【WEB再録】よくわかる錦の振り向かせ方(14/5)

 本日のお天気は晴れ。青々とした空に、雲一つない快晴だ。普段は曇り空ばかりだからか、青空が余計に鮮やかに見える。
 珍しく日が出ているうちにやっておきたいことが、山ほどある。例えば甲冑の陰干し、書の虫干し、常日頃から使っている衣服や布巾の洗濯、他にも諸々。
 せっかくなら日光浴もしておきたいところだが、そんな暇もないほど忙しい。暇を持て余すよりずっといいのだろうが、こんなに晴れているのにと勿体なく思う気持ちもあった。
 春の風に、髪がふわと浮く。いつまでも空を見上げながらぼうっと立っているわけにもいかず、長い廊下を早足に歩き出す。行き先はいつもと同じ、諸葛亮殿の執務室だ。
 もちろん、お仕事のお話である。
 近頃、夜半に出歩くお仕事が多い。何も物騒なお仕事をしているわけではない。癖のある商人と取引をするから現場まで着いていくだの、中に何が書いてあるかわからない書簡の運搬だの、闇夜に紛れていたほうが都合の良いものが続いているのだ。
 白昼堂々とやっても良いが、隠れるならやはり闇の中と言うことだろう。
 漢中を獲り、他国との小競り合いが増えてから、火の始末には十分注意するようにとお達しが出ていた。
 万が一不始末から火災が起きれば、一気に燃え広がる可能性がある。自然の要塞である山に火の手が上がれば、敵方へ攻め込む機会を与えてしまうかもしれない。元々持つ要塞に頼っているからこそ、用心に用心を重ねろと言っているわけだ。
 特に気を付けるべきは、闇夜に使う灯りだ。夜まで執務室へ籠ることを控え、遅くに出歩かないよう言い含めた結果、夜遅くまで出歩く人は減った。飲み歩き出来ない、と張飛殿が不満を漏らしたくらいだ。
 結果として、俺のお仕事をするに好都合な条件が出来上がっている。人の出歩かない夜半にこそ、捗ると言うものだ。
 彼もそれを心得ていて、ここぞとばかりにお仕事の依頼をしてくれる。お陰で、このところは寝不足の日々が続いていた。
 後ろ暗いお仕事をこなしているからといって、日中の仕事が減るわけではない。春を迎えた今、冬場には出来なかったお仕事が溜まっている。
 例えば倉庫の点検だとか、武具の入れ替えだ。
 日々使う場所、道具が壊れたりすることは珍しくない。だが、壊れては直し、直しては壊れと何度も続けているのは時間の無駄だ。原因を見極めなくてはいけない。
 更には厩の改修もある。兵の育成は急務だった。同時に、馬も揃えなくてはならない。人が増えれば馬が増え、馬が増えれば厩も増える。至極当然のことだ。
 馬の買い付けから調教、騎兵を育て上げるため、漢中から一時的に若が戻っている。けれども毎日出かけっ放しで、殆ど顔を合わせてはいない。
 いつ戦が起こるかわからない状況に、焦りもあるのだろう。順調に事が進んだとして、一月や二月では足りない。その上、もうしばらくすれば雨季がくる。雨に工事を中断されることなく、最速で事を進める必要があった。 誰もかれもが忙しい。目が回りそうだ。
 突き当りを曲がって、まだ歩く。諸葛亮殿の執務室は一番奥だ。途中すれ違う文官たちは、それぞれ諸葛亮殿から託されたお仕事を抱えている。
 今日のお仕事は何だろう。一応武官なのだけど、と言っている場合ではない。物騒で神経を使うお仕事か、それとも簡単なお仕事か。内容を聞かなければわからないが、どんなものであれ、お仕事はお仕事としてこなすだけだ。
 残念に思うのは、せっかく若が帰ってきているのにお互いやることばかりが山積みで、ゆっくり話す暇がないことだ。同じ邸で過ごして五日経つのに、まともに交わした言葉は十にも満たない。
 そろそろゆっくり話したい、と思う。睦言では無く、至って普通に家族として。
 「諸葛亮殿、お邪魔しますよぉー」
 執務室の扉を軽く叩き、中へ入る。諸葛亮殿はいつも通り、部屋の中央にある机に黙々と向かっていた。どうぞ、と言う声は少し掠れている。
 「用事がある、って聞かされていたんですけど……どういったご用事です?」
 さて、一体どんなご用事か。出来れば簡単で楽なのがいいけど、というのは心の奥にしまって様子を伺う。
 「書簡を保管している蔵の点検をお願いします」
 「はいよ、蔵の点検……とりあえず外壁と床ですかね、後は何か?」
 他にも何かあるんじゃないの、と言外に籠めて諸葛亮殿を見る。かんたんすぎても、裏があるんじゃないかと疑ってしまうのは悪い癖だ。これでよく、余計な仕事を引き受ける羽目になる。
 「保管している書簡の点検も一緒に、お願いします」
 彼は羽扇をゆったりと扇ぎ、いつもと変わらない涼やかな表情をしている。しいて言えば、目元にある濃い隈が目立つくらいか。
 治水に頭を働かせ、戦の準備をするために目録に目を通し、普段からろくに休んでいる様子はない。そんな中で城内の総点検が行われれば、こうなってしまうのも仕方がない気がする。
 蜀は人材が多く無い。諸葛亮殿の他、法正殿や龐統殿、徐庶殿も尽力しているけれど、どうしても彼の負担が多くなってしまう。
 けれど、書簡の整頓は文官の本業だ。蔵と一緒に見るにしても、俺では効率が悪い気がする。何か意図あってのことなのだろうが、察するのは難しい。どう切り出したものか悩んでいるうちに、彼の扇がふわと揺れる。どうやら小さく笑ったようだった。
 「あなたに頼んでいた報告書が入っている蔵なんです」
 なるほど、と手を打つ。
 諸々の後ろ暗いお仕事は、簡単に書簡へまとめて諸葛亮殿に渡すことで完了となる。書簡は一定の期間が過ぎれば破棄出来るのだが、いつ必要になるのかわからないものは、諸葛亮殿の手で蔵へと貯蔵されていた。
 わざわざ残している意味は、物的証拠として出すくらいしか俺には思いつかないが、他にも使い方があるのだろう。
 その書簡をまとめている蔵の点検となれば、報告書を書いた本人に依頼するのが順当だ。つまり俺がやらねばならない仕事、ということになる。
 「破損が無いか、連番で全て揃っているかどうかだけ見ていただければ構いませんので」
 言葉の底に、情報の持ち出しを懸念している響きがある。排除したものを暴かれるより、秘密裏に調達した品、開発した工具の情報を持ち出されるほうが厄介だ。
 戦において、情報を持っているのは大きな強みになる。敵方が多く馬を揃えたと情報を得れば騎兵に対抗する術を練り、矢を多く仕入れたとあればこちらは盾を用意する。そうやって、戦で有利な状況を作るのだ。
 戦場で有利な状況が取れれば、勝利が近づく。それは敵方も同じだ。あちらもまた、情報を得て上手く立ち回りたい狙いがある。
 特に俺の関わってきた諸々の案件は、情報が漏れると中々面倒なことになる可能性がある。敵方の手に渡ることだけは、防がなければならない。
 「はいよ、承りました」
 「退屈で眠気に襲われたら、保管されている書を見ても構いませんよ」
 諸葛亮殿は、一瞬だけ表情を崩す。どこか悪戯っぽい雰囲気のある笑みを、羽扇で隠して目を細めた。
 「面白いものでも?」
 それは見てからのお楽しみ、とでも言うように再び扇が揺れた。

 諸葛亮殿の執務室を出て、長い廊下を延々歩く。書簡が保管されている蔵は、鬱蒼とした林が残る城内の外れにあるらしい。事前に知らされていなければ、見つけられないであろう場所だ。
