたんだけど」
 声が三つ重なり、それぞれが寝台から起き上がる。エンダはぴんぴんしていたけれど、わたしたちを守るといったことを覚えていたらしく、このところはフランについてわたしたちの世話をしてくれていた。慣れないことをしたからか、ぐっすりと眠っている。
「昼間、パリスくんがね。快癒祝いって」
 テレージャが寝台の下から取り出したのはワインの瓶だ。パリスめ。幼馴染の笑顔が脳裏に浮かび、少し頭を抱えた。
「グラスもセットだ」
「乾パンと……塩漬け肉と、木の実があるの」
 道具袋から颯爽とつまみを用意するキレハの俊敏さに、もはやこの夜会は止められないなと判断した。飲む気満々といった二人に、つい笑みがこぼれる。
 快癒祝い。そうだ、あれが終わってからこの物語の終焉を誰とも祝っていない。
 エンダの眠っている寝台から一番遠くにあるわたしの寝台の上に、二人が登ってくる。グラスと塩漬け肉、ナッツも一緒だ。キレハは手慣れた様子で塩漬け肉を薄く切り、乾パンに乗せていく。
「何に乾杯する?」
 グラスにワインを注いで、顔を見合わせた。音頭をとれ、という視線につい苦笑を返してしまう。こういうのは慣れない。
「ウェンドリンくん、どうぞ」
「……じゃあ、月並みだけど……わたしたちの勝利に」
 乾杯、と小さくグラスをぶつけた。
 芳醇な葡萄の香りに包まれ、つい最近まで味わう余裕のなかったものについ口元が緩む。ようやく、終わったのだ、とどこか他人事のような感情がこみあげて来た。
「チュナくんはよくなったって?」
「うん、パリスからも聞いたし、フランからも聞いた」
「パリス、随分表情が明るくなっていたものね」
 よかった、と言ってグラスを傾けるキレハの指先にはまだ生々しい傷跡が残っている。わたしもまだ頭の包帯が取れない。そっと包帯を押さえる。人の目から見える場所ではないが、跡は残るだろう。
「このあたりは、これからどんどん良くなっていくだろうね」
 テレージャはご機嫌にワインを味わっている。チョコレートがあればよかったな、と言いつつ、ナッツを取る手は止まらない。
「農地も牧場もひどい目にあったみたいだし、早く楽になるといいけど」
「……家を失った人も少なくないからね、後々考えるけど」
 この国のことはわからないが、ホルムに関して言えば時と共によくなっていくだろうことは想像し易い。時が経てば異変は徐々に収まり、日常が戻ってくる。ただし、傷跡は残るものだ。
 難しいことを考えているうちに頭が痛くなってきた。再び暗い方、暗い方に思考が走りそうな気がして、ナッツを口に放り込む。塩をまぶしたナッツはワインの、なるほどテレージャの手が止まらないのも頷けた。
「ふたりは、このあとどうするの?」
「この後? そりゃあ君、遺跡があるのならやることは一つじゃないか?」
 テレージャは塩漬け肉を薄く切り、それをフォークでつつきながら地面を掘る真似をした。行儀が悪いとキレハがフォークを取り上げるのを見て、つい笑ってしまう。テレージャは結局、指先で肉を摘まみあげた。
「遺跡をこの手で調査するために来たのだし……いや、今までも十分新たな発見をしたけれどね? 幻想の中とは言え古代をこの身で体験できたのは良かったなあ」
「テレージャ、道端に落ちてる壺にすら大喜びだったわね」
 古の大都市で生活する人間たちの衣服や通貨、娯楽から何からすべてにはしゃいでいたテレージャの様子は忘れられない。
「……わたしはあまり思い出したくないなあ」
 あの場所に結び付いた記憶と言えば、おぞましい槍の閃きしかない。強敵だった。自分の弱さに歯噛みしたし、先に進めないことに焦りもした。挑戦しては倒れ、逃げ、有効な手段を見つけるための試行錯誤は相当数やった覚えがある。
「あの時ばかりは、氷の棺を覚えていてよかったな」
 あまり使う機会はないけどね、とテレージャが苦笑する。神官である彼女は人を癒す術が主で、魔を払う以外に攻撃の手段となる術を覚えることは少ない。
「キレハくんの補助には十分だったけれど」
