四章 女神様に叱られるから
六日目の朝、トド松からのおはようがなかった。
「トド松……」
寝ぼけ眼をこすって名前を呼ぶ。今日は俺のほうが早く起きたぞ、お寝坊さんめ。からかうつもりでトド松を探せば、壊れかけた長椅子のベッドの上は空っぽだった。
先に起きて、どこかへ行ったのだろうか。いや、ひとりでどこかへ行けるとは思えない。
どこへ行ったのだろうとベッドから足を下ろす。いつもなら冷たい床の感触があるのだが、今日は違った。足の裏にぐにゃりとした何かがある。
まさか忍び込んだ猫でも踏んだかと視線を下ろせば、そこで床に寝転がったままぴくりとも動かないトド松を見つけたのだった。
「トド松!」
慌てて揺り起こす。トド松の眼は開かない。
「起きるんだ!」
抱き起こした身体、腕のあたりを掴むと俺の指がぐずりと沈んだ。布越しとはいえ、その感触に驚かずにはいわれない。
「んん……」
トド松の眼がゆっくりと開き、ぐるりと周りを見渡す。部屋を見て、自分の手を見て、それから俺の顔を見上げて力なく笑った。
「……落ちちゃった」
「大丈夫か?」
俺の手を支えにして、トド松はようやく立ち上がる。身体がうまく動かないらしい。
手を握ったり開いたりしながら、トド松は壊れかけたベッドに腰を下ろした。指先がぶるぶると震え、呼吸が速いのに肩は揺れない。急速に訪れた変化にかける言葉が見つからない俺の困惑を察してか、トド松はゆっくりと腕を上げてドアを指差す。
「朝のお勤めあるでしょ……いきなよ」
傍にいてやりたい、という言葉はトド松の視線で封じられた。首を横に振る動きも、酷く緩慢だ。
「……また様子を見に来るから」
後ろ手に扉を閉めながら考える。もう限界なのだろうか。
悪魔は一週間経ったら迎えに来ると言った。身体はもうずいぶん変わってしまって、腐敗が進んでいる。考えて喋ることも、冗談だって言えるけれど、それでもぼうっとする時間が長くなった。
限界だとしたら、俺は何をしてやれるのだろう。
聖書の陰に隠しておいた書を取り出す。修道士から授けられたそれに何度目を通したかわからない。けれど、読み直してみようと決めた。
聖書と共に取り出し、並べて広げる。聖書の表面には教えとなる言葉が短く刻まれている。
女神様は無償の愛を与え、人を導く。人は心から女神様を信じ、尽くす。天から見守って下さる女神様に倣い、善き行いをせよ。人の命は繰り返し、平穏の世は続く。
教えとなる言葉を一つずつ心の中で唱え、祈りを捧げる。
女神様の無償の愛は、何の見返りも期待もせず、ありのまま全てを愛してくださるというものだ。天から降り注ぐ雨のように、全ての人間へ平等に降り注ぐ。
女神様は、きっとトド松の罪をお許しになられる。転生を拒み、地に留まっていたのが罪だとしても、その罪を償えば新たな生が得られると、悪魔だって言っていた。
悪魔を待つより先に、送ってやることは出来ないだろうか。
誰もいない礼拝堂の中、そっと書を開く。
ゾンビの項目を読むのはもう何度目だろう。内容も殆ど覚えてしまったのだが、一部の記述については目を逸らしてきた。魔のもの対抗する手段。強制的に魂と肉体を切り離す方法をトド松にしたくなかったからだ。
――聖水を与えることで、肉体と魂を切り離すことが出来ると言われている。浴びせるのではなく、飲ませなくてはいけない。ゾンビの食欲の原因は渇求なのだ。死した肉体は腐り、生を終えて渇いた魂は女神様の救済を求めている。解放されたいという肉体と、まだこの場を離れられないという未練が絡み、食欲として現れる。
トド松の食欲が薄れないのは、未練が強いせいだったのかもしれない。ここは教会だ。聖水の用意には苦労しない。
――悪魔がその魂を連れて往った例しかないために、詳細は定かではない。何故なら、ゾンビは魂の器である肉体から強制的に開放されることを拒むからだ。ゾンビはそれを攻撃と認識する。魂に危害を加えられたと認識したゾンビは、人に攻撃することがある。筋力のブレーキがなく、その力は成人男性でも敵わない。