 聞いたところ、極秘の書簡の他にもお役目を終えた書の類が保管されているそうだ。木を隠すなら森の中、書を隠すなら書の中と言ったところだろう。
 書簡の類は、紙で出来ている物も竹を編まれている物も総じて場所を取る。常に使う書でなければ、蔵にしまっておくのは当然だ。俺だってそうする。
 「……遠い」
 溜息一つ吐いて、離れへ向かう渡り廊下を曲がる。この先にあるのは、月英殿が常駐している発明棟だけだ。
 手荷物を持つ指先が痺れ、もう片方の手に移す。最低限の物しか持ってこなかったとはいえ、それなりに重い。
 捨てられる手拭がいくつか、竹筒に水、竹簡を繋ぐ紐の予備、刃物など諸々。文中の字が消えているとか、そういうものは後日対応として別にまとめておけばいい。
 書簡とひとくくりにいっても紙で出来ているものは少ない。俺がまとめる報告書だって、竹や木が多い。手に入りやすいし、繋ぐ紐を処理してしまえば文中をそっくり変えてしまうことも出来る。
 便利な竹簡だが、一巻が非常に重たい。紙や布の物と比べれば仕方がないのだが、数を取扱うと意外に疲れる。
 「饅頭でも持って来れば良かった……」
 腹の虫が鳴くのを聞きながら、延々書簡を見続けるというのは結構な苦行だ。とぼとぼ歩きながら、また溜息が零れる。突き当りの角を曲がる瞬間、鉢合わせた誰かとぶつかりかけ、お互いにあっと声を上げた。
 「おっとぉ、失礼!」
 「すみません!」
 声は頭一つ下から聞こえてくる。視線を下げると、籠を大事そうに抱えた月英殿が立っていた。
 「荷物、落としませんでした?」
 「大丈夫ですよ、先を急いでいて……失礼しました」
 籠を抱え直して、月英殿はぺこりと頭を下げる。大事な荷物らしい。発明品でも入っているのだろうか。
 「このあたりにいらっしゃるなんて珍しい、何かご用事ですか?」
 城内の外れに位置するこの辺りは、月英殿の発明棟くらいしか無い。用事が無い限り訪れることもない場所、というわけだ。
 「諸葛亮殿に依頼されて、蔵の点検に」
 諸々表に出せない書類の点検、とは言えない。実際、建付けの点検もするわけだから間違いではないしとかいつまんで説明した。
 なるほどと月英殿は頷いて、籠の中からひとつの包を俺に手渡してくれた。
 「これは?」
 「粽です、お腹が空くでしょう?」
 包を解くと、まだ仄かに温かな粽が二つ。思わず頬が緩む。
 「孔明様にと思ったのですが、張り切って作りすぎてしまって……」
 月英殿が籠にかけられた布巾をどかして、中身を見せてくれる。中には粽がぎっしりと詰め込まれていた。ざっと数えて十は超えている。
 「馬岱殿も、ほどほどに休憩して頑張ってくださいね」
 柔らかな微笑みと、温かな包を残して月英殿は去っていった。ありがたく受け取り、手荷物の中にそっとしまう。
 諸葛亮殿は、これからあの粽を全て平らげるのだろうか。元々は晴耕雨読の生活をしていたと聞くし、あの細身でたっぷり食べるのを想像すると何故か笑えた。
 とにかく、これで蔵に籠る準備が出来てしまった。蔵、と言うのだから一日で終わるとは思っていないが、三日はかけたくない。
 若は漢中から帰ってきてから、ずっと執務に追われている。一日ゆっくりとはいかないだろうが、少しくらい休ませてやりたい。
 「おっと、これかな」
 段取りを考えながら歩いていたら、いつの間にか蔵の前にたどり着いていた。
 蔵の周りは、木々は生い茂っているものの程よく光が射していて暖かい。昼寝をするならあの木の下だな、と検討をつけながら扉の前に立つ。
 書簡が保管されている蔵は、俺の予想より随分大きかった。せいぜい馬屋ほどの大きさを想像していたのだが、それより二回りは大きい。中にどれほど書簡が溜まっているのか、考えると少し憂鬱になる。
 頭を振って湿気た考えを振り落とす。憂鬱になっている暇はない。いざと意気ごんで扉を開け放ち、蔵の中へ足を踏み入れた。
 入ってすぐに、埃と黴の匂いが鼻をつく。むせてしまいそうになるのを堪えて袖を口元に当て、ゆっくりと息を吐いた。焦って息を吸うと、黴が喉に生えてしまいそうな気がする。
 窓が閉め切られた蔵の中は薄暗く、竹と墨の匂いに支配されている。外は柔らかな陽気に包まれているのに、ここはまだ冬の気配が残っているように感じた。
 足元に何があるかも碌に見えないままでは、書簡の確認など出来たものではない。灯りとなる火を点けるのが御法度なら、窓を開けるしかない。壁を伝って歩き、目張りされた窓を一つ開ける。さっきまで外にいたはずなのに、光がやけに眩しく感じた。
 新緑の青い匂いに一息吐いて、手拭を一つ口元に巻く。埃でいちいちむせていたら、終わるものも終わらなくなってしまう。
 窓を背に、中の様子をぐるりと見渡す。大きな書棚が五つ。足元には箱がいくつか。書を隠すのは書の中、この中のどれに俺の書いた書簡が入っているかまではわからない。
 当たり前だが、蔵の中はしんと静かだ。風で揺れる枝葉がさらさらと流れる音だけが、かすかに聞こえてくる。あまりに静かすぎて、心細いような気さえする。
 静かすぎる所は苦手だ。孤独のような気がして、背筋が寒くなる。
 若に避けられてた時も、ずっと背筋が寒かったような覚えがある。
 ――若が漢中に発つ前に、避けられていた時期があった。話していても上の空、隣に並べばさりげなく距離を取られる。俺自身も新しい地に於いてやるべきことをこなすうち、共に過ごす時間は少なくなっていた。
 その時ことを思い出すと、今でも苦笑が漏れる。何が原因か心当たりもなく、直接確かめることも思いつかなかったのだから。
 そうして黙り込んでいた俺に、しっかり話をしなさいと諭してくれたのは諸葛亮殿だった。ご丁寧に二人で話す手はずまで整えるあたり、あの方は元々世話焼きなのかもしれない。
 直接話した結果、誤解は解けた。だが、従兄弟同士で元は主従、という関係の他に恋人という新しい関係が加わることになった。
 若の執務を手伝って休ませてやりたい、というのも二人で話す時間が欲しいからだ。下心ではなく、この新たな関係に慣れるために。何から話そう、と考えると自然に口元がにやけてしまう。
 頭を振って余計な考えを落とし、頬をぴしゃりと叩く。どうも、今日は気が散っている気がする。さっさと取り掛からなければ若の手伝いにもいけやしない。
 まずは蔵の点検と決めて、内部の見回りから始めることにした。

 蔵の中をざっと見終わり、修繕が必要な箇所を小さな竹簡に書きつける。
 出入りする人が少ないせいだろう、蔵の内部に傷みはあまりない。唯一、迅速に対応しなければならないのは書棚の足が弱っている箇所だ。書棚を新たに作り、中身を移し替えなくてはならない。次は丈夫なのを作ってもらわなくては。
 じっくり見て回ったせいか、日は随分高くなっている。次は書の確認だが、さすがに一息入れたい。
 そういえば諸葛亮殿は書を読んでも良いと言っていた。試しに一つ手に取って、紐を解く。随分古いのか、今にもちぎれてしまいそうだ。紐をかけ直した方が良いかもしれない。ぼろぼろのそれを切らないように、そっと開いた。
 窓から射す、微かな光で文字を追う。黄龍から始まり、白虎、朱雀、玄武、青龍と見出しがある。神獣の逸話をまとめたものかと思いきや、白沢や羅刹鳥の見出しも出てきた。
 この書は、神獣や妖獣の伝承をまとめたものらしい。神獣と妖獣が一緒くたに記述されているのは編者の趣味だろうか。
