表紙

illust:ベーコン太郎 NIKU ON THE RICE

【WEB再録】未練は残さず踊るつもりだ(18/05 発行)

「お前、自分の大事なハートをどこに落としてきちゃったの

 ウケるよね、と返事をした。僕にはどうやら心がないらしい。兄弟に対する情が足りず、人付き合いに打算がある。

 対して、カラ松兄さんのハートはミラーボールで出来ていた。自らが発光しているようであり、誰かから注目されることでさらに輝いているようにも見えた。

 カラ松兄さんの心臓は、カラ松兄さんの形をしている。

 身体が透明になってしまった僕たちは、仕方なく絵の具で自分たちの姿を描いた。カラ松兄さんは殆ど自身の記号であるサングラスさえあれば十分だろう。髪型なんて僕たち皆同じで、差別化に必要な情報ではない。

「僕は大丈夫、自分で描くから」

 自己愛が過ぎる、と評されたのは良い。事実そうなのだから。絵の具で描いた顔だから表情はわからないが、カラ松兄さんが呆れたように僕のことを見ていた。

 この件は、それで終わったと思っていた。当然、もう触れられないだろうと思っていたのだ。例えばおそ松兄さんの顔がはっきり思い出せないことや、一松兄さんのハートがワレモノ注意の繊細な代物だということを。

 すぐに忘れるだろうと思っていたのに、ことあるごとに僕の心臓の在り処を探そうとカラ松兄さんは言った。

「可愛い弟の心臓がどこかで泣いているかと思うと、夜も眠れない」

 夜は隣でぐっすり眠っている。はい嘘、とカラ松兄さんの額にデコピンを一発入れた。

「気にしなくていいよ、僕は心臓に未練がないから」

 ここになくて困らないから、探しにいかないのだ。そう言うたびに、カラ松兄さんは小さく笑って、一人でどこかへ消えてしまう。一人で探しているのかもしれないと考えたことはあるのだが、まさか他人の心臓を探しに海へ山へ行くだろうか。

「本当にいいのに」

 そう言って引き留めれば、兄さんは困った顔をする。

「したいからするんだ。しなければ未練が残る」

 俺は後悔をせずに生きていきたいとまで言って、どこかへ消えてしまう。見つけられないだろうに、諦めが悪い。どこかへ消えていくカラ松兄さんの背中を見るたび、ここにない心臓が小さく痛む。

 そんな簡単なことも伝えられずに季節は過ぎて、冬が来た。カラ松兄さんは、未だに僕の心臓を見つけられずにいる。



未練は残さず踊るつもりだ



  ポットのお湯が尽き、僕と兄さんは無言で見つめあった。

「カラ松兄さん、さっきお腹空いたって言ってなかった

「お前こそ、温かいものが飲みたいと言っただろう

 湯飲みは渇いて、おやつ皿は空っぽだ。背後のストーブは、そろそろ灯油が切れるという悲鳴を上げている。

 お前が行け、いや兄さんが、と短く言葉を交わして一瞬にらみ合う。台所に立つついでに灯油も替えてもらう僕の作戦が台無しである。立っているものは親でも使え、というのは松野家ではよく聞く言葉だ。弟が兄を使う場面でよく聞く。

 ストーブで温かい居間にはいつまでもいられるが、ここから寒い台所へいくのはごめんだという意志が僕らの間を一瞬ひりつかせている。このまま押しつけあっても解決はしない。であれば、弟として僕のとる手段は一つだ。

「カラ松兄さん」

 そっとカラ松兄さんの肩に頭を預け、すり寄る。カラ松兄さんは譲らないとばかりに口を真一文字に結んだままだ。

「ねえ、かわいい弟のためにさ」

「それとこれとは別の話だ」

 カラ松兄さんはやんわりと僕の身体を押し、寄りかかるなと言わんばかりだ。仕方なく背筋を伸ばし、次はカラ松兄さんの頬を両手で包んだ。冷たい目が僕を呆れたように見ている。暖かい部屋で逆上せているのか、兄さんの頬は熱かった。

