夜明け前
「見ろ、ジェイソン! 立派な屋敷だ!」
「見りゃわかるから、てめえも荷物を運べ!」
あの雨の日から僅か半年。カラ松は、金庫破りを辞めた。集めた金で土地を買い、人を使って運用することを始めた。すぐに飽きてこそ泥に戻るだろうと思いきや、それが案外向いていたのだ。
事業が波に乗り、松野カラ松として屋敷を手に入れたのだ。
屋敷は確かに立派だった。だが、どこかうら寂しい雰囲気がある。元々は目映いほど白かったであろう外壁が埃で汚れているとか、窓ガラスが割れているとか、庭園が荒れ放題だとか、不穏ささえ感じるほどだった。
「調度品もそのまま残っている! 掃除を自分でするなら構わないと言われたが思ったより綺麗じゃないか!」
「今まで泊まり歩いたホテルのほうが上等だろ……」
良いことが続くと、悪いことが起きるような気がする。羽振りがいいだけに、その揺り返しを想像するだに恐ろしいのだ。
「ちょっとした夢だったんだ、家を持つことは」
カラ松は家の鍵を手にしながら、じっと屋敷を見つめている。
「帰る場所なんてなかったから」
待つ人もいなかったのだから当然だが、と付け足して笑う。その笑みは自身を皮肉っていた。名前を捨て、町から町へ渡り歩くことを選んだスミスやジョンを。
「今はジェイソンも居る。俺のスイートホームはここだったのさ! ここにたどり着くための……フッ、長き道のりだった!」
「かっこつけてないで、手動かせや」
荷物の一つを投げつける。カラ松は時折、自己演出のために劇場で聞くようなわざとわしい言葉回しをすることがあった。事前にこういう場面で言うならこの台詞だ、と考えておく癖があるらしい。
人の手が入らず伸び放題の庭園。謎の時計塔。壊れたボートが岸で折り重なる湖。あまり良い想像を呼ばないそれでも、カラ松には輝かしい我が家に見えているに違いない。
ふと気がつく。カラ松の言うスイートホームに、当然のように僕の名前が加えられていた。じゃあさようなら、と追い出される日がくるかもしれないと思っていた。
「俺が出て行くとは思わないわけ?」
間抜け面のカラ松が、僕を見つめていた。
「……その、ジェイソンはここにいるものと思っていたんだが」
さっきまでの流暢な、どこか演技じみた口調はなりを潜め、気弱な表情が浮かぶ。
「出て行く理由ないから」
慌てて残りの荷物をカラ松に押しつける。疑いを含む目線は居心地が悪い。何故そんなことを口走ってしまったのか、自分でもわからないのに。
「いるって言ってんだろ! ほら、掃除。カラ松がやれよ」
「ああ、わかった、わかったから……」
扉の鍵を開け、屋敷へ一歩足を踏み入れたカラ松が振り返る。荷物を受け取るつもりかと手元のそれを持ち上げたところで、いつまで経っても受け取る様子がない。何だよ、と言えば、カラ松は満面の笑みを浮かべた。
「名前を呼んだの、初めてじゃないか?」
「はあ?」
何を言い出すのか。本人がスミスだったり、ジョンだったり、他の名前であることが多いから名前を呼ぶ機会があまりなかっただけで、用事があれば名前くらい呼ぶだろう。
「フフ、照れなくてもいい……俺のことを本当の兄と思って、いつでもカラ松と呼んでもいいんだからな……」
カラ松はよっぽど嬉しいのか、勢いのまま僕をハグして、そのまま上機嫌に屋敷の中に消えていった。屋敷の中の探索、といったところだろう。
「何あれ……」
家を得るのが夢だった。昔は一人だった。名前を呼ばれて喜んだ。幸福の王子に憧れた。名も無き人々に幸せを与えるつもりが、出来なかった。
名前をいくつも捨ててきた人生において、僕があいつの名前を呼ぶことはきっと意味のあることなのだ。それは僕もよく知っている喜びだから。
ジェイソン、と僕のことを呼ぶのはカラ松だけだ。名前に意味があるというより、カラ松が僕を呼ぶから意味がある。必要とされているのだと感じることは、喜びに似ていた。
屋敷の中をばたばたと走り回る音がする。がしゃん、ぱりん、と破壊音を伴って。このままでは掃除すらまともに出来ない状態になる。
「カラ松! 走るのやめろ、床が抜ける!」
「結構楽しいぞ、ジェイソン!」
クソ松め。無邪気にはしゃぎやがって、館を買った金より修理する金のほうが高くついたら安く手に入れた意味が全く無くなるじゃないか。
屋敷の中は埃だらけでかび臭い。これは今日一日かけても掃除なんて終わらないだろう。早々に掃除を諦めた僕は、未だにはしゃいで屋敷の中をうろついているカラ松を捕まえるべく、屋敷の内側へ足を踏み入れたのだった。