 噂話から生まれたものもあれば、古くから語り継がれている昔話もある。故郷では聞いたことのない妖怪の名もあり、年甲斐もなくわくわくしてしまった。不思議なものは、嫌いではない。むしろ好きな方だ。
 ふと、一つの見出しが目に留まった。
 「……獏?」
 ――獏とは、神が創造した生き物である。獏の毛皮を寝具に用いると、疾病や悪気を避けられると言う。転じて、悪夢を食べるとも。その姿を絵にすれば邪気避けになるらしい。
 絵にすれば、という言葉に少しそわつく。画鬼をその姿にしたら面白そうだが、獏の姿に関する記述はない。概要をまとめただけなのだろう。
 少々気落ちしながら全てに目を通し、ゆっくりと書を巻き直す。紐のかけ直しが必要、と目印をつけて棚に戻した。
 次いで、隣にあった書を手に取る。先のは竹簡だったが、こちらは紙だ。高価なそれであるのに蔵に眠っているなんて珍しい。
 開けば、角張った字で、帝王学と記されている。ずっしりと重く、いかにも厳めしい雰囲気だ。あまり興味がそそられないが、点検のために一度開いて確認する。
 頭が痛くなるような文の羅列が続く。国を導くにあたってこうあるべきだとか、求められる治水の力だとか、内容が重苦しすぎる。好んで読む人もいなかったのだろう、特に修繕が必要ないことを確認して元あった場所に戻した。
 積み重なる書を抱え、棚の奥に手を突っ込む。結構な量だ。更に奥に手を伸ばして、書を手前に引っ張り出す・兵法書、治水の手引き、軍議の方針などなど堅苦しいものが出てきた。
 どうやら、この書棚には教養に関するものが集められているらしい。今は蔵の中だが、いつかまた使われることのありそうな物ばかりだ。
 書に積もった埃を払い、僅かな黴なら手拭で拭く。状態の確認を行いながら、興味の惹かれる書は無いかと棚の奥を覗き込んだ。
 治水の手引きの下に、他の書簡と帯の色の違うものがある。竹簡でなく、薄布を用いた書簡だ。随分と状態が良い。また堅苦しい内容なのだろうか、と思いながら引っ張り出す。
 題字は無く、外だけ見ても何について書かれているのかわからない。妙なくらい綺麗で、違和感を覚える程だ。
 紐を解き、冒頭の見出しを読んでぎょっとする。
 「性教育も、教育だけどさ」
 思わず、口に出さずにいられなかった。まさか兵法書の類と一緒に房事の入門書が並んでいるとは思わなかったのだ。
 ある程度位の高い家のために用意されたのか、後宮で回覧でもされたのか、立派な挿絵までついている。殆ど春画のようなそれにどぎまぎしてしまったが、文字だけを追うとなかなか興味深い。
 なるほどと読みふけるうちに、同性との性行についての記述を見つけてしまった。女性同士のそれについてはなく、男同士のそれについて、しっかりと書かれている。
 唾を飲み込む。無人の蔵であるのに、反射的に周りの様子を伺ってしまった。勿論、蔵の中は沈黙で満ちている。
 ――お前が好きだ。
 耳の奥から、あの時聞いた若の声が蘇る。
 日に日に募る思いを、いつか口に出してしまいそうなことが恐ろしく、俺から距離を取ったのだと言っていた。いずれ俺が妻を迎えれば、離れなければならなくなる。いつ来るかわからないそれを恐れるくらいなら、自ら離れてしまえば良いとも。
 驚いた。好意を告げられたことに驚いたのでなく、理由に驚いたのだ。一言、言ってくれれば良かったのにと言うのは真実を知った後だから言えることだろう。
 思い込みが過ぎるのは若の悪い癖だ。一度悪い想像を始めたら、それに飲み込まれてしまう。今までもそれで痛い目を見て来たのに全く変わっていない。俺は俺で、何故避けられているかわからないまま変わる距離感に戸惑っていたからお相子なのかもしれない。
 不思議と、好意を告げられても男同士だとか近親者だとかいう嫌悪感は無かった。打ち明けられてなお、遠ざかろうとも思えなかった。それよりも、嫌われたわけではないと言うことにほっとしていた。
 俺も、若のことが好きだ。でも若と同じ意味ではない。気持ちは変わるものだから、今はただ共に居たいと言って初心な恋仲を続けている。
 応えてから、言葉にしない若の代わりに俺が後を追いかけた。一献、と同じ時間を過ごすにつれ、何となく気持ちは変化してきたように思う。そもそも嫌だとか、気持ち悪いとか、拒絶する言葉が浮かばなかったのだから、気持ちが柔らかく変化していくのは当然だったのかもしれない。
 房事の入門書を見ていて、思い出したことがある。若が俺に思いを告げた時に、好意があるからそういう関係を持ちたいわけではないと言っていた。そういう関係、と言葉を濁されたがすぐに検討は付く。
 あの言葉の濁し方からして、若は男色ならどう身体を重ねるかを知っているのだろう。若だけ知っていて、俺が知らないのも不平等のような気がする。
 男女なら難しく考えることも無かったのかもしれないが、生憎若も俺も男だ。子を生すことも無く、不毛な行為だと言えばそれまで。だが、興味が無いわけではない。下世話すぎて、若にはとても言えない。
 誰もいないとわかっていても、つい周囲を確認してしまう。無人であることを確認してからそっとその書に目を通す。さっきよりもゆっくり、じっくりと。
 知ってしまえば、俺も若のことをそういう目で見てしまうのだろうか。少しだけ胸に引っ掛かりを覚えながらも、目は文字を追っていく。読み終わるまで、自分がどう変化するか予想が出来なかった。

 書を読み終えた後、自然と重い溜息を吐いていた。立ちっぱなしで読んでいたから、腕も足も棒のようだ。身体を伸ばすにも、狭苦しいところでは落ち着かない。
 のろのろと書簡を丸め、紐をしっかりと結んで棚に戻す。妙な高揚感があって、落ち着かない。このままでは、到底仕事にならない。
 最初に開けた窓の傍に立ち、大きく息を吸って吐く。ただ読んでいただけなのに、じっとりした汗をかいていた。
 風が心地良い。身体をうんと伸ばしてから、月英殿に貰った粽の存在を思い出した。黴臭い蔵の中へ入れてしまうのはどうかと、外に置いたままだったのだ。
 仕事にならないなら、休憩したほうがいい。腹を満たして昼寝でもすれば、気分は変わるかもしれない。
 窓を閉め、蔵の外に出る。日の光で目が眩んだ。蔵の中は薄暗かったから、目が驚いているのだろう。
 木陰から空を見上げる。空の青さが鮮やかで、目がちかちかした。爽やかな気持ちになりたいけれど、今は難しい。
 木陰に腰を下ろし、手荷物から月英殿に頂いた粽を取り出す。手頂いたときはほんのり温かったそれも、すっかり冷えてしまっていた。
 すぐに食べればよかったか、と思いながら粽を齧る。家庭の味が懐かしく、少し気持ちが落ち着いた。故郷のそれと味付けが似ているわけではないのだが、家庭そのものが懐かしい。
 たった一人残された家族、とすぐに若のことを思い出してしまう。家族であり、同時に想いあう仲である。紐づいて、さっき読んだ房事の指南書が頭を過った。
 頭を振って忘れようと努めるけれど、良くないと思えば思うほど、鮮明に思い出してしまう。
 「ああ、もう!」
 残りの粽を口の中に押し込み、木に背を預けて目を瞑る。眠ってしまえば、思い出せもしないだろう。
 放浪の旅の中、いつでもどこでもすぐに眠れる特技を身に着けていて良かったと思う。せめて、頭の中を落ち着かせてやりたい。混乱しているだけなのだ、きっと。
