悪党のカラ松と、ジェイソンが館にたどり着くまで、なごみに至るまでのお話パックとなります。
・名前を勝手につけられる話
・名前を捨てられる話
・名前を呼んでもらえない話
など。
新月の夜
札束についた血は、何を使って落とせばいいのだろうか。
男と僕の間には血にまみれた札束が三つほど転がっている。
誰の血か。当然、僕のものではない。僕は偶然この場所に通りがかった身で、突然転がり出た札束に足を止めただけなのだから。
何しろ、働いていた工場をクビになった後だった。それも今月の給料を渡されながら、明日から来なくても良いからね、と天気の話をするようにあっさりとクビを切られてしまった。
今後の生活を考えれば、十円だって百円だって拾いたい。町の交番に届けて、後々の報労金を狙ってもいい。いや、拾ったことがばれなければ、このまま持ち去ってもいい。
はっと息を呑んで、周りを見渡す。月のない夜だ。そしてここは町外れの工場に続く裏寂れた森で、工員以外は滅多に通らない。
一瞬、足を止めた。
手を伸ばすかどうか迷う間に、草やぶから男が現れた。転がり出た札束を追って来たのだろう。がっかりするのと同時に、自身に戦慄した。たった一瞬で人のカネを奪う覚悟をするなんて、僕はどうしてしまったのだろうか。
男はと言えば、僕を見て困惑した様子のまま突っ立っている。年の頃は僕とあまり変わらないように見えるが、身なりは小綺麗を通り越して気障に見えるほど整えられている。汗と埃にまみれた作業着の僕と正反対と言えた。
「これ、あんたの?」
声をかけると、男は何度も頷いた。動き出すきっかけがお互いになく、気まずい沈黙に耐えきれなかったのは僕だった。それに、札束を拾って彼に渡せば、人のカネを奪おうとした己をごまかせる気がした。
自己嫌悪にまみれながら拾い上げれば、べっとりと濡れた感触がして反射的に札束を取り落としてしまった。男が、小さくあっと声を上げた。
薄闇の中でよく見えない。けれど、べっとりとした自分の手から、鉄さびのような匂いがする。血だ、と反射的に理解して顔を上げた。
男は困惑している。僕は自分の手と、血にまみれた札束を交互に見て、ごくりと喉を鳴らした。
工場へと続く人気の無い道。このあたりでは見たことのない小綺麗な格好の男。新月の夜。血にまみれた札束。
不穏な想像をするな、という方に無理があった。
「ひ、ひとごろし……!」
声が震える。血にまみれた札束を指さして言えば、男はまるで心外だと言うように首を振った。
「違う、俺は殺しちゃいない! 誤解しないでくれ!」
「血まみれの札束もってうろうろしてるやつの何を信じろってんだ? どこの誰から奪い取ったカネなんだよ!」
「とにかく落ち着いてくれ! 人が来たらヤバいだろう?」
ヤバいのはお前だけだ、と叫びかけた口を、男に塞がれる。その手のひらからも鉄さびた匂いがした。
札束が血まみれで転がっていて男が二人。どう考えても、何を言っても共犯扱いされることは明らかだった。
大きく息を吸う。吐く。口を塞ぐ男の手をはらって、べっとりと濡れた札束を拾い上げた。警察に突き出すのは、話を聞いてからでも遅くないだろう。
「で、何でこんなもん持ってんの」