 君が話の主役さ、とばかりにテレージャはキレハをちょんとつつく。キレハは居心地悪そうに肩をすくめ、グラスに口をつけた。
「縫い留めても振り払ってくるんだもの……」
「強敵だったということさ、実際わたしはあれが倒れたところを見ていないからね」
 そうだっけ、と首をかしげる。隣を見れば、キレハも同じように首をかしげていた。苦労をした記憶はあっても、終わってしまえば遠い出来事で、記憶があいまいだ。
「……やたら不味いものが口に突っ込まれたから」
「ああ、ポララポ? 初めて作ったやつ」
 ホルムに伝わる郷土料理の一つで、美味しさで死者も蘇る……という名目で秋の収穫祭あたりに作られることが多いものだ。好んで食べる人がいるか、というとそうではないあたり、ポララポ独特の味――さすがに領主の娘という立場でおいしくないと断言するのは憚られる――の信頼度がわかる。
「テレージャが起きないから、さすがに混乱して……」
「魚と果物ならすぐ支度もできたしね、蘇生できてよかった」
「使うなら蘇生薬にしよう、蘇生薬に。味見したかい、あれ?」
 酔っているのかぐだぐだと絡み始めたテレージャからそっとグラスを取り上げ、中身を水にすり替える。旅の最中にここまで酔った姿を見ることはなかったから、意外な一面を見たような気持ちだ。単純に久しぶりの酒だからなのかもしれないけれど。
「したわよ、私はね?」
「ウェンドリンくんは食べたことあるだろう?」
「あるっていうか……お父様から一口貰ったくらい?」
 随分昔の話で、味の記憶はない。あまりいいものではないな、という記憶はある。もしかしたらまずくて覚えていないのかもしれない。
「……なら次は食べてもらおう」
「次?」
「……いや、この話はまだ……口が滑ってしまったようだ」
 テレージャはむにゃむにゃと口の中で何かを言って、自分の口を押さえた。何やら言いたいことがあるらしいが、自分でこれという言葉が見つからないらしい。彼女は無限に言葉を紡げるようなところがあるから、初めて会った時のように長い演説でも始まるのだろうかと思ったけれど、今日はその日ではないようだ。
「わたし、今酔っているね?」
「お水飲んだら?」
 キレハがすかさず水を満たしたグラスを持たせる。テレージャはそれを一気に飲み干し、ふうとため息をついた。
「いや……うん、だめだ。寝ることにするよ」
 一気に飲み干し、テレージャは先に寝台へともぐりこむ。しばらくして、穏やかな寝息が聞こえてきた。病み上がりの体にワインは早かったのかもしれない。
「キレハは?」
「もう少し起きてる」
「じゃあ、わたしも」
 眠気はまだ訪れそうにないし、ワインがまだ残っている。スライスした塩漬け肉もあるし、ナッツもある。あとは心の弾むような話題があればよいのだが、適当な話題が思いつかない。
「ウェンドリンは、これからどうするの」
「……まだ、考えてないかな」
 考えていないわけではないけれど、わたしは何も決めていない。考えているのは目先のことばかりだ。もしかしたらわたしは答えを出すことを避けているのかもしれなかった。
「キレハは?」
 同じ質問を返せば、キレハは少し考え込むように俯き、グラスを両手で支えた。小さく傾けて一口飲み、わたしをちらと見る。
「わたしは……わたしのことはいいわよ」
「決まってないってこと? それとも旅に戻るとか?」
 『影』を見つけるために旅をしていたというのであれば、この旅の中で彼女はそれを見つけたことになる。月夜に見た大きな獣の影と、キレハの体が異形の姿に変わったことは、まだ記憶に新しい。人のかたちを取り戻すために彼女の名前を読んだことも、覚えている。
「あなたを旅に誘うつもりだったの」
 え、と思わず声が漏れた。
「結構……誰かと一緒にいるのも悪くないなって思ったし、あなたは外の話を聞きたがったから」
 連れて行ったら喜ぶかなと思って、と言いながらキレハは段々と俯いていく。彼女は普段から遠回しな言葉を選ぶことが多いだけに、素直な気持ちを吐露されると何だか空気が気恥ずかしいものになる。