 眠りに落ちる寸前、若の声が聞こえた気がした。何だか呆れているような、笑われているような、柔らかな声音だった。

 真っ新な敷き布の上、俺が若を押し倒している。若は特に抵抗するでなく、じっと俺を見上げている。
 金の髪、琥珀の瞳、弧を描く唇。綺麗だ、と思った。
 唇が、俺の名を形作る。声は聞こえなかった。
 妙に心臓が煩い。気が昂ぶっている。若に手を伸ばす。頬を撫でると、くすぐったそうに目を細めた。
 若が自ら帯を解いて、誘う。
 再び、唇が開く。音は無い。声を出していないのかもしれない。早く、と俺を急かしているように見えた。
 何を急かされているのか。
 若、と漏らした自分の声に熱を感じる。身体が熱い。自身は既に、起ちあがっていた。下穿きに圧迫感まで感じる。
 伸ばした手で、若の身体に触れる。
 何をしようとしているのか、わからないわけが無かった。

 夢を見た。書を読みながら、想像したことを夢に見てしまった。
 俺が若にこうしたら、どうなるのだろうか。求めてくれるのだろうか。快いのだろうか。
 思えば、考えたことが無かっただけなのだ。性の対象として、見たことがなかった。
 恋仲と言っても、傍に居れば良いという初心なものだったから。若がそれで十分と言ってくれていたから。
 俺は、若が思うようにしてくれていたら良いと思っていたし、ついさっきまではそれで十分だった。
 方法を知ってしまった今、胸中に浮かぶのは。
 「……夢にしても、無いでしょ」
 額に手を当て、溜息を吐く。
 行為を知ったばかりの少年でもあるまいし、書を読んで淫夢を見るなんて思わなかった。
 同時に、これ以上進んではいけないと思った。共に居るだけで十分だ、と若が言っているのに。言わせてしまったのは俺なのに、浅はかにそんな夢を見てしまうなんて。
 頭を抱える。漢中にいるならまだしも、邸に帰ったら彼がいるのだ。合わせる顔がない。
 若が俺のことを避けているときも、こんな気持ちだったのだろうか。確かに、非常に気まずい。純粋な好意を寄せられているからこそ、罪悪感が募って胸が詰まる。今、若に見つめられたらすぐに目を逸らしてしまう自信があった。
 遅くに帰れば、疲れているからと顔を合わせずに済むかもしれない。小さな期待を胸に、蔵に戻ろうと立ち上がる。僅かに膨らんだ自身に気付いて、苦笑が漏れた。

 のろのろと持ってきた荷物を抱え、蔵の外に出る。西日が眩しく、目を細めながら鍵をかけた。
 俺が作った報告書の類が案外に多く、一日では確認しきれなかった。灯りが使えれば何とか終えられるだろうが、不始末を起こすわけにはいかない。
 一日で終わらせるよう言われてもいないのだから、と誰に言うでもない言い訳を考えて蔵に背を向けた。
 終わらなかったことに、安堵している自分がいる。明日、若と顔を合わせなくてもいい理由が出来た、と。
 邸までの道のりは長い。急いで帰る理由もなく、ゆっくりと歩きはじめた。
 空を見上げる。昼間は雲一つない空だったのに、分厚い雲がいくつか横たわっている。橙から青の見慣れたそれでなく、赤黒い夕焼けだ。
 故郷では、橙から紺へ徐々に切り替わっていく夕焼けをよく見た。赤黒いそれは見慣れないもので、どこか恐ろしいような気持ちを覚えたことを思い出す。
 今、見上げるそれとは違う。随分遠くに来てしまった。関係も、変わった。変えてしまった。
 この変化を、若はどう思っているのだろうか。
 出来れば伝えたくは無かった、と言っていたことを思い出す。胸に秘めたまま、いつかは死ぬのだろうと。
 それを引きずり出したのは俺だ。その上で、俺も好きだと言った。事実、嫌では無いのだから好きなんだろうと思う。
 好きだから、何かしたいと今までに考えたことがなかった。知らなかったからだ。
 今はどうだろう。ぼんやりしていると、すぐに夢を思い出してしまう。
 そんなに若くも無いのに、自分の単純さには呆れてしまう。脳裏に過る想像を、ぱっと頭を振って払った。何度目だろうか。首を痛めてしまいそうだ。
 頭を掻く。頬が熱い。せめて邸に帰る前に、夢に見た若の姿を忘れてしまわなくては。
 あの堅苦しくて難しい帝王学の書でも読めば良かった。難しいことを考えていると頭の中がこんがらがって余計なことを考えるどころではなくなる。一度目を通したはずなのに、出だしの一文すら思い出せない。
 「馬岱!」
 若の声だ。ぎくりと肩が震える。小走りに近づく足音が聞こえ、ぽんと叩かれた。
 月英殿の発明棟を通りすぎ、馬屋の近くまで戻っていたらしい。若は馬屋周りの調整がちょうど終わったところなのか、俺を見つけて声をかけてくれたようだ。
 「お前も上がりか」
 「うん、若は?」
 まだ心の準備が出来ていなくて、若を直視することが難しい。若の笑顔が眩しい。眩しすぎる。胸がちくちくと痛む。申し訳なさに居た堪れなくなって、俯いた。
 「俺もちょうど戻るところだ、共に帰ろう」
 心の準備が出来ていなくても、そう言われたらうんと頷いている。殆ど反射だ。気付かれてはいけない、怪しまれてもいけない。そういうのを隠すのに慣れていて良かった、とほんの少し思った。
 揃って歩きながら、若の話を聞く。良い馬が手に入りそうなこと、今年生まれた仔馬たちが順調に育っていること、馬屋の増設が順調であること。
 「明日はゆっくり休めそうなんだ」
 「こっち来てずっと執務だったもんねえ」
 ちらと若の方を見る。きらきらした目が、俺を見ていた。その視線から逃げて、抱えている荷物を見る。鼻の奥に、竹と墨の匂いが蘇った。
 「俺は、蔵の点検がまだ残っててさ」
 明日もなんだ、と付け足すとあからさまにしょげてしまった。
 「そうか、……遠乗りでもと思ったんだが」
 「明日も今日みたいな天気だったらお出かけ日和だし、若一人でも行って来たらどう?」
 そうする、と言う若の声は名残惜しげだ。胸が痛むが、仕方がない。同時に、うまく回避することが出来てよかったとほっとする俺がいる。
 しばらくの沈黙。城を出、邸までの道のりは長い。日は沈み、徐々に暗くなってきた。人通りも少ない。
 沈黙が気まずく、それとなく若の方を伺う。ぱち、と視線が合った。何か、他にも言いたいことがあるのだろうか。何度か瞬きをすると、若の方から目を逸らした。
 「……今夜は何か、予定があるか?」
 痛む心が、口から飛び出そうになった。
 若がこうして俺に尋ねるときは、決まって寝室に行っても良いかというお伺いだ。何をするわけでもない、他愛ないお喋りをして二人で眠るだけ。
 「予定、無いよ」
 理由をつけて断ることは出来たが、いつまでも自分の想像に踊らされているわけにもいかない。疲れているからと理由をつけて、さっさと寝てしまえばいい。眠ってさえしまえば。
 「……後で行く」
 邸が見えた。仄かな灯りに、また胸が痛む。若が部屋に来るまでに、見てしまった夢を頭の外へ追い出そうと決めた。

 薄暗い寝室の、冷たい寝台に横になる。
 時間が経って、夢が随分おぼろげになった。そんな夢を見てしまった、という驚きは残っているが、顔を合わせるくらいまでは落ち着いたと思う。
 刺激が強すぎたんだな、と思うと少し笑えた。笑いが込み上げてきて、喉の奥で留める。くつくつと音が漏れるのが余計におかしくなって毛布を被るのと、寝室の扉が二度叩かれたのは殆ど同時だった。
 「入るぞ」