「恋人でも

「トゥーバッド」

 余計悪いらしい。恋人への色仕掛けは失敗した。ちぇ、と小さく舌を打つ。

 喉が渇いた。部屋が暖かいと空気が乾燥する。キスでもすればよかったか、と気がついたがもう遅かった。ぺしゃりと寄りかかったカラ松兄さんの腹が大きく鳴って、それがあまりにもの悲しい音だったから立ち上がる決意をしたのだ。

「ラーメン

「チャーハンの気分だ」

「息が合わないな~っ、冷凍まだあったっけ

 カラ松兄さんも同時に諦めたらしく、テーブルに手をついてのろのろと立ち上がる。最初から二人で行けばよかったのかもしれない。

 僕は空になったポットを片手に立ち上がり、カラ松兄さんは冷凍庫を発掘している。

 電気ケトルはつい最近松野家に導入された文明だ。水を満たしてスイッチ一つでお湯になる。湯が沸くのを待つ。同時に、発掘されたチャーハンを温めるレンジの低い音がする。僕たちは台所のテーブルに揃って着いて、ぼんやりできあがるのを待っている。

 兄弟はもう二階の布団の上でごろごろしている頃で、両親は眠っている。ブレーカーが落ちる心配はないだろう。

「トッティ、聞きたいことがあるんだが」

「何

 ケトルがカタカタと音を立てる。熱湯にしなくてもいいか、と気がついて電源を切った。喉を潤すだけなら温くてもいい。要はものぐさである。

「お前の心臓がここにないとして、ラブはどこから来るんだ

「……は

 質問の意味がわからず、手を止めた。

 冷たい水を飲んでも喉は潤うが、わざわざ湯を沸かしたのは身体が冷えると上手く眠れないからだ。それに、ここにないはずの心臓がきゅっと縮まるような感触がある。

 僕の心臓は、ここにはない。

「……ラブはあるでしょ。心臓なくて、今まで問題あった

「なかった。今後もないと思う」

 温め終わりを電子レンジが知らせ、兄さんはそのまま湯気の立つチャーハンを食べ始める。油の匂いが鼻をくすぐる。深夜の食事は美容の敵、つまりはモテの敵だ。僕は食欲を誤魔化し、喉を潤しながらそれを見ていた。

「心がないって言ったって、人を好きになるしさあ……」

「……確かにな、お前の熱いハートは俺がよく知ってる」

 よく知ってると言われると、とても恥ずかしいことを言ってしまったのではないかという気持ちが湧いてくる。寒い台所だから余計に身体が熱くなった気がする。

「僕も困ってないしね、ここになくても」

 どこに大事なハートを落としてきたの、なんておそ松兄さんに言われたけれど、ただここにないだけで、なくしたわけではなかった。僕は自分の身体がかわいいからこそ、傷ついた瞬間にきゅっと痛む心臓がかわいそうで、誰にもいじめられない場所に隠したのだ。要はほったらかしなのだけど。

「明日のデートは釣り堀にいかないか」

 チャーハンをほとんど飲むように食べ終えたカラ松兄さんは、そう言って僕の目をじっと見る。元々どこかへ行こうという話はしていたが、どこに行くかまで決めていなかった。

「この寒いのに

「寒いからこそ人はいないだろ、二人きりのデート向きだ」

 言われて見れば確かに。冬である。世間はクリスマスを前に華やいでいる。華やぎすぎと言ってもいい。お互いにプレゼントを用意しなくてはとか、何かを贈ってやりたいし贈られたいのだが、元来ニートである僕たちが自由に出来る金などほんの僅かだ。