 実際、この異変に関する探索の中で、キレハがもつ旅の知識というのは大いに助けられた。生存するための術を持つということはこういうことか、と痛感したことは少なくない。川を渡るのにロープを使うだとか、落石のありそうな道を避けるだとか、森の中でどの道を選ぶかとか、わたしは知らないことばかりだった。
「わたし、あの話が好き。黄金色の草原」
「キール山地の向こうの話ね……ただの麦畑ではあるけれど」
 灰の国に、黄金色の草原があるのだとキレハは教えてくれた。黄金が実るだとか、採掘ができるとかではなく、どこまでも広がる麦畑があまりにも立派で黄金色の草原と呼ばれているらしい。
 山のふもとを埋めつくす麦の穂が風に揺らされて草原が波打つ瞬間を見るためにその地を訪れるものもいると聞いて、この目で見てみたいと考えなかったわけではない。
「麦畑なのがいいの、生活があるんだなってわかるから」
 わたしの世界は狭い。ホルムという街で生きてきて、近隣の村に行くまでがわたしのできる旅だった。外の世界をこの目で見ることができれば、どんなに楽しいだろう。隣に心を預けられる人がいれば、より楽しいに違いない。
「……今の時期は……もう狩りつくされているでしょうね、秋の収穫祭も終わった頃だろうし」
「もうすぐ冬が来るなんて、ちょっと考えられないけど……」
 寝巻でワインを飲んでいるからか、寒さはあまり感じない。
「ん……肉、乾いてきちゃった。塊はしまっておくから」
 塩漬け肉の塊をキレハがいつもと同じように道具袋へ戻す。スライスした塩漬け肉はぱさぱさに乾いてしまい、二人で黙々と食べ、飲みを繰り返す。
 沈黙の中で、もしホルムを出て旅にいくならどこへ行くだろうと考えた。レンデュームには、顔を出しておきたい。ジャスミンには世話になった。シーウァにも行ってみたい。好奇心でも、敵対する国の人間である以上難しいだろう。キレハの故郷であるマルディリアはここからどれくらいかかるのだろうか。彼女が一人で歩んできた道を、わたしも歩いてみたい。
 どれもが夢で、現実とは遠いように思った。
「食べてすぐ横になるのはよくないけど……」
 さすがに眠い、とキレハが瞬きをする。わたしは、眠いような、意識がはっきりしすぎているような感じがしている。もしかしたら酔っているのかもしれない。
「とりあえずいったん寝ましょうか、今日はお開き」
「うん、おやすみキレハ」
「おやすみ」
 キレハが寝台へ戻ったのを確認して、枕元の明かりを消した。部屋の中は途端に暗闇となり、わたしも毛布を被って横になる。
 目をつぶると、瞼の裏に眩しい星が浮かぶ。明かりの残像が残っているようで、真っ暗な天井を見上げながら何度か瞬きをした。
 瞬きを繰り返すたび、星は薄く、遠くなり、やがて何も見えなくなる。
 星を見に行くのもいいな、と思った。妖精の塔で見た作り物の星空に手を伸ばし、その星を手に取ったことは忘れられない。
 瑠璃瓶の中にあるあの星は、本物の星空ではない。すべてが終わった以上、元あった場所に戻してやるべきなのだろうか。おとぎ話のようだな、と考えているうちに眠気が訪れ、瞼が重くなる。夢に落ちる一瞬、懐かしい何かの気配を感じた。それが何かは、わからなかった。


 世界の色彩が薄く、輪郭もぼやけている。
 これが夢であることはすぐに気が付いた。はっきりと見えないのに、見ればそれが何であるのかすぐにわかってしまう不思議な夢だった。
 外を歩いていた。なんどなく、大廃墟と雰囲気が似ている気がするけれど、今まで見てきたどの景色とも一致しない。
 すぐ前に人影がある。頭のお団子が揺れているから、あれはテレージャだ。うきうきとした足取りは止まることがない。
 彼女の名前を呼ぶ。呼び掛けたつもりなのだけれど、声が出ない。この夢は音がないのかもしれない。
 隣にはキレハが歩いている。何かをしゃべっているようなのだけれど、やはりその声は聞こえない。どこへ向かっているのか、何をしにいくのか、わたしには全くわからないままだ。