 俺の返事を待たずに、若が扉を開ける。
 「……何をしてるんだ、お前は?」
 「思い出し笑い」
 後ろ手に扉を締めながら、若はくすりと笑う。それから、ぐるりと室内を見渡す。腰を落ち着ける場所を探しているようだ。生憎、椅子は荷物置きと化していて、座る場所がない。
 「若、ここ」
 ここしか開いてないから、と寝台を指す。若は頷いて俺の隣へ腰を下ろした。
 訥々と、どちらからともなく話し始める。最近あったことだとか、漢中でどう過ごしていたかだとか、本当に他愛のない話だ。
 話しているうちに、段々と若の態度が解れてくる。俺の部屋に来る度、緊張すると言っていた。俺に思いを告げてしまったことに罪悪感があるからだと思う。
 俺は、若がしたいようにしてくれればいいと言ったし、今もそう思っている。
 俺自身はどうか。
 恋仲だから、こうしなければいけないと言うものはない。ただ、したいと思ったときにどうすればいいか知らなかったのだ。手を握ることや、戯れに抱きしめ合うことはあっても、それ以上に進展しようがなかった。
 身振り手振りを交えて話すうち、若の夜着が少し乱れている。夢中で話しているから、本人は気付いていない。相槌を打ちながらじっと見つめても、気にする素振りもない。
 合わせが大きく開いている。鎖骨から、胸にかけて。手を伸ばす。ぺたりと手のひらをつけると、若が不思議そうに俺を見た。
 「……馬岱?」
 「あ……いやその、若、ちょっと乱れてるなって思って」
 風邪ひいちゃうから、と慌てて付け足して合わせを整える。若はされるがままだ。
 「すまんな」
 「いいのよ、じゃあ続き聞かせて?」
 続きを促すと、若はまた話に熱中しだす。どうやら馬屋の修繕と同時に仕入れも行っているらしく、今年は良い馬が手に入りそうだと大喜びらしい。
 こと、馬の話になると若は止まらなくなる。俺が動揺していること、冷や汗をかいていることには全く気付いていないようで、ほっとした。
 手を伸ばしたら、触れられそうだと思った。若に言えば自分で直せただろうに、その前に手を伸ばしていた。ただ、触れたかった。
 昼間見た夢が、また頭を過る。
 「馬岱」
 「なに?」
 「疲れているようだな、もう休もう」
 付きあわせて悪かったな、と言って若が先に横になる。こうしないと俺が寝ないことを知っているのだ。主従という間柄では無くなったけれど、若より先に横になるのは気が引ける。
 「俺も喋り疲れた」
 「……続き、また今度ね」
 動揺は悟られずに済んだが、俺の様子が少しおかしいのは疲れて眠気に襲われている、と判断したらしい。
 気を遣わせてしまった、と思いながら若に布団をかぶせる。足元から引っ張り上げて、肩まで。
 「髪、伸びて来たね」
 「……そうか?」
 後ろ頭を撫でる。若が髪をばっさり切り落としたのは随分前だ。この地に来るより前は、首が見えていてひやひやしたものだった。
 「くすぐったいぞ」
 「珍しいんだもの」
 髪の流れにそって、うなじを撫でる。本当にくすぐったいらしく、肩を竦めて身体を縮めている。僅かに背中も震えているのに気付いたら面白くなってきて、指先を徐々に肩口へ下していく。襟元の隙間に指を入れて、優しく、そうっと動かすとびくりと大きく身体が震えた。
 「岱っ!」
 布団をはねのけ、若が起き上がる。くすぐったくて笑いを堪えるのがよっぽど大変だったのか、涙目になっている。
 そんなにくすぐったかったの、と笑い飛ばせばいいものを、涙目の若を見て心臓が跳ねた。
 夢で見た表情に、似ていたから。
 「いい加減にしてさっさと寝ろっ」
 若は頭まで布団を被って俺に背中を向ける。
 「おやすみ」
 布団の上から、軽く二度叩く。顔が見えなくて良かった。心臓がばくばくとやかましくてしょうがないし、表情を作る余裕もない。
 いつまでも起き上がっているのも変だ。同じように横になって、若に背中を向ける。
 夢を見ただけで、若にあんなに触れようとするなんて思わなかった。自分の変化に、ついていけていない。
 寝れば忘れる、寝れば、明日になれば。そう言い聞かせながら目を瞑る。
 眠気なんてどこかへ吹っ飛んでしまっていたが、起きていて変な気を起こしてしまったらまずい。明日は何もありませんように、と虚しく祈りながら頭まで布団を被った。

 再び、夢を見た。昨日の昼に見たようなそれだ。しかも行為が発展していたものだから、朝から自身も元気で困っている。
 獏の絵を描いて、枕の下にでも入れておけば良かったのかもしれない。悪夢なら食べてくれたかも、と思っても見てしまったものはしょうがない。
 若はまだ、隣でぐっすり眠っている。寝顔が穏やかだとほっとする。同時に、こんな夢を見てごめんと罪悪感が湧く。
 「若、俺お仕事があるから先に行くね」
 布団の上から二度叩く。起こそうとまでは思っていないが、黙っていくのも気が引けたから。若の寝息を聞きながら着替え、昨日の続きをと蔵に向かった。

 諸葛亮殿が様子を見に来たのは、太陽が頭の上を通り過ぎてすぐの頃だった。
 「具合はどうですか」
 棚の中身を移し替えていたところで、蔵の中は埃まみれ。覗き込んだ諸葛亮殿が小さくくしゃみをしたから、俺はつい笑ってしまった。
 「順調ですよ、ここらが片付けばおおよそ終わりです」
 点検は昨日のうちに終わり、修繕が必要な書は寄り分けてあるし、俺の書いた報告書の類もすべて確認が終わっている。
 今は、足の弱っている棚にある書を一時別の棚に移しているところだった。それも残り少なくなってきて、もうすぐ終わる見込みだ。
 「そうですか……馬屋の縮図、こちらの蔵にありましたか?」
 棚を振り返る。すべての棚を確認したが、書き物がほとんどで図面のものは見かけなかった。
 「図面の類は見てないですねえ」
 そうですか、と言うと諸葛亮殿は腕組みをして俯く。何から片付けようか考えているときの諸葛亮殿はいつもこれだ。何から手をつければ効率がいいか、そのためにどう指示すれば良いか。頭の中でいろんなものが忙しなく動いている。
 「実は馬超殿に、縮図の所在を尋ねられまして」
 若の名前が出て、ぎくりとした。こういう感情の揺れ動きは、諸葛亮殿の前では隠しても無駄だ。だから、俺もわざわざ隠さないことにしている。
 「馬岱殿が蔵の点検をしているから尋ねたらどうか、と言ったのですが」
 諸葛亮殿は組んだ腕を入れ替えながら小さく溜息を吐く。
 「どうも気が進まない様子だったので、代わりに」
 俺に原因があります、と言うより前にじっと見つめられて顔が上げられない。面目ない、と呟くのがせいぜいだった。
 「また、一人で考え込んで何も言ってないんでしょう?」
 全くその通りで、頷くしかない。
 以前にもこういうことがあった。そのときは、俺と若の立場が逆で、随分諸葛亮殿をやきもきさせたのだった。
 「黙っていても解決しませんし、話した方が良いと思いますが」
 言いづらいことで、と言おうものなら最初に馬超殿に言わせたのはあなたですけど、と言葉で刺されそうで言葉を濁す。
 返事を出来ないでいると、諸葛亮殿は再度腕を組みかえてじっと俺を見る。あの目は苦手だ。
 「伝えなければ馬超殿はずっと不安なままですよ」
 諸葛亮殿の目が、不意に細まる。微笑んだように見えるが、俺はこの表情にあまり良い記憶がない。
