【WEB再録】銀の輪(13/05)

望月の夜

 雲ひとつ無い夜空。濃い卵色をした月が浮かんでいる。頬に当たる風が冷たく、夜着の隙間から入ったそれに身体が震えた。
蜀の冬は、西涼と比べれば穏やかなものだ。今より寒くなることは滅多にないと諸葛亮殿に聞いた。次の冬には、故郷の厳しい寒さが思い出せなくなりそうな気がしている。
変わらないのは、空に浮かぶ星々と、丸い月。
 今日は望月だ。
 ここで見る月は、何となく小さいような気がする。全く同じ月なのはわかっているのに、西涼で見ていたそれとは別のように感じるのだ。望月であればもっと大きかったと思うのだが、故郷を離れて随分経つせいかはっきりと思い出せない。
「昔はあんなに見てたはずなんだけどなあ……」
 望月の夜は、なかなか眠れない。風に当たり、星を眺め、眠気が訪れるのを待つことが習慣になっていた。いつからだっただろう。朧気な記憶の中に若がいないから、十を過ぎてからのはずだ。昔から何をするにも一緒だった俺と若は、十を過ぎてから別々に行動することが増えたから。
 目を閉じて記憶の中にある月を思い描く。まぶたの裏に浮かぶそれは揺らぎ、丸くはならない。どんな色をしていたか、どのあたりに浮かんでいたかも曖昧だ。
 思い出せないことが増えるたびに、遠くへ来てしまったと思う。もう戻れないだろうという諦めもある。故郷の月の色、形を確かめるすべはなかった。
 ぼんやり空を見上げて立っているだけなのに、身体が冷える。首巻をしっかり巻き直し、かじかんだ手を組んだ。
 眠るつもりでいたから、いつも付けている革手袋を外してきてしまったのだ。耐えられる寒さと思っていたが、体はこの地に合わせ変わり始めているらしい。
 体調を整えるのも将のお仕事、と一人呟く。漏れる吐息は白く染まり、眠気はまだ遠い。
 近年は月が出ていても関係なく眠れていた。眠りが浅い日もあったのだろうが、よく覚えていない。それどころではなかったからだ。故郷を離れ、流浪し、蜀に帰順してからも目まぐるしい日々が続き、疲れもあってよく眠れていた。
 昨日から急に眠れなくなってしまった。あまりの唐突さに、自分でも驚いている。横になっても眠気が来ず、逆に目が冴え、風にでも当たるかと空を見上げれば小望月があった。そのまま星を数えて朝を迎え、執務の間に少し眠った。
 さすがに夜休めないと目に隈が出来て目立つ。諸葛亮殿に仕事の配分を変えたほうが良いかと声をかけられたり、月英殿に茶を頂いたりと気を遣わせてしまった。
 意外と俺も、見られているらしい。居場所が出来たことに安堵する自分もいた。
 そもそも何が原因で眠れなくなったんだろう。何かがあったはずなのだ。眠れなくなってしまった原因が。望月の夜に、何かが。
 とはいえ、故郷の記憶は遠く、思い出すのは難しい。組んだ手に息を吹き付け、温める。目は冴えている。今日も朝まで眠れないかもしれない、と思うとため息が零れた。
 寒さに縮こまる背に、突然温かな手が触れた。ぴんと背筋が伸びる。同時に、他人の気配に気づかなかった自分に驚く。けれど、わざわざ気配を消して俺に近付くような人は一人しかいない。
「鬼でも出たか?」
 そろそろと振り返る。口元に笑みを湛えた若が、俺を見下ろしていた。
「若ぁ……驚かせないでよ」
「こんなところでぼうっとしているのが悪い」
 俺を驚かせ、反応に満足して笑う若は楽しげだ。夜着に一枚羽織った簡単な格好で庭に降りている。こんな夜中に一人で出歩くなんて、珍しい。俺の隣に座り、ぴたりと身体を寄り添わせる。あまりの近さに、俺の身体が強張るのがわかったのか彼は苦笑した。
「そんなに驚いたか」
「……鬼に魂取られちゃったら若のせいだよ」
 わざと頬を膨らませると、若が膨れた頬を指先でつつく。押し出された息が口から洩れて、顔を見合わせて笑った。邸の人たちを起こさないように声を潜める。二人分の影が並び、月光で伸びていた。