まだ濡れている部分に土や草がついて汚れている。その部分を差しながら問いかければ、男はぱっと明るい表情を見せた。どうやらこのまま通報されるものと諦めていたらしい。
「俺の名前は松野カラ松。しがないギャングだ」
カラ松と名乗った男は大木を背にゆっくりと話し始めた。
曰く、カラ松は泥棒を生業にしている。ギャングと言うから柄の悪い仕事を想像させるが、実際のところは金庫破りが得意で、人の出入りが多い屋敷や、小金を隠し持った工場、或いは不正で生まれた隠し金を得て生活していると言う。
「この先の工場で大金を動かしてるって話を聞いてな。お邪魔してみたんだが、もう一悶着あったあとだったわけさ」
「誰が誰を……」
「出っ歯の男が倒れていた」
社長の方だ。工員を歯車扱いして、効率と納期のことしか考えていない。少し作業の手を止めれば怒声が飛んでくるから、雇い主とはいえ工場の中でも疎まれている。
「恐らく給料の支払いか何かで揉めたんだろうな。縦縞の作業着の男も倒れていて、二人の間には凶器であろう刃物があった。その間には血まみれの札束があって、俺はそれを失敬したというわけだ」
縦縞の作業着と言えば、工場長の方だ。社長に不満をもつ工員をフォローしてくれる貴重な存在でもあった。僕はつい数時間前、彼の口から解雇を告げられている。
「その状態でなんで通報もせず失敬してくるわけ……」
「俺はギャングだぞ? 金が目の前にあったらいただくのは当然だ。むしろ失礼だろう、取ってくれと言っているようなものなんだから」
倫理観がズレている。頭が痛くなってきた。それに、事実の確認もしたい。もし本当に工場の中で何かが起きてしまったなら、元従業員のよしみで通報くらいはしてやらねば。
話は、終わった。さて、知り合いの血を被った札束を持っているのにも嫌悪感がある。
「もう何でも良いよ、俺は帰る……もうあんたには関わらないからどこにでもいっていいよ、松野カラ松さん」
札束を押しつけ、ひらひらと手を振る。平静を装ってその場を離れるつもりだった。
話を聞き終わって、気がついた。
誤解だ、俺は殺していないと言った。けれど、人が死んでいることに対して思うことは何もなかった。なぜなら、人が死んでいる中で金だけを引っつかんで出て行くことが出来るのだから。
人の死に何も思うことがない人間が、目撃者である僕をそのまま逃がすだろうか? 僕を始末することは、十分に考えられるのではないだろうか。
「いやいや、待ちたまえ。ええと……」
カラ松は僕の腕をがっしと捕まえて引き留める。逃げそびれた。遅かったか。首の後ろがさっと冷え、胃がきゅっと縮んだような感覚に息を吐くのを一瞬忘れてしまった。
「君の名前は?」
黙る。この状況で個人情報を渡す人間がいるだろうか。つい先ほど、殺人の現場を無視した人間だ。しかも、その現場から血まみれの札束を奪ってのうのうと森を歩いているような自称ギャングに告げる名前なんて、持ち合わせていない。
「なんだ、名前がないのか? なら俺が名前をつけよう!」
暗い中で視界が定まらないのか、カラ松は僕をじっと見つめて目を細める。振りほどいて逃げようか、それとも突き飛ばそうか、下手に危害を加えて追いかけてこられても怖いし、どうすればいい、何をするのがいいんだ、何もわからない!