――もし試すのなら、間違いなく聖水を飲ませることが出来る関係を築いた上で、自らの意思で飲んでもらうのが良い。用いる聖水は月光を浴びせ浄化の力を強めよ。
結びの文章に不安がよぎる。ゾンビに聖水を飲ませた記録は残っていないらしい。浴びせたことはあるようだ。記述の中にはっきり書かれてはいないが、恐らく犠牲者が出たこともあるのだろう。
試したところでうまくいくかはわからない。だが、このまま見ていることも出来ない。トド松に自ら聖水を飲んでもらうことは出来るのではないか、と思う。もし出来なかったとして、そのまま朝を迎えれば悪魔が来てしまう。
書を閉じ、祭壇の上に並ぶ聖水の小瓶へ手を伸ばす。今夜は半月。たっぷりと月光を浴びさせるのは難しいが、やらないよりはきっといい。
悪魔を待たず、俺の手で見送ろうと決めた。
窓の向こうに浮かぶ半月をぼうっと見上げていたトド松の手を引いて、ゆっくり歩く。
「何を見ていたんだ?」
「星、数えてた」
カンテラの明かりは、トド松が嫌がるからやめた。暗闇に目が慣れてしまえば、月光でも十分歩ける。
「夜のほうがよく見える気がするんだ」
「そうなのか?」
肉体は腐り始めているのに、トド松の視力と聴力は生前よりよくなっているようだった。明かりがなくても平気で歩くし、小鳥のさえずりもよく聞こえると言っていた。
礼拝堂に入る。誰もいない礼拝堂は静寂に包まれていた。仄かに空気が暖かい気がするが、暖炉の火はとっくに消してしまっていた。
祭壇の前にある長椅子に座らせ、俺も隣に腰を下ろす。月の淡い光がステンドグラスを通して床に落ち、ぼんやりと広がっている。俺は、それが何だか儚いと思った。
「……もうおしまい?」
「ああ」
何のために連れ出したか、もう理解しているようだった。トド松はそう、と返事をしたきり俯いている。俺もまた、切りだす言葉を探している。
「約束、思い出してくれてうれしかった」
言わなくてはと思っていたことだ。トド松は驚いてきょとんとした顔をし、それから照れて伏し目になった。忘れられただろう約束がこんな形で果たされるとは思わなかったが、それでも嬉しいことに変わりはない。
「もう、本当に言い残すことはないか?」
「……ない、と思う」
トド松はぎこちなく首を傾げる。思う、なんて締めくくって俺の顔色を窺うのは、まだ秘密がありますと言っているようなものだ。
「聞かせてくれないのか、最後まで」
「駄目だよ……困らせたくない」
「困ったりなんかしない」
小さな頃からずっと一緒にいた俺が、今更困ったりすることなんかあるもんか。そう言ってみても、トド松は首を横に振るばかりで何も言ってくれない。
「ありがとう、カラ松」
笑顔はさっぱりとしている。死を受け入れた満足のそれか、秘密を抱えて往くことを覚悟したそれか、俺にはわからない。
心に秘めたまま持っていく秘密というものもある。無理に引き出すべきではないとわかっていても、何故か聞かずにいられない。トド松のことは全て知っているつもりだったからと言えば、笑われるだろうか。
長椅子から立ち上がり、祭壇で月光を浴びる小瓶を手に取る。小瓶の中の聖水は、見た目に変化があるわけではない。ただ、月の光を浴びたというのが重要なのだ。
「聖水を……」
小瓶の蓋を開けて、トド松のところへ戻るために一歩踏み出した。これを飲めば、肉体と魂を切り離せる。
「そっちまで、行く」
トド松は意を決したように、ゆっくりと立ち上がった。ふらつく体が先に出て、足がそれについていかないような、頼りない足取りで祭壇まで向かってくる。
トド松のところまで聖水を持っていくことは簡単だ。その口に運ぶことも。ただ、行くと言ったのだから、俺は聖水の小瓶をもったままトド松を待つ。
