二章 水平線の向こうに見える猫
都まではあっという間だった。徒歩で半日の道のりは、馬車を使えば半分近く縮まる。何より足が痛くないのが良い。代わりに、腰やら背中が痛いけれど。
荷台から降りて歩く三日ぶりの都は、なんだか人が居すぎていて常にお祭りでもやっているのかな、なんて思えてくる。
道行く人たちの歩く速さは故郷と段違いだ。雑踏の中にぽつりと立つと、都に帰って来たなあ、と思う。なんだか、どっと疲れが押し寄せてきた。
このまま家に帰ってベッドで眠りたいけれど、帰って来たことと依頼人から預かったお礼を中央教会に届けにいかなきゃならない。疲れた体を引きずって、教会まで急いだ。
アカツカの西部に位置する都は、大雑把に四つの区画から成り立っている。
教会のある東区、市場のある南区、僕みたいな一般人の暮らす北区、それから貴族や偉い人なんかが済む南区だ。こじんまりとしたお城もあるらしいけれど、僕たちが近付けるような場所ではないから見たことがない。
南区の大通りを横切り、東区にある一番大きな教会がシャン・エミュ教会。
呼びづらい名のせいか、中央教会というのが通称だ。東にあるのに中央とは、なんて話題にされることも多い。
正面から見ると、大きな二本の柱の間にアーチ状の屋根が連なっていて猫の顔みたいに見えるから、待ち合わせなんかには便利だ。
入り口はいつも開かれている。入って真っすぐ歩けば聖堂に辿りつくのだけれど、シャン・エミュの聖堂はちょっと特殊だ。外から見た猫の頭、天井の部分は八本の柱が枝を広げる木みたいにして支えているのだ。円状、というのも珍しい。カラ松の教会は真四角だった。
聖堂に向かう人波を避け、教会の裏手に出る廊下を歩けばようやく教会の中枢、いわゆる役員室とかそういうものがある棟に辿りつく。
猫とは違ってこちらの入り口は閉じていて、代わりに小さな窓がついている。関係者以外は入れない仕組みで、用事がある人はこの窓の奥に控える修道士に声をかけて中に入れてもらうのだ。
「すいませーん、トド松ですけど」
小窓の枠を二度叩く。窓の奥、のっそりと人影が動いて、ややあってからドアの鍵が開く音がした。
入っても良い、ということらしい。こんなに愛想のない態度の修道士の心当たりは、一人だけだ。
「一松さん、冷たすぎ! もっとおかえりとかあるでしょ」
「ないね」
ドアを開けた先にいるのは馴染みの修道士で、一松と言う。
元々死にたがりで、女神様の信仰を深めるために色々やっていたら中央教会で裏方だの何だのやることになったと昔に聞いたことがある。
僕からしたら、聖歌隊のスケジュール調整から備品の発注までやってくれる何でも屋さんという印象が強い。あと、根暗で繊細とか。路地裏の猫に餌をやっているとか。
「で、今日は何」
「外出した報告と、お礼で金一封を貰ったので預けに」
「ハイ、じゃ聖水出すね」
街の外に出た人には、教会から聖水を渡すことになっている。これで身を清めて病を防ごうという試みだ。
一松は入り口から一番近い部屋に僕を呼んで、外出者のリストに名前と日付を入れろと言って分厚い帳面を渡す。書いてくれるわけではないらしい。
「書きながら聞いてほしいんだけど」
「何?」
帳面があまりに厚くてめくりづらい。とりあえず真ん中を開いて、記帳するべき場所を探してページをめくっていく。
「聖歌隊に居たチャロ、わかる? ほっぺがピンクの」
「ああ知ってるよ、僕んちの近くに住んでる……最近喉の調子悪いって言ってたような気がするんだけど」
「例の病気で、昨日天に昇ったんだ」
帳面が、ばたんと閉じた。ペンも落とした。一松がしゃがみこんでどちらも拾って、僕の正面に立っている。