「ジェイソン!」
はあ、と素っ頓狂な声をあげてしまった。
「なんでジェイソン……」
「今日が十三日の金曜日だからだ! 俺はミスター・スミスでも、ジョン・ドゥでも構わないが?」
名無しにつけられる仮名を並べられても、困る。とはいえ名前を教える気もない。好きなモノを選んで良い、というカラ松に対してため息をついた。何でもいい。
「提案なんだが、俺と一緒に働く気はないか?」
「こそ泥の片棒担げって言うのかよ」
じろりと睨み付ければ、カラ松は小さくひっと声を上げた。
「……血まみれの札束を離さなかっただろ?」
カラ松は、札束――血にまみれて、もはやそれがただの紙なのか、金なのかわからなくなったもの――の一番上から一枚を取り出して、くしゃりと丸めた。捨てるつもりなのだろうか。いくら血にまみれていたとして金は金である。むやみに傷つけるとか、捨てるとか、考えるだけで心が痛んだ。
「君は今、多少ショックを受けているだろうけども」
カラ松は、ポケットからマッチを取り出して火を熾す。まさかと思うより先に、丸めた紙の端に燃え移った。ほのかな明かりが、僕とカラ松の顔を照らしている。自分の頬が引きつるのがわかった。カラ松は、特にショックを受けてもいない。
「たった一枚がなんだって世界、知りたくないか?」
格好つけて何を言っているのだとか、所詮こそ泥だろうとか、何か反論してやればよかった。僕は燃えるそれではなく、カラ松の持つ束を見ていた。
汚れた一枚だけを取り去ったら、その下はなんともない、普通の、僕の財布にもある金と同じだった。汚れたものだけどうにかしてしまえば、金は金であることに変わりないのだ。
「さあジェイソン、君と俺の出会いに乾杯といこう」
僕の手を引き、ほのかな明かりを頼りにカラ松は歩き出す。明かりはすぐに灰になり、消えた。血で汚れた札束なんて、もうどこにもなかった。
冷たい雨
僕がジェイソンと名前をつけられてからどれくらい月日が経ったのかは、もうわからない。松野カラ松と名乗った男とは、何故かまだ一緒にいる。離れる理由も機会もあったのだが、それを必要だと感じなかった。
簡単に言えば、彼自身に興味が湧いたのだ。
カラ松は、その時々で自らの名前を変えているようだった。画商のスミスとして富豪の家に堂々と営業に行くこともあれば、貴族のジョンとして僕を下男のように扱って情報を仕入れにいくこともある。そして仕入れた情報は余すことなく使うし、盗れる金は根こそぎ奪う。こそ泥としては優秀なのだろう。金が紙切れに見えると言っていたのも納得できた。
不思議なのは、場所と名前さえ変えればこの男は誰からもまったく別人のように扱われることだった。
冷たい雨の日だった。富豪の家に絵を売りつけて金庫の在り処を探り、ダイヤルを解除して根こそぎ奪ってきた夜のことだ。
スミスは、伊達眼鏡を外してゴミ袋にたたき込む。さっきまで札束がごっそり入っていたが、今は空っぽだ。
「もうスミスは使えないな」
「あんだけやりゃ当然だろ……」
カラ松は、一緒にやると言いながらも現場に僕を連れて行くことはなかった。連れて行ったとして、なんだかわからないものの運搬や、移動のために車を回すことを求める程度だったから、僕はただただ積み上がっていく金を見ていることが仕事と言っても過言ではなかった。
「名前を捨てなくちゃあな」
スミスとして行動していたときの服やら靴、信頼を得るために使った名刺なんかの小物を順に袋に放り入れていく。
「俺の名前は捨てなくていいの」
ふと、気がついた。カラ松は何度も名前を捨てて、新たな名前を作ってを繰り返しているが、僕のジェイソン、という名前が変わることはなかった。
「捨てたら君の名前、なくならないか?」
「いや俺にも名前、あるから」
言っていないだけで、本名はある。単純に必要でなかったし、伝えることで何かトラブルがあっても面倒だと思っていたから言わなかっただけの話なのだが、カラ松は珍しく声を荒らげる。