 「思い出しました、馬屋の縮図がどこにあるのか」
 「……どこにあるんです?」
 「必要になるだろうと思って、先に馬超殿の邸に届けていたんでした」
 微笑が、あまりにも優しすぎて怖い。抱えたままの書簡を落とさないように、棚に詰め込む。次に諸葛亮殿の言う言葉は何となく予想出来ていたから。
 「馬超殿は邸にいらっしゃるそうですから、帰って教えてあげてください」
 それだけ言って、諸葛亮殿はさっさと蔵に背を向け去っていく。日頃忙しい諸葛亮殿がわざわざ足を運んでくれたのだから、俺も行動しなければいけないのはわかっている。ただ、気が進まないだけで。
 腕の中の書簡を棚に戻し、腕を組む。俯く。考えても、どうにもならない。
 「行くなら早い方がいいよね……」
 誰に言うでもなく一人呟き、手荷物を手早くまとめる。今日は片付けだから手荷物はそう多く無い。身軽だが、これからやるべきことを思うと気が重かった。
 邸に戻るまでに、どう切り出すか頭を悩ませることに決め、蔵を出る。
 今日も空は青く、澄んでいる。ふと、昨日若が遠乗りに行こうとしていたことを思い出した。諸葛亮殿のところに行ったということは、今日も執務をこなしているということになる。
 遠乗りでもと思ったんだが、と言う若の声が耳の奥に蘇る。少し寂しそうな横顔も。そんな顔をさせたいんじゃない、と思うと胸が詰まる。自然と、邸へ向かう足が早足になった。

「岱、今日は蔵の点検なのではなかったか」
 「若が縮図を探してるって、諸葛亮殿に頼まれてね」
 ちょうど終わったところだから大丈夫、と答えて若の執務室兼自室へ入る。先に邸へ届けてあるとしか聞いてないが、誰かに託したのならこの部屋に届けられているはずだ。
 「遠乗り、行かなかったんだ?」
 「……一人で行く気分では無かったからな」
 筆を置き、書面に視線を落とす。何となく出来た沈黙が辛い。
 「諸葛亮殿、先に縮図を届けてくれてたんだって」
 「……そのあたりにあった書は、昨日棚にしまい込んでしまったのだが」
 しまうなら確認してからにして、何て言っていてもしょうがない。若の書棚は整頓が行き届いている状態とは言えず、とりあえず一つずつあたることにして棚を覗き込む。
 若も隣に並んで、二人で黙々と書棚を漁る。
 図面と言うのだから、そんなに分厚いものではない。すぐに見つかるだろうと思ったのだが、似たような書が多く中々見つからない。
 「馬岱、最近ちゃんと休んでいないのではないか?」
 「……何でそう思ったわけ?」
 若は俺と目線を合わせないまま、棚の中を延々と探っている。どこまで書簡を突っ込んでしまったのだか。
 「昨晩、ずっと上の空だっただろう」
 朝方も魘されていたし、と付け足され少し驚く。あんな夢を見ていれば、仕方がないか。
 「上の空だったのは……ごめん、ちょっと考え事してて」
 棚の奥、一本だけ雰囲気の違う書が混じっている。手を伸ばしながら、次に言うべき言葉を考えている。
 「蔵の点検してるときにさ、……書を読んでたんだけど」
 若は棚を探るのをやめて、じっと俺の言葉を待っている。まだその視線を真っ直ぐに受け止める準備が出来ていなくて、手に取った書だけを見つめた。
 「それがさ、房事の手引きで」
 「岱、仕事の最中に変なものを見るな」
 そこに突っ込まれると話が進まない。仄かに頬を染める若の注意には頷くだけに留めて、続きに戻る。
 「男同士でどうやるかっていうのも載ってたんだよね」
 「……読んだのか?」
 「読んだら若としてる夢を見ました」
 若が頭を抱える。
 「だからね、ちょっと顔が合わせづらかったわけ」
 まだ頭を抱えたままだ。面白い状況になってしまった。
 手に取ったままになっていた書を開く。広がる図面に、馬屋と走り書きが残されていた。ようやく見つかった。
 「今朝もか?」
 「俺、夢の中ですごい楽しんでたから、魘されてるなんて思わなかった」
 見たんだな、と言う若の顔は若干青ざめているように見える。
 「ちょっと興味あるんだよねって言ったら、若、怒る?」
 確認した縮図を手渡しながら、ちらと若の様子を伺う。明らかに混乱している顔だ。眉が下がって、困っているのはすぐにわかった。
 半分は本当だ。興味があるのが半分、おちゃらけて若に駄目だと叱ってもらいたいのが半分。
 叱られれば、ただ俺が気まずい思いから我儘を言っただけで終わる。
 冗談だよ、と言うより前に手渡したばかりの縮図を押しつけられる。唐突なそれに対応出来なくて、落としそうになったのを必死で掴み直した。
 誤魔化そうと言う空気を察したのか、若はきっと俺を睨む。若の眼光は鋭い。けれど、耳まで赤く染まっていていることのほうに驚いてしまった。
 「今晩、部屋に行く」
 「え、ちょい、若?」
 「縮図は卓の上に置いてくれ、残りは適当に片付けて置いてもらえると助かる」
 若は大股に扉に向かう。日はとっくに頭の上を通りすぎ、あと数時間もせずに沈んでしまうのに。
 「これから出かけるの?」
 「……支度だ」
 扉から出る寸前、若がぼそりと呟く。
 「するにも準備がいるからな」
 何をするのに、何の準備が必要なのか。若の表情、態度からして、何の支度かわからないわけがない。
 冗談だってば、本気にしちゃ駄目だよ。若、俺を叱って止めてくれなきゃ、俺は。
 一人、取り残された部屋で考える。どうしたいのか。どうしたらいいのか。悩みながら、昨日読んだ房事の手引きを思い出していた。何があってもいいように。

 部屋で一人、若を待っている。
 支度をしてくると言った後、若がどこに姿を消したのか俺は知らない。任された馬屋の縮図を卓の上に戻し、広げっ放しになっていた書の類を片付け、黙々と夕飯を済ませ、そして今に至る。
 頬を抓る。痛みがあった。夢ではない。
 「……出来るのかな」
 房事の手引きを読んでいる途中、これが若と出来るのか考えた。わからなかった。ただ、興味はあった。若がどんな顔をするのか、声は変わるのか、身体の熱は。
 好奇心のままに読んで、方法を知ってしまった。行為には苦痛が伴うことも、前もって準備が必要なことも知っている。
 思えば口付だってまだなのだ。夢では出来たような気がするが、何分夢のことで定かではない。頭を抱えていると寝室の扉が控えめに開いた。足音に全く気付かないあたり、俺も混乱しているらしい。
 「入るぞ」
 若はいつもと変わらないように見える。扉を後ろ手に締め、目を細める。部屋が暗いせいだろう。目が慣れていないのだ。
 「……立ってないでさ、こっちおいでよ」
 寝台の、俺の隣をぽんぽんと叩いて呼ぶ。表情が険しいのは、緊張しているからか。俺の身体も強張っていて、二人してぎこちないのは少し滑稽だった。
 窓から射しこむ、月の光だけが頼りだった。朝はまだ遠い。
 「ねえ、若……俺の我儘に付き合ってくれなくたっていいんだよ? 怒ったって、いいくらいなのに」
 まだ、予防線を引こうとしている。諦めが悪いと言うか、優柔不断というか、己のことながら情けなくなる。けれど、大事なことだ。
 「怒るなら、昨日怒っている」
 突然に触れたことを言っているんだろう。気付いたら手を伸ばしていたのだから、俺だって驚いた。
 寝台に腰を下ろし、帯を緩める。若は一度こうと決心したら、それを曲げない。頑固と言うか、猪突猛進というか、そういう性質の人なのだ。