「他にも何人かね、急に増えたから……トド松も注意したほうがいいと思う」
僕は、何も言えなくなった。
注意しようがないというのは一時おいておくとして、三日都から離れただけなのだ。
チャロと最後にあったのは、九日ほど前だろうか。喉が痛くて、と言っていた声がかすれていたのを覚えている。
そう、覚えているのだ。けれど彼はもう居ない。
「嘘?」
「嘘吐いてどうすんの……」
いくら一松が根暗の皮肉屋であっても人が死んだなんて冗談を言うタイプでないことくらい、僕にはわかっている。
他にも何人か、と一松は言った。
その中に、僕の友人がいたらと思うと気分が暗くなる。同時に、恐ろしい。彼らも土には還らないのだ。
僕はそっと手を組んで目を瞑った。口の中で小さく祈りの言葉を紡ぐ。せめて天で安らかであるように、思うことしかできない。一松も、同じように祈りを捧げていた。
「……気がかりなことがあってね」
帳面にやっと名前書き終えた僕に、聖水の入った小瓶を渡しながら、一松がぼそりと続ける。
普段そんなに喋るタイプじゃないのに、今日は珍しい。
「獅子神教の……何て言えばいいのかな、強引な奴らがこっちに来てるんだ」
「強引、ってどういうこと?」
「最近、女神様が本当に救ってくれるのかって不安がっている人が多いのは知ってるよね?」
病が広がり、その存在を知る人が増えるにつれ、女神様はこの病から救ってくれないのかと不安がる人の姿が増えた。
不安そうな人たちに対して、獅子は火を以て皆に救いを与えるとか何とか言い含めて強引に改宗を迫る連中がいるらしい。その一味のことだろう。
「シスターとか修道士、聖歌隊の子たちも声をかけられているみたいだから、裏路地とか……人がいないところ、しばらく避けて」
「わかった」
「今日は疲れてるだろうから、聖水使って早く寝たらいいよ」
見送りに出てくれた一松に手を振って別れ、早足で廊下を歩く。
中央教会の廊下はちょっとした美術品が多くて、祈りを捧げるついでに絵画や器を見に来る人が多い。その人波を掻き分けて聖堂まで出て、人の絶えない猫を後にする。
捧げられる祈りのうちいくつが病への不安からくるものなのか考えると、僕も憂鬱になる。
不安から救われるためには教えの言葉であったり、聖水であったり、そういうものが必要だ。僕は聖水のつまった小瓶を鞄に入れ直して、家路を急いだ。
僕の家は北区にあるから、大通りを選ぶと少し遠くなる。一松の言葉が気にかかって、いつも近道に使う裏路地を通るのはやめた。
大通りの一角、カラ松のお土産にしたお菓子を買ったお店がある。いつもなら長蛇の列が出来ているところだが、今日は全く人がいない。
さっさと帰ろうという気持ちはどこへやら、早足で店先に駆け込んだ。小さなワゴンを引いたお姉さんは僕の姿を見つけてにっこり微笑んでくれる。
「お姉さん、まだある?」
「ええ、ございますよ!」
この間の蜂蜜が美味しかったからまずひとつ。他には何がいいだろう、苺かミント、林檎なんてのもある。こんなにゆっくり選べるならすぐあいつのところに持っていってやるのに。
「いつも行列なのに、珍しいね?」
「そうなのよ、うちの職人さんが熱出してお休みしてる間に人が離れちゃって」
熱。風邪だといいねえ、なんて言うお姉さんの前で僕は笑えていただろうか。
「職人さん、もう元気になったの?」
「ええ、熱も下がって元気なものよ」
ほっと胸を撫で下ろす。熱、と聞くと風邪なんかより先に例の病が頭を過ぎってしまう。
僕は蜂蜜と林檎を選んで買い、早足で家まで帰った。
カラ松の話を思い出す。
たとえ肉体が土に還らなくても、女神様は皆平等に命を巡らせてくださるという話。失ってしまう記憶の話。
考えるたびにぶるりと身体が震える。