「バッドボーイだ、ジェイソン! 悪い子だな! 何故だ? 何故俺に言ってくれなかったんだ? 本当の名前は大事にしなきゃいけないだろう?」
「お前が俺の名前を勝手に使わない保証がないから」
カラ松はがっくりと肩を落とし、シャツのボタンをぷちぷちと外していく。途中から面倒になったらしく、腕を抜いて適当に脱ぎ捨てた。僕はなるべくそれを見ないよう、視線を外す。なんだか、肌色というだけでぎょっとするのだ。
「君が望むなら、ジェイソンという名前を捨てていいし、本当の名前を俺に教えてもいい」
「俺だけ名前を言うの? 不公平じゃない?」
「もう俺の名前は教えたろう? 松野カラ松だと」
驚いた。名前をとっかえひっかえしているからきっとその名前も本名ではないのだろう、と思っていたのだ。
カラ松。出会ったとき、すぐに本当の名前を僕に教えていたことになる。そんなことがあるだろうか? 自分を怪しんでいる人間に対して、殺人現場を無視して金を奪ったことを知っている人間に対して、名前を教えるなんて。僕が通報しないとも限らないのに。そんなに他人を信頼しているのだろうか。
「怪しまれているからこそ誠実に……というわけではないが、君があんまり怯えるものだから俺もテンパったというか」
事故じゃねえか。小さく舌を打つと、カラ松はびくりと身体を震わせた。大げさなくらいだ。
仕事のときはそれなりに手を抜かない姿を見ているだけに、急な事態への対応の雑さに呆れてしまった。単純に、想定外の出来事に弱いのかもしれない。
「フェアじゃないのは君のほうだったな、ジェイソン? スミスという名前をお下がりであげても構わないがどうする?」
カラ松はにやにやと笑いながら白いバスローブを羽織る。今夜はこの部屋で眠るつもりらしい。いつもは名前を捨てたらすぐその町を出るから、珍しい光景だ。
「スミスはいらない、足がついたら面倒」
「ならジェイソンは?」
「それも別に……あんたしかその名前で呼ばないし」
今は、ジェイソンと呼ばれる方がしっくりくるくらいだ。そう言うのはなんだか照れくさくて、僕は言葉を飲み込む。沈黙は、窓を叩く雨音が埋めてくれる。
「……寒いな。ジェイソン、一緒に寝よう」
カラ松はベッドに潜り込んで、僕を手招きしている。一緒に寝るだけだ。人の体温がある方が落ち着くし暖かくてよく眠れると言うから仕方なくそうするだけで、僕が一緒に寝たいわけじゃない。
のろのろと立ち上がり、カラ松の隣に寝転ぶ。柔らかな毛布を肩までかけてやれば、満足そうに目を細める。何でまだ一緒にいるんだろう、と改めて不思議に思った。
「君が来てからよく眠れるようになった」
枕に頭を預け、毛布にくるまりながら、カラ松はぽつりぽつりと話し始めた。雨音の憂鬱さがそうさせたのか、仕事を終えた満足感がそうさせたのかはわからない。僕はただ、ぼんやりとその声を聞いている。
昔からずっと一人でいること。幸福な王子の童話を聞き、まねごとをしてみようと思ったこと。盗んだ宝石を与えた家が、盗人の疑いをかけられたこと。疑いを晴らすために宝石をその家から再び盗んだこと。話を聞きながら、そういえば名前がたくさんあって、こそ泥であること以外はほとんどカラ松のことを知らないことに気がついた。
「俺は耳がいいから、金庫のダイヤルひねって開けるくらいは簡単なんだ……人を虐めて稼いだ金を奪って世界平和に使う、こんなにクールなことはないだろ?」
「好きそうだね、あんた。そういうの……」
「でもな、誰も俺がやったって知らないんだぜ?」
そんなのはつまらないだろう、とカラ松は唇を尖らせた。子供っぽい動機は、本人の性格に由来しているのかもしれない。
カラ松が寝返りを打つと、視界いっぱいに白いバスローブが広がった。パジャマも下着もいらない、らしい。
「知られたくない気持ちもあるんだ。俺が金を奪うことで不幸になった人間もいるわけだから」
