特異点の聖杯を回収した後、特異点が崩壊しないまま、時空の歪みとして独自の時間をほんの少しだけ歩み始めることがあった。
カルデアの調べによれば、かつて聖杯のあった影響らしい。時間の歪みはいずれ大きな時間の波に流れなくなってしまうから放っておいても問題はないのだが、時折聖杯の 残滓がその世界を傷つけることもある。 いずれなくなる世界とはいえ、自らが旅をした場所にはそれなりに愛着もある。それ ならば、自然に消えるその時まで、平穏を過ごせるようにしてやりたい。
さて、今回はローマの街である。皇帝ネロは健在、ご挨拶に伺うことはせず聖杯の余 波であった事象だけを探す。今回は情報を集めた結果、何も問題が起きていなかった。 良いことではあるが、ただの遠出になってしまった。
「いぞーさーん」
街の中を歩く。以蔵さんが見つからないのだ。わたしが出かけると言ったら護衛を請け負ってくれた以蔵さんだが、聞き込みは退屈だったらしくぷらぷらと外に出て行って しまった。
「いぞーさん、かえりますよー」
アサシンの特性なのか、近くにいるのか、遠くにいるのかすらわからない。困ったなと立ち止まった瞬間、肩を叩かれた。
「うわ」
思わず声を上げたのは以蔵さんの口元に赤い何かがついていたからだ。反射的に飛び のけば、以蔵さんはこれ見よがしに眉間にしわを寄せる。
「なんじゃあおまん、わしのことをそんな目で見て…」
「血………じゃない、サルビアか」
「おまんのぶんもあるがよ、ほら」
ローマのサルビアは薬として用いられていたのではなかったか。畑からむしってきた のでは、と心配になったが、目の前にはすでに真っ赤なサルビアが突き出されている。 ええい、もうどうにでもなれ。
赤い花を摘み、唇に咥える。舌先にほんのりと甘みを感じ、遠い故郷の幼い記憶が頭をよぎった。目を閉じ、それを忘れる。
「どうじゃ、気に入ったか?」
「以蔵さんは?」
「ええんじゃいか? ちくと物足りんが」
以蔵さんはサルビアの蜜を吸っては花を捨て、はらはらと足元に赤が散らせていく。指先はほのかに赤く、頬には小さな花びらがついている。
「以蔵さん」
名前を呼んで、その頬に手を伸ばした。花びらを払い、口元についた赤を指先で拭う。以蔵さんは目をぱちくりと瞬かせ、花をぎゅうと握った。はらりとまた花が落ちる。
「……ついてたよ、お花」
そっと囁けば、残っていたサルビアの花が顔面に飛んできた。以蔵さんはわたしを置いて早足で歩き出している。
後ろから見える以蔵さんの耳は、なんだか赤い。その赤は、自分の手の中にあるサルビアに似ていた。
「花泥棒になっちゃうな、わたし」
以蔵さんがこちらを見ていないのを確認して、密やかに笑う。わたしの手の中で、も はや僅かになったサルビアが揺れていた。