「そうしよっか、オッケー」

 喉も潤った、腹も満ちた。釣り堀に行くならわざわざ早起きもいらないし、今晩もゆっくり眠れるだろう。

 お腹いっぱいで眠たいらしいカラ松兄さんを洗面所に連れて行き、しっかり歯を磨かせる。おやすみのキスをするのに、ネギの匂いなんかしてはたまらない。恋人として情を持って接していると思う。兄弟としては、まあ兄など蔑ろにするものだが。

「グッナイ、マイスイート」

「はいはい、おやすみカラ松」

 薄暗い洗面台の前で交わすキスは、ミントの味がした。



 ゆっくり起きて、のんびり釣り堀へ向かう。肌寒い日だが、日中は陽が出ているからかそこまで寒く感じない。冬の紫外線対策もバッチリだ。

 釣り堀でやることと言えば、釣りである。堀の中にいる魚を捕まえては逃がし、逃がしては捕まえてというある種虚無を感じるそれだが、やはり釣れると楽しい。

 餌をかけ、針を投げ入れる。後は餌に食いつくのを待つだけだ。

 待つ間は、ただ無心にぼうっとしてられるのがいい。時間はただ過ぎるだけだ。

 隣にいる兄さんはと言えば、いつもと同じようにラブレターを餌にしている。薄青の封筒、ギラついたハートのシール、中身は何が描かれた手紙なのか詳しく知らない。

 魚に愛をしたためることができるカラ松兄さんは、僕の愛がどこから来るのか知らないらしい。心はどこにあるのか、という問いは、夏休みの自由研究で調べられそうだ。残念ながら今は冬で、科学的に考えれば心は脳にある。つまり僕のラブというやつは、僕の脳から生まれるのだ。

 ならば心臓からは何が生まれるのか。

「諦めないよね、ラブレターで釣るの」

 ぽそりと呟けば、カラ松兄さんは意味ありげににやりと笑う。

「何か釣れるかもしれないだろう、お前の心臓とか」

「まさか。こんなところにないよ」

 残念だ、と言いながらもカラ松兄さんはラブレターを水中に漂わせている。諦めが悪いというか、意固地というか、そういう人なのだ。こだわりなのだろう。

「見つけてどうするの、僕の心臓」

「トレジャーボックスに」

 カラ松兄さんの宝箱にある代物と言えば、サングラスと、ドクロのついたベルトと、古ぼけた演劇の台本と、あらゆるギラついた小物たちだ。

 トレジャーボックス中に僕の心臓があるのを想像して、笑う。兄さんのミラーボールの心臓と並べてもいいんじゃないか、とすら思った。

「フフ、心臓を預けられるというのはなかなかクールだろ」

「いや、預けないよ……兄さん勝手にデコりそうだし」

「大切にするのに

 声音があまりに真剣で、僕は小さく笑って誤魔化した。

 大切にするから心臓を上げよう、と思う人はなかなかいない。僕以上に大切に出来るなら考えるが、緊急時は保身が真っ先に働く兄に任せるのは不安だ。ただ、嬉しかった。

「考えておくね」

 胸に手を当てる。ああ、心臓がここにないと、胸の鼓動を自分で感じることはできない。それは少し、寂しいことだと思う。

「お前のボディガードぐらい、容易いことさ」

 カラ松はウィンクを投げながら、釣り糸を巻き取る。ラブレターで魚が釣れたわけではなく、手紙が堀の底にある枯れ葉に引っかかったのだ。

 ぐっしょりと濡れ、ギラついたシールを失ったラブレターを針から外し、僕のバケツに放る。

「ちょっと、なんでこっちに入れるの

「俺のラブはお前のものだから、さ」

 調子良くゴミの処理を押しつけられてしまった。自分宛に送られた手紙ならまだしも、釣り堀の魚に送ったが振られてしまったそれはもはやゴミではなかろうか。それとも、この考え方が心がないと言われる所以なのだろうか。