それならやめれば、と言いかけてやめる。言ってやめるくらいならとっくにやめている、と思ったからだ。時に人に知られたいと思いながら、時に誰にも知られたくないと思いながら、こんな生活を続けている。それがカラ松と言う人間なのだろう。少なくとも僕からはそう見える。
「だからこそ君が居てくれると、安心する」
僅かな沈黙。窓を叩く雨音は、さっきより随分激しい。外はきっと嵐のように荒れている。
「ジェイソン、君の名前は……いつか俺に教えてくれよな」
おやすみ、と会話が唐突に終わった。外はごうごうと風が吹き荒れている。時折、稲光も走った。
そんな言い方あるか、と思いながら、バスローブを睨み付けている。ほとんど言ってくれと言っているようなものだ。僕にジェイソンと名前をつけておきながら、あまりにあっさりとそれを捨てて本当の名前を言えと態度で示している。
「俺の名前はジェイソンだよ」
捨てるのであれば、もう呼ぶ人間のいない名前の方だ。親兄弟はなく、社会的な立場もない。ただ、必要とされるときに呼ぶ名前があればいい。
カラ松の背中に、名前を教える日は来ないと呟いた。けれど、僕の声は雨音に消されてしまった。
夜明け前
「見ろ、ジェイソン! 立派な屋敷だ!」
「見りゃわかるから、てめえも荷物を運べ!」
あの雨の日から僅か半年。カラ松は、金庫破りを辞めた。集めた金で土地を買い、人を使って運用することを始めた。すぐに飽きてこそ泥に戻るだろうと思いきや、それが案外向いていたのだ。
事業が波に乗り、松野カラ松として屋敷を手に入れたのだ。
屋敷は確かに立派だった。だが、どこかうら寂しい雰囲気がある。元々は目映いほど白かったであろう外壁が埃で汚れているとか、窓ガラスが割れているとか、庭園が荒れ放題だとか、不穏ささえ感じるほどだった。
「調度品もそのまま残っている! 掃除を自分でするなら構わないと言われたが思ったより綺麗じゃないか!」
「今まで泊まり歩いたホテルのほうが上等だろ……」
良いことが続くと、悪いことが起きるような気がする。羽振りがいいだけに、その揺り返しを想像するだに恐ろしいのだ。
「ちょっとした夢だったんだ、家を持つことは」
カラ松は家の鍵を手にしながら、じっと屋敷を見つめている。
「帰る場所なんてなかったから」
待つ人もいなかったのだから当然だが、と付け足して笑う。その笑みは自身を皮肉っていた。名前を捨て、町から町へ渡り歩くことを選んだスミスやジョンを。
「今はジェイソンも居る。俺のスイートホームはここだったのさ! ここにたどり着くための……フッ、長き道のりだった!」
「かっこつけてないで、手動かせや」
荷物の一つを投げつける。カラ松は時折、自己演出のために劇場で聞くようなわざとわしい言葉回しをすることがあった。事前にこういう場面で言うならこの台詞だ、と考えておく癖があるらしい。
人の手が入らず伸び放題の庭園。謎の時計塔。壊れたボートが岸で折り重なる湖。あまり良い想像を呼ばないそれでも、カラ松には輝かしい我が家に見えているに違いない。
ふと気がつく。カラ松の言うスイートホームに、当然のように僕の名前が加えられていた。じゃあさようなら、と追い出される日がくるかもしれないと思っていた。
「俺が出て行くとは思わないわけ?」
間抜け面のカラ松が、僕を見つめていた。
「……その、ジェイソンはここにいるものと思っていたんだが」
さっきまでの流暢な、どこか演技じみた口調はなりを潜め、気弱な表情が浮かぶ。
「出て行く理由ないから」
慌てて残りの荷物をカラ松に押しつける。疑いを含む目線は居心地が悪い。何故そんなことを口走ってしまったのか、自分でもわからないのに。
「いるって言ってんだろ! ほら、掃除。カラ松がやれよ」
「ああ、わかった、わかったから……」
扉の鍵を開け、屋敷へ一歩足を踏み入れたカラ松が振り返る。荷物を受け取るつもりかと手元のそれを持ち上げたところで、いつまで経っても受け取る様子がない。何だよ、と言えば、カラ松は満面の笑みを浮かべた。