「鬼が出る、なんて久しぶりに聞いた」
「懐かしいだろう」
 悪いことをしたら、鬼に攫われる。故郷の誰もが知っている古い話だ。若もそれを覚えていたらしい。長い爪だか牙を持っていてそれで食べられるだとか、いや攫われるだけだとか、地方によって罰を与える方法が違うらしい。いつだか、兵たちとの話題になったのを思い出す。それすら、綺麗さっぱり忘れていた。
 強張った身体が体温で徐々に解れ、背中が丸くなる。若はぴんと背筋を伸ばして、薄く微笑みながら俺を見ている。
「……で、若は俺に何のご用事?」
 若の寝室から中庭までは、回り道をしないと来られない。厠に寄ったついでに月を見に来たわけでもなく、喉が渇いたから起きたわけでもないのなら、俺を探しに来たと考えるのが自然だ。
「お前が眠れないのではないかと思ってな」
  若は月を見上げながら言う。昼間の俺の様子を見ていたらしい。寝不足でふらふらしているのを見られていた、と思うと申し訳なくなる。あまり心配をかけたくなかった。若の手を煩わせるようなことは避けたい。
 そんなことを俺が思っていても、若には何でもお見通しなのだ。特に俺の身体に関わることは。怪我を隠していても血の匂いがすると言うし、眠れない日があれば寝入るまでしっかり見守られる。そんな若には、眠れない俺がどこに行って何をするのかも勿論お見通しだったと言うわけだ。
「何だか眠れないんだよね、望月の夜は」
 若は目を丸くして、俺を見る。覚えていないのかと呟く声音がどこか寂しそうで、焦ってしまう。俺は何か、大事なことを忘れているのだろうか。
「何のこと?」
「随分昔だが……満月を怖がっていたな、鬼が来ると」
 満月に、鬼。
 鬼の話は、若から聞いて思い出したばかりだ。小さい頃に怖がっていたのなら、何か理由があるのだろうが心当たりがない。そもそも、なぜ満月と鬼を繋げて怖がっていたのだろう。何かそうなった理由があるはずなのに、思い出せない。自分のことがわからないというのは、不思議な感覚だ。
「まだ怖がっているんじゃないかと思ってな」
「もう、小さな子供じゃないんだから……」
 言いながら苦笑する。若にとって俺は、今でも小さな従弟に見えるのかもしれない。背丈は若に追いつかなかったけれど、俺だってそれなりに大きくなったと言うのに。
 満月が怖かったという、昔の俺。眠れない原因は、思い出せない昔にあるのかもしれない。
 触れる若の体温が心地よく、眠気が忍び寄る。俺も大概、わかりやすい。若の傍にいると安心するのだ。そういえば、若が俺を寝かしつけてくれていたこともあった。あれは俺がいくつの時だっただろう。隣で眠る金の髪が月光に映えて綺麗だったことや、くっついて眠った温かさは覚えているのに。
「でも、ありがとう」
 小さく呟けば、照れくさかったのかそっと目線を逸らされてしまった。
 頭上には、煌々と光る満月。どうしてこれが怖かったのだろう。瞼が重い。
 大きく欠伸をする。今なら、ここでも眠れそうだ。夢に見ることが出来ればいいのに、と欠伸を噛み殺す。夢でなら、忘れていた記憶を手繰り寄せられるかもしれない。
 若の肩に寄りかかって、目をつぶる。あたたかな手が、俺の背中を撫でてくれた。

 

星見

 虫の鳴く声がそこらから聞こえ、背の高い草が風でさわさわ揺れる。空には少し欠けた月と、数えきれないほどの星が出ている。見上げて探すのは、秋の四辺形。
「あれが壁で、こっちが室」
「あの赤いのか?」
「赤いの? ……それは危、もっと左だよ」
「……よくわからない」
 夜空に広がる星を眺めながら、若は頬を膨らませる。その横顔を見て、笑ってしまった。膨れた頬を突く。若がむっとしながら指を押し返してくるのが面白くて、しばらくそうやって遊んでいた。
 お前たちも十になったのだから、と叔父上が星見を教えてくれたのは昨日のことだ。