これで最後だと思えば、泣き出しそうな自分がいた。同時に、最後までしっかり立っていなければいけないとも思う。
未練は果たされたのか、それすら聞けないことは歯痒いのだが、秘めたまま往きたいのなら俺は見送るだけだ。
「あっ」
祭壇の前で途切れる絨毯に、トド松の足が取られた。身体がよろめく。転ぶ、とすぐにわかった。小瓶を持ったまま、反射的に手を伸ばしたけれど間に合わなかった。むしろ手を伸ばした拍子に、小瓶が滑り落ち、床に落としてしまった。
どしんと体の倒れる音と、小瓶の砕け散る音が続く。俺はただ、それを呆然と見ていた。
小瓶が割れ、絨毯にじわじわと聖水が染み込んでいく。俺の足元にも跳ねたそれは、倒れ込んだトド松をぐっしょりと濡らしてしまっている。倒れ伏した瞬間に、殆ど眼前で割れてしまったらしい。
「大丈夫か!」
トド松はうずくまったまま動かない。朝の姿が頭をよぎり、駆け寄って肩に触れる。しゃがみこんでその顔を覗き込んでも、薄闇の中で表情はよく見えない。
「トド松……」
返事はない。代わりに、トド松が小さく唸った。痛かったのだろうか。それとも冷たかったか。すまなかった、と言う俺の声は音にならない。代わりに、声になるはずだった吐息が漏れる。白く浮かぶ吐息を、たしかに見た。
「っ……ぐ、が……!」
呼吸が、出来ない。トド松の指が首に食い込んでいる。息を吸おうとしても、その手に阻まれて苦しさが増すばかりだ。
首にかけられた腕に爪を立てる。外そうにも、力が強すぎる。
修道士から貰った書の中にあった記述を思い出す。聖水を浴びせられると、攻撃と認識してしまうことを。
思い出したとして、もう遅い。爪がきりきりと首に食い込んでくる。トド松の目は虚ろで、声が出ない以上俺に気がついてもらうのも難しい気がしてくる。
目を覚ましてくれ。言葉はもう届かない。いよいよ目の前が明滅してくる。
意識が途切れる前、悪あがきにトド松の腰に足をかけ、思い切り蹴飛ばした。肉体が腐りかけているのだから、体幹を崩せば腕の力が緩まるのではないかと思ったのだ。だが、首をしめられながら力なんて入らなくて、何の効果もない。もう一度蹴る。ぐずりと腐った肉がはがれ、かろうじて繋がっていた骨が砕け、ずるりとだらしなく腸がはみ出すのを見た。目を逸らすことは出来なかった。
それでも指は外れない。
明滅は止み、目の前が段々暗くなってくるのを感じていた。俺が先に死ぬことになりそうだ。そう思うと、急に身体の力が抜けた。人間、生きることを諦めると抵抗する気力はなくなるらしい。
導いてやるつもりだったのに、声も出なければ手も出せない。せめてトド松が転生を受け入れ、新たな人生を歩めるように、苦しいことがないように祈るのが精一杯だった。
――神を愛し、善なる行いを経て、再び世に出でよ。
薄れゆく意識の中、ぐうと腹のなる音が聞こえた。俺の腹ではないとすれば。ゾンビの食欲の結びつく先は。
考える間はなく、俺の意識は暗闇の中に飲まれて消えた。
おなかがすいていた。ずっと。けれど今は満たされている。
何かを噛んでいる。ぐにゃぐにゃとしたそれが噛み切れなくて、床に吐き出した。それでもまだ口の中に何かが残っている。
おなかがいっぱいで、あたたかい。お腹を撫でる。お腹から下、何かが伸びている。服の紐にしては太く、てらてらしている。
カラ松にお礼を言わなきゃいけない。
今日のご飯は吐かなくて済みそうだ、と言えばどんなに喜んでくれるだろう。毎日吐くところばかり見せて、ずっと謝りたいと思っていた。
ところで、僕は何を食べているんだろう。
手元を見れば赤黒い何かがある。手が粘つく。手づかみで食べたら汚してしまう。叱られちゃう。
咄嗟に掴んでいた何かを落とした。最近、夜のほうがよく見えるのによく見えないしわからない。
――カラ松、今日のご飯、何だったの?