 枯れ葉と泥にまみれた手紙はバケツの底に静かに沈んでいる。これで釣れると思われている僕の心臓は、ここよりもっと深い海の底に沈んでいる。流刑のついでに、遠くに置いてきてしまったのだ。自分の痛みから遠ざかりたくて、心を守るために必要だった。

 考えておく。検討しますは、イコールお断りだ。僕が自分の身をもって学んだ中で、あまり人の心を傷つけずに済む言葉でもある。

 カラ松は釣り餌にラブレターしかつけなかった。いつもと同じだ。僕は何にも釣ることができなくて、バケツにはラブレターの残骸だけが積もっていった。愛の重さだと、カラ松は目を細めて笑っていた。





 それから、色々あった。十四松兄さんがイルカになると家を飛び出していって人間のまま戻ってきたり、カラ松兄さんの気が小さいが故の悩みを吐露されたり、父さんが倒れて入院してしまったり、それを受けてついに就職したりと、僕たちにとって最も最も激動の年であったと言ってもいいだろう。

 僕たち兄弟は、父さんの詳しい病状を知らされていない。親はいつまでもいないのだから、それぞれ覚悟しろということらしい。

 僕はやむなくニートを卒業した。都内実家ありの強みを遺憾なく発揮し、友人の紹介で入った会社で最年少としてかわいがられつつ、何とか仕事を覚える日々が続いている。困ったことと言えば、仕事をするようになって、休みに何をすればいいのか、全く分からなくなったくらいだろう。

 カラ松兄さんはと言えば謎の一言である。ライブハウスでチケットもぎりをしていたという証言があれば、駅前で花を配り歩いていたという証言もあり、全容が知れない。けれど、知りたいとは思わない、カラ松兄さんにもプライベートくらいある。

 春である。小鳥はさえずり、花は咲き、意味もなく陽気な気分になる春である。どこかに出かけたい気もするし、ずっと家出眠っていたいような気もする。

 今日はどちらかと言えば眠っていたいかな、と布団で伸びていたら、頬が軽く引っ張られる感触があった。指先で片側をつまみ、狸寝入りを続けていたらついには両方を引っ張られた。渋々目を開ければ、これから出かけるらしいカラ松兄さんの姿があった。

「マイスイート、明日は休みか

「うん、今週はね、連休……」

「オーケイ、夜の予定は俺が予約だ。晴海に行こう、夜景がいい」

 夜の予定。晴海。夜景。ああ、映えそうだなあ、と思いながらわかったと返事をする。夜まで眠っていよう。うとうとと目を瞑る。気障っぽいカラ松のおやすみを聞きながら、再び眠りに落ちた。

 同じ家に住んでいるのだ、デートの機会なんていくらでもある。とはいえ、わざわざ相手のためにだけ時間を用意するというのは特別だと言われているような気がして、気分が良かった。

 夜まで適当に時間を潰し、夕飯を済ませた頃になってカラ松が帰ってきた。どこで何をしてきたのか、頬に泥が跳ねている。土木工事の現場にでも行ったのだろうか。

「久しぶりだよね、こういうお出かけ」

「忙しかったからなあ」

 生活が変わると、今までと同じように時間を使うことは出来なくなる。仕方がないことだが、時間の使い方を覚えるまでは難しいだろう。何しろ、今まで働く気もなかった自分が働いているのだから。

 家に帰る人たちで混み合う電車を横目に、すかすかの電車に乗り込む。休日だからか、余計に人が少ないように感じる。隣に座ったカラ松は、夜だというのにサングラスを外さない。

「何が眩しいわけ

「フフ……、俺の目に映るすべてが……」

「今そういうのいいから、ほら次乗り換え地下だよ」

 サングラスを奪い、慌てるカラ松の手を引いて電車を降りる。晴海のあたり、月島とか豊洲あたりは釣り場がいくつかある。工事中のエリア周辺は入れないが、夜釣りを楽しむ人で混雑するという場所でもない。