 指標になる星を覚え、そこから他の星につなげていく。若は、その指標になる星が見つけられなくて少し拗ねているのだ。対して俺は、叔父上の教えてくれた星を一通り見つけることが出来た。
 秋の空は、壁と室と言う四つの星を箱に見立てて、そこから一つずつ星を結んで覚えるのが一番簡単だ。危、虚、須女、牽牛。今はまだ、それだけしか知らない。
 いつもならもう眠っている時間なのに、こうして若と夜空を眺めているのは何だか二人だけの秘密みたいで、楽しい。でもそろそろ帰らなくちゃいけない。月が大きく傾いている。こっそり部屋を抜け出したのが叔父上にばれたら、怒鳴られるどころでは済まないと俺も若もわかっていた。
「若、そろそろ帰らなきゃ」
 袖を引くと、夜空を見上げる目を一瞬だけ俺に向け、すぐ空へ視線を投げる。いつもと様子が違う気がして、裾を引く手を離してしまった。若はただ空を睨んでいる。
「馬岱だけ先に戻ったらいい」
 ぼそりと呟く若の声には、まだ拗ねているような響きがあった。
 また、始まってしまった。若に聞こえないよう、こっそり溜息をつく。
 若はこうと決めたら、譲らない。諦めない。頑固なのだ。粘り強いのは良いことだと思うのだけど、こうなってしまうと梃子でも動かなくなってしまう。これには大人も手を焼いていた。若が満足するまでそうさせてやるしか、解決方法がない。
 こうなった若を動かすことが出来るのは、叔父上と先生くらいだ。俺には出来ない。言葉で何とか誘導出来ることもあるけど、今みたいに聞いて貰えない状況では無意味だ。
 せめて先生がいたらな、と少し思う。若は体術を教えてくれる先生に一度も勝ったことがなくて、見かけるたびに突っかかっていくから。ひょいと持ち上げて無理やり止めることもあるし、かわすこともある。元々郡司だったとは思えない、と周りがよく言っていた。もし先生がここにいたら、若を小脇に抱えてさっさと帰ってしまうに違いない。独特の低い声で、ほんの少しの説教をしながら。
「……あんまり遅くなっちゃ駄目だよ」
 言うだけ言ってみる。これで動いてくれればと期待をしたけど、返事はない。ちくりと胸が痛んだ。何で痛いと思ったのかがわからなくて首をかしげる。痛みは一瞬だったから、きっと気のせいだろう。
 一度だけ振り返る。若はもう、空しか見ていなかった。
 若と一緒に来た道をとぼとぼ戻る。月の明かりで、影が伸びていた。今日は満月だ。望月、とも言うらしい。丸い月が、空の高いところにある。月が眩しいから、若も上手く星が見つけられないのかもしれない。月が隠れる日はいつ来るのだろう、明日叔父上に聞いてみよう。
 それより、このままじゃ朝まで若が帰って来ないかもしれない。部屋を抜け出したことはちゃんと謝るとして、先生か叔父上を呼んで来なくては。最初に先生を探して、見つからなかったら叔父上かなと考えながら伸びる自分の影へ視線を落とした。
 怒られるのは嫌だけど、そもそも悪いことをしたのは俺たちで、若が先に戻ればと言うけど放って俺一人帰るわけにもいかなくて、でも叔父上の静かな説教は怖いと思考がくるくる変わっていく。やっぱり引き返して、若を引っ張って来た方がいいのかもしれない、でも。
 どうしたらいいかわからなくなってきた。うつむいて考えながら歩いていたら、目の前の大きなものにぶつかってしまう。はずみで転びそうになった所を、大きな何かに支えられた。
「馬岱殿、このような所で何を」
 頭の上から降ってくる低い声は、聞きなれた先生の声だ。
「あっ、先生、こんばんは」
「……こんばんは」
 ぺこりと頭を下げる。いつもの癖でつい、挨拶をしてしまった。怒られるかも、なんて考えはどこかに行ってしまっている。これで若と一緒に帰れるという気持ちのほうが強かった。先生の手にある松明が眩しくて、目を細める。月の明るさとは違う眩しさだ。
「若と星を見てたんです、でも」
「星見を習ったのでしたね」