僕が覚えている僕は、死んだらどこにもなくなってしまうのだ。当たり前のことだけれど、なんて怖いのだろう。
通りに面した柔らかいピンクで塗られたアパートの二階、奥から二番目の部屋が僕の家だ。備え付けられた暖炉に当たりながら街並みを見渡せるのが気に入っている。
部屋まで帰ってきたら、疲労がどっと押し寄せてきた。のろのろと鞄から小瓶を出す。せっかく買ったお菓子の袋も。
聖水で身を清めるには順番がある。
最初に手を洗って、次に喉を潤し、一口分聖水を飲んで、残りで身体を拭く。
疲れていないときはすぐ出来るのだけど、身体を拭くタオルを出すことすら億劫になってしまった僕は一旦ベッドに腰を下ろす。休んだら立ち上がらなくちゃ。わかっているのに。
「……寝てからやります!」
女神様に宣言して、僕は横になる。
窓の外に昇る日はまだ高く、夕方までに目を覚ませば、お腹もすいてお菓子がより美味しく食べられるだろうという算段だ。独り占めをする優越感と、ちょっとだけ罪悪感。
寝れば不安からも逃れられるし、という安易な気持ちもあってか、目を瞑って一分もしないうちに眠ってしまった。
僕を起こしたのは、沈みかけた夕日でも、お菓子から漂う甘い匂いでもなく、雷が落ちたみたいな轟音だった。
「な、なに? 何が起きてんの?」
寝ぼけ眼で窓に駆け寄る。ガラスがびりびりと揺れている。
外はもう薄暗くて、けれど僕と同じように轟音を聞いた人たちが呆気に取られてある一点を見つめていた。
東区の方で、赤黒い煙が上がっていた。
はっきりと見えないけれど、教会に近い場所のような気がする。慌てて外衣を羽織って飛び出した。
善き行いをせよ。女神様を信じ、祈りを捧げる身として、やらなければいけないことを僕は知っている。
大通りを走り抜ける。野次馬は同じ方向に走るし、逃げてきた人たちとはすれ違う。
すれ違う人たちの中に顔見知りのシスターを見かけた。怪我はないようで、ほっとした。
火元が近付く。
煙に巻かれて自分が倒れては元も子もない。ハンカチを三角に折って、口元を覆うように巻き付けた。
けれどまだ鐘の音は止まない。火災を知らせる鐘の音が響いているのが、信じられないような気持ちだった。
ごうごうと唸りを上げる炎に、シャン・エミュ教会が飲み込まれている。
猫の耳の先が欠けている。丸い頭にもちりちりと炎が移りつつあり、聖堂が燃えてしまうと悲鳴じみた声が響いているのに、僕は呆然と立ち竦んでいた。
赤々と燃える炎。白木のアーチが炎に飲まれようとしているのに、石膏の柱が何でもないような顔をしているのがいっそ恐ろしい。
市中に引き入れてある井戸から桶を次から次と渡す列、中から逃げてくる信徒を案内するシスター、桶の水を被って猫の口に飛び込んでいった人影が一つ。
丸まった背中、だらりとした走り方、それはどう見ても一松の背中だった。
「……っ、えっ、何、何しに行ってんの!?」
今、まさに燃えている教会に飛び込んでいくなんて、何を考えているのかわからない。まさか死ぬつもりじゃないだろうか。
ありもしないことを考えて、もう考えている暇が惜しくて、僕の横を通った桶の水を被った。炎のせいか、冷たさは感じなかったのは、幸いだった。
「中、見てきますっ!」
空っぽになった桶を奪い取った人に突き返して、炎の中に飛び込んでいく。燃えているのは外側だけなのか、教会の中は逆にぱちぱちと火が爆ぜる微かな音しか聞こえない。
「一松ー、一松さん!」
名前を呼びながら、中を探す。逃げ遅れた人は入り口に行くように言って、教会の中を駆け回る。
聖堂に向かう廊下、人なし。裏側、関係者以外立ち入り禁止の当たりは火が迫っていて近づけない。楽廊の入り口は閉じられていて入ることが出来なかった。残りは聖堂だけだ。