 無職であるというのは、時間が無限にあるということだった。道具さえあれば更に自由になる。明日も明後日も休みだから出来る無茶というものがあった。

 釣り竿は一本しかなく、交換で持つのが決まりだ。竿を持たない方は、明かりを持って仕掛けをつけてやることになっている。

 埠頭は波音が支配している。明かりの少ない場所であるから、人は少ない。周囲が暗くて、どこに人がいるかもわからない。

 ここには僕たち二人きりしかいないのかもしれない。

 街灯は少なく、人影はない。波の音ばかりがあって、レインボーブリッジの光が海面に反射してきらきらと光っている。そして橋の向こうには煌々と光る高層ビルが建ち並ぶ。

「映えるか

「映えだね

 早速釣りに興じるカラ松を横目に、スマートフォンで写真を撮る。インスタか、フェイスブックか、それとも別のソーシャルネットか、どう加工すればまで考えつつ満足のいくまで撮影し、バッテリーが少なくなったところでポケットに戻す。カラ松は既に折りたたみの椅子に腰を落ち着けていた。

 明日休みか、と聞かれたのであれば、朝までここで過ごすつもりなのだろう。荷物から同じように椅子を出し、隣に座った。

「で、今日の狙いは何なの

「シーバスと……マイスイートハートってところだな」

「諦め悪いねえ、本当に」

 仕掛けの中に、いつものラブレターがある。いつもより封筒が分厚い気がして、一つ拾い上げた。中に重りでも入れたのだろうか、手に持ってみると紙と思えない重さがあった。

「色々探してみたんだ、山とか湖とかな」

「へー、すごいじゃん お疲れ様」

 その実見つかっていないわけだが、それについて時間を無為にしたとは思わないのだろうか。検討します、の答えはカラ松に伝えていない。

「どこを探してもないから、今後は海と」

 こだわるタイプだ。こうと決めたら、自分の出来る範囲で実現しようとする。頼られたら応えずにいられない。そういう兄だからこそ、心臓を預けることはやめたというのに。

「どうしてそんなに僕の心臓にこだわるの

 竿の先がぴくりと動く。カラ松が反応して釣り上げようとしたが、仕掛けが外れたらしく波の間にぽちゃんと魚が跳ねる音がした。肩を落とすその背中を軽く叩いて慰め、竿を預かる。

 スマートフォンのライトを頼りに、仕掛けを針に付ける。街灯の明かりは遠く、海面に反射する明かりは全く視界の助けにならない。

「……トド松の心の在り処だから

「それは比喩でしょ、脳だよ」

 心があるのは心臓ではない。そうであるなら、カラ松が僕の心臓を気にする道理もない。大切にしたい、と言われたことは嬉しい。まだ覚えているくらいなのだから。それでもやはり、他人に任せることは出来ず、自分で直視することも出来ず、海に放り投げた。

「僕、自分でなくしたんだよ

 ここになくてもいい、日常の中でつく些細な傷も、後悔も、直接心臓に傷を残さないで済む。だからここにないのだ。ここになくてもいいようにした。僕の意志で、そうしたのだ。

「それなのに、どうしてカラ松が探すんだよ」

 竿を振るう。瞬間、手のひらに嫌な手応えがあった。暗闇の海、波の音が響いて僕の仕掛けは海に落ちたのかどうかもわからない。嫌な予感がした。カラ松は懐中電灯を付けて、僕の糸の行方を捜す。

「それが何だ ……あ、引っかかってるな」

 どうにか海中に落ちたものの、浅いところに落ちて何かを引っかけたらしい。渋々巻き取り、仕掛けを外した竿をカラ松に預ける。海に入っていなかったとして、交換で使う決まりだ。