「まだ見てるから先に戻れって言われて……」
 思い出すと、鼻の奥がつんと痛んだ。先生は、俺が歩いて来た方向をじっと見ている。いつもの頑固が始まっちゃったんだよと付け足すと米神を抑えて、俺と同じ溜息を吐いた。
「若君のあれはなかなか手ごわいですからな」
 それから、先生ははっと顔を上げる。あんまり突然だったから、驚いてしまった。
「……では今、馬超殿は一人?」
「うん」
 先生は難しい顔をする。しゃがみ込んで、俺の肩をそっと握る。松明の火が、ぱちぱちと爆ぜる音がする。体術を教えてくれるときとは違う、真剣な瞳に息を呑んだ。先生の鳶色の目が、俺に大事なことを伝えようとしている。それが何かはわからなかったけど、自然に背筋が伸びていた。
「馬岱殿、馬超殿は後々一族の長となる方……一人にしてはなりません」
「……はい」
 一族の長。その言葉の重さがわからないほど子供じゃあない。若を一人置いてきてしまったこと、こんな夜中に部屋を抜け出してしまったことを思い出すと恥ずかしくなる。あからさまにしょげた俺を見て、先生が優しく頭を撫でてくれた。
「怒っているわけではないのです、このあたりには鬼が出ると噂があって心配になりまして」
「鬼?」
「化け物です」
 先生の言葉を繰り返す。ばけもの。先生は至って真剣だ。もっと小さな子供に言い聞かせるような雰囲気じゃない。
「伸びた爪に、尖った牙を持っています」
 俺の頭を撫でていた手を、顔の横で握っては閉じ、威嚇するような仕草を見せる。伸びた爪に、尖った牙。
「悪いことをすると、食べられてしまうのです」
「ひっ」
 威嚇していた手が俺の首根っこをつかむ。身体が竦んでしまった。冗談ですよという先生の言葉が冗談に聞こえず、俺は震えながら大きな手にしがみつく。普段真面目な人が言うからこそ、本当のように思える。
 じゃあ俺と若は食べられちゃうの、と聞いたら本当に食べられてしまいそうで、怖くて聞けなかった。
 その後は先生と二人で若を迎えに行き、同じように簡単な説教をされる若を見ながら考えていた。鬼はどこから来るんだろう、どうやって悪いことを知るんだろう。化け物だから関係ないのかな、と月を見上げた。じっと見ていると、月に模様があることに気付く。
「馬岱殿、そろそろ」
 後ろから先生が声をかけてくれる。でも、そちらを向けない。月から目が離せない。
 月の模様が、大きな爪を持つ化け物に見えた。怖くなると身動きが取れなくなるのは何でだろう。見ていたくないのに、目が逸らせなくなる。
「馬岱?」
 若が、袖を強く引いてくれて、やっと目が逸らせた。胸の奥がどくんどくんとうるさいくらい鳴っている。若の手をぎゅっと握った。月に背中を向ける。あそこに鬼はいない、と自分に言い聞かせる。不安そうな俺を見て、若は少し唇を噛んだ。
 邸に一緒に帰って叔父上に特大の雷を落とされている時も、俺の頭の中はそれどころではなかった。さっき見た月の模様が鬼なんじゃないかと、ずっと考えていたのだ。きっと鬼は月を住家にしていて、悪いことをした人を食べてしまうんじゃないか。そんなことはないと叔父上や先生に言われても、一度そうかもしれないと思うと怖くて堪らなくなる。
 叔父上は若と話があると言う。その夜だけ、先に一人で寝台に入った。若に弟が出来てから、なぜか俺たちは二人で眠っていた。若はちゃんと来るだろうか、不安で仕方なくて毛布にくるまってずっと待っていた。
「馬岱」
 寝室の扉が少し開いて、小声で名前を呼ばれる。毛布を跳ね除けて起き上がると、扉の隙間から若が顔を覗かせていた。やっと来てくれた。安堵の溜息が漏れる。
 小走りに寝台まで来て、靴を脱ぎ捨てて毛布へ滑り込む。二人で身体をくっつけると、いつも通りの若で心底ほっとした。
「若」
「さっき、何かあったのか?」
 さっき。先生と一緒に帰る前、月を見上げて、動けなくなっていたときのことを言っているようだ。何も言わずに若の手をずっと握って帰ってきたから、少し恥ずかしい。