 「触れられるのが嫌なら……支度だってするものか」
 俯いた若の顔は、徐々に赤く染まっていく。月明かりしか無いことを、少しだけ悔やんだ。
 「俺だけが一方的に、お前を求めているわけでないとわかったから」
 「若」
 膝の上に置かれた手に、自分のそれを重ねる。もう何も言わせたくなくて、ただ一度頷いた。若は一度視線を彷徨わせ、口を噤む。
 言葉にするのが苦手な若が、ここまで俺に伝えてくれた。俺がやるべきことはもう決まっているのではないか。
 「嫌になったら言って」
 やめられるかどうかは、わからないけれど。付け足して、若の目を見る。寝室に入ってきたときは険しかった若の表情が、大分柔らかくなった。
 まずは口付からか、とどこかで考えながら俺も大きく息を吐いた。まだ、身体が強張っている。
 隣との距離を詰めると、肩が触れる。
 若。短く呼んで、唇を寄せる。閉じられた瞼を縁取る睫毛が妙に長くて、どきりと胸が跳ねた。
 「ん……」
 唇がかさかさに乾いている。潤すように、何度も口付けた。啄むようなそれがくすぐったいのか、若はくすくすと笑っている。
 次は、もっと深く。舌で唇を割り、口内へ忍び込ませる。驚いたらしい舌が引っ込もうとするのを軽く吸えば、水音が零れた。
 まだ唇を合わせただけなのに、身体の芯がじんと痺れている。
 「馬岱……」
 熱に浮かされた声が、俺を呼ぶ。ぞくぞくと背筋に劣情が走った。
 夢では、若の声が聞こえなかった。どんな声なのか、想像だけだったそれが現実になると途端に目の前がちかちかと眩しくなる。
 この声が、聞いてみたかった。
 勢いのままに寝台に押し倒すと、白い敷き布に金の髪が乱れる。露わになった項がたまらなくて、覆い被さって噛み付いた。
 「……ッ、岱」
 「ごめん、もうちょっとだけ……」
 ねだると、若の抵抗が弱まる。そのまま項を甘く噛んで、舌で撫ぞっていく。肩口へ吸い付くと、組み敷いた身体は震えた。
 普段は襟や甲冑で隠されている若の項は、思ったより色が白い。昨日散々くすぐって、ここが敏感なのはわかっていた。
 唇を寄せ、水音を立てる度に身体が震える。声が零れそうになるのが嫌なのか、若は口元を手で押さえていた。
 散々楽しんで、一息吐く。延々噛んで、舐めて、口付けて反応で遊んでいたせいか、若の頬は上気して赤い。
 手引きを思い出しながら、次はと思い出す。男女の違いはあんまり無かったような気はする、性器のそれを除いては。
 緩められた夜着の帯に手をかけ、気になっていたことを尋ねてみる。
 「支度って……若、自分でしたんだよね?」
 若はぷいとそっぽを向く。わかりきっていることを尋ねるのは意地悪だが、聞きたかった。
 「……見たい、見てもいい?」
 「い、いちいち聞くな」
 若が困った顔をする。寝台から落ちた長い脚に触れて、強請る。見たい。どうなっているのか、知りたい。
 「一度起きるから、どけ」
 勢いのままに押し倒したままだったから、寝台から半端に身体落ちていた。俺がどくと、若は改めて寝台に横になる。帯をゆるめていたせいか、夜着はすでに肌蹴てしまっている。
 じっと見つめ続けてていたら、きつく睨まれた。見すぎだ、と言うことらしい。
 腕で目元を隠し、身を攀じって膝を立てた。裾が割れ、夜着の下にある肌が露わになる。太腿にある矢傷が大きく目立つ。下穿きが膨らんでいるのが、見えた。
 「あまり、まじまじと見るな……」
 羞恥と戦っているらしい、若の声は震えている。
 俺は黙って下穿きに手を伸ばして、それを脱がせる。若自身はとっくに起ちあがり、とろとろと先走りを垂らしていた。支度を済ませてきたせいかもしれない。
 繋がるには、ここよりもっと奥、後孔を使わなくてはならない。
 受け入れる器官が無いのなら、代わりにあるものを使う。受け入れるように出来ていないから、前もって準備が必要なのだ。
 若がそれをしてきた、と考えると頭が焦げ付きそうになる。
 「触っていい?」
 「……っ、ああ」
 乾いた指で触るのは戸惑われて、先端から零れる先走りをすくって指先を濡らす。触れる度に、若の身体は小さく震え、熱い吐息を零す。
 いやらしい水音が耳に届くたび、俺自身も痛いほどに熱を持っていく。夜着を着ているのがもどかしくなる。
 濡れた指先で、そっと後孔へ触れる。
 「ふ、……っ」
 まだ触れただけなのに、熱っぽい吐息が零れる。耳が融けそうだ、と思った。
 若が息を吐いた瞬間を見計らって、ゆっくりと指を埋める。俺が思うより、すんなりとそれは受け入れられた。
 「く、ぅ……」
 若の身体が強張る。熱い。どくどくと脈打っているのが指を通して伝わってくる。ぐ、ぐ、と奥へ指を進めながら、若の様子をちらと見る。
 下唇を噛んで、必死に声を殺している。短い呼吸は、獣のそれに似ていた。羞恥をねじ伏せるためか、きつく目を閉じたままで、目じりには薄らと涙の粒が光っている。肌が粟立つ。若が、と思うとすぐに身体が熱くなった。
 呼吸の度に、俺の指をきつく締め付けてくる。
 「……もう、いいか?」
 「ん……いや、まだ……」
 女性のそれと違って、若のここは俺自身のそれを受け入れられるように出来ていない。指一本じゃ心許ない気がして、もう一本をそこへ潜り込ませた。
 「ぅあッ!」
 準備をしてきただけあって、二本目の指もすんなりと受け入れられた。短くなってきた呼吸に合わせて、ゆるゆると指の抜き差しをしてみる。
 「ッあ、は……っ!」
 大きく身体が震え、甲高い嬌声が上がった。若は慌てて口元を抑える。
 手引きには、ここにも快楽を生む場所があるとあった。抜き差しをしている指を、腹側へ回す。にちゃ、と粘着質な音がした。
 「ふ、ぁ……ッ?」
 ひく、と中が蠢く。反応したあたりを撫でるように、抜き差しを繰り返す。
 若は自身に何が起こったかわからない、と言った様子で目を白黒させている。太腿に筋が浮き、つま先が丸くなる。腰が浮いていることに、本人は気付いているのだろうか。戸惑う目が、俺を縋る。
 「男でも中で気持ちよくなれるところなんだって」
 口に出してはくれないだろうけど、若が後ろで快楽を得ているのはわかる。ただ締めるだけの動きから、何かを搾り取ろうとする動きに内側が変わっていたからだ。
 「岱っ、たい、ああっ……!」
 若は、何度も首を横に振る。自分で支度をしたときに、こんな感覚を味わうことはなかったのだろう。だから、混乱している。後ろで快楽が得られると言う知識はあっても、体感が無くては無知と同じだ。
 「止めて、くれ、待て……!」
 初めて得る快楽、それも後ろのそれが恐ろしいのか若の声が震える。俺はそれに従って、大人しく動きを止めた。
 若はほっと安堵の表情を見せているけれど、頬は上気しているし、琥珀の瞳にはとろとろと欲が溶けている。
 「やっぱり、怖い?」
 わざとらしく尋ねると、若は緩く頭を振った。そうではない、と言いかけて言葉を詰まらせる。
 「お前に、乱れたところを見られていると思うと」
 身体が熱くなって、堪らなくなる。そう言って、若は熱く息を吐く。
 言葉の一つ一つが熱くて、眩暈がした。ぞくぞくと、背筋が粟立つ。若だから、こうなってしまう。こうなるのがわかっていたから、言わないようにしなくてはと思ったのかもしれない。
 今となっては、もう遅いが。