 カラ松は魚を釣るための仕掛けではなく、ラブレターを手に取った。明かりを求められ、スマートフォンのライトで照らす。青いハートのシールがきらりと光を反射した。

「自分の意志で捨てたのに、なんでカラ松がそんなに気にするのか、僕にはわかんないよ……」

「都合がいいのはいつものことだろう、俺だからな」

 手紙を持って、フライングディスクのように海面に飛ばす。波の間、ハートのシールがゆらゆらと光を跳ね返しながら沈んでいく。そこにあったはずのものは、すぐに見えなくなった。

「お前は俺に好きだって言っただろう、俺もお前のことが好きだからこそ、お前のものを大切にしてやりたい」

 言葉が刺さるようだ。今まで傷ついてきた僕の心臓が、都合が良いとわかっていたってどくどくと脈打つのがわかる。

「なんで、そんなこと、今になって言うんだよ」

 八つ当たりだ。そんなことはわかっている。それでも言わずにいられなかった。

「僕はずるいんだよ、好きだって言ったらカラ松がきっと断らないってわかって言ったんだから」

 ライトを消したスマートフォンをきつく握る。そうだ、僕はずるい。卑怯なのだ。情がない。好きだと言えば、絶対に好きになってくれるだろうと思って思いを告げたのだから。間違いなく、打算があった。

 カラ松は悠々と椅子に座り、僕を見上げる。軽蔑の目を向けられたら、また心臓が痛む。目をそらそうとしたら、手を引かれた。その目はいつもと変わらなかった。

「俺が断らなかったから、こうしてここにいる」

「……嫌だけど言えなかった、じゃないの

「嫌でキスもセックスもするか、普通

 しないだろ、俺はしない。つまりここにはラブがある、とカラ松は断言した。

「お前にも俺へのラブがある」

 僕はへたへたとその場にしゃがみ込んで、胸を押さえた。ここにない心臓が震えている。痛みすらある。

 今までずっと、ここにあるはずの確かな愛すら真っ直ぐに見つめずに過ごしてきたのだ。だからこそ、カラ松はラブはどこから来るのかと聞いたのだろう。あの日の僕を、一発殴ってやりたい。いや、きっと意味もわからないだろうから、何の意味もない。それに過去を変えることは出来ないのだ。

「傷がついたら治るまで側にいるさ」

 竿の先が跳ねる。ラブレターで釣れるものは、一つしかない。

「……いいことがあったら、夜まで踊ろっか」

 それもいいと笑う横顔を見て、自分の情けなさに涙が零れた。網を持って、カラ松の釣果を確かめる。

「兄弟だよな、こういうところは」

 手紙に何かがくっついている。網で掬い上げれば、中には、ライトの光を跳ね返して煌々と輝く桃色の塊がある。久しぶりに見た僕の心臓は、カラ松の書いたラブレターに寄り添ってここに在る。

「大切にするからここにおいでって書いたから、かな……」

「潮の流れだよ、多分……まあでも、いいか」

 拾い上げる。ライトを当ててさえいなければ、光ることはない。誰かに光を当てられなければ、ただの心臓だ。

「大切にしてくれる

「するとも。だが、自分で持つんだ。俺には俺の、お前にはお前の」

 球体を胸に当てれば、在るべき場所に還る。こんなに鼓動の音はうるさかっただろうか、半年以上遠ざけていた自らの鼓動は自分で思うよりずっと大きく、激しい。

「エスコート役は譲ってやろう、さあトド松」

 釣り竿を地面に転がし、カラ松は僕に両手を伸ばしている。意図を図りかねて一歩引けば、逆に手を取られた。むちゃくちゃなダンスだ。身体の中に脈打つ血が暴れて、息が上がってくる。

 傷つくことにいちいち身構えるのはやめた。痛みから逃げるために心臓を捨てることを選ぶことも、もうないだろう。それに、いくら捨てたとしても、カラ松のラブレターで釣り上げられてしまう。