 若は俺に尋ねながら、俺の身体越しに窓の外を見ている。俺も肩口を恐る恐る振り返って窓を見た。月の光が差し込んでいるだけで、月は見えない。鬼から見えていないといいと強く思った。
「笑わない?」
「俺はお前のことを笑ったりしない」
 若の目がじっと俺を見ている。先生は、俺に若と一緒にいるよう言うけど、実際は逆だと思う。若が俺の傍にいてくれるんだ。小さな声で、月の模様が鬼に見えることを話した。先生が食べられると脅かしてくるから、悪いことをした俺と若は食べられちゃうんじゃないかと思うと、今も怖い。俺は若の夜着をぎゅっと握った。
「来たら二人で逃げればいい」
「追いかけて来たら、怖いよ」
「そうしたら隠れる」
「見つかったら食べられちゃう」
 徐々に涙声になる自分が情けなくて、下唇を噛んだ。若は笑わない。ただ優しく俺の頭を撫でた。
「俺が何とかしてやる」
 目を細めて、笑う。若と叔父上の笑った顔はよく似ていると思う。目の色が違うくらいだ。叔父上は黒で、若は深い琥珀色。若が俺を撫でる手を止め、夜着の間から革紐を引っ張りだす。それに、小さな輪が二つぶら下がっていた。銀と金の、指輪。
「それは?」
「父上に貰った」
 若は慎重に紐を解いて、敷き布の上に二つを並べる。銀の輪は少し大きくて飾りが無い。金の輪はもう片方より少し小さいけれど、独特の彫刻が施されていた。そっと手を伸ばす。部屋が暗くてよく見えないのが残念に思えた。
「大事なひとに片方預けろと言っていたから、お前にやる」
「……俺が持ってていいの?」
「お前以外に誰がいるんだ」
 自信満々に言われて、喜んでいいのか、友達がいないんだからと冷やかしていいのか迷う。嬉しい気持ちが大きかったから、からかうのはやめて二つの指輪を見た。
 好きな方を選んでいいのなら、と銀を選んだ。俺の指に金の輪があるのは、何だか違う気がしたのだ。若の髪の色と似ている。
 銀の輪に指を通してみるけど、まだ大きくてぶかぶかだ。若も同じで、金の輪はすぐ指から逃げてしまう。
「明日、飾り紐を探そう」
「首から下げてれば失くさないね」
 俺とお前だけだぞ、と悪戯っぽく笑う若がなんだか眩しい。二人だけの秘密に、くすぐったくなって笑った。怖いとか不安だとか、そういう気持ちはもうなくなっていた。
 指を真っ直ぐにしたらすぐ取れてしまいそうな指輪。それをつけたまま、若と手を繋いでみる。指輪が抜けてしまわないように、強く。若が目を丸くして、繋いだ手を見ている。
「これなら指輪、取れないでしょ?」
「そうだな」
 手を繋いで寝るのは恥ずかしい、という声には聞こえないふりをした。繋いだ手は暖かいのに、指輪だけがひんやりとしている。
 窓から射す月光。淡い光だけど、眠る前には眩しくて、若がぎゅっと目を瞑る。長い睫毛が震えていて、胸の奥がぎゅっとした。痛いような、苦しいような。でも嫌じゃない、不思議な感覚だった。
 お互いの指輪が取れてしまわないように手を繋ぎながら寝るのは、その痛みの原因を知るまで続いた。

 

夢見騒がし

「馬岱、寝るなら部屋に戻れ」
 肩を叩かれ、夢が終わる。目元を擦り、ぼんやりと月を見上げた。
 昔の夢を見ていた。指輪をもらったあの夜の夢。
 あの指輪が、夫婦指輪だと知ったのはいつだっただろう。今夜と約束した日に付けるものなんだと教えてくれた侍女さんの微笑みを今でも思い出せる。叔父上は俺と若がその指輪を付けているのを知っていたけれど、何も言わなかった。
 そういう用途の指輪だと知らなかったのは気恥ずかしかったけれど、毎日付けていたそれを外すことは思いつかなかった。せめて、人から見えないように革手袋をつけた。武器が筆に変わって、汗で持ち手が滑るのを回避するためでもあった。
 西涼を離れた今では、革手袋と指輪の両方がないと落ち着かない。銀の指輪は、変わらず俺の右手で眠っている。