消火は間に合うだろうか。間に合わなければ、聖堂が焼け落ちてしまう。
女神様への信仰が揺らぐ人が多い今、火事から守られなかった教会なんて、不安を煽るだけだ。
「一松さん、いる!?」
聖堂の扉を開けた瞬間、むっとした熱気が迫った。奥の祭壇の当たりに人影が二つある。
一人は一松だ。祭壇を見上げながら、何か思案するように腕組みをしている。
「一松さん、こんなところで何してんのさ!」
「美術品の回収」
一松はずたぼろの袋の中に美術品をぎっしり詰め込んでいる。傍から見たら火事場泥棒そのものだ。
「燃えたら無くなっちゃうから」
扱いが悪くても炎から守るのが優先ということだろう。確かに、灰になってしまったら修復も出来ない。焼失よりはましだ。
「僕も手伝うからさっさと出よう!」
「……それはかまわないんだけどさ」
ステンドグラスが炎の明かりでゆらゆら光っていて、その光の落ちる先で何かが動いた。
祭壇の上、ステンドグラスまで続く大きな衝立。その根本に小さな火種をせっせと増やし続けている人影にぎょっとして一松に走り寄る。その間もぱちぱちと爆ぜる音は止まない。
「何で止めないのッ、燃えちゃうよ!」
聖堂の天井を支える木のうちいくつかは天井に向かって炎を伸ばしている。
おぞましい、と思った。よく知るものが壊れて行くという恐ろしさと、女神様に祈りを捧げる聖なる場所を炎に包むという思考が理解できない。
「止めるのは難しいと思う……」
「何でさ! ねえ君、今すぐその火を消して!」
消すのは無理でもせめて増やさないでという僕の叫びが届いたのか、火を増やしていた人がくるりと振り返る。
その顔を見て、僕はあっと声を上げてしまった。
「……なぜ?」
火葬にすれば恋人の魂は輪廻の輪を外れてしまうと泣いていた、あのひとだ。泣き腫らした赤い目は、今や炎と同じ赤にしか見えない。
「なぜって……」
本当に、何でそれをしてはいけないかわからないという口ぶりに、逆に僕のほうが怯んでしまった。
「女神様なら、水のご加護で助けてくれるのでしょう?」
転生してくれればまた会えるかもしれないのに、それすら奪われてしまうのかという悲痛な叫びはもう無く、今はただ炎だけを見ている。
「トド松、聞かない方がいい」
一松の静止は遅かった。僕は蛇に睨まれた蛙みたいに、彼女の目を見て動けなくなってしまったのだ。
彼女は祭壇の炎を見ながら、歌うように話し出した。
女神は水をもって教えを作ったが教会は燃えている。女神は火に苦しむ信徒を救ってくれることはしない。恋人を病からも救ってくれることもしなかった。病にかかったがために恋人の遺骸は灰になってしまったのだから、土に還れず水の巡りに戻れない。転生が出来ない。同じ世に再び生まれることが叶わない。
「生まれ変わってもまた見つけるよって言ってくれたのに」
肩を震わせ涙を零す彼女の左手に指輪が光るのを見た。一瞬弱った声も、恋人を思えばまた呪詛は募るのか、低く這うように呟いてまた一つ火を増やした。
何も救ってくれない女神も、その女神を信じる教会も信者も、同じようにすべて灰になってしまえばいい。
彼女の目は、ぎらぎらと燃えていた。
「トド松」
一松は僕が棒立ちの間に外と聖堂を往復したらしく、髪までぐっしょりと濡れている。袋はもうなくなっていた。
僕は何も言えないまま、その正面に立って首を振った。誰も、彼女に言うべき言葉を持たない。誰も彼女を救うことが出来ない。本当に、このままで良いのだろうか。
「もう出ないと」
「……僕、僕は、何もできない?」
ゆっくりと首を横に振る一松を見て、僕は天を見上げる。そこに見えるのはステンドグラスだけだ。外の様子はここからではわからない。