カラ松の名前を呼んでは見るが、喉は震えてくれなかった。
ふと、僕の後ろに誰かが立っていることに気がついた。
背中に羽が生えた人が、顔を顰めて傍に立っている。
「とんでもないことをしたな」
何のことかわからない。刺々しい口ぶりに、叱られる、と思って体を縮ませる。怒られるのはきらいだ。
「お前の腹を満たしているのが、あの神父だよ」
さっき取り落とした何かを見る。やっぱりよく見えない。神父。カラ松。おなかがいっぱいだ。僕が食べていたのは、あれは何だろう、考えたくない。
「俺はお前を迎えにきた悪魔なんだけどさあ……」
悪魔は片手を上げ、親指、人差し指、中指を順番に曲げていく。
「神を疑った、これはそんなに重くない。皆人生の中で何度か疑うものだからね。転生を拒んだ、これは結構重い。さっさと連れていけば良かったかな……神父がやるっていったから、俺は出直したんだけど」
悪魔はじろりと僕を睨む。面白くない、気に食わない、と顔に書いてある。
「人の命を奪った、これが一番重い」
罪の計上をされた僕を見て、悪魔はため息を吐いた。
「百五十年くらいかな、地獄で償って貰わないとね」
地獄。僕はやっぱり天にいけないんだ。悪魔が手を伸ばすけれど、静電気みたいにパチンと音がして手が遠のいた。悪魔は怪訝そうな顔をしている。
「えぇ~何これ、困るなあ……」
腕組みをした悪魔は少し考えて、それからくどくど喋り始めた。
曰く、僕は半分生きていて、半分死んでいる状態らしい。肉体は死んでいるのに、魂だけは女神様の水を受けたあとのように潤っていると言う。それは何故か。神父を食べたからだ。毎日飲む水のほとんどが聖水の神父の肉体は、もはや聖水といっても過言ではない。聖水を飲めば魂と肉体は切り離されるはずだが、聖水同然の神父の肉を取り込んだことで魂だけが潤ってしまったのではないかと悪魔は言った。どうやら、ゾンビになっても人肉なら食べられるようで、それは神父の肉でも例外ではないらしい。
「悪魔は、渇いた魂じゃないきゃ連れていけないから」
腐敗した体でも、転生を拒んだ魂でも、潤っている魂に悪魔は介入出来ないのだとか。つまり、僕はどこにも行くところがないらしい。
「こんなこと初めてだよー、人間ってすっごいね」
悪魔はさっきまでの不機嫌はどこへやら、にっこり笑った。予想出来ないって楽しいねえ、なんて言われても僕にはさっぱりわからない。
「とりあえず百年、様子見ようか」
悪魔は優しい笑顔を浮かべて、さらりと途方もない未来の話をした。
「それぐらい経てば、さすがに渇くと思うんだよな」
肉体はとっくに駄目になっている。腐りかけているし、下半身だってない。けれどその中身、僕の魂だけが不自然に潤ってしまった。女神様の水を受けず、神父――カラ松を食べてしまったから。
「ひゃくねん」
「短縮するとしたら……聖具で体をこう、ズバーって」
悪魔は尻尾を使って僕の体を切る真似をする。
「恨むなら自分を恨めよ、神父様は悪くねえもん」
僕はようやく、自分のやったことを理解した。ぶるぶると体が震えてくる。今更だ、わかっている。
悪魔はカラ松を抱えるみたいにしてずるりと祭壇の前から入り口まで引っ張っていく。ずるり、ずるり、と絨毯の上を滑る音が僕の心をざわつかせた。
「もうすぐ人間たちが来る」
いつのまにか、月は沈んで日が昇っていたらしい。
僕は一度頷いて、後を追いかけようとしたのだけれど体がうまく動かない。這うようにして後を追いかけるけれど、悪魔は待ってくれない。
「教会はうまいこと封鎖しておいてやるからさ」
ゾンビの存在が知られても面倒だし、と付け足された方が本音だろう。悪魔は入り口の前までカラ松を運んで、それから教会の鍵を開けた。
――この教会で、百年の間過ごさなければいけない。
「じゃ、また百年後に」
一方的に約束を取り付けられてしまった。
悪魔は下半身を失った僕を犬か猫みたいに抱きかかえて祭壇の陰に隠し、どこから取り出したのかわからない帽子を深く被る。
すぐに扉をどんどんと叩く音がし始めた。
「ま、それまで神父様への償いでもしてな」
善良な市民の振りをした悪魔は、鍵を開けて人を招き入れた。大変なんだ、神父様が。絹を裂くような悲鳴。複数人の手で運び出されるカラ松を見ていた。カソックが揺れる。ぼたり、とその先端から血が落ちた。
困らせたくなかった。生き返った原因がお前に好きだって言えなかったからなんて、格好悪すぎた。
伝えるどころか、僕はその命を奪ってしまったのだ。
人の声は遠ざかっていって、扉を外から打ち付ける音が聞こえている。きっと悪魔が扉を閉じているのだ。
両手を見る。薄暗い中でもわかるくらい、何かがべったりとついている。これは血だ。カラ松の。
僕自身の罪を認め、向き合い、償う。
百年という時は両手じゃ数えられない。そんなつもりじゃ、なかったのに。
今頃言っても遅い。薄暗い教会の中ですすり泣いた。ゾンビでも、涙は流せるようだった。