「そうする、……鬼が来ちゃうかもしれないし」
 若は冗談とも本気ともつかない顔で頷いている。それが妙に面白くて吹き出してしまった。そうだ、鬼の話もやっと思い出した。幼心には強烈な出来事だったのだが、すっかり忘れてしまっていた。今までいろんなことがあったから、と思うと仕方のない気もする。
「では先に戻る」
「おやすみ、若」
 若の背中を見送ってからふと思う。彼の手に、手に指輪はあっただろうか。俺が覚えているのは、西涼にいた頃だ。金の指輪は若の指に対して細く、左手の小指につけていた。俺が叔父上と都に入る前のことだから、相当古い記憶になる。若は故郷でお嫁さんを迎えた時、あの指輪をどうしただろう。既に叔父上も、義姉上もいない。誰にも確かめようのないことだ。何しろ色々あったから。
 自分の寝室に向かう間も考える。ここに来る前はどうだったろう。流浪の日々、どこかで失くしてしまったことも十分考えられる。勝ちはほとんどなく、負け戦ばかりだった。その最中でどこかへやってしまったとしてもおかしくない。
 特に帰順する前は張魯にも遠ざけられ、思うように動きが取れず、調練をすることで発散していた。ほとんど野戦のような調練で、無理に止めたことも少なくは無い。その時も、若の手に指輪はなかったと思う。
 考えながら歩いていたら、寝室についていた。明日、若に聞いてみよう。もし失くしていたら、似たものを作って贈るのもいいかもしれない。遠く離れた故郷を思う一つになれば、と考えながら寝台に横になる。

 そうして、また夢を見る。

 夢だ、という自覚があったのはさっき長い夢を見ていたからだろう。
 周りを見渡す。見覚えはあるけれど、馴染みはない。冀城から離れた林の中だ。俺は、胸から下げた指輪をただ強く握っている。若は俺に背中を向けている。地面に座り込んだまま、微動だにしない。
 若にかける言葉が見つからない。わかるよ、でもない。元気を出して、でもない。俺がいるよ、でもない。いつもはすらすらと言葉が出てくるのに、こんなときに何も出てこない。何の役にも立てない己が悔しく、歯噛みする。
 若の妻と子が殺された。首を晒され、嗤い者にされて。若はそれを見てすぐ歴城に向かうと言ったきり、言葉を発しない。若の背中は一回り小さく見えた。
俺はたった一人の身内にかける言葉も見つけられない。悲しくて、悔しくて、たまらなかった。
「若」
 後ろから若を抱きしめる。痛みを分け合うことも出来ないなら、傍に居るしかない。せめて体温を寄り添わせたかった。俺はまだ生きていて、若の傍にいるんだって言うことを伝えたかった。
 前に回した手に、若のそれが触れた。指先は冷え切って、僅かに震えている。肩越しに覗き込むと、その手に金の指輪があった。ああ、これは夢だ、俺にとって都合の良い夢だ。揃いの指輪があることで、俺と若に確かな繋がりがあることにしている。俺と揃いのものだけは、若の手元に残っている。これだけは消えていない。
 幼い頃覚えた胸の奥の甘い痛みは、知られてはならないものに成長していた。それに名を与えれば恋だとか、愛だとか、そういうものになるのだろう。見ないふりをしていてもそれは立派に育って、俺の一部になってしまった。この状況になって、それが俺の耳元に悪事を囁く。
 今、このまま弱っている若に想いを告げれば、俺のものに出来る。若はきっと、今なら俺に応えてくれる。断るにしても無碍にはしないだろう。だから今言うべきだと、囁いている。
 それがわかっているからこそ、言うことは出来ない。彼の嫌う卑怯な手を選びかけた自分の弱さが少し嫌になる。俺はただ、黙って寄り添っていた。彼の弱みに付け込んで、心を得ても、満たされることはないとわかっているのに。浅はかな考えだ。