彼女の火は衝立を昇り、アーチに届いてしまった。木の枝のように天井を支えていた梁が、燃えている。
「お前まで死なせたくないよ、俺は」
あの女の人を助けるつもりは、多分ない。捕まえるつもりもない。重ねた罪を裁くのは天のすることだから。
一松に手をひかれて、聖堂の入り口へ向かって歩く。徐々に早足になり、ついには小走りになった。
「もしかして、結構、ヤバいの?」
「結構ね」
僕の頭上で、ばきりと何かが折れる音がした。僕が呑気に天井を見上げるのと、一松が僕を突き飛ばしたのはほとんど同時だ。天井は、天を支える木々が燃えていて、そのうちの枝がひとつ折れた。折れた枝は、どうなるか。
「トド松っ!」
「う、わああっ!!」
避けられるか。間に合わない。大きさはどれくらいだろう。そんなに大きくないけれど、高いところから振ってくる枝だ、枝というかあれは石膏で出来ていたはずで、とにかく当たったらただではすまない。僕は両手で頭をかばって床に転がる。一松も同じように距離をとって、床に伏せた。
後はもう天に祈るしかない、僕のことを愛している女神様ならきっと守ってくれる! そう信じるしかない。
どすん、と音を立てて枝が落ちる。恐る恐る目を開けば、目前に枝が迫っていた。
一松が転がしてくれなかった当たっていた、と思うと背筋がぞっとする。
枝の一部は、僕の背丈ほどある。見上げていたときは細い枝に見えたそれは、実はとてつもない大きさだったのだ。
「い、一松さん……」
「ばかっ、顔上げるな!」
疑問より先に衝撃が届く。落ちた石の塊が割れ、こわごわ眺めていた僕の頭に落ちたのだ。
目の前がぐらりと歪み、ただ頭が熱くなる。炎の熱さじゃない。思わず手で押さえた。熱はじんわりと痛みに変わり、視界がくらくらと揺れる。
「出るよ、走らなくていいから」
「うん……」
ばきん、ばきん、と枝が折れる音がしている。聖堂が、崩れてしまう。
僕は、一度後ろを振り返る。彼女は今も祭壇に火を付けているのだろうか。
焦点が定まらなくて、崩壊の始まった聖堂の中はよく見えなかった。
一松に手を引っぱられて外に出る。出てみれば、火は聖堂のほうに集中しているだけで、後のほとんどは消火が終わっているようだ。隣の建物に火が移ることはなかったようで、ほっとしている。
「ここ座って、動かないで待ってて。医者探してくる」
「……僕はいいよ、頭打っただけだから」
一松は舌打ちを一つ残して、とにかくここにいろと言って僕を喧騒から離れた場所に置いていった。
周りでは火傷に苦しむ人だったり、咳き込んでいる人だったり、動けない人もいる。
教会が火に襲われたのは、夜ミサの最中だったのかもしれない。修道士もシスターも、怪我をした人たちの面倒を見ている。
小さな子供が母親の足を擦ってやっているのを見て、僕はゆっくり立ち上がった。
「……お母さん、怪我したの?」
「う、うん……僕をおぶって走ってくれたんだけど、ガラスが落ちてて……」
ミサの最中、小瓶の聖水を飲むことがある。逃げる拍子に落ちた小瓶が割れて、破片で怪我をしてしまったんだろう。出血はそう酷くないようで、母親は僕に小さく頭を下げた。
「……もうすぐお医者さんがくるから、ここにいてね」
子供はぱっと表情を輝かせる。無力というのは、辛いものだ。まして自分のために怪我をしたとあれば、子供なりに罪悪感と戦っていたことだろう。
「ありがとう、お兄ちゃん」
小さな頭を撫でて、教会を背に歩き出す。
一松には悪いけれど、僕より先にお医者さんが必要な人がたくさんいるのだ。頭がじんじんと疼くけれど、我慢出来ない痛みではない。