 通り過ぎていく景色は灰色で、どこか荒廃した土地を思わせる。小川を渡り、山道を登り、山の中腹にある開けた空間からテレージャが山のふもとを見下ろし、わたしたちを手招きした。キレハが駆けていく。追ってわたしも眼下の景色に、あっと声を上げた。
 そこには、黄金の草原があった。山から吹き下ろす風で麦の穂が揺れ、まるで海原のように波立つ。
 きれいだと思うのに、その景色の輪郭はぼんやりとしたままではっきりしない。きっとこれが夢の中だから、わたしがその景色を見たことがないからなのだろう。
「きれいでしょう」
 声が聞こえた。キレハがわたしを見てにっこりと笑っている。
「いい景色だねえ」
 テレージャが風に髪を遊ばれながら目を細めている。
「次はどこへ行きたい?」
 わたしは、どこへいきたいのだろうか。
 わたしは、と言いかけて、わたしの声だけが音にならないことに気づく。二人はわたしの言葉を待っている。
 二人は顔を見合わせてから困ったように肩をすくめ、先に歩き出した。
「わかってるよ、帰ろう」
「ホルムまで長いわよ」
 二人の言葉にはっとした。
 そうだ、帰らなくちゃ。わたしには、戻る場所が、守らなければいけない場所がある。
 二人を追って駆けだした瞬間、ぱちりと目が開いた。
 外から小鳥のさえずりが聞こえる。まだ薄暗く、太陽の気配は遠い。
 ぼんやりと天井を見つめ、ゆっくり起き上がる。眠る前より部屋が冷えていて肌寒く、ベッドサイドにかけたガウンを羽織ってそっとテラスへ出た。
 眼下に広がるのは黄金の草原ではなく、見慣れたホルムの街並みだ。鍛冶屋からは細く煙がたなびいていて、行商へ向かう人々が朝採れの野菜を荷台へ積んでいる。広場に立つオベリスクは鈍く輝き、どこかからパンの焼ける匂いがする。
 夢が人の願望を表すというなら、あの夢のなかのわたしは旅へ出たがっていたのだろう。それは夢の中のわたしであって、今、ここでホルムを見下ろすわたしとは違うのだろう、きっと。
 この街が好きだ。父は血がつながっていないからこの地に縛られることはないと言ってくれたけれど、父はわたしの父であったし、ホルムはわたしの故郷に他ならない。
「ウェンドリン、ずいぶん早起きじゃない?」
 寝ぼけ眼のキレハがわたしの隣に並んだ。起こさないようにしていたつもりだったけれど、起こしてしまったらしい。わたしはうんと頷いて、ホルムを見下ろしている。
「キレハと旅に出る夢を見たよ」
「……そう。夢で旅に出たのね」
 だから行けない、とまでは言えなかった。
「いつでも連れて行ってあげるから言いなさい」
「そうだね、いつか……」
 いつかはいつ訪れるだろう。その機会を作らなければ訪れないだろうことはわかっている。
「誰も生まれは選ぶことはできないって、言ってくれたよね」
 墓所からさらに深く、自分によく似た――親縁であるから似ているのは当然なのだが、家族と言うには遠すぎる――あの人たちと会った時にキレハが言ってくれた言葉だ。
「わたしは一体何だろうって思ったけど、どこで生まれたってここでお父様に育てられたのだから、ホルムで生きていきたいと思う」
 家に縛られること、貴族らしくあることを考えると頭は痛むが、父の遺志を継ぐことは間違いではないと思う。
「……そうね。わたしもこの影と生きていくのだと思う」
 彼女の旅の目的は、自分の『影』を見つけること。
 わたしの目的は、あの洞窟を調べることだった。冒険をしてみたいという気持ちがあったことは確かだけれど、異変が明らかになるにつれ、ホルムを守らなくてはという気持ちも同時に持っていた。
「冬が来る前にここを発とうかな、いつまでも居てしまいそう」
「……いっちゃうの?」
「時々遊びに来てあげるわよ」
「待った! 君もわたしの遺跡探索の頭数に入っている!」
 テレージャがテラスに転び出てきた。遺跡探索、という言葉をわたしとキレハが繰り返す。