 腕の中にあった感触が一瞬で消える。場面が変わったのだ。周囲の様子もまた変わっている。見覚えがある。懐かしい景色だ。昼間見た夢の続きを見ているのかもしれないとすら思った。二人で部屋を抜け出したあの夜の、あの森。若は俺に背中を向けて、どこかへ向かって歩き出している。
「どこ行くの?」
 若から返事はない。後を追う。ただ歩いているのが早歩きになり、小走りになる。それでも若には追いつかない。逆に、どんどん離れていってしまう。南の空に壁、室。秋の空だ。
「若!」
 名前を読んでも若は振り返らない。聞こえないふりをしているのか、本当に聞こえていないのか、わからない。丸い月が見える。鬼の爪が、そこにある。俺の前に影が過る。あの月の模様と同じ、大きな爪。幼い心の恐怖が一瞬蘇り、足が止まった。
 もうあの時みたいな子供じゃない。力だってついた。あれが子供に言い聞かす話だっていうのも知っている。恐れることはない、あれはおとぎ話だ。また、走り出す。
 でもこれは夢だ。俺の夢だ。何があっても、おかしくない。
 若の背中に鬼が忍び寄る。俺は叫びながら走っている。若の名前を呼んでも呼んでも、振り返ってくれない。気付いてくれない。追いつかない。息が切れないのは夢だからだろうか。俺は何のために、若と一緒にいたんだ。先生の声が脳裏に浮かぶ。一人にしてはなりません。身体に響く低い声。
「聞こえてないの、ねえ!」
 追いつかないかもしれない。それでも走った。気付いてくれと叫んだ。一瞬でもいい、振り向いてくれたら。俺の夢でくらい、振り向いてくれたっていいじゃないか。
 鬼の長い爪が振り上げられる。もう間に合わない、と思うのと俺の足がもつれるのと、どっちが先だっただろう。地に伏せたまま、名前を呼ぶくらいしか、もう。
「若ぁっ!」

「馬岱!」
 名前を呼ばれて、目を覚ます。肩に痛みを覚えた。どうやら、若が俺を揺さぶっていたらしい。瞬きを二度。心配そうな顔が俺を覗き込んでいる。
 さっきまで夢で会っていた彼が、今目の前にいる。最初に安堵を覚えた。それから、何故ここにいるのかと疑問が湧いた。布団を跳ねのけて、言葉も出せずにいたら若から切り出される。口に出さなくても、表情で疑問が伝わったらしい。
「酷いうなされ方をしていた」
 昨日が昨日だったから心配で見に来たらこれだ、と若は眉間に皺を寄せた。心配や不安を顔に出さないよう、わざと険しい表情を作るのがこの人の癖だ。
 一見すると威圧されているようなそれなのだけど、一族の長として皆に不安な顔を見せるわけにはいかなかったからという重い理由がある。その一族も、今は俺だけだ。包み隠さず見せてくれて構わないのに、と思っていても習慣はもう直らない。
「ごめん、変な夢見て…」
 いつもはすぐに忘れる夢も、今ははっきりと覚えている。まだ胸騒ぎがしていた。
  あの振り上げられた爪を、俺は止められなかった。若を失うかもしれなかった。夢でも恐ろしい。思い出すだけで背筋が冷える。
 指に嵌めた銀の輪を確かめ、ゆっくり息を吐く。指先が震えていた。もし現実になったらなんてことは考えたくなかった。
 若は俺の寝台に腰をかけたまま、様子を探っている。手を伸ばす。触れる。若の手を掴んで、軽く引いた。これが夢でないことを確かめたかった。引き寄せた若を強く抱きしめる。
「若、しばらくこうしててもいい?」
 僅かに浮かんだ感情に蓋をして、そこにある体温が知りたかった。若は黙って、俺の背中に腕を回してくれる。今はただそれに甘えた。
  温かい身体に、ほっと息を吐く。若、と小声で呼べば俺をちらと見る。声も聞こえている。あの日のように、夢のように、聞こえていないわけではない。ほっとしたら、蓋をしたはずの感情が浮かんで来た。慌てて身体を離す。
 やっぱり俺は、と自分の中にある思いを再度自覚する。若も俺のことを好いていてくれる。その意味は、あまりにも違いすぎた。だからこそ、言えないと思う。いつの間にか震えは止まっていた。