「名前を呼んだの、初めてじゃないか?」
「はあ?」
何を言い出すのか。本人がスミスだったり、ジョンだったり、他の名前であることが多いから名前を呼ぶ機会があまりなかっただけで、用事があれば名前くらい呼ぶだろう。
「フフ、照れなくてもいい……俺のことを本当の兄と思って、いつでもカラ松と呼んでもいいんだからな……」
カラ松はよっぽど嬉しいのか、勢いのまま僕をハグして、そのまま上機嫌に屋敷の中に消えていった。屋敷の中の探索、といったところだろう。
「何あれ……」
家を得るのが夢だった。昔は一人だった。名前を呼ばれて喜んだ。幸福の王子に憧れた。名も無き人々に幸せを与えるつもりが、出来なかった。
名前をいくつも捨ててきた人生において、僕があいつの名前を呼ぶことはきっと意味のあることなのだ。それは僕もよく知っている喜びだから。
ジェイソン、と僕のことを呼ぶのはカラ松だけだ。名前に意味があるというより、カラ松が僕を呼ぶから意味がある。必要とされているのだと感じることは、喜びに似ていた。
屋敷の中をばたばたと走り回る音がする。がしゃん、ぱりん、と破壊音を伴って。このままでは掃除すらまともに出来ない状態になる。
「カラ松! 走るのやめろ、床が抜ける!」
「結構楽しいぞ、ジェイソン!」
クソ松め。無邪気にはしゃぎやがって、館を買った金より修理する金のほうが高くついたら安く手に入れた意味が全く無くなるじゃないか。
屋敷の中は埃だらけでかび臭い。これは今日一日かけても掃除なんて終わらないだろう。早々に掃除を諦めた僕は、未だにはしゃいで屋敷の中をうろついているカラ松を捕まえるべく、屋敷の内側へ足を踏み入れたのだった。
続、冷たい雨
カラ松が名前をつけては捨て、町を転々としていた頃のような冷たい雨の降った日のことだ。小鳥の囀りに目を覚まし、いつも通り朝食を作ろうとキッチンへ続く通路の途中で、バスローブのカラ松が倒れているのを見つけた。
さっと背筋が冷える。白いバスローブの背中には、愛用の包丁が突き立てられていたからだ。床に広がる血の海、ぴくりとも動かない身体。死んでいるな、というのは直感でわかったが、わかったからといって混乱しないわけではなかった。
走りより、触れる。身体が冷たい。随分時間が経っている。蘇生も何も出来ない、と思って早々に警察を呼んだ。迷いは無かった。
警察を呼ぶには、百十番。二コールでつながる。何がありましたか、と柔らかな声。人が死にました、と言えば電話口の向こうが凍りついた。松野カラ松という男です。住所を続けて告げれば、通報者であるあなたの名前は、と尋ねられた。
「……一松です。松野一松」
案外、すんなりと名前を言うことが出来た。名乗ったのは何年ぶりだろう。わからない。カラ松に伝えたことはなかったが、同じ名字を持っていて、名前に同じ字を持っていた。今、向かいますから。冷静に。落ち着いて待っていて下さいね、と告げて電話が切れる。僕はしばらく電話の前でぼんやりと立ち尽くしていたけれど、カラ松の側に行こうと思った。
冷たくなった身体の側に立つ。床に、血文字でふくめんと書いてある。まず間違いなく殺人だが、心当たりがありすぎてわからない。
「カラ松」
名前を呼ぶ。当然、返事はない。
「カラ松……」
名前を、言いそびれてしまった。松野一松という僕の名前を知らないまま、あいつは逝ってしまった。いや、呼ばれなかった名前なら、そのまま知られなくてもよかったのかもしれない。
なら、ジェイソンという名前はどうなるのだろう。あいつにもらった名前だ。あいつが僕につけた名前だ。あいつしか呼ばなかった、僕の名だ。
「……知らなきゃよかった、お前の名前なんて」
カラ松という名前に、思いがありすぎる。嫌いでは無かった。むしろ心地よかった。もうお前の名前を呼ぶことが出来ないのなら、知らなければ良かった。最初から偽りの名を名乗ってくれれば、こんなことには。
ジェイソンと僕を呼ぶ声だけが、耳の奥に残されてしまった。