「ようやく異変が終わったんだ。わたしの本来の目的である遺跡調査はこれからが本番で、調査隊を組むつもりで……」
 君たちにも手伝って欲しい、と一息でテレージャは言った。
「もちろん給金は用意するつもりだよ、わたしの自腹で! ……きっと楽しいし、新たな発見もたくさんあるはずなんだ。ね? どうだい、悪くないだろう? それに……ほら、寂しいじゃないか」
 テレージャが眼鏡をいじりながらぽそぽそと呟くものだから、わたしたちは顔を見合わせてしまった。一気に喋った内容にも驚いたし、常からの飄々とした彼女から寂しいという言葉が出たことにも驚いた。
「意外」
「キレハくんはわたしを何だと思っていたのかな……」
「いや、その……寂しいって言われちゃうと照れるっていうか」
 キレハとテレージャはお互い顔を見合わせて照れている。心なしか表情が緩んでいるところがほほえましく、つい笑ってしまった。
「わかった、じゃあ春までここにいるから」
「キレハくん……! 持つべきものは友人だね……」
 キレハの手を握ってぶんぶんと振り回すテレージャは満面の笑顔を浮かべている。彼女の目的である遺跡調査はこれから始まるのだ。いわば今までの騒動はすべて前哨戦に過ぎない。
「ウェンドリンくんは、どうだい? わたしの右腕とか」
「うーん……考えておこうかな」
「何故!? 光栄だろう、そこは」
 理由はいろいろある。遺跡の調査ならまだしも、盗掘をしようとする輩が出ないか、探索を始めた頃に出会ったようなならず者が出ないか、ひいてはホルムの治安維持に調査隊をどのように管理したらいいのかが主な理由だ。その他は、テレージャが地下から全く出てこなくなるんじゃないかとか、ピンガー商店が古物商になってしまうとか、そういう具合に。
「止めても無駄だと思うわよ、テレージャのことは」
 遺跡を調査して過去を知ることは、悪いことではないと思う。何より過去にあったことを現代の学びへ変換できることはむしろいいことだ。テレージャであればそれらを解き明かしてくれるだろうと信じてもいる。
「……調査隊の管理とか、そういうのは手伝えると思う」
「本当かい? ウェンドリンくん、頼りにしてるよ」
「……何してるんだ?」
 狭いテラスではしゃぎすぎたのか、エンダが目をこすりながら顔を覗かせた。大人がそろいもそろって早起きをして変なことをしているとばかりに見られては、さすがに恥ずかしい。
「エンダくんも遊びにおいで、君の腕力は頼りになる」
「いいぞ、いつでもいってやる」
 キレハも行くか?とエンダがキレハの裾を引く。キレハは少し考えるふりをしてから、一緒に行くと頷いた。
「ウェンドリン、あなたは?」
「わたしは……」
 朝日がホルムの街を照らし、街全体が橙に染まった。夢に見た黄金の草原とは違うけれど、この街はわたしにとって黄金なのだな、となんとなく思う。言葉にするのは恥ずかしくて、きっと言うことはないだろうけど。
「わたしも行くよ、テレージャの右腕だもの」
「ふふ、フランくんにも声をかけなくちゃ! その前に、もうひと眠りしようかなあ……」
 テレージャは大あくびをかみ殺し、部屋の中に戻っていく。寝ぼけ眼のエンダも続いて、キレハも二人の後を追った。
 朝焼けに染まった空を見上げると、妙にくっきりと光輝く星が浮かんでいた。あの星は、冬に見える星だ。春になれば見えなくなってしまう。キレハがいなくなる頃には、あの星はここから見えなくなる。遺跡の調査が終わってテレージャがホルムを去るときにはまた別の空になっているだろう。そして長い時が過ぎた後、エンダが見上げる空もまた別だ。
 星は変わらずここにある。空も変わらずあるだろう。それはこの冬が終わった春であり、そのずっと先の朝のことでもある。
 しばらく続くこの日々を愛しく思いながら、わたしも部屋へと戻った。
 朝焼けの中、淡く光る星たちがわたしを見ていた。

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