 秘めた思いを告げようかと思ったことは、一度じゃない。そのたびに踏みとどまって、揺れて、そのままにしてきた。
 いつか言えたらと思う自分と、このまま一生言わなくてもいいと言う自分がいる。あまり強く気持ちを抑えると、破裂してしまいそうになる。俺の内側で育った思いを知ってほしい、と若にぶつけたくてたまらなくなる。衝動的に告げるなんてことは許されない。
 だから、いつか言えたらいいと思うことにした。今じゃない。明日でもない、いつか。だから今は秘めたままでいい。だって、若はここにいてくれる。どこかに行ったりしない、一緒にいられる、それだけで十分だ。生きて、今ここにいてくれるのだから。始まらなければ終わることもないのだから。
 視線を落とす。寝台についた若の左手に、光る何かがある。
「……若、それ」
「ん? ああ」
「指輪……」
 左手を俺の前に広げて見せる。小指の根元に、金の輪が嵌っていた。もう何年ぶりに見るかもわからないのに、俺と対のそれだとすぐにわかる。輝きは昔と変わっていない。俺の銀の輪はくすんでしまった。磨けば光ることは知っているけれど、思いが露わになりそうで出来なかった。
「戦場で失くすのだけは嫌でな、ずっと仕舞い込んでいた」
 お前がつけていたから出してきたという若に、昨晩は手袋つけていなかったことを思い出す。そうだ、一度眠ろうとしたときに外してしまったんだ。見られてしまったことを恥ずかしく思うのは、指輪の存在自体に思いを重ねているせいだろうか。
 今ここにある、確かな繋がりにひどく動揺している自分がいる。失くして動揺するならまだしも、持っていることに動揺しているのだから情けない。指輪を通じて気持ちが漏れるんじゃないか、と突飛な考えすら浮かんでくる。不自然な沈黙に、何か言わなくてはと口を開く。
「良かった、若はどっかにやっちゃったんじゃないかって思ってたよ」
「失くすものか!」
 冗談で誤魔化そうとしたら、思ったよりも強く否定された。
 目を丸くしていると、若がそっと俺から視線を逸らす。恥ずかしいときの癖だ。その姿を見て、喉の奥によからぬものが渦巻いている。いつかは今なんじゃないかと、都合の良い俺が囁いている。秘めたままでいいと決めたばかりなのに。
「……若?」
「これは、……お前との繋がりのようなものだ」
 若が優しく、小指につけた金の輪を撫でる。壊れやすいものを触るように、そっと。視線と、言葉から滲み出る愛しさに、俺の方が恥ずかしくなった。
 銀の輪を、自分の分身のように思ってきた。若と俺の対だからこそ余計に。若がそれに向けている愛情も、自分に向いているのではないかと思いたくなる。俺って本当に簡単な男だ、と頭を抱えたくなった。
「俺がお前との繋がりを捨てるわけがないだろう」
 ちらと俺を見る若の顔には、明らかな照れがあった。好意を伝えるのが苦手な彼の、精一杯の譲歩。
「……、大切に思っている」
 少し早口で告げられる言葉の端々にも、愛しさが滲んでいる。今まで、どうして気付かなかったのかと思うくらい。あまりにも当たり前だったから、なのだろうか。
 柔らかな声音で告げられたら、俺の秘めた思いなど霞んでしまう。同じくらい、俺も若のことが大切なのだ。この繋がりを進んで壊したいなんて思っていない。
「俺も、若と同じだよ」
「ああ」
 秘めた思いを告げるかどうかなんて、今は重要じゃない。俺が若を大切に思う気持ちだけは、確かにここにあるのだから。
 だから、ずっと、俺の傍にいてちょうだいね。
  都合のいい願いを口に出そうとして、やめた。その願いには少なからず、俺の期待が含まれている。伝わってはくれないかと、胸の内で叫んでいる。それもきっと、いつか。
 代わりに、若の手を握った。銀と金の輪がぶつかって、かちりと音を立てる。
 今日は既望。
 窓から見える空は、蜀にしては珍しく雲ひとつ浮かんでいない快晴だ。夜になったら、若を星見に誘おう。鬼が出たら怖いから、なんて言い訳をして。