僕は、何だか自分の足元が急にふわふわと覚束なくなったのを感じていた。あの女の人の言葉が頭をぐるぐると回っていて、落ちつかない。
女神様は僕たちを愛してくれているのだと何の疑いもなく信じて来たけれど、惨状を目にすると本当にそうなのかと言う気持ちも湧いてくる。不安は強くなって、けれど僕は一人で、煙を上げる聖堂を遠くから眺めている。
カラ松なら、わかるだろうか。
浮かんだ幼馴染の顔に、僕はふらりと歩きだす。
一人では出せない答えも、カラ松なら導いてくれる気がした。何より、無性に会いたくなってしまったのだ。
この騒ぎでは明日の朝の定期便なんて出ない。カラ松に会うなら、今すぐ歩き出さなくちゃいけない。
痛みを抱えたまま、僕の足は都の外へ向かっていた。
アカツカの夜は、常なら灯りが無ければまともに歩けない。
雲が月を遮っているから月光が地上まで届かないのだ。それが今日はどうだろう、空はすっきりと晴れて丸い月が道を照らしてくれている。
歩きながら、頭痛が強くなるのを感じていた。
ぶつけただけなのに、と手を当ててみたらぬるりと滑る。水にしては粘ついていると月光の下で見ればどうやら血が出ていたようで、わっと声を上げてしまった。聞いていたのは草葉の陰にいる虫たちだけだ。
一松が医者を呼ぶといった理由がわかった。結局、出てきてしまったから、今度会ったときに謝らなくちゃ。
火をつけていたあの女の人の言葉が頭をよぎる。
同じ世に再び生まれることが出来ないなら意味がない、と。あの人は恋人ともう一度出会いたかったんだ。
転生をすると、前の命の記憶は全て忘れてしまう。それでも再び同じ世に生まれてくれれば、いつかどこかで出会うかもしれない。見つける自信があったのだろう、多分。それくらい愛していた、ということなのかもしれない。
考えてみる。僕には生憎恋人がいないから、死んでもまた出会いたい人は誰か。
お世話になった神父様、優しくしてくれた人たち、聖歌隊の友人。たくさんの人の顔が浮かんでは消えていく。
そんなのは、今歩いている先にいる奴しか、いないのだけど。
最後に浮かんだ顔はカラ松で、僕は自分で思っている以上にあいつのことが好きなんだなあ、なんて今更気がついたりする。
小さい頃は一緒に眠ったこととか、僕より先に文字を覚えて聖書を読み聞かせてくれたことだとか、小さなことを思い出す。僕が遊びに連れ出したこともたくさんあった。釣りもしたし、草すべりだってした。
本当に、いつだってずっと傍にカラ松がいたのだ。
延々と続く田舎道を往く。アイビス。トドロップ。バルサム。今日は羊の親子もいない。
指先の感覚が鈍くなってきた。寒いからだろうか、手を握ったり、開いたりしてみるけれど、ぶるぶる震えるだけで上手くいかない。
そういえば、あまり寒いとも思わない。火に当たりすぎたのかもしれない。空を見上げる。月が明るすぎて、星はあまり見えない。
ひとつだけ、思い出せないことがある。道が分かれたとき、カラ松がどういう顔をしていたかが思い出せないのだ。
都への憧れと、孤児であるにも関わらず機会を与えてくれた女神様に感謝して、意気揚々と都への馬車に乗ったのは覚えているのに。
きっとその日も、神父様とカラ松が見送ってくれていただろう。僕は二人に挨拶をしないまま馬車に大人しく乗っている方でもない、絶対にあの馬車から振り返って二人を見たはずなのだ。
思い出したい。頭の奥がびりびりしてきた。月はまだ高い位置にある。朝は遠い。
歌でも歌おうか。何がいいだろう、少し悩む。
真夜中の田舎道、誰がいるわけでもない。聞いているとしたら月や星くらいだ。
明るい歌がいい。元気が出るような。流行りの劇で使われた歌を思い出し、息を吸い込む。
「……っぅ、え、」
