セラヴィ、の言葉を教えてくれたのはイヤミだった。
耳慣れない言葉の響きに、どういう意味なのと尋ねたのはほとんど反射だ。嫌味ったらしくて金に汚くて子供にだって本気でかかってくるような大人に聞いてもきっと答えは返ってこないと知っているのに、好奇心に負けた。イヤミは片方の眉を上げ、一張羅のスーツの襟をぴんと伸ばして、人生なんてそんなものざんすと格好つけた。気まぐれで教えられた言葉は、案外俺の中に残ったのだった。
人生なんてそんなものさと口の中で小さく呟くのは、大概どうしようもない出来事があったときだ。例えば眠気に任せて寝倒して朝食を食いはぐれたとか、食いはぐれたというのに皿洗いだけ都合よく押し付けられたとか、こういう日に限って水が冷たいとか、手を滑らせて皿を割った挙句指先に怪我を負うとか、何だかうまくいかないなと思ったとき。
「ふ、うまくいきすぎる人生もつまらないということか」
「何かっこつけてんの、まだ血止まってないよ」
人生は失敗のぶんだけよいことが返ってくる、という考えは持論だ。セラヴィと口の中で呟いた分だけ、いつか良いことが返ってくる。今日でいえば、割れた皿で案外深く切れた指先の処置をどうすべきか混乱の渦に飲み込まれた俺を、たまたま出かける準備をしていたトド松があれこれと世話を焼いて傍についてくれたことは、よいことに数えても良いはずだ。
「ほんっと、損だよねえ! 食べた分くらい自分で洗えって言えばいいじゃん」
お前が使った器もあったけど、といいかけてやめる。そういう話は今していないのだ。トド松は時たまこうして、俺が唯々諾々としているのが気に食わなくて色々言う癖がある。繰りかえし同じ話をするトド松の顔は何となくチョロ松に似ている気がする。
「マミーに頼まれたら嫌だと言えないだろう」
「あー、母さんじゃねえ……でもさ、その前におそ松兄さんが言い付けられてたんじゃないの?」
「長男で呼びつけやすいからって俺ばっかりつかわないでよって拗ねた」
それもまたセラヴィだ。おそ松の分の。
トド松は苦虫を噛み潰すような顔をしている。もっとうまいことやりなよと呟きながら、俺の指先にくるりと絆創膏を巻いた。ガーゼがない、水にも強い絆創膏。高いからあんまり使うなとはここにいない三男の弁だ。十四松が切り傷を作ったときなんかに使う。
「手伝ってとかさ、いいなよ。弟を上手く使ってさ」
「弟を上手く使う」
「ご褒美で釣り上げるとか考えたことない?」
十四松に、たまにやる。口封じというか、沈黙への協力願いだ。大体失敗する。セラヴィ。成功の方が少ないな、と気付いてまたセラヴィが増える。
「トド松を釣るには」
絆創膏を巻いたトド松の手をとってぎゅっと握る。今まで水を触っていた俺の手と違って、温まっている。体温を奪うようにべったりと指先を絡ませて、じっとその目を見つめる。
「どんなご褒美がいいだろうか」
トド松は唖然としている。指先は徐々に温まり、逆にトド松の手から体温は失われつつある。奪ってしまいたいわけではない。
「……あんたさ、質が悪いよ、わかってるくせに」
ついと反らされた目と、薄ら赤く染まる頬にしてやったりと笑みを返す。やってやれないことはない、ただやらないだけなのだというのは伝わっただろうか。
「うまくやるだけが人生ではないのさ、トド松」
そうさ、これがセラヴィってやつさ。付け足して言えば、頬を染めたままのトド松が、後で何でも言うこと聞いてもらうからねと俺をにらみつけていた。
【松】セラヴィ(62)
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