春が終わり、雨季を迎えるまでの間は通り雨が増える。水桶をひっくり返したような大雨が降り、しばらくすると止む。故郷には無いそれは、いつ見ても不思議な光景だった。
馬屋の修繕に関して、必要となる木材や人手をとりまとめ、諸葛亮殿の執務室へ運んでいる途中、ぽつりと頬に水滴が落ちた。
空を見上げる。分厚く、重たい色の雲が広がっている。
雨雲だ、と思うより前に大きな粒が額に落ちた。多少雨に濡れるくらいは構わないのだが、腕に抱えている書が傷んでしまう。
こんな時に、と内心舌打ちをして屋根の無い渡り廊下を走る。一歩踏み出すごとに、ぴしゃりと水が跳ねた。すでに背中が冷たい。
廊下を渡り切り、軒下へ逃げ込む。ほんの少しの間なのに、すっかり濡れ鼠になってしまった。腕の中にある書を恐る恐る確かめる。何とか、直接濡れることは防げたようだった。
ほっとしながら、雨の届かない場所を探して一端書を置く。濡れたまま腕に抱えていたら、墨が滲んでしまいそうだったからだ。
濡れたまま、諸葛亮殿の執務室に向かうわけにもいかない。しばらくの間、降り続く雨を見ながら立ち尽くす。
「おや、馬超殿」
背後から穏やかな声。振り向くと、執務室から出てきたらしい諸葛亮殿が立っていた。
「雨宿りですか?」
「突然降られたところで……これから向かうところだったのですが、このままでは入れませんから」
上掛けの肩を摘まんで、濡れた部分を指さす。
「では、書はここでお預かりしましょう」
濡れたまま入られてもお互い困りますから、と付け足して諸葛亮殿は笑う。苦笑を返し、雨の届かないところに置いていた書を拾い上げ、手渡す。
さて、用事は済んだがこの雨では身動きが取れない。どうしたものかと再び雨の様子を見る。
諸葛亮殿は俺に付き合ってか、黙って同じように雨を眺めている。
「……馬岱はお役に立っていますか、諸葛亮殿?」
「ええ、とても」
馬岱は、諸葛亮殿から諸々の仕事を請け負っているようだと気付いたのは随分前になる。自分から始めたことなのか、彼に誘われて始めたことなのか、俺にはわからない。直接告げられない以上は、馬岱に聞くべきでないと思っている。
「それなら、良かった」
会話が途切れる。雨は強くなるばかりで、止む気配がない。
この間のことを尋ねるべきか、迷っていた。
馬岱の様子がおかしいのだが、原因に心当たりはない。何があったのか直接聞こうにも、誤魔化されて話にならない。どうすべきか考えていたら、全てを見透かすように諸葛亮殿が便宜を図ってくれた。
「……仲直りは出来ましたか」
小さな子供に聞かせるような声で尋ねられると、弱る。実際、彼にさせてしまったのはそういう次元のことで、申し訳なさで頭が下がった。
ただ頷いて返事をすると、満足そうに微笑んだ。俺の態度で十分わかる、と言っているように見えた。
諸葛亮殿は、そのまま遠くへ視線を投げる。西の方角だ。険しい山の向こうを越えて行けば漢中があり、その先には懐かしい故郷である西涼がある。目を細めてみても、雨でけぶる山々しか見えない。
「あなたが快く過ごしてくれていると、私も安心します」
「前よりずっと、良くして頂いている」
蜀に降る前の話だ。諸葛亮殿の策で、戻ることも出来なくなってこの地へ降らざるを得なくなったことを、気にしているのだろう。
あれはただのきっかけに過ぎない、と今は思っている。劉備殿の仁に胸討たれ、彼のために武を振るうことが出来るのが誇らしいと思った。だからこそ、自ら馬屋の修繕だの、騎兵の育成だのに手を出している。
「……もうすぐ雨が上がりますね」
気付けば、雨脚は弱りつつあった。空に広がる雲も薄墨のような色に変わり、晴れ間を覗かせつつある。
「夕方過ぎから降る雨は、一晩止まない雨になりそうな気がします」
「占術ですか?」
「私の勘です」
肩を竦めて、諸葛亮殿は笑う。
「早めに帰ったほうがよろしいかと」
それでは、と手を合わせて諸葛亮殿は去っていく。
一晩止まない雨、となるとこの後の作業に支障がありそうだ。馬屋へ戻ったら何から片付けるか考えながら、彼の背中を見送った。
青空が顔を覗かせた後、馬屋へ向かい、部下へ指示を飛ばし、取引の手形だのを抱えて邸に戻る。
分厚く、暗い色の雲が空を塞いでいく。夕方から雨が降る、という諸葛亮殿の言葉を守るように。
邸に帰りつくと、庭先に馬岱がいる。俺の姿を見つけると、作業の手を止めてわざわざ迎えに走ってきた。子犬か何かか、と思いながらも悪い気はしない。
「おかえり、今日は随分早く終わったんだね」
「これから雨が降ると聞いてな、濡れると困る代物があったから早めに上がった」
書簡や手形の束を見せると、馬岱は苦笑した。お互い、こういった書き物仕事は苦手なのだ。
ふと、馬岱が視線を足元に落とし、まじまじと見つめてくる。何かあったかと自分でも見てみるが、変化は見つけられない。
「若、ぬかるみでも通った? 泥が跳ねてるよ」
「雨が降っただろう、その時に少し走った」
馬岱はきょとんとして、小首を傾げる。
「俺、ずっと外に居たけど雨は降らなかったよ」
次にきょとんとするのはこちらの番だった。確かに、邸の庭には水たまり一つない。何より、外に出ていたという馬岱が一切濡れていないのだ。
もしかしたら、あの雨は諸葛亮が呼んだのではないだろうか。龍と呼ばれることもある彼だから、雨を呼ぶくらい容易いだろう。
荒唐無稽な己の想像に笑いが込み上げる。あまりに想像が過ぎて馬岱にも言えない。
「まあ、夕立はあっちの山で降ってもこっちの山じゃ降らないとか言うしね、災難だったねえ」
「馬の背を分ける、とか言うらしいな」
実際のところは、馬のたてがみの片側で降り、片側では晴れている状況などは存在しない。言葉の例えだ。
「まだ濡れてるみたいだし、着替えて来たら?」
確かに、まだ背中が冷たい。体温で乾くかと想って放っておいたが、いつまでも濡れているのは気分が悪い。
早速着替えようと邸の入口へ向かう。馬岱とすれ違う瞬間、不意にに腕を引かれ、耳元へ囁かれた。
――今晩、来て、待ってるから。
一言でかっと頭に熱が昇る。馬岱は何事も無かったかのように庭へ戻り、作業の続きを始める。睨みつけているのだが、気にする様子もない。
己の反応が想いに翻弄される少女のようだ。そう思いながらも、嫌だとは思わないのだから大概酷い。
着替えたら、支度をするべきか少し迷う。一方的だったそれが通い合うものになっただけで十分と思っていたのに、今は熱を伴うそれも愛おしく、自ら触れたいという熱もあった。
ぽつり、と雨音が窓を叩く。諸葛亮殿は一晩止まないと言っていた。
窓が濡れ、雫が落ちて行くのをただ眺める。
雨が長引けば長引くほど、ここに留まっていられる。今かかりきりの執務が終わるまでは漢中に戻ることが出来ないからだ。
それでも、いつか終わる。雨が止むように、あっけなく。そうすれば、すぐに触れられる距離ではなくなってしまうのだ。
だから、それまでは。
いつか止むことを知っていても、この雨の中から出たくはなかった。