声を出そうとした口を開けた瞬間、喉がひりついて激しくせき込んでしまった。
声が出ない。煙で喉を焼かれたせいかもしれない。風邪で喉を腫らした時とは全く違う痛みに、背中を嫌な汗が伝っていく。
もう歌が歌えないかもしれない、ぶるりと身体が震えた。マリエシ。デンサ。ファーガシー。歩くことだけはやめないでいたけれど、ついに足が止まってしまった。
天を仰ぐ。瞬きを二度した後、空の端から星が流れて行くのが見えた。
青く残る流星の痕。頭の奥がちりちりする。何かに似ている。何か。記憶を手繰り寄せる中で、忘れていた記憶がぷかりと浮かび上がって来た。
走り出す馬車。振り返る故郷。手を振る神父。隣に立つカラ松は、手を振っていて、けれど途中でその手が止まって、目元をぐいと拭った。
そうだ、あいつ、僕を見送りながら泣いてたんだ。泣くなよって叫んだのを思い出して、笑った。会いに行くよって言ったのに忘れたことも、今思い出した。
ずっと空を見上げていて痛くなった首をぐるりと回す。ぴりぴりと首筋に痛みが走ったけれど、それより歩きださなくちゃいけなかった。
一歩踏み出せば前に進む。
この道を歩いてさえいれば、会いに行ける。身体は重いし頭は痛くなっていくばかりだったけれど、とにかく今、カラ松に会いたかった。
会ったら何から話そう。
教会が燃えたこと。女神様の教えがわからなくなってきてしまったこと。怪我をしたこと。会いに行く約束を忘れたこと。
他にも色々、たくさん、ある。あるんだ。
「ふ、はは……ああ、なんだ」
掠れた声で喋ることは、できた。
おかしい。笑っちゃうな。僕、こんなにカラ松のことが好きだったんだな。大事だったんだ。なのに忘れて今まで過ごしてきて、駄目だ。本当に。
会ったら一番に好きだよって言って驚かせてやろうか、それともハグをしてやろうか、手を繋いで眠ったら怒られるかな。兄弟みたいに育ったとはいえ、何だか距離が近すぎるだろうか。鬱陶しいくらいでいいじゃない、好きだって今まで言わなかった分、態度で示したっていいはずだ。
――人の世よ、渇いた心を潤す女神様の慈愛は深く。人の命よ、清き水と共に女神様の元へ還らん。天上に輝く光を見よ、女神様は遥か高くより我らを見ている。
祈りの言葉が脳裏をよぎる。もう空は見上げなかった。女神様は見ていてくれるはずだ。
足を一歩前へ。息が苦しくなってきた。登り道でもないのに、おかしい。そういえば寒さも感じないし、指先と足の感覚も鈍い。頭痛は増すばかりだ。
……もしかして僕、死ぬのかもしれない?
気付いた瞬間ぞっと背筋が冷えた。足がもつれ、転ぶ。ぐらぐらと揺れる視界が気持ち悪い。
立ち上がらなきゃ。歩かなきゃ街に着かない。教会にだって。カラ松に会うことも。女神様の元へ還るのはいい、でもその前に言わなきゃいけないことがある。さっき気付いたんだ。やっと思い出したんだ。
ふらつく足を立てて、地面に手をついて立ち上がる。腕が震える。膝をついて、あとは伸ばすだけなのに、頭の内側から鐘を叩かれているような痛みに襲われてうまくいかない。
死んだら、全部言えないまま終わってしまう。転生したってこの記憶は持っていけないし、カラ松に再び会ったところで僕は僕じゃなくなっているんだから意味がない。
今じゃないと、僕じゃないと、駄目なのに。死にたくない。忘れてしまいたくない!
腕から力が抜けて、そのまま地面に転がった。手を伸ばしてもぶるぶると震えるばかりで、立ち上がれない。這ってでもと腕を伸ばすけれど、身体が言うことを聞かない。
顔を上げる。月の光は弱くなり、日が昇りつつある。淡い朝の気配の中、遠くに故郷の影が見えた気がした。
カラ松の名前を呼んでみる。僕の声は、もう出なかった。