「カラ松、僕ずっと、これから逃げてた」

「逃げてなんかいないさ、ちょっとした休憩だ」

 ステップなんか踏めないし、ただ手を繋いでぐるぐると廻っているだけだ。それでも、僕たちはこれを踊っているというし、誰に止められてもやめない。止められない。息が上がる。苦しい。足が疲れた。もう止まってしまいたい、それでも止まらない。

 カラ松がはしゃぎすぎている。唐突に止まって、がっしりと肩を捕まえた。お互い、ぜえぜえと呼吸が荒い。運動をしないニートに体力はないのだ。僕も近頃ジムをさぼり気味だった。

「ちょっと、ストップ、止まって」

「ふう、フフ、楽しいな、楽しい

「わかった、わかったから聞いて」

 唾を飲み込む。それでも喉が渇いている。

「こんなにドキドキすることからも、逃げてたんだよ」

 カラ松が目を丸くするのがわかった。瞬間、その唇を奪う。息が上がっていて、ほとんど二人とも喘ぐように、それでも何度も重ねて、吐息すら奪って、酸欠で頭がくらくらしてきた頃、二人揃ってその場に座り込んだ。

「ほら、お前のラブは心臓にもあった」

 カラ松がそう言って僕の胸を叩いた。

「全部俺が欲しいと思っていたところさ」

 ウィンクがうっとうしい。でも、つい笑ってしまう。

「あげるよ。全部、お前のものだから、大切にしてね」

 自然に抱きしめ合っていた。波の音がする。遠くにある明かりの群れが滲んで見える。どくどくと跳ねる僕の心臓の音、カラ松の荒い息づかい。これがあれば僕はきっと、大丈夫だ。そんな気がして、べったりとカラ松にくっついていた。



 朝まで二人で喋り、空が白んできた頃に始発電車に乗った。日が眩しく感じるからこそ、薄暗い地下鉄の中では眠気に襲われて仕方がない。

 カラ松は乗り込んで座った瞬間、僕に寄りかかって眠ってしまった。重たい、僕も眠いのにと言うのは耐え、瞼が落ちるのを必死に堪えている。

 目を瞑ると、心臓の音がうるさくて目が覚めてしまう。こんなにうるさかったっけ、と思う。もう思い出せない、今までどんな感覚であったかなんて。

 ふと、眠っているカラ松の心臓はこんなにうるさいのだろうかと思う。ミラーボールのような、ギラついたそれも、僕の心臓と同じような音がするのだろうか。

 寄りかかる頭を椅子の方に移し、胸に耳を当ててみる。

 電車の音が大きくてよく聞こえない。停車した一瞬、アナウンスが途切れた間の沈黙でようやく聞こえた。ことん、ことん、とうるさくもない、どちらかといえばゆっくりで小さな音だ。

「……公共交通機関……」

 頭上から寝ぼけた声でカラ松に釘をさされ、びくりと身体を起こす。この車両には、僕たち二人きりしかいない。それでも、どうかと思うけれど、好奇心が抑えられなかった。

「カラ松の心臓の音が、僕よりゆっくりだったから……」

「ンン、スローテンポでリズムを刻むもあるさ……」

 カラ松は、僕の頭をぐりぐりと撫で、それから僕の首に指先を当ててしばらく黙る。脈は普通だと思う、とぽつりと零され、脈を測られていると思わず唖然とした。

「毎日リズムを刻むからなあ……」

「それって踊ってるってこと

 昨日のめちゃくちゃなダンスを思い出し、二人で密かに笑う。

「お前となら毎日楽しく踊れるな、ベイビー」

「誰かベイビーだよ、もう」

 くすくす笑い合ううち、カラ松は再び夢の中に戻っていってしまった。僕も諦めて目を瞑る。

 僕の内側で、心臓が跳ねている音がする。まるで踊っているみたいに。そう、踊るなら楽しく、悔いなく、動けなくなるまで踊っていよう。きっと、動けなくなるその時まで、僕の隣にはこいつがいるに決まっているのだ。