 俺も帯を解き、夜着を脱ぐ。じっとりと汗をかいていた背中が空気に触れても、寒さを感じない。さっきからずっと、熱い。若の熱が移ったみたいに。
 下穿きから自身を取り出すと、若が目を丸くした。腹に付きそうなほど起ちあがったそれが、若にはどんなものに見えているのだろうか。
 「そんなに見ないでよぉ」
 恥ずかしいじゃない、と笑うとしどろもどろな返事が返ってきた。おまけに目まで逸らされた。
 熱い溜息を一つ。起ちあがった自身を何度か擦って、ぬるついた先端を後孔に当てる。
 「入れていい?」
 喉が渇いている。声が、欲に塗れてがさがさに掠れていた。恥らうように、視線が逃げる。早い呼吸に、胸が上下している。
 「いい、ここに……」
 同じように掠れた声が、俺を誘った。吐息が甘ったるく、頭がしびれるようだった。
 ゆっくりと、後孔に自身を埋める。締め付けは思ったよりきつく、痛いほどだ。けれど、それ以上に気持ちが良い。
 「あっあ、く、ぅ……!」
 いくら解したと言っても、受け入れるのはすんなりいかない。時間をかけて、ゆっくりと若の中に侵入していく。
 「たい……っ」
 薄く開いた目から、ぽろぽろと涙が零れている。敷き布を掴む指先は真っ白だ。
 「っ、若ぁ……」
 今すぐに突き上げたい衝動を堪えながら、根本までを全て飲み込ませる。想像より、体内はずっと熱い。汗で湿った肌を重ねながら、お互いの呼吸を聞いている。
 強烈な熱に飲まれながら、ああ、思った以上にずっと、俺は若のことが欲しかったのだと知った。他の誰にも、こんな若を見せたくないし、知らせたくもない。
 つながっている。従兄だとか、付き従った主だとか、考える度に背筋がぞくぞくしてしまう。
 「動くね……」
 抜き差しをするにも、ゆっくり、若の様子を見ながらする。抜けるかもしれないくらいが良いらしく、視界の端で、またつま先がきゅっと丸くなるのが見えた。
 そこから、腹側へ押し込むように突き入れる。若にも気持ちよくなって欲しいし、乱れさせてみたい。
 先端で撫でるように浅く抜き差しを繰り返すだけで、若の口から声が零れ始めた。
 「ぁ、あっ」
 快楽の滲む声。動く度に、寝台が悲鳴を上げた。
 「若、気持ちいい?」
 「んッ、あ、は……!」
 答えが言葉にならないらしく、蕩けた瞳が俺を見る。言葉は帰って来なくても、見れば十分にわかった。
 抜けるぎりぎりまで引き抜いて、最奥まで突く。内が蠢いて、甘い声が零れる。掠れたその声がたまらなくて、何度もそれを繰り返した。
 「ひっ、ぁ、ああっ」
 敷き布を掴んでいた若の手が、不意に俺の肩を掴む。互いの汗で濡れ、離れそうになるのが嫌なのか、しっかりと引き寄せるその力は男のそれだ。
 頭の中が、焼け焦げそうになる。
 いけないことをしている。若と、二人で。
 腰が重い。うねる内側の熱で、俺も随分高まっていた。
 若自身から、だらだらと先走りが零れている。俺が突き入れる度に揺れるそれは、限界がもう近いように見えた。
 「往けそう?」
 「っん、ぅ」
 尋ねると、小さく何度も頷く。もうでる、いく、と舌ったらずの甘えた声に、また眩暈がした。それから、自分の発した言葉への恥ずかしさからか、目を伏せる。案外余裕あるね、という言葉は飲み込んだ。その余裕も、奪いたいと思った。
 「俺も、すぐかも」
 笑って返し、腰の動きを速めて行く。動きに合わせて、若の喉からひっきりなしに声が漏れる。段々と昂ぶるそれに同調し、誘う内部の快感に身を任せる。
 自分勝手に突き上げたい衝動を堪えて、腹側のいい所を亀頭で擦る。その度に、若は俺の肩へきりきりと爪を立てた。
 喘ぐ声が甘ったるく、耳元で引っ切り無しに聞こえている。密着する身体と、俺の腹に当たる若自身と、搾り取るように締め付けてくる若のそれが熱くて、堪らなかった。
 目の前が、ちかちかする。もうすぐだ、と射精が近づいた一瞬、若がより強く俺のそれを咥えこんだ。
 「たいっ……あ、あッ……」
 若の精液が、俺の腹を汚す。その熱につられて、俺のそれも限界を迎えた。
 「若ぁ、出る、っ……!」
 自身を抜く間もなく、彼の中に精を吐きだした。虚ろな目が細くなり、びくりと震える。じんわりと、肩に痛みがある。若に縋りつかれたのだから、当然と言えば当然だった。
 未だ荒い呼吸を繰り返す若を見ながら、昨日見た夢を思い出していた。あの夢は獏に食わせられないなと思いながら、再び欲に溺れようと若の唇を吸った。

 しとしと、窓を叩く雨の音で目が覚める。最近の快晴がまやかしだったかのように、強く降り続けている。
 起き上がると、身体が軋んだ。昨晩のあれは夢で無く、現実であったと教えてくれているようだ。
 日の光が無いと、朝かどうかもわからない。中に出した始末をして、身を清めてから倒れ込むように寝たから余計にだ。
 隣で眠る若の背中を見ながら、昨晩のそれを思い出して羞恥に悶える。
 我儘が過ぎる。書で見たからやってみたいなんて、安直にもほどがある。それに付き合ってくれる若は、やっぱり俺に甘すぎると思う。
 「若ぁ、俺をあんまり甘やかさないでよぉ……」
 眠っているだろう背中に、自分勝手な愚痴を投げる。「俺のせいにするな」
 若のむくれた声が返ってくる。起きているなら、こちらを向いてくれても良いのに。
 「こっち向いていいなよ、若が甘やかすから俺はこんなに我儘になっちゃったんだよ」
 「お前のせいだろうが……」
 「だから、こっち向いてってば」
 背中を指で撫でてみる。うっとおしい、と手で払われた。肩をゆすっても、こちらを向いてくれる気配は全くない。意地でも振り向かないつもりだろうか。
 「ちょっと、ねぇ、若ぁ」
 声をかければかけるほど、意地になって背中が丸まっていく。
 意地になっている若を動かすのは、案外簡単だ。わざとらしいくらい、優しい声音で名を呼んでやれば良い。
 普段は呼ばない名を、耳元に吹き込むように囁く。若がやっと俺の方を見た。目が合うと、頬がじわじわと赤くなっていく。どうやら恥ずかしかったらしい。
 「……身体は平気?」
 「まだ、わからんな」
 若は俺から目を逸らしながら、ぼそぼそと言う。顔が合わせづらいのだろう。初めて身体を重ねた朝というのは、こういうものなのかもしれない。
 「若、同衾の度にこれじゃあ困るよ」
 昨日は快楽に融けていた瞳が、じろりと俺を睨む。こうして見ると、夜の形跡というのは意外と残らないものだ。
 「若の顔を見ながらお喋り出来ないの、寂しいじゃない」
 慣れるまでした方がいいのかな、と提案するといよいよ耳まで真っ赤に染まってしまう。
 からかうな、と拗ねる若を宥めて、唇を重ねた。舌先でそれを割ろうとしたところで、若の腕に突っぱねられる。
 「お前、執務はどうした?」
 さっさと行け、と若は寝室の扉を指さす。
 外は雨。今が朝か夜かもわからないほど、薄暗い。
 「まだ朝じゃないかもしれないでしょ」
 遅刻の言い訳は準備したからと、若を再び組み敷く。若は呆れ顔だ。
 「屁理屈を……」
 呆れている若の唇を、再び奪う。今度は、すんなりと舌が絡んだ。吐息に熱が籠る。
 「雨が降ってるから、わからないんだよね」
 悪戯っぽく笑うと、仕方がないと言うように若が目を閉じた。本当に、俺に甘すぎる。
 そろそろ長い雨季が始まる。その前に、若は再び漢中へ行ってしまうだろう。
 雨が少しでも、それを遠ざけてくれればいいと思った。